12 烈火撃滅
妙に静かだった。
明らかな殺意を目に溜める猛獣たちは、おれたちを取り囲んだまま、息遣いさえ静かに、炎の揺れる音だけが辺りを支配していた。
長年の経験でわかる。ヤツらは必殺の間合いを探っていた。野生ってのは人間と違って常にいのちがけだ。ささいな日常のミスが常に死を招く。
だから油断しない。だから間違えない。確実に、味方の死傷者を出さずに敵を一撃の元に伏す。
その呼吸だった。
おれは逡巡していた。どう攻める。どうすれば非戦闘員が攻められない。敵はどう攻めてくる。
考えたってわかるもんじゃねえ。でも、間違えたら死ぬんだ。少なくとも戦う力のない者はただじゃ済まねえ。
そんなときだった。
「お前ら、もう少しマナを見習ったらどうだ」
そう言ってクユリが細い煙を吹いた。なにを、と思いマナを見ると、こいつおれの後ろであくびしてやがった。
「お、お前、よくそんな悠長でいられるな」
「ああん? 言ったろ、てめえを信じてるって。あんなクソども怖くなんかねえよ」
はあ、おれにはその感覚はわからねえ。お前襲われたら即死だぜ? いったいこいつのなにを見習えってんだ。
その疑問に答えるようにクユリは言った。
「余裕を見せるくらいでいいんだ。喧嘩は気を呑まれた方の負けだろう。お前らビビりすぎだ。それでは攻め入られるぞ」
おれはハッとした。なるほど、違えねえ。内情を知っているおれからすればこの状況は危機だが、知らないヤツが見れば話は変わる。弱そうな女が呑気にあくびこいて、戦闘中だってのに余裕でたばこふかしてるヤツまでいて、窮地と判ずるには難しい。もしマナがビビっていたり、クユリが身構えていたら、とっくにヤツらは猛攻をはじめていただろう。だが、敵はこちらに戦えないヤツがいることを知らないんだ。
アシクも納得したようで、
「なるほど、気を呑めば敵は萎縮し、気を呑まれれば敵は勢いづく。こころの在り方ひとつで数人の兵士が万の軍勢を退けたという話を聞いたことがある。敵に”強い”と思わせれば幻影を投じるというわけか」
と言って肩の力を抜いた。”余裕”というかたちの幻影だ。ブラフと見破られなければ、この姿は安堵と映る。すなわち敵にとっての危険と言っていい。
しかし全員がそんなまねできるわけじゃない。アラトはなんとかぎこちない笑顔を作ったが、オーキーズの残りふたりは硬くこわばったまま震えていた。頭でわかってもできることじゃない。目の玉に針先を近づけられれば無意識に目をつぶってしまうように、いまはそんな状況だ。おれだって肩が張ってやがる。
そして緊張は、やがてじわじわと伝わる。
三匹の鹿が、じり、じり、と荷車に近寄った。こちらの穴に気づきはじめたのだろう。恐る恐るだが、間を詰めてきた。炎をより激しく燃やし、より強さを誇示した。
その圧力で新人ふたりがさらに濃く怯えた。それは、たとえるなら、井戸に石を落としてその反響音で深さを探るようなことだったろう。鹿どもの歩みが早くなった。
ヤツらは体格差というものを知っている。体重がイコールパワーになることをわかっている。リーチの長さは見るまでもない。そして、待つことの不利、先んじることの強さを理解している。
炎が激しく猛り、いよいよ、というときだった。
「フーッ」
クユリがたばこを強く吹き、腰のものに手を添えた。瞬間、ビタリと鹿が硬直した。
なぜ?
