第39話「猫」
わらわらと集まってくる野次馬たちを掻き分けて、小柄な少女が駆け抜けていく。彼らの見ている先には瓦礫の山があった。時折吹き荒ぶ風が砂ぼこりを立ち昇らせる。消防や警察はまだ来ていないのだろう。サイレンの音は遠い。
喧騒を背に少女はひたすらに走って逃げる。
時間帯は夕方、ちょうど帰路についたであろう車が大通りを行き交っている。誰も己を見ていない、はずだ。それなのに、彼女は視線が気になる。誰かが見ている、誰かが私を追いかけている、誰かが注目している──一時期は快楽の一部であったソレが、今は恐怖の対象になっているらしい。恐れを上回る混乱を飲み干して、少女は再び歩き出した。
伸ばしっぱなしにしている前髪が、ゆらゆらと目の前で揺れている。あちらこちらに伸び放題の後ろ髪をぎゅっと前へ持って来て握りこむ。ラフな格好に猫背なのも相まって、逆に他人の目を引いてしまう。それにまた怯えながら、少女はやっと自宅のドアを開けた。
帰るや否や、彼女は玄関の鍵を閉める。普段であれば鍵なんて気にも留めない。こんなことをしても意味がないと理解はしているが、そうせずにはいられなかった。手汗が指を滑らせる。少しもたつきながら施錠を済ませた彼女は、その場にへたり込んだ。
藤色の瞳が脳裏に焼き付いている。石見という役を被っていてもなお感じた恐怖は初めてだった。大抵のことは落ち着いて受け入れられる、だからあの男を隠れ蓑にしていたのだ。周防からすれば想定外も想定外だっただろう。少女にとっても、アレの出現は想定外でしかなかった。
(何、だったの……あれ、どう考えても人じゃない……!)
人ならざるモノを彼女は知っている。だからこそ、この予想は間違っていないと確信が持ててしまう。
(あんなのが乱入してくるんなら、こっちはどうしようも、ないじゃん)
一際強い恐怖を覚えた少女は身を丸めて身体をさする。その時だった。玄関ドアのノブが動いた。音に驚いてドア前から飛び退いて、向こう側の様子を窺う。こっそりと覗き込んだドアスコープの向こうでは、野々宮香住が首を傾げていた。
「ご、ごめん香住っ」
ドア向こうに聞こえるよう声を張りながら、少女は鍵を開けた。この時間、いつもは鍵なんてしていないのだ。彼女はさぞ驚いただろう。ドア前では、想像通りに香住が唖然として立ち尽くしていた。
「め、珍しいわね。何事? もしかして、何か……」
そう問いかけてくる彼女に、安心感と少しの苛立ちを覚えた。小さく息をついて少女は口を開く。
「あったんだよ、周防が勝手なことして全部取り逃がす羽目になった」
「……え、待って、先に入りましょう」
香住の提案に頷いて、少女は居間へ戻る。
「七香、どういうこと? 連れてくまでは順調だったじゃない」
「それが、周防が人形にしてたのも含めて付き添いを全部殺しやがった。その上で指示になかったメール送付していたんだよ」
明らかな離反だった。誘拐した後、三笠の携帯から通報し離反を告げるまでは七香が行った。しかしメールに関しては周防の独断で決行された物である。七香は電話をした後に、携帯を確実に破壊した。が、メールが送付されていたことを鑑みると、周防夏彦は三笠冬吾のアカウントとログインパスワードを知っていたらしい。別の端末からログインして送付したと考えるのが妥当だろう。結果、警察署内で異変を感じて動き出す者や敷宮が速めに動き出すなどの邪魔が入った。そのことを七香が知った時点で、周防と三笠はすでに決闘を始めていた。付き添いが即死していなかったために、気付いたときには完全に手遅れだったのである。事のあらましを聞いた香住は青ざめて首を横に振った。
「じゃあ、完全に失敗した上に、周防君が向こうに連れていかれたってこと……?」
「それも、……そうね。ただ、アレはかなりの重傷だったし、目を覚ますどころかあのまま死ぬんじゃないかと思うんだけど……もっと気になることがある」
「もっと気になること?」
「気づいたときに、慌てて現場に行ったんだけど、ちょうど二人がいい具合に消耗してたから、漁夫の利を狙ったんだ。そしたら、二人乱入してきて」
「二人?」
「一人は大したことなかった、けど、もう一人が──おそらく人じゃない。三笠以上の強者が向こうにはいる」
「敷宮って、零細だと思ってたけど……やっぱりコネの力が強いのかしら。でもそうとなると」
「そうだな。アレが出張ってくるんじゃないかって思って。そうとなればもう、私らじゃどうにもできない。どんなに数いる魔術師が束になっても、立ち向かえるとは思えない」
指先を震わせながら話す七香を見て、香住は息を飲んだ。大げさな表現ではないか、と突っ込みたくなったが、この少女はそういう嘘はつかない。
「…………それは、困ったわね」
そう返して、香住は少し考え込む。彼女の中でずっと気になっていたことがあった。
「あのさ、七香。前に幸嗣さんのコピーの話、してたでしょう?」
「してた……けど。アレは、劣化コピーだから使えないんじゃないかって言ってたじゃん」
「アレ、上手くアップデートできるかもしれない」
香住の言葉に七香は目を丸くした。
「あなたの持っているヒルコと血、それから保管庫にあるヒルコを使えばいいわ。幸嗣さんの遺体回収は、全部はできなかったけど……記憶を抜かれてても一部あれば、他で補強もできるはず」
「あ、あぁ……あの時の……」
香住の言う遺体の一部は、つい先日記憶の欠片が敷宮に回収される直前に入手したもののことだろう。あの時はあの時で大変苦労をした覚えがある。先日襲撃を受け、防人も不在の室だからと油断していたが、まさか敷宮の者とかち合いそうになるとは。急遽周辺でたむろしていたスペクターにヒルコを与え、襲撃をさせたが大した時間稼ぎにはならなかった。
こんな労力をかけても入手できた遺体は小瓶半分程度。人体で言えばギリギリ手の小指一本分にもならない量だろう。
「少なすぎるんじゃ、って思ってたけど、試す価値はあるんじゃないかしら……賭けてみない?」
香住は意を決して鷲塚七香に提案した。




