認識は空想と現実を超越する。
投稿期間が空いてしまい申し訳ございません。これからは少しづつ戻していくつもりではあります。
短い分ですが、この世界に入り浸って頂けたら、幸いです。
そこに可哀想な子供が立っている。
ただ虚ろな目で、動かず立っている。
あなたならその子に何をしたいか。
涙を流さない、その小さな小さな子供に。
なぜ可哀想だと思うのか。可哀想だという感情はどこから、どのようにして湧き出るのか。
状況か、顔か、それとも、自身の経験からか。
人間とは、嫌なことほどよく覚える。それはなぜか。
同じ間違いを侵さないためだ。こうしたからこうされた。だから次はこうしなきゃこうはならない。
そしてそれが新しい自身の本能として刻まれていく。
だからこそ同じ人間など存在しない。
私はこのことを言いたいのではない。過去の経験がその脳に刻まれるからこそ、冒頭のような子が可哀想だと思うのだ。もし自身がその場にいたのなら
「自分も嫌だった時、こんな顔だった」
と意識せず本能が認識する。だから可哀想だと思う。
もし文面だけだとしたら、「可哀想な子が立っている」そして「虚ろな目」この2つの情報だけで自身の経験と重ね合わせ、本能が可哀想だと認識する。
「自身も嫌だった時、こんな顔だった」
と。
脳の認識とは偉大で恐ろしい。
でも、もしこのような事があなたの身に起きたのなら、本能で感じたのなら、その子を抱きしめてほしい。慰めてあげて欲しい。






