ビー玉をあの子に
グッ
ポン!
シュワァ――
飲み口からあふれそうになる瓶ラムネの泡を、少し尖らせた唇で受け止める。ビー玉を中に押し込んだ後に、玉押しをそのまま押さえつけていれば泡は収まるけれど、そんなことをせずに、わざとあふれさせるのが好きだった。
水色の狭い飲み口からちびちびラムネを飲んでいると、炎天下で火照った体が内側から冷やされて気持ちいい。ミンミンシャンシャンと街のそこかしこから聞こえてくるセミの合唱も、ラムネを飲んでいる間は夏の風物詩だなと穏やかに受け入れられた。
「あーっ! またそんな飲み方してる!」
俺が夏を満喫していると、セミよりうるさい女が後ろから現れた。日陰にいるのに、全身がかあっと熱くなる。
「陽太、何度も言ってるじゃない! ラムネがベンチに付いて汚れるから、泡をこぼさないとか、ハンカチで拭うとかしろって何度も注意してるでしょ!」
「べ、別にいいじゃん。この飲み方が好きなんだし」
「そんなの関係無いわよ! 同級生だろうがお客だろうが、うちのお店を汚す奴は許さないんだから!」
眉を吊り上げながら、駄菓子屋〈葉月商店〉の一人娘であり、同級生の葉月日奈子は俺の頭にげんこつを喰らわせた。
「いってえな……。お前の店の売り上げに貢献しているお得意様だぞ、俺は」
「はいはい、ありがとうございますー。それにしても、余計なお世話なんだけど……あんた、ラムネばっかり飲み過ぎじゃない? 体に悪いよ?」
「夏休みの自由研究のテーマなんだよ。『夏休み中に瓶ラムネのビー玉百個集められるか?』って。家族みんなで飲みまくって、このラムネでようやく百個達成だ! 今ならラムネ界のソムリエにだってなれるぞ」
「うわ……全然尊敬出来ないわ、それ」
日奈子に睨まれながら、構わず俺はラムネを飲み干す。瓶のくぼみに引っ掛かっていたビー玉が転がり、カランと涼しげな音を立てる。
ようやく百個。俺が誇らしげに瓶の中のビー玉をカラカラ転がしていると、日奈子が横から覗き込んできた。
「そう言えば、瓶の中からどうやってビー玉を取り出すの? 瓶を割るの?」
彼女の言葉に、俺は肩をすくめた。
「おいおい。駄菓子屋の娘の癖に、そんなことも知らないのかよ」
「う、うるさいわね! それとこれとは関係ないでしょ!」
「……いいよ。本当は自由研究の発表まで教えたくないけど、お前には特別に教えてやる。ちょっと台所借りるぞ」
俺は空になった瓶を片手に、もう片方の手で日奈子の腕を引っ張り、葉月商店の中に入る。横を通り過ぎる俺たちを、店番をしている日奈子のおばあちゃんがしわくちゃの笑顔で見送っていた。
同級生で、気心の知れた俺たちはお互いの家に遊びに行くことも多かった。靴を脱いで一歩上がれば、そこは駄菓子屋ではなく葉月家の居住スペースで、廊下を右に進むと台所がある。買い物にでも出かけているのか、日奈子の両親は今は家にいないようだ。
「それで、どうやるの? やっぱり割るの?」
「割ってもいいけど、危険だからおすすめしないな。まあ、見てなって」
俺はシンク下の戸棚から小さな鍋を取り出すと、水を入れて火にかけた。しばらく待つと、鍋の内側に小さい泡が現れ始めた。試しに指先をつけてみると、お風呂の温度より少し熱い。
「こんなもんかな。後は火を止めて、キャップをお湯に入れて温めるんだ。キャップはプラスチックだから、温めると柔らかくなって外しやすくなるんだよ」
「へえー。さすがラムネ猿は詳しいわね」
「ラムネソムリエだ。あと、栓抜きってないか?」
「ちょっと待ってて……ああ、あったあった」
鍋から瓶を取り出し、瓶とキャップの隙間に栓抜きの爪を挿し込む。
「いくぞ……ふんっ!」
左手で瓶を支え、右手で栓抜きの持ち手を一気に引き上げる。すると、ボンッと鈍い音と共にキャップが外れ、瓶の横に転がった。広くなった飲み口からビー玉を転がし、水道水で丁寧に洗う。