答えは背中にあった。おれは、クユリの背中からすさまじい殺気が立ち昇るのを見た。空間が黒く歪むような恐ろしいプレッシャーだ。
おれは直感した。
——きっと”あの目”をしている。
そう、あの目だ。クユリとはじめて会ったときの、ヤニ切れで殺意が剥き出しになっていたときの眼差しが、三匹の猛獣を足止めしている。
きっといまごろ鹿どもの目は左右に目まぐるしく揺れていることだろう。その証拠に前脚が小刻みに足踏みしていた。
勝負がはじまったのはそのときだった。
「ゴリ!」
マナが叫んだ。
おれの背後に風が吹いた。熱を伴う火炎の突進。おれのよそ見を突いた咄嗟の差し込みだ。
おれは叫びとともに振り返り、角を剣で打ち払った。先の一匹と違い、スピードが乗っていない奇襲だったおかげで、おれは押し込まれず払い除けることができた。
とはいえ巨体の一撃だ。半端な衝撃じゃねえ。もしおれの剣がふつうのロングソードなら正面から受け止めるなんてことは不可能だろう。
特に語る必要なんてなかったから言わなかったが、おれのソードは少し太く、厚みがある。そのうえ使っている金属が鉄よりはるかに重いらしく、だいたい大人ひとり分くらいの重さがある。
これを自在に操る筋肉で全力で振り抜いて、はじめて鹿の突進を止め得る。間違っても並の筋力と並の剣でおなじまねをしちゃならねえ。剛は柔で返すもんだ。
鹿はやや後ろに下がり、ジャブのような細かい突きを繰り出してきた。打撃は与えられずとも、火が燃え移ればそれだけで致命傷になる。
そして敵は連携を知っていた。
いままで動かなかった二匹が一挙に並走し、おれの側面を狙った。
これはかなりまずい。敵はひとりずつ消していく腹だ。しかもこれは、いまおれと対峙している鹿を複数で攻めさせない守りも含めた一手だ。
アシクじゃ突進は防げねえ! どう動く!
と思ったそのとき、
「やらせないよ!」
荷車の近くにいたクゥが飛び出し、二匹の正面へと駆け出した。
「ダメだ、受けるな!」
おれは咄嗟に叫んだ。おれでやっと一匹止められるのに、女の体で二匹も止められるはずがねえ。だが、
「まあ見てなって!」
クゥはこともあろうにそのまま突っ走った。向かうは二匹の中間。鹿どもはそれを仕留めようと幅を狭め、ほぼ完璧な攻撃壁が迫った。それを、
「はぁっ!」
クゥは両の斧を上から叩きつけるように角に当て、それを踏み台代わりにして飛び越えた。
まるで曲芸だ。しかしその成果は単なる見せ物と違い、たしかな防衛を果たした。背後に向かって飛んだクゥを追って振り返った二匹は互いの角をぶつけ合い、足を止めた。
「あっははは! このクゥ姐さんがこいつらを引きつけておくから、あんたらはさっさとそいつを仕留めちまいな!」
クゥは二匹の周りを不規則に駆け、翻弄した。一瞬も足を止めることはなく、右に走ったかと思えば左に駆け、常に鹿の正面を避けた。鹿としては角を向けなければ攻めも守りもできないので無視することができない。放置すれば背中を叩かれることはわかっている。
はじめての探索とは思えない動きだ。たったひとりで二匹もの鹿を釘付けにするなど、そうできることではない。さすがは乱戦遊撃を得意と言っただけはある。
いい状態を作ってくれた。いまなら目の前の鹿を叩ける。
「アシク! まずはこいつを——」
と言いかけたときだった。
——わあっ!
荷車の方から悲鳴が上がった。足踏みしていた三匹が動き出した。声を上げたのは新人ふたりだった。
一匹はクユリへ、もう二匹はアシクに向かった。敵は既に新人を数に入れていないのだろう。野生というのは判断が早く、こと戦闘に関してはとくに早い。とにかく多対一にさせない腹づもりが見えた。
しかし、おれの出会った女たちは只者じゃなかった。
クユリはふらっ、と揺れるように前へ出た。そしてまさに鹿の直撃を受けようというとき、
——ギャリッ!
