第3話 高千穂家
浬の部屋の本棚には漫画とライトノベルがずらりと並べられている。
彼女の所有する数々の名作はここ伊南島では中々手に入れられない物であったりする。伊南島にある書店は少しばかり古い本が多く、最近のものは中々揃わない。
欲しいとなれば注文する必要があるのだ。
「浬……さんはどれがお気に入りなんですか?」
「私はやっぱり何と言ってもこれだな。色々読んでるが、個人的には恋愛モノが好きでな。今はこれが特に気に入っていてな、すごい面白いんだぞ」
浬は本棚から取り出しては勧め、段々と詩歌の腕に乗る本の数が増えていく。
「……おーい、姫崎さん」
帰らなくて良いのだろうかと心配して丈一が声をかける。
「どうしたの?」
「帰んなくて良いのかよ」
「えー、まだ大丈夫だよ。どうせここから近いし」
「は?」
「ここから歩きで五分!」
姫崎家が越してきたのは穂波家からすぐ近くである。
「どう? 毎朝起こしたげるよ?」
「それは浬で足りてる」
ゲームやアニメにハマっているが浬の生活リズムは夜眠り、朝に目を覚ますと整っている。朝食は丈一と共に取り、学校に行くのを見送るのが日課だ。
「え、浬さん……そんなことしてるの?」
余計なことを言うんじゃないぞ、と丈一は目で訴えかける。
浬に起こされるようになったのにも理由はあるが、彼としても吹聴して欲しいものでもなかった。
彼女も流石に丈一の思いを汲み取った。
「まあな。そうするのが普通になっただけの事だ」
「えー。わたし出る幕ないじゃん。まあ、朝そこまで強くないからいいけど」
「おい」
思わず丈一はツッコミを入れてしまう。
「てか、そろそろ帰れ」
いつまでも滞在されても困る。
「そうだね。それじゃそろそろお暇するよ」
挨拶を交わして二人は詩歌の事を見送る。
「……良い女子だな」
「そうか?」
「せっかく、お前に話しかけてきたんだ。番候補として申し分ないだろ?」
「その女の子と仲良くしてたら、とりあえず番候補だとか言うの止めとけ。立派なセクハラだからな?」
浬は「セクハラか。気をつけよう」と目を伏せてうんうんと頷く。
「それに姫崎だったらすぐに友達とかできるだろ。そしたら俺に構う余裕もなくなる」
「何だ。寂しいか?」
「別に」
「たまには素直になったらどうだ」
少女は背伸びをしていつの間にか自分の背を越してしまった少年の頭を撫でる。
「おっと……頭を撫でるのはセクハラだったか?」
彼女は口にしながらも丈一の頭から手を離さない。
「さてと……丈一にはそろそろ私離れをしてもらわんと」
「……だから、別に帰っていいっての」
「嫌だ」
海の神だと言うのに、海に帰りたいとはまだ思ってもいない。
「まあ、さっさと私に帰ってほしければあの女子と仲良くする事だな」
ペシ、と彼女は丈一の頭を右手で叩いた。
「お前に番が見つかって、幸せに見えたなら海に戻る。先程の詩歌でも、他の誰でも構わないぞ」
丈一は何も言わなかった。
* * *
「丈一、浬〜」
詩歌が帰宅した後、二人はリビングでアニメを観ていると玄関から呼ぶ声がした。
「父さんだ」
「武陽か」
丈一が立ち上がると、浬もゆっくりと立ち上がる。
「どうしたんだろ」
「また、高千穂の手伝いに駆り出されるかもしれんぞ」
「それ、お前としては嬉しいだろ」
「そうだな。ちゃんと金は入ってくるしな」
高千穂とは伊南島で代々、神職を引き継ぐ家系のことである。
伊南島の伝承にあった生贄を捧げるなどといった行為はなくなったが、海神への信仰は消えることなく残っている。
そんな高千穂家では人手が足りておらず、時折丈一たちも手伝いに向かうことがあった。
特に夏になれば一層忙しくなる。
「欲しいゲームもある。しっかりと金を稼がんと」