「はい。一丁上がり!」
親指と人差し指でつまみ、日奈子の前に掲げて見せつける。窓から差し込む光がビー玉に付いた水滴に反射して宝石のように煌めく。
得意げになっている俺に、彼女はおぉーっと目を丸くしながら拍手する。
「凄いじゃん、ちょっと見直したよ。それと、ビー玉百個達成おめでとう」
「ああ、ありがとう」
俺は手のひらの上でビー玉を転がしながら、少し逡巡し、もう一度指でつまんで差し出した。
「ビー玉、日奈子にやるよ」
「えっ? でも、ようやく百個集まるのに。夏休みももう終わるんだよ?」
「いいんだよ。せっかくだし、それに、ベンチを何度も汚したし」
日奈子の瞳が、俺の顔とビー玉の間を何往復かして、白い手を差し出した。
「じゃあ、もらっちゃおうかな。改めて見ると、結構綺麗だし、それに明日も目標達成のためにラムネ買いに来てくれるんでしょ?」
「商売上手な奴だな……買いに来るけど」
「やった! あっ、だけど……下の名前で呼ぶなって何度も言ってるでしょ。古臭くって嫌いなんだから」
最近は女の子の名前に「子」が付くことも少なく、「日奈子」と言う名前が気に入らないらしい。「わたしが自分の娘に名前を付けるなら、美咲とか優花がいいなあ」と言っていたことを思いだした。
「俺は別に悪くない名前だと思うけどな……分かったよ、葉月。ほら、手出しな」
日奈子は俺からビー玉を受け取ると、それを両手で握りしめて満面の笑みを見せた。
「明日、八月三十一日、俺と一緒に花火見に行かないか?」
日奈子の笑顔を見て、そんな言葉が口を衝いて出た。
彼女は途端に真顔になり、ゆっくりうつむいた。
「明日の納涼花火大会でしょ? 家族と行く予定なんだけど」顔を上げた彼女ははにかんでいた。「別にいいよ。友達と行くって伝えておくから」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた気がした。
夏休み最終日前日。今日ほど暑い日は無かった。
* * *
翌日、日が傾いてきた頃、俺は葉月商店に日奈子を迎えに行った。彼女のおばあちゃんに挨拶し、昨日宣言した通りラムネを買う。おばあちゃんの手前、今回は泡をこぼさないように開けて、玉押しとリングをゴミ箱に捨てる。
「日奈子~! 陽太君が迎えに来たよお~! いつまで待たせるんだい!」
「はーい! すぐ行くからー!」
おばあちゃんが呼ぶと、二階から日奈子の返事が聞こえる。その言葉の通り、一分も経たない内にドタバタと荒い足音を立てながら彼女が現れた。
「あっ……」
「遅いぞ」とか「待たせやがって」とか言うつもりが、言葉を失っていた。
日奈子は浴衣姿だった。淡い桃色の生地に、濃淡の異なる桜の花がいくつもあしらわれた、とても女の子らしい浴衣だった。
いつもはTシャツに短パンと言う男子寄りの服装なのに、初めて見る彼女の姿に、俺は二の句が継げなかった。
「友達と行くって言ったら、お母さんが張り切って着付けしちゃって……」軽くうつむきながら上目遣いで言う。「……どうかな? 恥ずかしいんだけど、似合う?」
俺は口をパクパク動かしながら、無言で首を縦に振ることしか出来なかった。
そんな俺を見て、彼女は袖で口元を隠しながら噴き出した。
「だけど、まさか陽太も浴衣だなんて。似合わないわー」
「うるせえ! 俺も父さんに無理やり着せられたんだよ! やっぱりお前も似合ってねえ!」
「うわっ、ひどーい」
いいからさっさと行ってきなさい、と、おばあちゃんに追い出される形で俺たち二人は花火大会が行われる真鴨川に向かった。
「あっ、ラムネ! ちょっと頂戴よ」
「いいけど、俺が口付けた奴だぞ?」
「それがどうしたの?」
「いや。別に……」
