最終話 語り残されない物語
「うわっ、丈一……どうしたの、その怪我?」
夏祭り、浬が人間となった日。
二人が家に帰ると留守番をしていた未央が心配そうに丈一の顔を見つめた。
「怪我、酷いわね。すごい痛そう」
「これは山田和夫ってヤツにやられたんだ」
浬が事情を説明すると未央が「まあ。よく無事……? 無事……に戻ってきてくれたわ」と胸を撫で下ろした。
「お父さんが帰ってきたら伝えておくから。たぶんだけど、その人は捕まって処罰受けるはずだから」
浬は救急箱を見つけてきて「丈一の治療するから部屋に戻るぞ、未央」と丈一を連れて行く。
「浬がやってくれるの?」
未央は少しばかり不安そうな声色をしていた。
「ああ、大丈夫だ。任せてくれ」
彼女は自信を持って答えて、部屋に入ると早速丈一の治療を始めた。
「丈一、ちょーっと沁みるぞ」
ガーゼに消毒液をつけて、切れた場所にポンポンと軽く押し当てる。
「いっ……たぁ!」
「耐えろ! 私より強くなるって言っただろ!」
それとこれとは違う気がする、と抗議するも浬の治療行為は続けられた。
「よし、これで良いだろう」
「はい、ありがとうございます」
救急箱を片付け、二人は揃ってため息を吐き出す。
「これからどうする?」
「……今まで通りで良いんじゃ」
「丈一は筋トレだ!」
「何でだよ!?」
「私より強くなるんだ」
突然に腕立てと腹筋をするようにと丈一は言われる。約束したのだから仕方ないとトレーニングを始めようとすると。
「別に怪我が治ってからで良いぞ?」
「先言えよ!」
「いやぁ、すまんすまん」
二人のくだらないやり取りが行われて、床に座って話を続ける。
「……浬はいきなり人間になって不便だったりしないのか?」
何か違和感はないだろうかと思い、丈一が聞くと浬は顎を摩り考える。
「今までとそこまでは……いや、身体能力が落ちてるな」
「あれ? もしかして俺、今なら腕相撲で勝てるのか?」
「あまり調子に乗るなよ、丈一」
などと言って戯れに腕相撲をしてみれば。
「んむーっ!!!」
浬は丈一に少しも勝てなくなっていた。
「…………おかしい。私の丈一がこんなに強いはずがない」
「すげぇ。いや、でも……ナーフされすぎだろ」
怪物としての機能も、神としての力も何もかも失った彼女はただの少女でしかない。前までは丈一どころか、どんな人間にも無敗を誇っていたというのに。
「島神め……いや、人間にしてくれた事には感謝しかないんだが」
だが、それでも。
などと思ってしまうのは仕方がない。
「あの、さ……浬」
「うん?」
改めて、まだ伝えていない事があったと丈一は浬と目を合わせる。
「俺の番探しは……もう良いんだよな?」
浬は海に帰る理由がなくなった。
そもそも海に帰る事ができなくなった。彼女は今はもうただの人間で、神でも怪物でもないのだから。海底に戻る事はできない。
「……それは、そうだな」
丈一の孤独を埋める人間を見つけ出し、浬が安心するという名目も必要ない。
「むしろ、あれだけのことを言われて番探し続行するとか……私も言えないぞ」
浬が視線を逸らすが、肩を掴まれしっかりと目を合わせられる。
「俺は、浬がいればいい。浬とずっと一緒に居たいんだ」
「うん」
「だから……」
一生隣にいて欲しい。
「浬を人間にした事の責任、ちゃんと取るから」
ありふれた告白への返答は唇へのキスであった。
「……うわ、血の味する」
べっ、と舌を出して浬が小声で漏らす。
「台無しなセリフを吐きやがったぞ、この元神!」
雰囲気がとても良かった訳ではないが、告白して初めてのキスだったというのに。
「まあ、怪我人にやるものじゃないな」
腕を組み浬は渋い顔をする。
「お前からやってきたんだろうが!」
「そ、そっちが告白してきたからだろ!」
言い合いながらも互いの頰は仄かに赤く染まっていた。
「次はもっとフルーティーな味で準備しておいてくれ。桃とかりんごが良いかもしれん」
「それは、またの機会があるって事で良い感じ?」
「…………何か、お前。可愛くないぞ。二、三年前まではまだ可愛かったのに」
顔をさらに赤くして浬が文句を垂れた。
「何か、浬は可愛くなった気がする」
「ぬぉい……! 私の力が弱くなってるからと言って好き放題にするな!」
「ダメ?」
「いや、それは……まあ別にダメとは言わんが」
丈一が抱きしめて、そっとキスをしようとしてもそこまでの拒絶はない。
「……ぬぅ、やっぱ血の味だ」
唇が離れて、同じ感想。
「ちゃんと怪我を治せ」
「そうだな」
丈一も笑ってしまう。
「言っておくが、浮気したら赦さんぞ」
「いや、しないって」
怪物は人間になり、とある少年と結ばれた。
一つの伝説とも思える話。
けれど、これは後世には残らない。
これは御伽話としては語られない話だ。
* * *
その日、新しい人間が生まれた。
人間らしい生まれ方ではなかった。
『願いは叶えてやった。三人分の願いだ』
人間となってしまった浬にも聞こえていない。
これは誰にも届かない、島神の独り言。