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第81話「斥候富士」

 土のにおい。雨のにおいと、嗅いだことのない、強い何かのにおいがぐちゃぐちゃに混ざり合って鼻孔を刺激する。

 富士龍生は、曇天を見上げて一つため息をついた。冷たい雨だれが肩を濡らす。まだ四月だ。ひっきりなしに地面を叩く雨粒は冷たく鋭い。夜間であるために、その不気味さは底が知れない。魔術による暗視と、津和野のバックアップによるライトアップがあるものの、昼間より不安なのは変わらない。もっとも、こんな天気だ。昼間であっても大して明るくはなかっただろうが。

(装備魔術があるとはいえ、全く油断できないな)

 低体温症になる前に離脱をするのはもちろんのこと、行くからにはできる限り情報を持ち帰りたい。ここで富士がどれだけ内情を把握するかで、今後の動きが全く違ってくる。ルートの確保、竜骨の形などの情報、弱点であろう逆鱗の位置。そして何より──生きて帰ってくること。それができなければここで詰んでしまう。

「んじゃ、行ってくる」

「オッケー。俺も全力でサポートする」

 津和野はひらひらと手を振って見せた。その直後、彼の手元から光り輝く鳥が飛び立つ。

「それじゃ、サポートよろしくな」

 その式神に富士は少し頭を下げた。式神なのだから特別自我があるわけではない。組まれた術式通りに動くだけの、いわばシステムのようなものだ。ただ今だけはそんなことでさえ、重要なまじないに思える。

 雨の中を緩やかに駆け出す。共に動き出した式神の放つ光だけが頼りだ。強い雨はこれから向かう先を真っ白に塗り潰していた。

『あー、おけー? 聞こえる?』

 式神に仕込んであった魔術式から津和野の声がする。

「聞こえる。雨の音も大丈夫そうだ」

『よし。それなら問題ないか。すごいな、縁の力ってヤツは。俺も別でなんか作ってみようかなぁ』

 どんなに強い魔力がはびこっていようとも、腐れ縁が途切れることはない。それを利用した通信魔術を考案した津和野は、どこか得意げにそう言った。

 ひっきりなしに地面を叩く雨は、進むにつれてその粒を大きくしていく。一応雨合羽を羽織ってはいるが、あまり効果を感じられない。強い風雨の前ではチリに等しい。

『カッパ意味なさそー』

「あるだけマシだ。精神的にはありがたいぞ」

『そんならいいんだろうけどさあ』

 足を引っ張ってなきゃいい、そう言わんばかりに津和野は相槌を打つ。足の裏でぬかるむ大地を掴む。着実に、そして早く例の怪物の元へ進んでいく。視界も足元も何もかもが悪い。そんな中、悪友とは言えど気軽に話せる相手がいるのは悪くないものだ。

「そろそろ魔力濃度が測定できなくなるんじゃねえの?」

『あー、そうかも。いや……測定はできてるな。ただ、なんというか、暴力的な数値と言うか』

 意外な答えに富士は首を傾げた。確か、昨年末はすぐに計測器が止まってしまったと聞いている。超災害級であるのなら、すでに止まっていてもいいはずだ。少なくとも体感している魔力はそのレベルである。

「いつの間に改良してたのか」

『あのさあ、俺のことなめすぎ。例の鯨の後にすぐ改良したんだから』

「へえ……健気だな」

『黙れ気持ち悪い言い方するな。最悪!』

「はいはい」

 適当に話は流れていく。富士は歩を進めながら事細かに状況を説明した。津和野はそれを書き留めながら聞いているらしく、時折相槌が途切れる。

『まるで黄泉の国だな』

「なんだそりゃ。見たことあるんか」

『無い。けど……生き物が粗方息をしていないというか、なんというか。あまりにも静かじゃない?』

「まあ……雨の音しかしねぇけど……」

 津和野の指摘を受けて、改めて耳を澄ませる。強い雨音しか耳には入ってこない。生き物の気配も、植物の呼吸も、鳥の鳴き声でさえ。何もかもが聞こえない。静かで、非情な世界。富士の知る言葉では言い表せない、これなら異世界と呼んでも差し支えないだろう。そんな気さえしてくる。間違いなく、自分の知る世界と地続きになっているはずなのだが。

