瞳に宿るは
「あら?」
国の中心部、王都での用事を済ませ、ここから2日ほど乗り合いの馬車に乗って帰ろうとしていたリリノアの目に1人の少年が止まった。その少年の首には、手には、足には、いくつもの鉄の輪と鎖が繋がれていた。少年は奴隷だった。
リリノアの視線の先にあったのは王都では珍しくもない奴隷の売買だった。
この国、ギルファザード王国では奴隷の売買は何百年も前から認められていた。ここ数十年でいくつかの国では人権問題を掲げ、奴隷禁止令を打ち出したりもしたが、この国ではそのような運動が起こることはなかった。
なぜなら3代ほど前の国王がすでに奴隷の人権をある程度保証していたからである。それによって奴隷は完全なる商品から一般人よりは地位の低い人間へと変わった。もちろん反対する声が上がらなかったわけではない。けれどかの王はその声を握りつぶすことなく何年もかけて解決したのだ。今ではその王、ユグドラシル=ギルファザードは賢王たして自国だけではなく、世界の国々で語り継がれている。
なぜならギルファザード王国は奴隷によって反乱が起きなかった唯一の国だからだ。
ユグドラシルはその可能性について何度も民衆に語りかけ、そして彼らの法を確立した唯一の王であった。
ユグドラシルが確立した奴隷の人権の項目として一番に挙げられたのが無駄な殺生を禁止するといったことだった。それによって奴隷同士の殺し合いを目的としたコロッセオもなくなった。
国民の娯楽であったそれをなくすのには結構な反対の声が上がったが、ユグドラシルは代わりに各地から集められた奴隷に彼らの国での大衆娯楽を披露させる場を与えた。それが現在の大衆娯楽、劇場の元となったものだった。
ユグドラシルは複数人の奴隷売買人に彼らの管理を行わせ、働いただけの金を支払うよう、命じた。そして他の奴隷たちにもある程度の金を支払うようにと。
それは一般市民の収入の半分ほどではあったが、それを最低賃金として定め、オーナー達にそれ以上の金額を支払うように定めた。
奴隷はその金を好きに使うことが出来たが、専ら彼らは自らが奴隷から解放されるための金に当てた。
労働力として奴隷を買った者達からすれば奴隷が自らが買われた値段を貯めるほど働く頃にはもっと若い、よく働く奴隷が欲しくなる。そして奴隷が自らを買い戻すことを承諾することによってまた新たな奴隷を買い求めるだけの金が手に入るというわけだ。
そのことが奴隷への扱いの向上、そして奴隷達の意欲向上へと繋がったのだった。
そのような経緯があるため、この国の奴隷の目から光が消えることはない。むしろ彼らはこの国に買われたことを不幸中の幸いと捉えるのだ。
だがリリノアが目にした少年の目は、色素の薄い青は光を失い、濁っていた。
リリノアはその少年に引かれるようにして奴隷商人の元へと足を向けた。
「あの子、おいくらかしら?」
「ん? どいつだい?」
「あの子よ、あの子。銀色の髪の男の子」
「ああ、あいつか。あいつなら10万でいいよ」
リリノアが指した少年はまだ若く、身体の肉付きも悪くはない。彼女の見立てからすれば商人にしろ、大農家にしろ、いい労働力になりそうな彼を買おうという声はあがりそうなものだ。
「10万ですって!?」
それなのに10万という数字はあまりにも安すぎた。
もちろんリリノアのような、小さな土地しか持たぬ農婦が買うには財布と入念な相談が必要となる金額ではあるものの、奴隷としては彼女がつい大きな声を上げてしまうほどに安すぎた。けれど商人が他の奴隷と間違えたということはない。間違えなく商人は銀髪の青い目をした少年を指していた。
「高いか? まぁ、この場で耳を揃えて全額払ってくれるっていうなら8万くらいなら値引きしてやったっていい」
「そんな……」
「どうする? といってもどうせあいつは売れやしないだろうからゆっくり考えてきたところで居なくなりはしないだろうが、な」
奴隷商人というのは他国や自国で奴隷を買い求めては高く売ることを生業とした者たちである。人気のありそうな奴隷ならいくらでも値段を釣り上げては利益をガッポリととって頬を緩めるような。だというのに目の前の男はリリノアが値切るよりも前にドンドンと値段を下げ続ける。まるで足の早い鮮度第一の生魚を叩き売りするかのように。
「私ね、今たったの3万しかないの。でも家に帰れば後2万くらいなら用意できるわ。だからそれまで待ってくれないかしら……」
多めに持って来ていたとはいえ、奴隷なんて大きな買い物をする予定もなかったリリノアの所持金はたったの3万と少し。乗り合い馬車に乗るだけのお金を避ければ3万が限界だった。もしも今から家に帰ったとして、夫と息子が遺していったお金を当てにするにも諸々を考えたリリノアが出せるのは後2万ばっかしだった。
「3万? 本当にそれなら今払えるんだな?」
「え? ええ」
「ならそれでいい」
「本当に!?」
リリノアは己の年齢など忘れて子どものようにはしゃいで、商人の両方の手を握っては何度も礼を繰り返した。
すると商人は「そいつはもう何ヶ月も売れ残っていたんだ」と破格の値段からさらに値引きを繰り返したタネを明かした。
そして「あんたが買わなきゃ他の国に売り飛ばさなけりゃなんなかったからな。お礼を言うのはこっちの方だ」と付け加えた。
リリノアはたまたまその場に居合わせたため知らなかったのだが、この商人は奴隷を売り買いすることを生業としながらも己の利益はあまり考えない者としてその界隈に名を馳せていた。同業者からしてみれば異質な存在である彼だが、彼から買った奴隷は皆、優秀でよく働くと買い手達の間では評判が高かった。
