強制退国
今日もよろしくお願いします!
「目を覚ましてくださって嬉しいです、大司教様」
腕に軽く触れ、潤んだ瞳で上目遣いを強調する。
大司教は分かりやすく動揺して目を逸らした。
そう、思いついてしまったのだ。
難解なチェスターを攻略するより、国を動かす権力を持つ他の誰かを落とした方が手っ取り早いかもしれないと。
たとえば……瘴気を浄化され一時的に前後不覚に陥っている大司教など。
浄化で好感度が爆上がりするという簡単な話ではないだろうが、少なくともチェスターのような難攻不落の相手を狙うより、ずっと成功率は高いはず。
「大司教様……頬が、痛むのですよね? あまり効力はないかもしれませんが、触れれば少しは痛みも引くかと思うのですが……」
自然な流れで手を握り、さらに距離を詰める。
大司教は目のやり場に困るといった様子で、落ち着きなく視線を彷徨わせている。今や腫れていない方の頬も真っ赤に染まっていた。
「初対面の男性に、このような振る舞い、はしたないと分かっているのですが……私、大司教様の痛みを取り除いて差し上げたい。頬に触れても……よろしいでしょうか?」
「そ、そのような。私の方こそ恐れ多い……」
「大司教様、動かないで」
癒やしの力を使うため、彼の左頬を軽く叩く。
要が殴った箇所を癒やしただけなので自作自演といえるのだが、いたく感動しているようだ。
けれど大司教はすぐに己を律し、表情を厳しいものに変えた。
「カナメさん。奇跡の御業を、そのように軽々しく使ってはなりません」
「あっ、すみません、私ったら……」
「私はあなたの事情を知っているからいいですが、正体を知られればどこの誰に狙われるかも分かりません。あなたはこの世界にただ一人の、特別なお方なのですから……」
穏やかに諭され、要は真摯に受け止めているふうに俯いた。
「すみませんでした。……ですが、軽々しく使ったと思われるのは、心外です」
シワのある手をきゅっと握り、再び上目遣い。
「大司教様だから、ですよ。私にとっても、あなただけが特別だから……」
媚びを含んだ視線を送りながらも、さすがに白々しいかと心の奥で苦笑いをする。
初対面で特別と言い切られたら逆に冷静になってしまうかもしれない。
その場合の展開を頭の中でシミュレーションしていると、優しく手を握り返された。大司教は、穏健な顔立ちに情熱を乗せながら要を見つめていた。
いける。
確信した要は体が触れ合いそうな距離まで踏み込もうとしたが――なぜか体が動かない。
後ろから、猫にするよう襟首を掴まれている。
「――あなたは何をしているのですか」
恐ろしく冷えた声音に、要は首をすくめた。思惑を阻止したのはチェスターだ。
そのまま強引に、大司教と引き離される。
「申し訳ございません、大司教様。では」
「あ……」
抗議を受け付けぬ完璧な笑みで挨拶をし、チェスターはすぐ回廊を引き返す。要を荷物のようにぶら下げたまま。
「ちょっ、ねぇ……」
「何でしょう、移り気な聖女様」
ぴしゃりと不機嫌そうに返され黙り込む。
これは、かなり怒っている。大司教に色仕掛けをする場面を見られてしまったのだから、彼が嫌悪を示すのも当然だった。
けれど要にもそれ相応の理由があったのだと、せめて弁解くらいさせてほしい。
――何か少しの迷いもなく進んでるけど、これ、独房に向かってるなんてことないよね……?
チェスターが足を止めたのは、見覚えのある場所だった。聖神殿の奥、王族以外の立ち入りが許されない秘されし場所。
聖女の扉の間だ。
「えっと……チェスター?」
彼の意図が分からない。
何とか機嫌をとろうと愛想笑いを浮かべれば、心底不愉快そうに睨まれた。
「あなた、本当に何も分かっていらっしゃらないようですね」
「よく分かってるつもりよ、きっと誤解だと思うの。ちゃんと話し合いましょう」
「話し合ってどうなるというんです? 他の男を誘惑したことを許せと?」
「何よ、その嫌みな言い方。セントスプリング国の国民だから守ろうって気持ちは分かるけど、浮気をした亭主じゃあるまいし……」
誘惑とは人聞きが悪い。
とにかく要としては、大司教が瘴気に憑りつかれていたことを説明したかった。その影響で浄化石の値段が高騰していた問題は、王族である彼に委ねた方がいい。国内の権力図さえ把握していない要より、チェスターの方が解決しやすいはずだ。
といった釈明をしようとした矢先、要はぎこちなく動きを止めた。目の前の少年が、首まで真っ赤になっていたからだ。
「……え?」
わなわなと震える手で口元を覆い、要を凝視するチェスター。その琥珀色の瞳は、羞恥に染まって頼りなく潤んでいた。
要は自分が何を言ったのかを反芻してみる。
まるで浮気を糾弾されているようだというのは、冗談のつもりだったのに。
チェスターの少年らしい潔癖さが垣間見え、要まで恥ずかしくなってきた。頬の熱が伝染る。
互いに硬直したまま無言の時間が過ぎる。
意を決して先に動いたのは、要の方だった。
「……あ、あの、ごめん。違うのよ。その、誘惑してたのは事実なんだけど――……」
言った途端に、何かを間違えたと気付く。釈明のはずが思いきり地雷を踏み抜いてしまった予感。
チェスターの顔からは一切の表情が抜け落ちていた。周囲の温度も心なし下がる。
「えっと……チェスター?」
伺うように下から覗き込むと、彼は突然笑った。
天使もかくやという極上の笑みに要は戦慄する。神々しくありながら禍々しいとはどういうことだ。
「――もういいです。しばらくあなたの入国を禁じてしまえばいいことですから」
「へっ?」
彼は要の手を取ると、絆の扉に近付けた。
手の甲に鍵の紋章が浮かび上がり、扉が開く。
要は扉の向こうに現れた、次元のうねりを呆然と眺めた。聖女にしか開けられないとされていたのに話が違う。
「はっ……なっ……紋章さえあれば、聖女の意思は関係ないってこと⁉」
「フフ、どうでもいいことを気にする余裕はおありのようですね」
「何笑ってんの⁉ 怖いんだけど‼」
いつの間にかにじり寄っていたチェスターが、さらに間近で微笑みかける。要は扉の際まで追い詰められていた。
「くれぐれも、私が目を離したからといって他の人をたらし込まないでくださいね」
「ちょ、まだたらし込んでないって……!」
「まだ、ですか。あなたという方は、つくづく私を怒らせるのがお上手だ」
チェスターに躊躇はなかった。
あくまで微笑みながら肩を押され、要の体は簡単に宙を浮く。
薄暗い異次元に投げ出されるその瞬間、せめてもと叫んだ。
「浄化石の独占販売をしてる悪人達だけは絶対何とかしなさいよ―――‼」
声が届いたかは分からない。
けれど最後に見えた彼の表情は、ひどく不機嫌そうだった気がする。