 山中は独立した一つの世界と化しているようだった。最小限に押し留めているとはいえ、世界の一部を己の領域とする。神と呼ばれ、畏怖されたモノだからできることなのだろう。

 改めて山頂の方を見る。

 重く垂れた雲と、暗闇に隠された神の全貌は未だ見ることができていない。それにどこか富士はほっとしていた。

「……っと。データ集めはこんなもんか?」

『そうだね。あとは富士が持って帰ってきた実数値とすり合わせて対策立てるだけ。全貌の方はもう少し違う手段で集めるしかないね。ここで無理に探る必要はない』

「そうだな。だが、いやに進捗がいいな。こういう時は大体──」

 何かが起きる。

 その予感は見事に的中した。

「────は」

 土砂降りの雨の中。ぼんやりと何かが視線の先に立っている。目を凝らして見れば、徐々にその輪郭が露わになっていった。そこに佇む人は、富士のよく知る人物だった。こんなところにいるはずがない。いいや、いてはいけない。唇を噛んで出かかった声を飲み込む。

 振り返ったその人が笑ったように見えた。

 そんなはずはない。いていいはずがないのだ。彼女はこの場に在ってはならない。こんなこと、あっていいはずがない。心の内で次々に浮かんでいく言葉を富士は無理やり飲み込んだ。願ってもない光景だ。しかし、それが決して叶ってはいけないものであることも、強く理解していた。それこそ冷酷であると言われてしまうほどにだ。

「いづみ、の姿をした何かか」

 愛する人の姿を模したそれに目を細める。脳では理解しているが、目は彼女から離れようとしない。このままではいけない、そんなことは理解しているつもりだった。

『富士! それは幻! 奇襲が──』

 切羽詰まった声が危機感を連れ戻す。

 幻は、幻覚は──望むものを見せる。幻影魔術の基礎中の基礎だ。師の言葉が脳内で繰り返された。いまだ彼女の姿は揺らがないものの、富士には正体に心当たりがあった。

「なるほど、地の底から這い上がってきたから、一緒に連れてきたってか! 腹が立つ。本当に、な!」

 通信式に声が入るように、わざと大きな声で分析を続ける。少しも動かない富士に対し、チャンスだと思ったのか化け物が動き出す。富士は咄嗟の判断で後ろに飛び退く。

 強い打撃が地面を穿つ。泥と飛沫が派手に飛び散った。その後の相手を確認することなく、富士はその横をすり抜ける。

「っ! あぶねぇ、津和野! 聞こえている前提で話を進める!」

 返事のない式に向かって富士は話しかけ続ける。

「ここから先は今みたいなのがはびこっていると予想! 面倒だから、標的の位置だけ確認してすぐ抜ける!」

 駆け出す足は軽快に、それでもしっかりと地面を掴む。

「三十六計──『逃げるに如かず』ッ!」

 一瞬で溜まっていた魔力を放出する。その勢いに乗ってその身は高く高く、跳躍する。

「藤波、藤棚、紫、八葉! 護ってくれ──!」

 次々に魔術式を展開し、それと共に発生した銀の風に乗ってさらに富士は加速する。木々の間を縫い、人影の群れを飛び越える。そうやって肉薄していった先に、あの荒神がいた。やはり全貌を認めることは叶わない。それでよかったと、今は思えた。

「み、つけた! 光符『鷺舞』!」

 強化された動体視力は、雨の中であってもその根元を捉える。放たれた魔術式は消えない印を取り囲むように巡らせる。印の定着を確認する前に富士の身体は落下を始める。当然だ、魔術を使っていても跳べば落ちる。着地のために思い切り身を翻して勢いを和らげようとする。

「がっ、は……」

 派手に水と泥を被りながらも、富士は着地に成功する。五点着地法と魔術を組み合わせたとはいえ、その衝撃全てが緩和されたわけではない。ひときわ強い衝撃を全身に叩き込まれた富士は苦しみ喘ぎながらも立ち上がった。

(三十六計が切れる前に逃げないと──死ぬ!)

