4 まじないと読みて呪(しゅ)と書きたるは
まったく、最近もの忘れが多くてやんなるぜ。なんであんな大事な用を忘れちまうのかねぇ。下手すりゃ明日にでも寮をおん出されちまうかもしれねえってのに。それに仕事が見つからなきゃおまんまの食い上げだ。若くはねえが、ボケるにはまだ早すぎるから、たぶん酒のせいだろう。それにしたってマヌケにもほどがあらあ。
どういうわけだか、思い出すのはいつも突然なんだ。おれは今日、劇場でお笑いショーを見ていた。酔いも回ってたし、バカに笑ったよ。でもなんでかな、なにがきっかけかわからねえが、不意に”生活課に相談してねえ”って思い出して、そこからはもう劇の内容がひとつも頭に入らなかったよ。冷や汗かきっぱなしだった。
ヤベぇ、行かなきゃ、って思ったよ。だけどあんな大喧嘩した日にのこのこ顔出すわけにゃいかねえから、もうその日は諦めて後日顔を出すことにした。マナも日を跨げは少しは冷静に話せるだろう。あいつは口は悪いが、仕事はしっかりやる娘だからよ。
おれは軽い夕飯を食ったあと、ふだんあまり顔を出さない静かなバーに飲みに行った。いつも行くみんなが酒飲んでバカ騒ぎするようなところじゃなく、カウンターでマスターと向かい合って、しゃれたカクテルなんかをちょびちょび口つける、キザな男が女を連れ込むようなあのバーだ。本当は酒場がいいんだが、なんせ追放初日じゃどうも顔を見せにくくってよ。それにたまには静かに飲むのもいいと思ったんだ。今日はもう十分飲んだしな。こんな日はふだん飲まない甘くてカラフルな酒を飲むのも乙ってもんだ。
幸運にもおれはそこでニドネルと出会った。薄ぼんやりとした照明のカウンターでひとりきり、ちんまりした酒を前にナッツをつまむ姿は、おれなんかと違ってバーがよく似合っていた。
「となり、いいかい?」
おれが後ろから声をかけると、
「やあ、ゴリじゃないか。ひとりで退屈してたところだよ。話し相手になってくれ」
と言われ、おれはでかい図体をなるべくうるさくないよう椅子に座った。
「邪魔するぜ」
「しかしめずらしいね。ここでゴリを見たのははじめてだ」
「たまに来るんだ。ふだんは酒場だよ」
「そうかい。わたしは若い娘と話すのがたのしみでよく来るんだが、今日はだれもいなくてね。そろそろ酒場にでも顔を出そうと思ってたんだ」
「ははっ、相変わらず若いねぇ」
「こいつが枯れたら男はおしまいだよ。わたしはまだまだ君たちより若いつもりだがね」
「まったく、尊敬するよ」
冗談っぽく言ったが、おれは本当にニドネルを尊敬している。このひとは元探索者で、食い扶持よりも探索に人生を賭けていた。未知の世界、壁の謎、不思議な動植物、そんなロマンを追い求めて調査団に潜り込んだ。しかし四十を越えたあたりで肉体に限界を感じ、やむなく引退。それでも壁の向こうに対する探究心が捨てきれず、どうにかギルドに就職して、現在”環境調査課”の長を務めている。
むかしから朝が弱く、いまなおギルドに重役出勤しつつもクビにならないのは、このひとの把握能力の高さが認められているからだろう。数えきれないほど”向こう”に潜り、実際の風景が頭に刻み込まれているうえでまとめられた地図は、上空から実際に見て書いたんじゃないかと思うほど精刻を極めている。そしてこのひとは山ほど受け取る報告から現在の状況を想像し、予測する。それがほとんどぴったり当たるんだ。
おれがこのひとと会って幸運だと思ったのは、そんなニドネルの話を聞けるからと、もしかしたら追放後のことを訊けるかもしれないと思ったからだ。
ありがたいことに寮の退去についてはすぐに教えてもらえた。自主退団とおなじく報告の翌日から数えて十五日間猶予がもらえる。それまでに私物を運び出せばいいとのことだ。しかしベッドやクローゼットのない部屋に入居するとなると、だいぶ金がかかりそうで困るなぁ。
できるだけ早く仕事を決めなけりゃならない。なにをすべきかと悩むおれに、ニドネルは、
「大工なんかいいんじゃないか?」
と言った。
「ゴリは力もあるし体力もありあまってる。給料がいいから酒も飲めるし、君のバカ力を有効活用できて条件のいい仕事はこれ以外ないだろう」
「そうかなぁ」
おれは、おれには小さすぎる酒のグラスをつまみ、言った。