「……お前があそこで手伝いやってるのって考えてみればオーナーが現場で働いてるくらいの話だよな」
高千穂の社では海の神を祀っている。
「ほら現場を知らねば、何とやらだろ?」
「役に立ってないぞ」
その海の神は手伝いで貰った金をゲームと漫画に情熱的に注ぎ込んでいる。丈一の目には彼女は単なる少女にしか見えない。
いや。
丈一の目にも、か。
「父さん?」
リビングを出て玄関で待っている父、穂波武陽に用向きを確認する。
「二人とも。高千穂んとこ行くぞ」
「やっぱりか」
二人は顔を見合わせて予想通りだと失笑する。
「ん? ああ、いや。今日は手伝いじゃなくてな」
「お? 何だ? 手伝い以外で何かあるのか?」
珍しいこともあるものだと、浬は目を見開いて武陽に尋ねる。
「丈一の入学祝いってことで飯食べようってな」
既に決定事項だということで丈一には断れない。
「父さんが酒飲みたいだけじゃね?」
こう言った宴会などは子供が主役であるはずだというのに、親が一番盛り上がる。
丈一には何となく分かっているのだ。
子供の進学などめでたいことにかこつけて酒盛りをしたいだけだ。
「よーし、行くぞー! 浬、丈一! 刺身もいっぱいあるらしいぞ」
丈一と浬は素早く武陽の横を抜けて、外に出る。
「おい、行くぞ丈一!」
「当たり前だろ! 何してんだよ、父さん!」
突然に乗り気になった二人に武陽は「お前ら現金すぎんだろ!」と言いながら追いかけた。
「────お、来たか。今日の主役」
高千穂家に着くと、既に準備は進んでいたようで長テーブルには寿司と醤油用の小皿が並んでいる。
「ほら、弥恵の隣に座れ」
言われるがまま、丈一は見知った少女の高千穂弥恵の左隣の座布団に腰を下ろした。
「こんばんは、丈一さん」
「ああ、こんばんは。弥恵」
弥恵は深い藍色の髪の少女で、背の高さは浬とほとんど変わらない。年は丈一の一つ下、今は中学生だ。
「浬さんも」
ぺこりと頭を下げた弥恵に浬は「ああ」と短く返事をした。
「さてと、主役は揃ったしそろそろ始めようか!」
高千穂家当主である弥恵の父、高千穂金吾はビールを注いだジョッキを持ち上げる。
「えー、本日は丈一くんの進学祝いとウチの弥恵の進級祝いって事でこの場を設けさせていただきました! ではみなさん、飲み物を手に取っていただいて」
乾杯と、大人たちの大きな声が響き渡る。
丈一と弥恵は小さくジュースで満たされたグラスコップをチン、とぶつけ合った。
「丈一!」
「ん、ああ……おう」
浬も仲間はずれは嫌だったのか、飲み物を見せつけてくる。ガラス同士のぶつかる音がまた一つ響く。
「────はあ、食ったなぁ」
満腹感を覚えて丈一は夜風に当たっていた。中ではまだ大人たちは飲んでいるのか、陽気な合唱と手拍子が聞こえる。
「あ、丈一さん」
「弥恵もこっち来たか」
「お腹いっぱいで」
弥恵は丈一の隣に移動する。
「高校、どんな感じですか?」
「何とも言えないな」
「……ですよね。まだ全然ですもんね」
「そっちはどうだ?」
「いやいや、何も変わりませんよ」
単なる進級だ。
校舎も変わらなければクラスメイトも変わらない。丈一も聞いておきながら「だよな」と笑う。
「お、丈一ー! ここに居たか!」
二人で話していると浬が呼ぶ。
「浬さんもお腹いっぱい?」
「いや、全部食べ終えてしまってな」
かなりの量があったように思うが、浬は食べ切ってしまったのだと。
「お前は遠慮を知らんのか」
「いや、あれは武陽と金吾のせいでもあるぞ。私が食べるのを見てると気持ちいいとか持ち上げたんだ」
ついつい食が進んだのだと宣う。
本人曰く、食べる量は人間と同じで構わないとの事だが食べられる量は人間以上であるとの事だ。
「父さん、どんな感じだ?」
「結構酔ってる感じだったぞ。まあ、その辺りはさっき未央が来たから心配しなくても大丈夫だろう」
