信仰をドブに捨てることになった出来事(回想)
もともとエリルは、特別な力などなにも持っていない平凡な娘だった。
カエラーム教国の国境あたりに領地を構える騎士の娘として生まれたエリルは、家族に愛されながら何不自由なく育ってきた。彼女は特に目立つこともなく、静かな一生を過ごしていくものだと思われていたが……。
エリルが八歳の頃、彼女は家族といっしょに屋敷の近くにある湖で遊んでいた。そこで、どこからか迷いこんできたはぐれ魔族と遭遇した。
魔族は人間の天敵である。恐るべき邪悪魔法を操る彼らの力は、一人で十人の戦士に匹敵するという。大した装備もなく実戦経験者もいない一家がどうにかできる相手ではなかった。
魔族の無慈悲な攻撃の前に、家族は次々と倒れていった。その有様にエリルは恐怖しながら、神にすべてを捧げる思いで必死に祈った。
そして奇跡は起きた。
神の怒りを体現したかのごとき雷の柱が、魔族を一瞬にしてうち滅ぼしたのだ。
それから、神に更なる奇跡を願うことで、死に瀕していた愛する家族たちを救うことができたのであった。
彼女の人生は、その奇跡を顕現させた瞬間から大きく動き始めた。
家族を救った奇跡は、神聖魔法のなかでも最上位クラスのものだった。
その魔法を行使できる人間は、カエラーム教国の長たる教皇くらいのものである。それほどまでに偉大な奇跡だったのだ。
誰もが『この子は神の子に違いない』と確信した。
そんなこんなで、エリルはすぐにカエラーム教国の神殿に呼ばれ、鳴り物入りで聖職者デビューを果たすこととなった。
あるときは、神の力を振るって人々を守るために戦った。
あるときは、神の慈悲を分け与えて傷ついた人々を癒してまわった。
またあるときは、神の知恵を活かして人々を導いていった。
強大な力を振るいつつも驕ることはなかったので、多くの人々の人気を集めた。
圧倒的聖職禄をいただけたので、家族にも豊かな生活を送らせることができるようになった。
彼女の躍進はとどまるところをしらなかった。
十六歳になると、新官長や教皇すらもはるかに超えた力を得たため、長年空位だった“聖女”にまで上り詰めた。
その名声は大陸全土にまで響き渡って、神の化身とまでうたわれるほどになったのだった。
当時のエリルは人生の絶頂を感じ、幸せを噛みしめていた。
聖女としての使命を遂げるのは大変だが、自分も皆も笑顔で暮らしていける。
エリルは素晴らしい力を授けたくれた神に感謝して、日々祈りを捧げることを欠かさなかった。
彼女の人生に影が差し込み始めたのは、十七歳の誕生日のときだった。
その日、神から妙な神託が降りてきた。
『聖女は神にのみ、その純潔を捧げよ』
神殿の皆は、その神託の意味を“聖女の結婚禁止”と受け取った。
エリルは十七歳だ。十七歳の誕生日と聞いて真っ先に思い浮かべるものは、結婚適齢期だということである。
その神託には誰もが首を傾げたが、エリルも神にのみ身を捧げるつもりだったので、とりあえず疑念は棚上げにされた。
それから数か月後、某国に赴いて王子の病気を癒したときに、また一段とおかしな神託が降りてきた。
『聖女は男とのみだりな接触を禁ずる』
帰国後、エリルは風の噂で、自分が癒した王子が正体不明の病にかかって死んだと聞いた。
そのさらに数か月後、その病は教でも蔓延した。
今まで苦心して守り、導いてきた人々が次々と倒れるさまに悲しみを覚えたエリルは、精力的に街へと赴いて人々の病を癒すために尽力した。
だが、彼女の力をもってしても、すべての人々を救いきることはできず、ついには過労のため倒れるに至ってしまった。
その後、神殿のベッドの上で療養していたエリルは、耳を疑うような神託を聞いた。
『聖女を救うためにその命を捧げることで信仰心を示せ』
神聖魔法には、自らの命を犠牲にして他者に活力を与えるというものがある。それを応用した、“他者の命を利用する回復魔法”という強烈なシロモノが、神によってもたらされた。
人々の信仰は、その邪悪魔法に片足を突っ込んだ神の魔法で証明が行われることとなった。
神が恐ろしくなる所業の結果、エリルは見事に復調した。
それどころか、何日も寝なくてもよくなり、ずっと飲まず食わずでも平気になるという、人間を辞めてるレベルの神話的健康体をも手に入れた。
もちろん、エリルはまったく嬉しいとは思えず、ひたすらに悲しい思いをするばかりだった。
エリルのために犠牲になりに来た人々の大半が、かつて彼女が救った顔見知りの人だったことも、悲しみの深さを助長している。
それはもういい笑顔で死ににやってくるものだから、精神的にクるというものだ。
あまりのストレスに耐えかねたエリルは、つい言ってしまった。
「私は多くの人々を犠牲にしてしまいました。どのような顔をして家族に会いに行けばよいのでしょうか……」
すると、狙ったようなタイミングで新たな神託が降りてきた。
『聖女の心を病ませ惑わせる邪悪を討て』
神がご丁寧に討伐対象の住所と名前を述べてくれた結果、エリルの家族全員が命を落とすこととなった。
エリルは無慈悲に過ぎる神託に、心の底から絶望した。
聖女としての公務を行うどころではなくなり、自室でふさぎ込むことが多くなった。
運命は容赦なく、さらに彼女を追いつめていった。
さらなる神託がいくつか降りてきた結果、まず“エリル神殿”が新たに建てられた。
エリルは、そこで務めを果たすためとの名目で、実質幽閉されることになってしまった。
一度だけ、無理矢理外を出ようとしたことがあった。
それから数日以内に、神殿を管理するかつての聖職者仲間たちが全員、謎の病に倒れて死んでしまった。その原因は、自分が神殿から逃げようとしたからだと彼女は確信した。
その事件が収束したあと、神がとどめの神託を下してくれた。
『聖女エリルを女神として信仰せよ。信仰ある者は祝福を得て、信仰なき者は病に倒れることになるだろう』
そこでついにエリルはキレた。怒りのあまりに手近な家具を蹴り壊してしまうくらいの荒れようだった。
聖女のためとの名目で、大好きな家族を殺して人々を犠牲にし続ける神への信仰度は、一気にマイナスの領域へと反転した。常人よりもはるかに信心深かった分、その反動で凄まじい憎しみを抱くこととなったのだ。
それは、魔王も裸足で逃げ出すであろう、神聖なる憎悪の化身の誕生の瞬間だった。
エリルは薄暗い神殿で独り、ゆであがった頭で考えた。
信仰をドブに叩き捨てた今もなぜか使える神聖魔法を駆使して神を殴りに行くか。それはだめだ、借り物の力では貸主は倒せない。
しかし神の力を借りない自分は、ただの無力な少女に過ぎない。
ならばどうすればいいのか。皆の仇をとるために、このやりきれない思いを晴らすためにできることはなにか。
そんな折に、彼女は古い神聖魔法の呪文書から、“勇者召喚”の魔法を見つけたのであった。