「猟師か軍人なんかいいんじゃないかと思ったんだが。おれはモンスターとの戦いで剣もこなれてるしよ」
「それは無理だな」
「どうして?」
「いまは牧畜が発達してるから狩猟は需要が少ないし、害獣駆除は調査団がこまごま契約してるから空きがない。軍人は、まず君の性格が向いてない。君はひとを殺すにはやさしすぎる。そもそもどの国も”向こう”に夢中で戦争なんか起きそうもない」
「おれみたいな元極悪少年でもか?」
「君はどれだけ暴れても限度を知っていただろう」
まあ、たしかにおれは人殺しだけはしたことがない。それに相手を痛めつけるときも決して急所だけは狙わなかった。前歯がごっそりなくなっちまったヤツはいたけどよ。
「悪いことは言わないから大工にしときなよ。それか、金払いのいい力仕事あたりにね」
「そうだな……」
「明日マナに会ったら話しておくよ。あの娘はすごく仕事のできる娘だし、君のためなら全力でいい仕事を探してくれるはずさ。もしかしたらギルドのルールを破って一戸建ての寮まで見繕ってくれるかもしれない。そのときはたぶん、あの娘も一緒についてくるだろうけどね」
「そりゃありがてえ。あんたが出勤する前に朝一番で行くよ」
「ははは、あんなにかわいい娘がいやなのかい?」
「バカ言わねえでくれ。あいつはちっと口が悪すぎらあ」
「じゃあ口が悪くなかったらいいのかな?」
おれはそう問われ、返事に困ってしまった。考えたこともなかった。なんせ妹みたいに思ってたし、あいつの言葉遣いが直るなんてこたァありえねえからな。
ニドネルは落ち着いた笑みでおれの沈黙を眺め、やさしく諭すようなトーンで言った。
「なんでまた、今回はキレちゃったんだい?」
おれはバツの悪い気持ちで答えられず、飲むでもなくグラスをつまんだ。
「いくら追放されて気が立ってたからって、君ならあの娘にあんなこと言わないだろう。それに、酒場以外じゃ騒がないはずだ。なにかあったのかい?」
おれはボソリと言った。
「母さんをバカにされて、つい、よ……」
「どっちの?」
「おれの母さんはひとりしかいねえよ」
「……そうだね。そうだった」
そうだ。おれの母さんはひとりしかいない。あんなの母親じゃねえ。タチの悪い雌犬だ。犬みたいに盛って、たまたまおれを孕んだだけで、間違っても親なんかじゃねえ。
「あの娘はいい子だよ」
ニドネルは自分の娘か孫でも思い浮かべるようにニコニコ言った。
「仕事はマジメだし、家事もできる。なにかと細かいことも気が効くし、あの娘が奥さんになったら旦那はさぞ快適だろうね」
「おいおい、おれはお断りだぜ」
「けっこう似合いの夫婦だと思うけどね。あの娘があの年で結婚しないのは、君が理想の男性で、君以外見えないからだよ。荒くれ者たちの中で育ったあの娘は、荒くれ者が父親みたいなもので、自然と理想の男性像が君になったんだ。君は荒っぽいけどとてもやさしいからね」
「おれは極悪だぜ?」
「そういう飾らないところがいいんだ。あの娘はいい目をしているから、うわべだけ飾りつけた好青年なんかより、そのまんまでいる君のやさしさがわかるんだ」
「よ、よしてくれ」
おれは甘いカクテルを味もわからずひと口で飲み干した。ほめられるのは苦手だ。なんだかそわそわして痒くなる。バカにされてる方が気が楽でいい。
ニドネルはおれが照れてるのを見てなおうれしそうに微笑んだ。
「まあ、君もマナも同じようなものさ。君だってあの娘とおんなじで母さんみたいなひとが理想なんだろう? 似たもの同士、お似合いじゃないか」
「そう言われてもなぁ」
おれはどうにも困ってしまった。だって、あいつと結婚なんて考えられねぇ。別にきらいってわけじゃない。ただ口汚いのは勘弁だし、やっぱり妹みたいに思っちまう。
それに、マナやニドネルが言うように、おれは母さんのようなひとと一緒になりたいんだ。マザコンと言われてもしょうがねえ。だって、おれは母さんに救ってもらったんだ。あんな救いようのないおれを、おれがどんなに酷いことを言っても、やさしく、あたたかく包んでくれた。そんな母さんみたいなひとを求めちまうのはしょうがねえじゃねえか。
おれが困っているのを察したのか、ニドネルは冗談めかして言った。
「ははは、すまないね。この年になると独身者をくっつけたくなるもんでね。ジジイのたわごとさ。わたしも歳をとったねぇ」