 荒くなりかかった呼吸を整える。雷鳴を合図に富士は一気に走り出す。ぬかるむ地面に、何度も足を掬われそうになった。盛んに伸ばされる化け物の手を掻い潜って、その先へ先へと駆け抜ける。血錆のにおい、嗅いだことのないガスのにおい、自分自身のすえたにおい。

 思考よりも雷電よりも早く駆けることだけに集中する。音を置き去りにするその手前まで!

 雨を抜けてアスファルトを走る。見上げたその先には、目印にしていたあの白い仮設テントがあった。

(抜けた!)

 一気に視界が晴れる。それと同時に三十六計の効果が切れた。減速を、そう思ったその瞬間だった。

 少し遠くで、山鳴りがした。


 ※※※


「……これは驚いた。そんなの、実現していたのか」

 敷宮白根は酷く動揺した。

 自分の身体には「恒」という感じが相応しい。どんなに損傷しようが、どんなに傷つけられようが、元通りになろうとする。いいや、必ず元通りになる。それは魔術師が求めてやまない不死性と言っても過言ではないものだ。それを富士家は求め続けてそして、手に入れた。

 そのはずなのに、敷宮白根という人は酷く悲しげな顔をしていた。それがずっと頭の片隅にある。

「大丈夫、おれは死なないからな」

 まじないのように何度も唱えたせいで、決め台詞と化したその言葉を口にする。どんな状況であっても生きて帰れる自信が自分にはあった。


 それは、婚約者である八束いづみが死んでもなお変わらなかった。

 恐ろしいくらいに富士龍生は安定していた。精神面も体調面も何一つ変化がなかった。それが弔うことができずに、現実を受け入れられていないが故の結果なのか、元々そんなヤツが故なのかは分からない。ただ変わらないという結果だけが富士の手元には残されていた。


 おかしい。だって、アイツが生きていた感触は今この瞬間も思い出せる。アイツが死んだことで、自分の周りは変わった。それなのに、何故己は変わっていないのだろうか。

 許されるのなら、もし許されるのならもう一度会いたいし、その手に触れたい。


 その後を追うことだって。


 否、死ぬわけにはいかない。


 真、死んでしまっては無駄になる。自分を生かすために死んでいった家族の命が。ただただ不死性を求めるがために、蟲毒を作り上げるためだけに命を放り出した血族の死が無駄になる。


 死にたくないのは真実だ。

 不適切な発言。

 生きていたい。生きなくては。生きて報わなければ、この自分が息をする意味がなくなる。


 それに、兄を残して死ぬわけにはいかない。あんな人を一人にするわけには──……


 例えすべてに置いて行かれようとも、富士龍生は生き続ける。生きて犠牲となったすべての人に報い続ける。それが彼の義務であり、生まれた意味である。


 ※※※


「さすがの悪運だな」

 辟易としながら潮田はそう言った。

「いや、おれもさすがにヤバいとは思ったぞ」

「だろうな」

 少し離れた場所で発生した土砂崩れに、富士は巻き込まれた。もろもろの魔術式の効果が切れた後だ。さすがの富士であっても、その場の誰もが助からないだろうと考えていた。富士の居場所は式神のおかげですぐに分かる。しかし、それまでに富士が死んでしまっては意味がない。

