第31話「逃げ道にするべからず」
もう一度、と三笠は身体を起こす。
津和野のことは所長に任せ、三笠たちは休息を取ることになっていた。こんな時ではあるが、まだまだ仮設事務所の整備などで時間がいる。そのために急遽三笠たちは休日を貰うことになった。
昨年末の連日の戦いを経て三笠は格闘技に手を出した。初瀬に頭を下げた時には大いに驚かれたが、魔術方面での伸びが悩ましい今は手札増やすしかない。何より市街戦と対人戦に有利だからだ。
最初のうちは初瀬から指示された体力づくりを、少ししてからは基本からこつこつと学び始めた。昔一度だけ手を出したことのある分野だが、当時は全く真面目に取り組んでいなかったために経験は無に等しかった。三笠は特別才能があるわけでもない上に、どちらかと言えば下手くそな方なので初瀬は少し手を焼いただろう。
そして今も毎夜毎夜、時間を作って体力づくりと基本の確認を行っていた。実践は相手がいなければできない。それでも一人でできることはたくさんある。昨年の悔しさはずっと、三笠の中で灯り続けていた。
ただ今夜ばかりは一人での練習が辛い。
余計なことを考えてしまう。今夜だけは、と言い聞かせながらスペクターを探しては攻撃して実践の代わりとしていた。
(高度な式神でも作れたらいんだけどな)
組み手の相手ができるような式神を作れる魔術師はそんなにいないだろう。そもそも式神を作れるようなリソースもない。再びスペクターを探しに三笠は立ち上がった。
「なんだ、こんなところにいたのか」
「え、富士先輩」
突然降りかかった声に振り向いてみれば、公園の入り口に富士がいた。街灯に照らされて浮き上がる長身に三笠は思わず身を固めてしまう。公園が暗いせいだろう。知っている人物でなければ恐怖を覚えていたかもしれない。彼は肩にかけたカーディガンを着直しながら目を細めた。
「三笠さぁ……ちゃんと休んだ方がいいんじゃないの?」
「え、あ……すみません、眠れなくて。起こしてしまいましたか」
細心の注意を払って仮眠室から抜け出してきたのだが彼は起きてしまったのだろうか。三笠が申し訳なさそうな顔をすると、富士は首を横に振った。
「その辺は別にいいんだけどよ。お前何してんの?」
「えーと、特訓的な……」
三笠の返答を受けて富士は自身の横髪を触る。
「あー、ふーん……?」
何か考え事をしているらしい。富士は考え事をするとき向かって左の横髪を触る癖がある。事務所の中ではよく知れたことだった。
「なるほどな。じゃあおれも特訓するから付き合ってくれよ」
しばしの静寂の後、富士はそう三笠に提案した。
「えっ」
思わず三笠は目を見開く。一体どういうつもりなのだろうか。てっきり引きずってでも連れて帰る、と言われると考えていたのだ。富士の言葉は三笠の予想の斜め上から飛び込んできた。
「え、じゃねーだろ。最近体の動かし方勉強してるんだろ? おれも相手がいなくて困ってたんだ。ほら、やるぞ」
瞬きを繰り返す三笠を放って富士は準備運動を始める。そして静かに構えた。
「ちゃんと手加減はするから。補助魔術も使わねぇ」
「えっ、本当ですよね! ついついうっかりとかやりませんよね!」
慌ててそう突っ込めば富士は少しだけ不貞腐れたような顔をする。
「おれはそんなに信用されてないのか」
先に攻撃を仕掛けたのは富士だった。風を切る拳を受け流そうとする、が。
(衝撃が、受け流しきれてない!)