それからニドネルは話題を変え、最近なにを食ったらうまいだの、外国にはこんな酒があるだの、たわいもない話をした。だいぶ時間が経ち、おれはまだ飲んでいくと言うニドネルに別れを告げ、寮に戻ることにした。
外に出ると漆黒の空一面に星がまたたいていた。雲ひとつない空に、まん丸のお月さんがふんわり輝いている。風がないから、ほどよく冷えた夜の空気が、酒で火照った体に心地よい。
そうだ、あそこに寄って行こう。
おれは街の外れにある森の広場に向かった。そこはこの季節になるといろんな花が咲いて、いいにおいがするんだ。周りは木が生えてるのにそこだけいい具合に草っ原になってて、こんな日に寝そべって星を見ると、日々の疲れを忘れて酒を飲むより癒される。おれみたいなごつい男が似合わねえか? いいじゃねえか。こう見えてロマンチストなんだぜ。
おれはまだちらほらと喧騒の残る夜の街を抜けて、町外れの森へと足を運んだ。ここまで来ると盛り場の声も灯りも届かない。月明かりと夜のにおいだけが音もなく空気を満たしている。しっとりと濡れたような静けさが、闇の怖さを消し去ってあたたかく感じる。
いいなぁ、今夜は。
そう思ったときだった。おれは、広場の方からなにやら騒がしい声を聞いた。
——いいじゃねえか、減るもんじゃねえしよ。
——そうだそうだ、女が夜遅くこんなところにひとりでいるのが悪いんだ。
——なあもうやっちまおうぜ。ここなら大声出してもだれも来ねえよ。見ろ、おれのここはもうこんなに腫れちまった。早く膿を出さねえと。がははは。
——やめなさい。それ以上近づけばただでは済ましませんよ。
——ほう、ただじゃ済まねえってか。女の細腕で、おれたちにどうただじゃ済まねえってんだ。へへ、へへ、へへへ!
おれは事態を理解した。瞬間、燃えるような怒りを覚え、全力で駆け出した。女が襲われてやがる! それも複数の男に!
「やめろぉクソッタレ!」
おれは大声で怒鳴り、無我夢中で走った。女を傷つけるヤツは許さねえ! 女を踏みにじるヤツは許せねえ! なんでか知らねえけど許せねえんだ!
おれは荒い息とともにお気に入りの広場に飛び出した。見ると、草原の真ん中に女がひとり、それを囲うように男が三人立っていた。
「なんだ、ひとりか」
悪党のひとりがへらへら笑いながら言った。
「しかも空手だぜ」
ヤツらは腰にくくりつけた鞘から剣を抜き、じわりと殺気をにおわせた。威嚇か、殺すつもりか。まあ、おれは戦うつもりだからどっちだって同じことだ。
おれは懐にナイフを忍ばせているが、向こうは戦闘用のソードを三人とも持っている。ふつうなら勝てっこねえな。ふつうなら、な。
でもよぉ、おれは壁の向こうでバケモノどもと十八年戦って生き残った百戦錬磨のつわものだぜ? 男三人? ナイフ対ソード? 話にならねえな。ヤツら悪党らしくそれなりにいい体しちゃいるが、所詮は人間だ。弓矢でもありゃ話は別だが、ふつうのクマより小せえし、遅えし、力も弱い。こりゃあハンデが必要だな。
おれは悠々と闊歩した。まるで隙だらけで、手にはナイフなんか持たなかった。
「おい、これが見えねえか」
悪党がギラリと剣をきらめかせた。おれは余裕たっぷりに笑って見せた。
「見えてるさ。牙を持たねえ弱者どもが、牙を持ったつもりで吠えてやがる」
瞬間、男たちからぶわっと殺気が溢れるのが見えた。実際に目に見えるわけじゃない。ただ、空気がそう感じた。獣はみんなそうなる。感情の制御ができないケダモノは、体ぜんぶの毛が逆立って、煙みたいに殺気を振り撒くんだ。くっせえくせえ、掃き溜めみてえなにおいのよ。
「いのちがいらねえみてえだな!」
激昂したひとりが待ちかねたように飛び出し、けさがけに剣を振り下ろした。
考えなしのひと振りか。なるほどチンピラだな。三人に連携されりゃおれも不利だったのによ。
おれは素早いフットワークで相手の懐に飛び込み、顔面のど真ん中に拳を叩き込んだ。おれは悪党相手なら容赦はない。目玉だろうがキンタマだろうが打ち砕く。こっちもいのちがかかってるしな。
空を切った刃が草の大地にトスっと落ちる音を背後に、おれは二発、三発と拳をぶち込んだ。さっきのような咄嗟の一撃じゃない。しっかりと力を込めた、巨岩を凝縮したような必殺拳だ。当然相手は倒れて動かなくなった。
「ヤロォ、よくも!」