と硬い音が響いたかと思うと、鹿がクユリの横を駆け抜けていった。
クユリはいつの間にかキセルを口だけでくわえ、カタナを振り抜いた姿になっていた。そしてなにごともなかったように煙を吐き、
「まず一匹」
と言った。直後、走り抜けた鹿は複雑に伸びた角を何箇所もバラバラに断ち切られ、さらにあごのところから頭をスッパリ切り取られてズシャリと倒れた。
これが人間の業かよ、と思った。おれは戦闘中にあの硬い角を切るのをはじめて見た。それも突進を受けながらだ。こいつをはじめて見たとき”達人の気配だ”と思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。
ようやく一匹を仕留めた。だが敵の攻撃は続いている。突進していた二匹は音に驚きやや歩調を緩めたものの、依然アシクに向かっていた。
アシクは過去なんども鹿狩りに参加している。危険だが、あいつなら避けられるはずだ。と思ったそのとき、
「加勢します!」
アラトが一匹を請け負おうと飛び出し、アシクに並んだ。
「バカ、逃げろ!」
アシクは叫んだ。この状況はふたりいたところでどうなるものではなかった。むしろ、ひとりの方が身軽で対処しやすかっただろう。だがそんなこと新人にはわからない。あいつは善意で加勢したはずだ。
アラトにも、アシクの叫びで伝わったらしい。しかしもう距離がない。まずい、このままじゃ……!
「くそっ!」
アシクはやむなく横に飛び退き、突進から逃れた。だがアラトはおれのまねをしようと、正面から剣の腹で直撃を受けた。
「わあっ!」
ガキンっと金属音が跳ね、アラトは頭上高くフッ飛ばされた。さすがに期待の新人だけあってガードの位置は正確だったが、衝撃で剣を手放し、背中から大地に落下した。
うあ、と声にならないうめきを上げ、アラトは身をよじった。背を強く打って動けないらしい。当然、敵はそのまま突っ込んでいった。
このままじゃアラトは串刺し火だるまになっちまう! だが、ここを離れればマナが危ない。クユリがこっちに向かっているが間に合わない。
どうする!?
「うおおおおお!」
おれは剣を捨て、目の前に対峙する鹿の角を握りしめた。
手のひらが焼ける! 痛みで叫びが止まらねえ! だが! 仲間が危ねえってのにそんなこと気にしてらんねえ!
「んがああああ!」
おれは渾身の気迫で筋肉を爆発させ、全精力を込めて鹿をぶん投げた。体中の血管が破ける音が聞こえる気がした。鹿は浅い弧を描き、狙い通り、突進中の鹿の横っ腹に直撃した。
崩れ落ちる猛獣二匹、そこにアシクがすかさず追撃し、息途絶えた。
「アラト無事か!?」
アシクは先ほど避けた鹿に剣先を向け、叫んだ。
「見てくる!」
おれはそう叫び返し、剣を握ろうとした。が、
「痛でえ!」
おれの手のひらは真っ黒に焼け、ものを掴めない状態になっていた。もしいま攻められたら……そう思うと顔じゅうから汗がどっと噴き出た。
が、すぐにクユリがおれとマナへの道を塞ぐように立ちはだかり、
「待たせたな、バカ力」
と、キセルをしまい、カタナを抜きっぱなしで言った。やはり、”あの目”をしていた。こわい目だが、味方となるとこれほど心強い目はない。おれはひと息で安堵した。
「ねえ、こっちも加勢してくれない? そろそろ走るのも疲れてきたんだけど!」
先ほどからずっと二匹を翻弄し続けているクゥが、笑っているような焦っているような顔で言った。鹿の背や尻に切り傷が見えるから、いくらか斧を振るったんだろう。しかし致命傷を与えるには状況が悪すぎた。そこに、
——ビュッ!