日奈子がひったくるように俺の瓶ラムネを奪い、半分ほど残っていたラムネを一気に飲み干してしまう。カランと音を鳴らしてビー玉が彼女の唇に向かって転がるが、キャップに阻まれて止まる。
「ごめんね、全部飲んじゃった」日奈子は手刀を切って謝りながら瓶を返す。
「別にいいよ。ビー玉も、これで本当に百個集まったし」
「邪魔だし、家に置いてくる?」
「もうすぐ着くし、面倒だからいいよ」
「そうだね。花火が良く見える場所も探さなくちゃだし」
二人横並びで下駄の音を響かせながら花火会場に向かう。カランコロンと言う音は、ちょっとだけ瓶の中のビー玉の音に似ていた。
* * *
今年、世界中は大騒ぎになった。ノストラダムスの予言である。「一九九九年七月に恐怖の大王が現れ、人類は滅亡する」そんな感じの内容だ。
しかし、真鴨川周辺には、どこから現れたのかと思うほど多くの人たちが押し寄せていた。人類滅亡どころか、人類の洪水だ。
結果的に、ノストラダムスの予言は大外れだった。夏休みの宿題は結局終わりそうにないが、「人類が滅亡すると思って七月は手を付けませんでした。ノストラダムスのせいです」と言い訳に使ってやろうと思う。
「ほら、陽太! あれ食べたい!」
「またかよ。ちょっと食い過ぎだって」
「いいじゃん、お祭りなんだから!」
駄菓子屋の性なのか、夏のねっとりとした暑さと人間の熱気の海の中で、日奈子は水を得た魚のように生き生きとしていた。
堤防沿いの道には、赤、黄、青と言った原色をふんだんに使った派手な色合いの屋台が立ち並ぶ。香ばしい匂いに甘い香り、威勢のいい声に楽し気な喧噪。これだけ五感を刺激されれば、俺だって浮ついた気持ちになるし、そうなるべきなのかもしれない。
「おーい、陽太。ぼーっとしてたら危ないよ」
人の流れの中心で立ち止まっていると、フランクフルトとりんご飴を手にした日奈子が俺の顔を覗き込んできた。その組み合わせは正解なのだろうか?
「はいはい、分かってるって。お前こそ、食い過ぎて花火が始まる時にトイレとか行くんじゃないぞ」
「女の子にトイレの話とか、本当にデリカシー無いよね。陽太って」
改めて二人並んで歩きだすと、日奈子はフランクフルトをかじり、次いでりんご飴を舐めた。
「うーん、美味しい! しょっぱさと甘さの二重奏で無限に食べられるわ!」
どうやら正解らしい。
真鴨川納涼花火大会の花火の打ち上げが始まるのは午後七時から。八月も末になると、午後七時を迎える頃には空は深い紺色に染まり始める。
屋台での買い食いやゲームに興じたり、結局トイレに並んだりしている内に開始時間が迫り、花火が良く見える河川敷から堤防にかけて人がすし詰めになっていた。小学六年生の身長では、周りの大人たちが壁になってろくに花火が見えそうにない。
「どうしよう……花火どころか背中しか見えないよ?」
「……よし、ちょっと待ってろ。俺が場所を探してやる」
俺はラムネの瓶を浴衣の内側に仕舞うと、すぐ傍の木に登って人の波から抜け出した。日奈子が眉を八の字にして心配そうに俺を見上げている。
「…………あった!」
河川敷の一画、堤防に設置された二つの階段の間は人の密度が小さい。
俺は木から下り、日奈子の手を握った。
「あっ、ちょっと!」
「説明は後! もうすぐ始まっちゃうぞ!」
今度は小さな体が役に立つ。俺たちはカラカラと忙しなく下駄の音を響かせながら人々の間を縫い、時にぶつかり、到着したころには俺も日奈子も汗まみれになっていた。乱れた浴衣姿のお互いを見合って苦笑する。
午後七時。花火大会開始の空気を感じ取ってか、嵐の前の静けさのように、あれほどうるさかった喧噪がトーンダウンしていく。
「ねえ、陽太」
「ん?」
互いの手汗でじっとりした手に力を込めて、日奈子が俺の目を見ながら口を開いた。
「わたしに告白するの?」
バアンッ!