「まさか岩と岩の隙間に入り込んじゃうなんてなぁ」

「起きていたのか?」

「いやいや。情けないことに気絶してたぞ。完全に。走馬灯も見たし」

「……ならまぁ、そういうことだな。つくづく不幸なヤツだ」

「えー? そこは幸運じゃねぇの?」

 頬杖をつきながら富士はおどけて言い返す。それに対し潮田は首をゆるゆると振って言葉を返す。

「さぁな。腕やら足やらがもげても治っちまうのは、医者の俺からしたら幸運とは言い難い」

 意外な反論だったのか、富士は思わず目を丸くしてしまう。彼が口悪く文句を言うのはいつものことだ。しかし、今回ばかりはどこか縋るような、弱々しさを感じてしまった。

「そりゃしょうがないか。旭がそう言うんだったら違いねぇや」

「……本当にな」

「心配かけて悪かった。けどおれなら大丈夫だって、お前も分かってただろ」

 鼻で笑いながら、軽くそう言った。それがいけなかったらしい。がばりと立ち上がった潮田は富士の胸倉を思い切り掴んだ。

「いいや、俺は今度こそ死んだと思ったんだぞ」

「……旭?」

「お前、羨ましがっただろ」

 潮田の指摘に富士は息を飲んだ。

「明らかに傷の治りが遅ェんだよ。前に言ってたよなァ、お前の魔術は『変わらないでいること』が条件だって」

 恒常性を維持するには、それなりの努力が要る。羨ましがらない、変わろうとしない、ただ淡々と単調に日常をこなす。言葉にすればそれだけのことだ。それだけのことなのだが、実行して続けるとなると話は変わる。

 人は現状維持を好む。しかし実際に現状を維持し続けられる人がどのくらいいるのだろうか。きっとおそらく、ほとんどの人が現状維持を止めて変わっていくことになる。富士だってそのうちの一人だった、という話だ。しかしそのタイミングがよくなかった。

「いいよ、俺としちゃ、やっとかって感じだよ。でもな、お前死にかけてたんだぞ。今度こそ、この俺が『もしかして死ぬんじゃないか』って思ったんだぞ。なんで言ってくれなかったんだよ!? 知っていれば、もっと、ちゃんと対処できただろうが」

「……別に失敗したわけじゃないんだろ」

 宥めるように言葉を返すが、潮田はさらに口調を厳しくした。

「そうじゃねぇ。今回は上手くいったってだけだ。いいか? 医者は患者に信用してもらえなきゃ、最大限その能力を発揮できねェんだ。お前にとって俺はそんなに信用できないか。なんで俺の周りの奴らは皆、大事なこと黙ったまんま一人でどこかへ行こうとすんだよ」

 潮田の悪態はいつものことだ。しかし今回ばかりは違った。今にも泣きそうな顔で、震える声でそんなことを言うものだから、富士は黙り込んでしまう。何を言い返しても言い訳にしかならないような気がした。

「……別に、怒ってるわけじゃねェよ」

「え、えぇ……?」

「なあ、教えてくれよ。俺にも少し、抱えさせてくれよ。お前、去年末からずっと不安定じゃねぇか」

 どうしてそっちが縋るような顔をするんだ、と言いかけて口を閉じる。彼の思いを察せないほど鈍感ではない。むしろ境界が曖昧になるほど、その痛みが苦しみが伝わってきている。

「………………そうだな、何というか。羨ましくないと言えば嘘になるな」

 どこまで行っても素直にはなれないらしい。

「なんだかんだ言ってずっと面倒見てたからかなぁ。二年くらいだけど」

 目の前でその成長を見た。変化を見た。丸っきり変わってしまったわけではない。三笠は三笠のまま大きくなった。変わっているのに、変わっていない。彼の話から、富士の話へ移る。

「おれは、許せねえよ。なんでいづみが死ななきゃいけなかったんだって、駄々をこねたい。けど、そんなことしたって無駄だってことも分かってんだ。何より──」

 言葉を切って、富士は俯いた。

「こうやって納得できないことで、いづみの考えを否定しているみたいで嫌になる。黙って受け入れることでしか、おれは上手くアイツを肯定できない」

「だから、か。そりゃ、八束にとって正しいと思ったからあんな選択をしたんだろうな。富士の言いたいことってのは、納得できる。すごく」

 たどたどしく潮田は共感を述べる。

「んじゃ納得できない者同士、納得できないって言い続けようぜ。周りが気にしなくなっても、俺らは八束に対しても納得できないって言い続けりゃいいんだ」

 目を丸くして富士は医者の方を二度見した。

「俺がそう言うのが、そんなに意外か」

「いや別に、思いはしても、言いそうにないと思っていただけだ」

 富士の返答に、彼は眉を下げて笑った。


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