角度が甘かったのか痛みが走る。本当に手加減をしてくれているのか疑ってしまう。
息をつく間も与えぬように繰り出されたローキックを後ろに跳んで避ける。しかし富士は宙に浮いた三笠の身体を掴みにかかった。そのままの勢いで寝技をかける。
決着はすぐについてしまった。
「せ、んぱい、腕が、外れ……」
「ほい」
三笠が素直に音を上げれば富士はぱっと手を離した。
「回避の時に跳ぶなって教わらなかったのか」
「いや……言われました。癖になりかけてるらしいです」
そう言いながら三笠は悔し気に口を結んだ。
「なので新しく癖をつけ直そうと思ってまして」
そんな答えを聞きながら富士は自分の服についた砂を払い落す。
「それでこんな時間に? 休む時は休めよ」
時計を見てみれば時刻は零時を回ろうとしていた。完全に時間外労働である。富士がそれを示すために、己の腕時計を指して見せる。
「それはそうなんですけど」
三笠はそれを見てすぐに目を逸らした。一瞬合った目に映っていたのは明らかな焦り。それを読み取った富士の思考は疑問に取って代わられる。
(何を焦ってるんだこいつは)
三笠の目に浮かぶ焦りの原因の検討はつかない。最近は付きっ切りで見守ることもない。完全に自分の手を離れたがゆえに浮かんだ疑問だ。とはいえ、このまま放っておいてもよろしくないのは火を見るより明らかだった。
「あー……」
富士は少し大げさに後ろ頭をかいて小さくため息をつく。三笠は何を言われるのかと、どこか恐々としているようだった。ちらちらと投げられる視線に対し、富士はまっすぐに返す。
「あのなあ、努力を逃げ道にするなよ? 何を焦ってんのかは知らないけど、それは己の首を絞める行為だからな。一回逃げ道にしたらその後もずっと逃げ道になっちまうんだから。休めるときは休め」
富士の忠告に三笠は唇を噛んだ。胸の中でどこか違うと思っていたことが形を得て浮き彫りにされる。居心地の悪さはそこからじわじわと滲み出てくる。
細い月はいつの間にか厚い雲に隠されていた。
「自分を蔑ろにしたらできないことができるようになるわけじゃねーんだからさ。……納得してなさそうだなその顔」
「あ、そんなつもりは……」
否定の言葉を返す三笠だったが、その顔には「納得がいかない」とでかでかと書かれている。その正直さに思わず富士は吹き出しそうになった。普段であればきっと、三笠は上手く覆い隠しただろう。こうして表面化しているのは少なからず疲労のおかげだ。その点だけはよかったな、などと先輩魔術師は考える。
「いいよ別に。納得できなくても。でも今日は休め。さっきのクソ判断力のまま続けたって意味ないだろ。引き際は見定めて、しっかりと引くことが重要だ。帰ればまた来られるんだから、帰れるときに帰りな。ま、それでも続けたいというのなら、おれも黙って見ているわけにはいかないが」
少し厳しい口調でそう言って、富士はすっと拳を掲げた。先ほどのやり取りだけで富士が消耗しているはずもない。疲労した状態の三笠ではまず歯が立たないだろう。
ここで駄々をこねたってしょうがない。己にそう言い聞かせながら三笠はしぶしぶ頷いた。
「わ、分かりました。なのでその、拳は降ろしていただけると……」
そんな三笠が拗ねているように見えたのか、富士は先程の口調とは打って変わって少しおどけて肩をすくめた。
「冗談だって。まぁでも、マジで眠れないというのなら無理やり眠らせることもできるぞ」
「遠慮しときます」
未だ浮かない表情の三笠に富士は最後の一押しと言わんばかりにこう付け加えた。
「努力をするのと、一生懸命苦労するのは違うからな」
強い口調でそう言った後に、富士は踵を返して戻っていった。その場に一人残った三笠は静寂を噛みしめる。焦りの正体は明白であった。
昼間、突然の休みを貰った三笠は魔術式の修復を行った。それなりに消耗していたというのもあったが、もっと気になって仕方がないことがあったのだ。それは、『万葉藤』の数が減っていた件についてである。
お守り代わりに持っていたそれは、珍しく紙に魔術式を書き出していたものだ。本当に最初の頃、魔術を習い始めた頃に初めて身に着けた魔術だった。範囲は狭いが、層の厚い弾幕を張れる。しかし魔力弾のみ受け付けるという使い勝手の悪さから、保有魔力量の少ない三笠には扱いきれない代物だ。
それが、壊れていたのである。
(あの時……津和野さんはたぶん、カウンター魔術で僕の魔術を跳ね返してた)
しかし三笠、および近くにいた初瀬とその後方に控えていた友永──誰一人としてその攻撃を受けることは無かった。
(無傷だった。そうとなれば確実に誰かが撃ち返して相殺したことになる。津和野さんのアレが、見せかけのものであった可能性もあるけど……でも)
その説を否定できるだけの理由があった。カウンター魔術が発動したその直後。三笠の近くで熱い魔力が弾けたのだ。それを三笠は知っている。他でもない、初瀬の魔力だ。
そうとなれば『初瀬渚が三笠の万葉藤を使い、反撃した』ということになる。元々脆い魔術式だ。壊れたことに関しては特に考える余地もない。
(発動条件が緩い魔術、だから誤作動を起こしたと考えても筋は通る。でもそれは些事だ。一番、気にかかるのは──)
三笠が一番衝撃的だったのは。
「『万葉藤』の、最大火力だったな……。父さんの手本と同じかそれ以上、だ」
超えられなかった壁があった。お守り代わりに持っていたのは事実であるし、いつしか手本通りにできるようになるのではないか、と考えてもいた。その甘い考えをあの閃光は塗り潰してしまった。
(やっぱり、身の丈にあってないのかな)
街灯に集る虫を見る。ちらちらと燃えるように揺らぐ灯りは、あまりにも頼りなかった。