と矢が飛び、一匹のひたいの中心に突き刺さった。だれが? と思い矢の射られた方を見ると、いつのまに地上に降りていたのか、ソネが弓を手に、腕を伸ばしていた。
そうだ、そういえばソネは森の民族だった。あいつらは狩猟民族で、弓矢は得意中の得意だ。
ソネに射られた鹿はキイイっと鳴き声を上げ、首をもたげた。そこをすかさずクゥが、
「ナイス!」
首を切り飛ばした。さらに残った一匹に、
「あっははは! 一匹なら、こうだ!」
クゥはいちど深く身を沈めたかと思うと、いままでより一段と疾い動きで真正面から猛攻を仕掛けた。踊るように回り、両手の斧がぐんぐんスピードを増していく。斧の重みに速度が加わり、鹿の角は斜め上に打ち上げられていき、とうとう首が真上を向いた。
直後、斧が真一文字に走り、鹿の喉笛がざっくりと割れた。鮮血が吹き出し、悲鳴を上げる間もなくどっと横に倒れた。
「はい、一丁上がり! これで終わりかい?」
「まだだ! あと一匹いる!」
「どこに?」
「どこにって……」
おれはアシクを襲った一匹のいた方を見やった。
だがそこにもう鹿はいなかった。かわりに遠く樹々の向こうに走り去る一匹の後ろ姿が見えた。
ああ、やっと終わった。長い戦いだった。実際にはほんの十分にも満たない短い時間だが、おれの体内の時計は激しい緊張で狂っていた。
っと、そんなことより、
「アラト!」
おれは急ぎアラトの元に駆け寄った。アシクもすぐに走った。
「大丈夫か!?」
「ご、ゴリさん……」
アラトは弱々しくも体を起こした。よかった、無事だった! 本当によかった!
「……アシクさんは大丈夫ですか?」
「おれはなんともない。それよりお前だ。大丈夫か?」
アシクはアラトの肩をつかみ、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
「はい、少し痛むけど大丈夫です」
「そうか……」
アシクは憑きものが落ちたように安堵し、肩から崩れた。が、すぐに怒りの面相を呈し、
「バカやろう! 他人は二番だって教えただろ! 素人同然のお前が出たところでなんになる! もう少しで死ぬところだったんだぞ!」
アラトの肩が飛び跳ねた。おれは慌てて、
「まあまあ、無事でよかったじゃねえか。まずは無事終わったことを祝おうぜ」
「無事じゃねえ! いいかアラト! お前が突っ走ったせいでゴリの手は丸こげになっちまったんだぞ! こいつが鹿を投げ飛ばさなきゃお前は間違いなく死んでいたんだぞ!」
「あ……」
アラトはおれの手を見て、じわり、と目を潤ませた。おれの手のひらは見るも無惨で、ちょっとした焼肉だった。おれは笑って、
「いやあ、相手が鹿で助かったぜ。ツルギオオカミだったらスパッと斬られちまったわな。あっはっは」
「ご、ゴリさん……ぼくのせいで……こんな…………ごめんなさい……ごめんなさい……!」
アラトはボロボロ涙をこぼし、膝立ちのおれに抱きついた。
おいおい、よせよ。おれはしみったれたのはきらいなんだ。いまは勝利を祝おうぜ。つうか男のくせに泣いて抱きつくなんて、顔だけじゃなくてやることまで女みてえなんだな。まったく、ホント、無事でよかったよ。泣け泣け。泣けるってことは生きてるってこった。よかったよかったよござんした。
とりあえずこれで仕事の半分は終わりだ。あとは獲物を荷車に積んで、無事に街まで帰るだけだ。まあ、アシクとクゥ、クユリがいればよほどのことがなきゃ大丈夫だろう。
しっかし痛ってえなぁ。こんなに痛い怪我は久しぶりだ。それに両手が使えねえとなるとずいぶん不便だ。しょんべんするときどうしようか。実は少しばかしもよおしてるんだ。
ズボンを濡らすか? それか、なにか方法は………………ない。
ど、どうしよう……!
おれは人生最大のピンチを迎えたのであった。