残りのふたりが血走った目で突っ込んできた。はっ、いまのを見て相手の力量もわからねえようじゃこの先長くねえな。三人もいりゃ、ひとりくらいできるヤツがいるもんだけどなぁ。
おれはふたり目をひとり目とほとんど同じ容量で片付け、最後のひとりは腹めがけて突きを狙ってきやがったから、スッと体をかわして、伸びた腕を脇に抱え込んで動きを封じたところで三発ほど頭突きをかましてやった。
しかしこいつはなかなか根性のあるやろうで、まだ倒れねえから、おれはうれしくて見逃してやることにした。
「てめえ、この二匹の雑魚を連れて帰れ」
悪党はとても素直にうなずき、ふらふらの足で片付けをしていってくれた。あいつはなかなか見どころがあるな。こんど会ったら飯でもおごってやろう。
おれは街の方に消えゆくクソどもを見届けながら、背中越しに女に言った。
「大丈夫かい? 怪我はねえか?」
「はい、ありがとうございます」
「そりゃあよかった」
おれは言いながら振り返った。月光に照らされた女は濡れたカラスみてえに黒い髪で、肌は灰色に近い褐色、鷹のような鋭い目をしており、肩から足首まで黒い一枚の布でできた服を着ている。
あら? どこかでみたような……
「あっ!」
「えっ?」
「あんたは生活課で会った……!」
「……ああ! あなたは童貞で巨乳好きのお方」
ち、ちょっと待ってくれ! なんだその覚え方は! つーかそれ本人の目の前で言うか!? ほかに言い方ってもんがあるだろう!
「その言い方はやめてくれ! おれは別に巨乳好きってわけじゃねえ!」
おれは必死に否定した。しかしこの女は澄ました笑顔で、
「あら、別に巨乳が好きなのはおかしなことではありませんよ。男のひとはそういうものですから」
「いや、そうだろうけど、そうじゃなくて……」
「では、合っているのは童貞だけと」
「そうだ。あ、いや違う、いや、えっと……」
お、おれはなにを言ってるんだ! なんで肯定する! そりゃあおれは童貞さ! でもそこうなずく必要ねえだろう! つーかこいつもなんでそこを確かめる! ああ、ちくしょう! そのうえこの女は、
「あらもったいない。そんな立派な体で子孫を残さないのはよくありませんね」
なんて返事に困るフォローを入れてきやがった。おれはもうどうしていいやらでタジタジしちまったよ。おれ、この女を暴漢から救ったんだよな……? それがなんでこんな会話してんだ?
女は困惑するおれを見てフフフと笑い、あらためて言った。
「それにしても助かりました。あのままでは死人が出ておりましたから」
「あ、ああ。まあいいってことよ……」
なんか変な言い方だな。あんた殺されそうだったんじゃなくて犯されそうだったんだろ。さっきっから会話の内容も変だし、こいつ、頭ぱーぱーか?
「助けてもらったお礼をさせてください」
「礼? いらねえよ。あんたが無事だっただけで満足だ。おれァ無欲な男でね」
「いいえ、させてください。これも縁ですから」
「縁?」
「日中顔を合わせたあなたと夜また会いました。それも、この場所で。きっとさだめの導きにほかなりません」
な、なんだ? さだめのみちびき?
たしかに奇遇だとは思うよ。そう来るわけじゃないこの広場に、ちょうど女が襲われてる時刻に唐突に行きたくなって、その女が昼間会った女だった。運命とか言いたい気持ちもわからなくねえ。しかしよ、ふつうそんな変な言い方するか? それもほぼ初対面の他人に。
……そういやこの女、なんでこんな夜遅くに森にいるんだ?
女はそんなおれの疑問を見透かしたかのようにフフフと笑った。
「わたしはメイ・シュカケールと申します。あなたは?」
「おれはゴリだけど……」
「ゴリさん、どうかわたしに助けてもらったお礼をさせてください。このままではわたしの気が済みません。どうか」
メイとかいう女はそう言って深々と頭を下げた。ううむ、そこまでされちゃ断りにくい。めんどくせえし、受け取っておくとするか。その方が向こうも気が楽だろうしな。
「まあ、そこまで言うならよ」
メイは涼しげに顔を上げた。
「よろしいのですね」
「ああ」
「わたしはあなたにお礼をしてよい、ということですね」
「そういうこった」
……やっぱ変な女だな。わざわざ確認することか? どうせ多少のゼニを渡すくらいのことだろうに。なーんかいやになってきたな。助けるんじゃなかったか?