空に大輪の花が咲いた。街灯も無く、夜の闇に染まりつつあった人々の姿が黄味を帯びた光に明るく照らされる。
日奈子の白い肌も、桃色の浴衣も黄金色に染まる中、彼女の頬だけが赤く染まっているように見えた――そんな気がする。
「俺は……」
景気づけの一発の後、続けて数発の花火が打ち上がり、スターマインと呼ばれる小さな花火が連続で打ち上がり、俺の返答を急かすようにはやし立てる。
「……何言ってんだよ、お前」その瞬間、俺の夏が終わったと実感した。「俺の友達が行けなくなったから、昨日の流れでつい誘っちゃっただけだって。告白とか、急に恥ずかしいこと言ってんじゃねえよ」
「……そっか。そうだよね。変なこと言ってごめんね」
早口で、消え入りそうな声でつぶやく声は、花火の音に掻き消されそうになっているのに、妙に鮮明に届いた。
「いや、あの……俺……」
「ほら、わたしの顔より花火を見なきゃ! うわー、近いから迫力凄いねー!」
顔を背ける彼女の手を強く握ろうとすると、するりと俺の手の中から抜け出し、額から流れる汗を拭う。しきりに目の周りを拭っているようにも見えた。
「ねえ、陽太」顔を手で半分覆い、花火を見上げながら日奈子がつぶやく。「誘ってくれてありがとうね」
「あ、ああ……当然だろ」俺は喉の奥から込み上げるものを飲み下しながら言った。「友達……なんだから」
その後は、まるで全てが夢だったみたいで、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、帰宅した後に土間でラムネ瓶を割り、念願の百個目のビー玉を手に入れたこと。
そして、七月に人類が滅亡すると言う予言を外したノストラダムスを罵ったことだけだ。
* * *
グッ
ポン!
シュワァ――
玉押しを押さえ続け、泡が収まるのを待つ。昼過ぎからも営業に回らないといけないのに、ネクタイや革靴をラムネで汚したら一大事だ。
「今日も暑いな……毎年暑くなってないか?」
ミンミンシャンシャンと街のそこかしこから聞こえてくるセミの合唱も、酷暑の中で弱々しく聞こえる。それとも、都市開発でセミの数が減ったのだろうか。営業で何度も街を歩き回っていると、街の表情の変化の速さに驚かされる。
葉月商店のベンチから見える景色も変わってしまった。二十年前は木造の平屋や憎らしいほど澄んだ青空なんかが視界の大半を占めていたはずだが、今は灰色のブロック塀や瀟洒なマンションなんかが占めている。
まるで、この駄菓子屋だけが時代から取り残されているみたいだ。
「うちのラムネを飲むなら、もっと美味しそうに飲んでくれない?」
俺が暑さにうなだれながら瓶ラムネをいじっていると、後ろから声をかけられた。
「よっ、日奈子」
「久しぶりね、陽太」
下の名前を呼ばれても、日奈子は眉一つ動かさない。彼女ももうそんなお子様じゃない。
「驚いたよ。お前の婆ちゃん、まだ現役なんだな。この前はお前が店番やってなかったっけ?」
「わたしが忙しい時に代わってもらってるだけだから、基本はわたしだよ」
「そっか。美人店主の駄菓子屋って言うのも、令和の時代には話題性があるかもな」
「無いわよ、そんなの。あと、褒めても何も出ないからねー」
屈託の無い笑顔で笑い合う俺たち。セミの鳴き声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
俺はラムネを飲み干すと、水色のプラスチックのキャップを回して取り外した。以前の打ち込み式は取り外すのが難しかったが、現在葉月商店で取り扱っている瓶ラムネはネジ式で取り外しやすい。
俺は瓶の中からビー玉を取り出し、日奈子に差し出した。
「ビー玉、美咲ちゃんにあげるよ」
日奈子がビー玉を受け取ると、彼女の左薬指の指輪に当たってカチンと音が鳴る。
「ありがとうね。あの子、今時の子には珍しくビー玉好きだから」
「いいって。もうビー玉なんて集めてないし」
「集めてないのに、瓶ラムネばっかり飲んでるのは昔と変わらないね。割高なのに」
「この店の売り上げに貢献してやってるんだよ。それに、もうすぐ産まれる優花ちゃんの分のビー玉も稼いでやらないとな」
「誤飲が怖いから、しばらくはビー玉なんて渡せないけどね」
「それもそうだな。さすがの俺でも、人の体からビー玉を取り出すことは出来ないし」
二十年も経てば、多くのものが変わってしまう。元号も、街並みも、人間も。
変わらないのは、文化財に指定してやりたいこの古びた駄菓子屋。そして、瓶ラムネの味くらいか。
だけど、ラムネソムリエの俺には分かってしまうんだ。この店で飲むラムネの味は、あの夏の日以来ほろ苦いって。