第5話 神の怒り
伊南島で信仰されている神は、海の神である。ただ、これはここ数百年の話だ。それよりも以前、ここでは別の神が信仰されていた。
高千穂の社でも元々はそちらの神を祀っていたのだが、いつからか海の神ともう一つの神は同一視されるようになり。
「……お、あった」
林の奥。
詩歌の荷物が適当に投げ捨てられていた。丈一が拾い上げ、林の外に居るだろう詩歌のもとに戻ろうとすると。
「丈一くーん!」
「丈一ー!」
二人の声が聞こえた。
「浬も来たのか……」
遅くなって心配もかけただろうから、と丈一が声のする方に歩き出そうとした瞬間。
視界が大きく歪んだ。
「地震……?」
今のは何だったのかと考えていると浬の名前を呼ぶ声が近づいてくる。
「丈一!」
「浬」
「全く……お前が帰ってこないと飯が食べられんのだぞ?」
「それはごめん」
浬の後ろから顔を見せる詩歌に丈一は見つけた荷物を手渡す。
「ほら、これで帰れるだろ」
時刻は午後六時三十分。
ここで談笑してても仕方ない、と林を出ようとして。またしても、世界が歪む。
木々が揺れる。
「…………何だ」
浬は表情を険しくする。
「……お前は、誰だ」
視線の先には何もない。
「どこにいる」
丈一にはわからない。
『儂はこの島の神である』
この声は浬にしか聞こえていない。
「……その神様が何の用だ?」
『常日頃、怨みがましく思っていたが……何、今回ばかりは感謝を伝えようと思ってな』
神を名乗る声は、浬の正体を知っている。浬が海の神である事を理解している。
『ここは儂の領域だ。お前がここに入ってくれたおかげでな……儂もお前に集った信仰を借りられる』
高千穂で祀られていた本来の神。
それは島の神。この島の守り神。海の神に呑まれ、存在の消えかけていた神。忘れていく人間への怒りに駆られ。
『忘れさせぬ。思い出させてやる』
生贄も求めず、ただ守り続けた神だ。
優しき神であったというのに。
寄り添う神であったというのに。
伊南島の住民は忘却し、別の神を信仰した。
許されない。
許してはならない。
同一視されていた為に、存在こそできていたが彼の怒りは収まらない。機会を得たのなら。
『恐れよ、怖れよ、畏れよ。儂を刻め。儂を忘れた罪を償え』
これは神罰だ。
人間へと向けて下される、神の怒り。大地が震えている。木々は意思を持ったかのように動き出す。
「……っ!」
丈一と詩歌に襲い掛かろうとする木の枝を、根を浬は腕を巨大な鰭の形に変化させて叩き折る。
「止めろ、手を出すな」
『……海の神。ただの怪物風情が』
「これは、私のモノだ」
あの日に捧げられた贄なのだ。
ならば他の神にも手出しは許されない。
『儂が何故お前の言葉を聞かねばならん。そも、儂とお前は同一だ』
浬に捧げられた贄であるのなら、島神に捧げられた贄でもあるのだと神は笑う。
『しかし、人一人をどうにかした程度で畏れは足りんな』
一層強大な揺れが引き起こされる。
「な、何が起きてるの!?」
詩歌は突然の事に全く付いていけていなかった。事態を把握する為、林の外に向けて走る。その間も木々が迫るが、全て浬が叩き伏せる。
「浬! 大丈夫なのか!」
「拙いかもしれん。たぶん、山が噴火する……かも」
「はあ!?」
浬が何を話していたのかを二人には全く理解できていない。
「神の怒りだ。流石に全員殺す事はないだろうが……このままだとかなりの数が犠牲になるのは覚悟したほうが良い」
丈一には理解できる。
浬という人智を超えた存在を知っているから。だが、詩歌には何もわからない。混乱する事しかできない。
「なんか良い落とし所は?」
「それは……アレの怒りが収まれば、何とかなるかもだが」
一筋縄ではいかない。
長年の恨みは諭されたからと言って簡単には収まらない。何かしらがなければならないのだ。
矛を納めるだけの理由が。
「浬って噴火は止められたりは」
「それは……元の姿になれば多少なりは。いや、どうだろうか」
詩歌がここでようやく口を挟む。
「元の姿って何!?」
林から抜けたところで足を止めて浬と丈一は顔を見合わせて「あー……」と呟く。
「拙いな」
浬の声に丈一は島の中にある山を見上げた。
「このままだと、もうじき噴火する」
先程から島は震え続けていた。
* * *
海の神が伊南島に顕れる。
巨大な龍の姿。片側四枚、両方合わせて八枚の羽のような鰭を持った怪物。
「か、浬……さん?」
人のいない夜の堤防から“元の姿”になった浬を、丈一と詩歌は見上げていた。
「ど、どういうこと!?」
人間から龍の姿になるという現実的ではない光景に詩歌は叫ぶ。
「色々あるんだよ」
説明をしている余裕もない。
これから伊南島の山が噴火するかもしれない。そうなれば丈一と、一緒にいる彼女もただでは済まない。
「浬がどうにかしてくれるって祈るしかないかな」
浬も現れてから島の神も邪魔をされないようにと牽制になる攻撃を続けている。
例えば海近くに生えていた木を飛ばして動きを抑えようとしたり、砂利を巻き上げて目潰しを図ったりと。
「マグマを冷やすのってダメなんだったか……水蒸気爆発の危険性があった気がするぞ」
浬は島の神からの嫌がらせのような攻撃に対処しながらも、山が噴火してしまった場合のことを考えていた。
