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使用人

作者: 鍋谷葵

 平安朝の中頃でしょうか、その頃はまだ日本に大きな動乱もなく少し和やかな空気が漂っていたある意味最も平和な時代であったかもしれません。


 そんな時代の平安京のある夏の夕暮れ。

 寝殿造りの館の調理場でのこと。

 大貴族に使えていた使用人の青年は貴族ための豪華な夕食をいそいそと作っていると戸を挟んだ隣の調理場から何か他の女の使用人の声が、音声としては認識できないけれども確かな音が止まることもなく聞こえてきた。

 そしてこの使用人はまだ年が若く多感なもので滞りなく聞こえてくる音がとてもつもなく気にかかり、いよいよ仕事の手が止まり始め、遂には仕事をすっぽかして戸に耳をびったりと、くっ付けその音がなんなのかを確かめた。


 そこから聞こえてきたものはこの使用人と同い年の見目美しい自分が仕えている美青年の貴族の話だった。


 使用人は大層この貴族が嫌いであった。


 それは、この使用人と貴族では大きな見た目の差があったからだ。使用人の顔は非常に何とも言えないもので、やけにデカい赤いニキビが点在している皿の様な額、若干しゃくれている顎、蛇が獲物を見つけたときにジッと睨むような細い目、まあつまり言ってしまえば不細工なのである。また、それに加えて背は当時としても小さく、ボロボロの身なりと猫背のせいで、顔だけではなく後ろ姿でさえも不格好だったのだ。それに比べ、貴族の美青年というのは上記でも記したように非常に顔もよく、背も高く、またその仕草、作法、これら全てが完璧だったのだ。


 とどつまり、使用人が嫌っている理由というのは嫉妬であった。


 こんな風に嫌っているので使用人は何か一つでもあの貴族の弱みを握ってやろうと日々考えていた。つまり、女たちがあの貴族の噂話をしているということはこの使用人にとって、とてもありがたいことだった。だから、さらにさっきよりも耳をびったりと、顔が戸にめり込むくらいくっ付けた。

 


 「ねえ、聞きました?うちの旦那様の噂」


 「いえ、知りませんが。なんなのですかその話」


 「まあ知らないの!実はね、うちの旦那様の糞って私たちのものと違っていい匂いがするらしいのよ」


 「あら、そうなの。くだらない。でもそれがもし本当なら私たち庶民と食べているものが違うからかもしれませんね」


 「そうね、でも割と本当かもしれませんよ、何せあんな美しいお顔をしてらっしゃるのですからね」


 使用人は大体こんな内容の話を盗み聞いた。


 これを聞いた使用人は心底がっくりした。馬鹿馬鹿しいと思い、ただ重い溜息を吐きながら自分の仕事に戻った。


 しかし、仕事に戻り煮物の具材である大根を切っているとさっき聞いたくだらない話が脳裏にちらつき始めた。それも自分でもくだらないとわかっている話が何度も、大根を一切するごとに思い出してくるのでなかなか手につかずまたもや仕事に手が付かなくなってしまった。だが、この使用人も仕事を二度も投げ出すわけにはいかず不安定なゆらゆらした手つきでなんとか心を静めて仕事を続けた。


 それから数日して使用人は仕事場の移動を命じられた。それも、便所掃除の仕事にだ。本来自分よりも位の低いものがするはずの。理由はこの使用人が作った煮物の具材があまりにも品が無くそれに加えて味もとても悪かったというものであった。

 使用人からしたら驚きであった。まさに青天の霹靂。あれほど自分の心を無理に落ち着かせ頑張って作り上げたものの一切を否定されたからだ。また、この職場は調理で余ったものをもらえるという特典が付いていたためそれも失われるという生活の低下を恐れたものでもあった。たったの乞食精神。


 そうして使用人はあのくだらない、たいそう馬鹿馬鹿しい噂話をしていた女と心底嫌いなあの貴族を恨んだ。『自分の仕事を失敗にさせたのはあの女たちだ!』そして『あの糞旦那!自分では何もしないくせに!』という自己中心的なものがとことん自らの心をぐつぐつ煮えたぎらせていた。しかし、これも若さゆえに仕方がないことだろう。何か失敗があると本来は自分の責任であるものを間接的または全然関係のない自分よりも位の高いものに何とか理由をつけて責任を転嫁するというこのことはやはり若さのせいなのであろう。