穂波未央、母が来たという事で丈一も安堵する。
「ちょっとは気分もスッキリしたし戻るか」
「そうだな。弥恵は戻らんか?」
二人は部屋に戻ろうとするも、弥恵は動く様子はない。浬が気になり尋ねれば。
「もうちょっとだけここに居ます」
と。
「そうか。まあ、もう帰るかもしれん。弥恵、丈一とこれからも仲良くしてやってくれ」
「お前、酔ってんのか?」
「何でだ? 酔ってないぞ?」
唐突なお願いに弥恵は面食らったが「こちらこそ」と丁寧な返答をした。
* * *
「……海神様」
真夜中、酔いの覚めた金吾は一人呟く。
神職である彼は島の中でも顔が利く立場の人間であった。だから情報がさまざまに入ってくる。
喩えば、漁師から。
どうにも数年前から取れる魚の割合が変わったという話を聞いた。
何が原因か、海のバランスが崩れたのだ。
「やっぱりアイツらの言う通り、どこかに行ったのか?」
顎を摩り、金吾は悩ましげに首を傾げる。
「……お父さん」
先ほどまで武陽と騒いでいた部屋のゴミは片付けられ、賑わいは既に残っていない。そんな部屋に既に寝たと思っていた娘が入ってきた。
「弥恵、どうした? 寝れないか? パパが一緒に寝てあげようか?」
「…………」
微妙そうな顔をして、たっぷりと間を置いてから彼女が答える。
「お客さん」
「客?」
金吾は確認しながら立ち上がる。
「分かった。ありがとな。弥恵はもう寝てろ」
頭を撫でてから玄関に向かえば、立っていたのは四十代のラフな格好をした白髪混じりの黒髪の男だ。
「……またお前か、山田」
海神が消えたと口にしていた漁師の山田和夫が訪ねてきた。
「こんばんは、高千穂さん」
「こんな夜遅くになんの用だ」
「いや。海神様が居なくなってから、こっちも相変わらず散々でして」
稼ぎが減ったからいい加減にどうにかしてほしい、と頼み込みに来たのだと。
「……海神様が消えたんだとしたら、それは海神様の意思だ。我々は願うだけで、実に無力なものだ」
和夫の求めるような事は出来ないのだと金吾が言外に伝えれば、額に皺を寄せて。
「そもそも、高千穂さん。アナタは神職のはずなのに、なぜ私ほど熱心じゃないんですか?」
責め立てる声は続く。
「神に仕えるアナタなら誰よりも海神様を想っているはずだ。でなければおかしい。だと言うのに、アナタと来たら。碌に動こうともしない。本当に海神様を信じているんですか?」
「分かりましたから、今日はお帰りください」
「話をしっかりと聞いてください! ちゃんと、ちゃんと、海神様を説得ください! 我々の海に戻るよう、お伝えください!」
「分かりましたのでっ!」
「どうか! どう────────」
どうにか押し返して、和夫を帰らせる。
「はあ……」
頭痛がしてきた。
金吾も海神への信仰はある。神職として一応であり、そこまで狂気じみたものではない。理性的な範囲だ。
「やれ、面倒くさい……」
眉間を揉みほぐす。
「お父さん、山田さんは?」
「もう帰った。弥恵も早く寝なさい」
「なんかあったの?」
「……酒の飲み過ぎだ。少しクラクラするだけだよ」
適当に笑顔を貼り付けて答える。
弥恵は寝床に向かった。
「……流石に数年にもなれば増えるな」
海神を海に戻るよう説得してくれという申し立ては既に多数来ている。
「どうしたもんか」
要請された通りに彼は神に願っているが、漁獲割合が変わっていない。
「…………はあ」
溜息が漏れ出た。
立場上、金吾も口にはしないが海神の実在を熱心に信じているでもない。今の時代、大概は論理的に説明ができる。
現代文化に触れている金吾には神職であっても完全に神を信じる事は出来なかった。
海の神がどこかへ行ってしまったという話にも懐疑的であったのだ。