第61話「狗」
怪物はその口を大きく開けた。
そこから放たれる質量を持った音に三笠は押しつぶされそうになる。プレッシャーが形を得たら、こんな具合なのだろう。腹に力を入れて必死に身体を起こす。風が強く吹いて日が差し込んだ。一筋のそれはよく見えなかった異形の姿を照らし出す。
半身が融け落ちた狼、が近いだろうか。あばら骨を融解した肉の中から文字通り浮かび上がらせている。酷いにおいが三笠の鼻を突いた。息が詰まりそうになる。魔力を帯びたソレは猛毒なのだろう。三笠の側にいた人々は次々に膝を折っていく。
「ア…………ガ…………」
口を開いたスペクターは喉から音を絞り出す。
「な、にを……」
三笠はその目を凝視する。意図を持った視線だった。しかし。その意図が三笠に伝わる前に変化が起きる。
瞳の中で業火が咲いた。
鋼鉄を纏った爪が大地を割く。その場に再臨したのは災害というべき、一体の怪獣だった。未成だったその身体は急激な変化に耐えきれないのか絶えず歪みを生んでいる。スペクターがどこかを動かすたびに、悲鳴のような鉄が擦れる音が市街に木霊する。
千代田らと話をした後、スペクター出現の情報が飛び込んできた。素早く反応して出てきたはいいが、監視官もいない、味方の魔術師もいない状態で三笠は攻めあぐねていた。このまま、あのスペクターが斃れるまで持久戦の姿勢をとるのは難しいだろう。
「とりあえず避難を進めてください! 僕が、引き付けますから」
少し強引に近くにいた警官を掴み寄せて指示をする。彼は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、三笠の付けている腕章に目をやると、その顔色を変えた。駆け出した警察官を見送らず、三笠はスペクターの方を見やる。
酷いにおいのせいですでに鼻は利かなくなっていた。怪物が移動する様子はない。下半身はすでに機能停止状態らしい。それに三笠は少しホッとする。
(とにかく引き付けなきゃ)
一瞬にして戦場と化した市街を痛みが走る。まだまだ逃げ遅れた人々がいるのは明らかだ。それらは三笠の視界の端で必死に手足をばたつかせている。怪物が叫ぶたびに、同調するかの如く悲鳴が渦を巻く。
「そうだ、こっちを……見ろ!」
持てるだけの魔力を解放する。何ものにもならない魔力は宙へ消えていく。それでも構わない。三笠が今一番するべきは──避難完了までの時間稼ぎだからだ。
(どうせ今の僕じゃ満足に魔術は使えない! 応援が来るまで情報収集を!)
赤黒い液体が、あの強く酷い臭いが腐海の如く広がりゆく。魔力と呪いをまとったそれに、普通の人が耐えられるはずもない。
大地が割れんばかりの斬撃が迫る。スペクターから絶え間なく流れ続けている液体が、意思を持ったように三笠の足元を襲う。相手の動きをしっかりと捉えられるおかげか、三笠は一度もその攻撃を受けることなくやり過ごす。
少し引いて、近づいて。囮としての戦い方は富士や初瀬を見て学んでいる。理屈は理解しているが、どうにも身体が追い付いていなかった。想定よりも早く息が上がる。肩で息をし、泥の混じった汗を拭う。己のものともつかぬ喘鳴と鼓動が焦りを加速させた。狭い視界に入るのは、怪物、人、人、人、積みあがった瓦礫、そして傷ついた、人。
「ダメだ、これ以上は、ダメだ──!」
攻撃の波は留まるどころか激化していっている。三笠は回避にまだまだ余裕があるが、逃げ遅れた人がまだいるのは確かだ。そうとなれば、がむしゃらに攻撃させるわけにはいかない。もっと強く、三笠に意識を集中させる必要がある。
「魔導雷撃展開ッ」
久々に使う魔術だが、手になじんだものだ。その感覚は稲妻より早く蘇る。
「大胆、不敵に──『三連星』!」
短い詠唱と共に、放られた魔力鋼はまっすぐにスペクターに向かっていく。そして。派手に魔力と爆炎を散らす。狭まっていた視界は一瞬にして煙に覆われた。肉が焼ける嫌な臭いと、音。鼓膜を引き裂かんばかりの悲鳴は、三笠の気力を確実に削いでいく。しかし視界が悪くなったおかげか、スペクターの動きは一転して鈍重になった。
(持続時間は短い、から……次! 次は!)
思惑通りの結果を喜びながら、三笠は必死に周囲へ思考を巡らす。まだ人はいるだろうか。ぱっと見たところはいない。昼間だったのが幸いしたのだろう。これが朝や夕方だったらと考えるだけで寒気がする。再び悲鳴が木霊する。爆炎と煙をスペクターが覇気をもって掻き消した。その瞳に咲いているのは、紛れもない怒りだった。
咆哮一つと共に黒い液体が、剣山が沸き立つ。放たれた魔力が雨あられと降り注いだ。跳ねるアスファルトに、肌を抉る狂弾。咄嗟に展開された『春日雨』ですら、それを相殺し切ることができなかった。風に流されてきた砂ぼこりに咽ながら三笠はスペクターを睨む。
(駄目だ、これ以上は引き付け続けられない)
そう判断した三笠は怪物を仕留めるべく大きく息を吸った。
一撃で決めなければ、死ぬ。
「一陣の風、打ち鳴らすは──」
痛みが全身を駆ける。『使うな』と理性が抗議する。身体が悲鳴を上げている。
(それでも、それでもここで僕がやらなきゃ)
痛みで視界が霞む前に、この手から意識が離れる前に──アレを殺さなければ。強い使命感は空の竈に火を入れた。