 ともあれ、この使用人に対する結果は変わらない。なぜならこの不満を言葉で表現しなかったからだ。どれほど心の中で足掻こうとも一切変わらないのだ。つまりたったの乞食精神。そして、この使用人は渋々、しょうがなくこの便所掃除という必要ではあるが不名誉な仕事をすることを飲んだのだ。


 それから便所掃除の仕事を任命されてから数週間が経った。使用人も最初はこの仕事に苦しめられたそうだ。普段何気なく使っている便所でもいざ、まじまじと仕事をしてみるとその汚さは想像を絶するものであった。糞尿をくみ取るときに必ず見える白っぽい蛆、床に飛び散っている尿、そして便所のまわるピョンピョン飛んでいる縞模様のカマドウマ、とどめは丁度その時期が夏であったことから生じたトンデモナイ異臭。


 しかし、人間とは不思議なものでこんな汚い仕事でも数週間すれば慣れてしまうのだ。

 

 それはこの使用人も例外でない。


 ところがそんな慣れとは対極的にこの使用人にはまだあの憎しみが燻っていた。女々しいことにも未だにあの女たちや貴族のことを恨んでいた。この恨みは猪突猛進な真っ直ぐな恨みであり、その素直さは復讐というものに真っ直ぐと向かっていた。


 使用人もこの恨みを理解していた。自分の理性を保っているのは燻りつづけるこの恨みではないかと錯覚するほどに自覚し、理解し、苦しくても辛くても恨みを飲み込み続けたのだ。


 その憎しみに駆られたこの使用人の雰囲気は特段代わり映えはしないがある一定の勘の良い者たちはその雰囲気に気付き冷然とした侮蔑の視線でその使用人の汚らしいあまりにも汚らしい現場の仕事を見ていた。


 また数日の時が過ぎ、またあるとき使用人の担当している恐ろしく汚い便所にあの気に食わない貴族が用を足しに来た。

 使用人は最初にこの光景を見たとき、疑問で頭がいっぱいになった。「なぜここに?あいつもの暮らしている部屋から最も遠いこの便所に?どうしてくらいの低い女中や下男の使う便所に?」こんな疑問で頭が一杯になったのだ。

 しかし、この疑問はすぐに払拭された、いや払拭という言葉は適切でないであろう、そう払拭されたというよりは恨みの炎で焼き尽くされたというほうが正しいであろう。


 つまり、使用人にとっては喜ばしいことだったのだ。何せ、自分を貶めた、心の中で未だに燻り続けるあの噂話、恨みの元凶、その真相を確かめることのできる格好の機会であったからだ。そして、その喜びはあまりに強烈であった。普段は変わり映えのしない仏頂面である使用人の顔はついに顔がニヤッと気味の悪く綻び、「しめた。」という呟きさえもフッとででしまうほどだった。この使用人はあの貴族が用を足している間はずっとこの気味の悪い雰囲気に取りつかれたいた。



 そうして、あの貴族が用を足し終わり便所から出で行くのをしっかりと、コンマ全てを記憶するように細い目で睨み、ついに周りに一切の人間がいないことを確認すると木枯らしのようにスッと便所に入った。


その便所は相も変わらず汚らしかった。ところが匂い、そうあの臭いが匂いに変わっていたのだ。その汚いはずの空間がたった一つの綺麗?という矛盾たるや想像を絶するものであった。


 使用人はすぐにこの『匂い』正体を探った。その衝動に駆られた理由、それは噂話のたった一つの答えだったからだ。


  まずは便所の汚らしい床を調べた。そうじっくりと。しかし、そこには噂の答えになりうる証拠はなかった。次に糞べら(昔、日本の貴族が使用していた木の板。現在のトイレットペーパーのようなもの)を調べた。そのついさっき使用されたであろう糞べらを見るとどうやらや奇妙であった。普通人間、糞をすれば用の後始末としてこのへらに糞をなすりつけるのだがその使われたであろう糞べらには糞というものが付着しておらず、ただただほんの少し湿っぽい人特有のぬくもりだけが残っていた。この奇妙さが鋭く使用人の脳髄に作用した。