「ゴリさん、こちらへ」
メイはおれの目をまっすぐ見て、ひら、ひら、と手招きした。いやに蠱惑的な目だった。蜜のように甘く、しかし毒蛇のように禍々しい目をしていた。なにか、恐ろしい。ひとじゃないなにかと話しているような気がした。
まさか……おばけじゃねえだろうな?
「どうされました?」
「あ、いや別に」
おれは愛想笑いして前に出た。なに考えてんだろうなおれ。おばけなんているわけねえよ。あんまり変なヤツだからついバカなこと考えちまった。どう見たって人間じゃねえか。そもそもおれには霊感なんてねえしな。
おれが前に立つと、メイは目だけ動かして背の高いおれを見上げ、言った。
「わたしは、あなたのようなすばらしい男性が、女も知らず、子も成さないのは本当にもったいないと思うのです」
「はぁ……それで?」
「女を知りたい、子を成したいとお思いでしょう」
「そりゃあまあ、おれだって樹の股から生まれたわけじゃねえからな。いいひとがいりゃ是非ともお願いしたいが…………え?」
メイはにんまりとし、ウフフフ、と笑った。おい、まさか礼ってのは”それ”か!?
「ま、待て! それはダメだろ! おれはあんたの体を守ったんだぜ! 本末転倒じゃねえか! そりゃあんたみたいな美人が相手ならたァ思うが、そういうのはなんつうか、結婚して、愛し合って、そんではじめてするもんで、そんなお礼にどうとかするもんじゃ……」
——クス、クス、クス。
「いいえ、違いますよ。わたしも初対面のひとと、なんて思いませんから。わたしがするのはおまじないです。あなたがステキな女性とそうなるように、と」
「え? あ、そ、そう。ならいいんだけどよ……」
はぁ、びっくりした。なにを言い出すのかと思ったぜ。まあそりゃあ、そんなわけねえよな。
そうだった、こいつは変な言い回しをするヤツなんだった。言葉の流れがそんな感じだから勘違いしちまったぜ。ほんのちょっぴり残念な気もするけど、それはだって、なあ、男ならしょうがねえや。こちとら童貞なんだぜ。まったくヒヤヒヤさせやがって、ちくしょうめ。
しかし、お礼におまじないって本当に変な女だな。おれだったら金とか酒とかメシをおごるとか、そんな感じにするけどなぁ。それとも女ってのはみんなおまじないを信じてて、本気でそういう礼の仕方するのか? おれは女心なんてさっぱりわかんねえからよ。今度マナにでも訊いてみるかな。
「それでは……」
メイは半目になり、胸の前で両手を変なふうにからませ、おまじないとやらをはじめた。
うわぁ、本気でやってやがる。ポーズまでキメてノリノリじゃねえか。なんて言ってるかはわからねえが、異国の言葉を唱えてやがる。低く響く声で、抑揚のない歌でも歌うみてえに一定のリズムでほんにゃらかんにゃら言ってやがる。こんなヤツがいるなんてこの世は実におったまげだぜ。
三十秒から一分くらいか。メイはおまじないを終え、半目を解いた。
「終わりです」
「そうかい」
おれは、やっとか、という思いを吐き出すように言った。早く帰りたくてしょうがなかった。これ以上こんな変なヤツに構ってられるか。
「それじゃあ帰ろう。危ねえから送ってくよ。またさっきみてえな悪党と会うといけねえ」
「いいえ、わたしはまだここにいます」
「おいおい、こんな夜の森にひとりで大丈夫か?」
「はい。心配入りません。わたしはここで月を見ています」
メイは月を見上げ、言った。
「ここは月の光の濃いところですから」
「……そうかい。じゃ、気をつけてな」
おれは挨拶も短く足早に立ち去った。本来なら夜道に女を置いていくなんて絶対にしないが、今日は別だ。疲れちまった。第一、本人がいいって言ってるんだからいいじゃねえか。
……しかし、おまじないねぇ。あの女、本気でそんなもの信じてるのかねぇ。国や地域で信じる神は違うし、おれたちの信じる神もよそから見りゃどう思われるかわからねえから、頭ごなしにバカにするのもなんだけどよ。したってお祈りしただけですべてがうまく行きゃだれも苦労しねえやなぁ。
まったく今日は散々な日だった。きっと生涯に一度あるかないかの厄日に違いねえ。明日っからはいい日になるといいけどなぁ。ホント、今日は疲れたぜ。