爆発を起こしては島内部への被害はより甚大になってしまう。優先するべきは噴火しないように動く事だ。
「おい、神!」
浬が吼える。
巨大な怪物の声は空間をビリビリと震わせる。
「山を止めろ!」
島の神は耳を傾けない。
未だ怒りを抱いたままに動き続けている。
「お前は島の命を終わらせたいのか!」
『違うな、海の神』
ようやく声が返ってきた。
『どの道、人間はしぶとく生き残るだろうさ』
「何を……」
『儂はただ、畏れてほしいのだ』
そのための見せしめとして、今回は火山を噴火させるのだと。
『安心しろ。全ては殺さん。儂への信仰が消えてしまってはならん』
「だからっ! 私の話を聞け!」
話し合えば、まだどうにかできるかもしれない。互いの納得のいく答えが出るかもしれない。
『……分かった分かった。お前の贄には手を出さん。お前のお気に入りのようだからな』
呆れたと言いたげな声が浬にだけ聞こえる。
「話を……!」
『五月蝿いぞ。少し大人しくしていろ』
浬に向かって大木が勢いよく飛来する。怪物は鰭を振るい破壊する。
『はあ……怪物め』
「お前の信仰が取り戻せれば、それで良いのだな!?」
神は数秒、攻撃の手を止める。
島の揺れも止まった。
「……止まった?」
「のかな?」
浬が何かしたのか、と二人は真剣な顔をして海に居る龍の姿を見守る。
『それを、お前が出来るのか?』
低い声が浬の耳に届く。
「既に畏れは充分だ」
『……良いだろう。では、して見せよ』
試すような態度だ。
腕組みをして、子供のする事を見守る様な。いや、試験官が厳しく監視する様な。もっと言えば、囚人の行動を見逃さない看守のように。
「────人間共よ! 我が声を聞け!」
一層大きく叫ぶ。
島全土を揺らすほどの声だ。きっと全ての島民に声が届いているはずだ。
「我は貴様らが海の神と崇めるモノだ!」
こうすれば聞くだろう。
特に、外から浬の巨体を眺めるものがあれば確実に。
「今、この地を揺るがしたのは、貴様らの神が怒りに震えたからだ!! 我の怒りではない!」
島の神はまたしても木を投げつける。
途轍もない勢いだ。人間であれば五体が爆散し煙となってしまうかもしれない。それをあっさりと鰭で破壊した。
「……これが! お前らの神の怒りだ! 高千穂の! よく聞け!!」
今のは島の神なりの手助けだったのかもしれない、と浬は考えながらも島民に向けて話しかけ続ける。
「お前らがお前らの神への畏れを忘れ、敬意を忘れ、我に傾倒した事でその神は消えかけている。我が同胞だ! 貴様らの信仰は、我にだけ捧げられるべきものではない! 我が同胞にも、信仰を!!」
浬が言い終えると、島がまた揺れ始める。
「おい! 何故だ!」
『いや、なに。畏れが足りんと思ってな』
「止めろ!」
ピタリと揺れが止まる。
『────しばらくは様子を見てやろう』
どうにか今回は乗り切った、と浬は安堵の息を吐く。
「……丈一の所に戻らんと」
浬には別に義務はない。
この島の民を守らねばならない理由はない。ただ、求められたから。丈一がどうにかしてくれと縋ったから。だから、動いた。
「あ、浬! 大丈夫なのか?」
「今回のところはな」
経過を見て島の神もどうするか決めるだろう、と浬が告げれば「え、まだ完全に大丈夫とは言い切れないの?」と詩歌が首を傾げた。
「まあ、何とかなるだろう。私があの姿を見せたんだから」
「……って。そう言えば、浬さんは何なんですか!?」
流石に説明しなければならないか、と丈一と浬は詩歌に話す事にした。
* * *
「和夫さん!」
浬が龍となり海に現れた日、和夫の漁師仲間である酒蔵研二は彼の家に駆け込んだ。
「どうした、酒蔵?」
玄関で応対していると興奮したように「海の神! 海神様が出てきまして!」と早口で説明を始める。
「こっからも見えてたぞ」
アレは紛れもなく海神であると和夫も考えていた。
「こ、こっからが大事でして!」
「ん? 何だ?」
海神が現れただけでも一大事であると言うのに、それ以上の何かを研二は知っているようで。
「じ、実は海神様がこの島の中に居るんですよ!」
「……何だと?」
消えた海神は島にいる。
「島の、どこだ」
「その話をしようと思って」
「そうか。酒蔵、家に上がれ」
話をゆっくりと聞きたいと思った和夫は研二を家の中に招き入れる。
「お邪魔します」
椅子に座らせ、飲み物も渡す。
「それで話の続きだ」
「あ、はい。実は海神様が人間に化けまして。オレはそれを見てたんです!」
「人間に……そうか」
「あれは、多分ですが夏祭りの時にも見た気がしますが……高千穂のところで手伝いに来てたような」
「高千穂さんの所のじゃないのか?」
「弥恵ちゃんですか? 違いましたね」
「なら……誰だろうな」
彼は名前を覚えていなかった。
浬と言う名前がわからない。
「……私が高千穂さんの所に尋ねてみよう」
「そうですか。では、オレはこれで」
研二が帰っていくのを見送って、和夫は笑う。
「海神様には海に戻っていただかないと」
でなければ困るのだ。
漁師である自分も、仲間も困っているのだ。あるべき所へ戻っていなければ。必要な所に、必要な存在がいなければ。
「高千穂さんは、何故黙っていたのか」
ブツブツと文句を口にして、考え込む。椅子に座ったまま、時間を忘れて。