 この作用から導き出された答えは三つあった。一つはあの貴族は糞をしていないということ。そしてもう一つ、あの貴族は糞壺の中に良い香りを放つそれこそ人糞ではない何かを入れた、最後に、最も重要な最後の一つというのはあの噂の確信的な証拠が糞壺の中にはっきりと存在しているということだった。


 その答えが導き出されるとあの恨みの炎がカッと、燃え出した。使用人はあの使用されてない糞べらを糞壺の中に入れ、手あたりしだい突っついた。そうするとどうも人糞の硬さでないものを発見した。それから使用人はその謎の物体を糞べら手繰り寄せて手頃の距離まで来たら手を突っ込み糞壺の中から取り出した。それはぼんやりとしてだが見覚えのある物体だった。少し柔らかく、木の繊維、香料、葉特有の色、つまりそれは薫物だった。


 薫物だと分かるとあの炎は冷徹なものに移り変わった。そして、薫物についている汚れた部分を糞壺に落とし、また長い年月使用されているであろう継ぎ接ぎの多い巾着に忍ばせ糞べらを元あった場所に戻しそそくさと便所から出た。


 時は、はたまた過ぎて謁見の日が来た。この謁見の日とは月に一度下男や女中に屋敷の貴族が激励をするという当時としては珍しい日であり、習慣であった。

 使用人は心底この日を待ち焦がれていた。なぜなら、あの時からずっと宝のようにとっておいた薫物をその他大勢の貴族の前にさらしてあの貴族に恥をかかせてやろうという子供じみた復讐の計画をそれこそ冷徹な炎で熱し、心さえも燻らせていたからだ。

 そして、いよいよその計画を移す時が来た。

 日が徐々に黄昏を感じ始めたころ。

 この館の終着点に来るまでで疲れたであろう貴族たちの足取りが弱くもギシギシと床を軋ませる音が近づいてきた。この音が近づいてくると同時に使用人の緊張も段々と昂ってきた。


 ドキドキ。使用人の音。

 ギシギシ。貴族たちの足音。


 時は来た。

 使用人は目を大きく開き叫んだ。


 「主よ!これを見てください!」


 その叫び声は貴族の多くを驚かせた。しかしあの貴族ただ一人は何の反応も示さずいつもと変わらない表情でいた。この反応を使用人は見逃さなかった。さらに苛立ちが募った。


 「どうしたのだ、下男よ。その薫物がどうしたというのだ」


 「ええ、この薫物ですが……」


 使用人は声を出そうとしたが、声が出なかった。それは強度の緊張のせいであり身分の差のせいでもあった。しかし最も強く影響していたのはあのたったの乞食精神であった。


 「つい気でもおかしくなってしまったのかな。この下男は。どれその薫物はこちらで処分しておこうか」

 

 初老の貴族の老いた細い腕が伸び、ふっくらとして皺の多い手がたった一つの強みであった薫物を取り上げた。


 「あっ……」


 使用人の口からはそんな健気な蚊の羽音のような声しか出なかった。

 その瞬間をあの貴族は見逃さなかった。あの貴族はあろうことか使用人を笑った。くすりと。ほくそ笑むように。

 またこの使用人もあの貴族が笑う瞬間を見逃さなかった。そして、その笑みは便所の時の温もりのように脳髄に作用し、全てを理解した。なぜ、自分の担当している便所に用を足しに来たことを。あの貴族は最初から使用人が自分を嫉妬していたことを分かっていたのだ。分かっていて、そう使用人がこの計画を起こすことすら理解して。ただこの瞬間を迎えることすら分かっていて、あの行動を起こしたのだ。なんと憎らしいことか。全てはこの瞬間に。


 「ではもう行くぞ下男。変なことに気をかまけずに仕事に励めよ」


 ギシギシ。貴族が弱い足取りで去る音。


 使用人は床の軋む音を聞きながら、呆然と立ち尽くした。


 日はすっかり黄昏入りをしていた。

ご覧いただきありがとうございます。

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