だが彼は誰にでも奴隷を売るわけではない。彼はわざわざ他国の悪徳な商人から法外の価格で奴隷達を買い取ってはギルファザード王国でその奴隷に合った主人へと売り払うのだ。時には買値のうん倍もする価格で、またある時には買値の一割ほどにも満たない価格で。それはどちらも彼が主人となるべき人間を見定めて、彼なりの適切な価格で売るのだ。
そして彼が少年を買った値段よりもうんと安い、彼の今までの食費ほどにしかならない値段でリリノアに少年を売った理由はたった一つ、彼女が少年を生かしてくれるという確信があったからだった。
彼の数十年にも渡る奴隷商人の経験が、鍛えられた客を見る目が、そう告げていたのだ。
商人は少年の首輪から伸びる鎖が繋がっている先の鍵を外すとリリノアにその鎖と奴隷所有書を手渡した。
そしてリリノアからそれらと引き換えにキッカリ3万を受け取ると彼女に強く念を押した。
「決して鎖は安心できる場所に行くまで離してはならない」――と。
奴隷を買ったことがないリリノアはその理由が全く見当もつかなかったが、それを生業とするものの指摘だとありがたく受け取ることにした。
リリノアは買い込んだ日用品を左手に全て集めると、右腕に鎖を巻きつけた。そして空いた右手で買ったばかりの少年の手を掴んだ。
「ほらほら歩いて。お家に帰るわよ」
リリノアの言葉に少年が反応することはない。けれどリリノアは強引に少年の手を引いた。
彼女の住む村を通る馬車は数が少ないのだ。行きに乗せて来てくれた馬車の主に告げられた時刻まで間に合わなければ次はいつ乗れるのかわかったものではない。
予定になかった奴隷商人とのやりとりで時間を余計に過ごしてしまったリリノアには少年に気を使っている余裕などなかったのだ。
「間に合った!?」
走りこそしなかったものの、大股で王都を闊歩したリリノアは今朝方別れたばかりの馬車の主人を見つけた途端、声をあげた。するとその声に馬車の主人も気づいたようで、ズンズンと近づいてくる彼女のために準備万端と足踏みしていた馬達を落ち着かせた。
「おお来たか。今出るところだったんだぜ? っと何だ、一人追加か?」
「ええそうよ。……乗れるかしら?」
リリノアが馬車の近くへと寄ってみれば、その車内は小さな身体のリリノアが乗るのがやっとなほどの隙間しかなかった。
これは次の馬車が来るまで待つべきかと思案していると、すでに馬車に乗っていた男達が何やら荷物を整理し始めた。すると先ほどまではリリノア一人乗るのが限界だったはずのスペースはもう一人なら乗れるだけの間が空いた。そして車内にいる男の一人はリリノアに手を伸ばし、早く乗れと促した。
「ありがとう、助かったわ」
「こういう時はお互い様だ!」
リリノアは買い物袋に入っていたリンゴを男達に一つずつお礼だと言って手渡した。けれど男達はたった一つを残して他のものは全てリリノアの袋の中へと戻してしまう。そして一人の男は懐からナイフを取り出すと狭い車内で器用にもそのリンゴを綺麗に人数分に分けた。
「ほら、兄ちゃんも喰え」
「……」
「なんだ、リンゴは嫌いか?」
「……いや」
それが少年がリリノアの前で発した初めての言葉だった。
くぐもって遠慮がちな声。
リリノアの息子の、快活な声とは似ても似つかない。けれどリリノアは少年を買ったことを後悔はしていなかった。むしろリンゴを一切れ受け取るのさえ遠慮する彼に、服の上からでも分かるほどに痩せ細ってしまった彼に何か食べさせて、太らせてあげなければと、子育てを経験した一人の母としての使命感がメラメラと燃え上がった。
そしてそれはたまたま同じ馬車に乗り合わせただけの男たちとて同じだった。
彼らは見た瞬間、少年が奴隷であるということを理解した。首輪と鎖をみればすぐにこの国の者でなくともわかる。だが同時に彼がこんなにも痩せ細っていることに疑問を覚えた。この国の奴隷が痩せ細っているわけがないのである。どこの商人も皆、奴隷をいかに健康にみせるかを重要視しているのである。ギルファザード王国に連れてこられるからには食事が抜かれることはまずありえない。
ならば温厚そうに見えるこの女がわざわざ他国まで出向いて奴隷を買ったのかとも思ったが、それを許されるのは一部の許可証を持った、王国に認められた奴隷商人だけである。リリノアのように、靴に沢山の土をつけて王都までやって来るような者にその素質は見受けられなかった。
「ほら食え。成長期なんだから遠慮はすんなよ」
一人の男は自分の手にしたリンゴを少年の手に握らせた。
流れの、絶望しか知らないであろう奴隷になったばかりの少年に未来はそう暗いものではないと分からせるために。
「あり、がとう……ございます……」
他国から、奴隷が家畜以下の扱いを受けるような国からやって来た少年は目の前の男がなぜ奴隷なんかに食べ物を差し出すのか理解できなかった。
それも趣味の悪い、奴隷が死ぬか生きるかを賭けるために少量の毒の塗られたものではなく、同乗者達も口にするごく一般的なリンゴだから余計に。
狭い車内で男たちにじいっと視線を注がれた少年は、すうっと短く息を吸い込むと意を決してそのリンゴにかぶりついた。
もしこのリンゴのカケラにだけ毒が塗られていたら、と考えなかったわけではないがそれならそれでいいと思った。少年はもうそれが善意なのか悪意なのか見極めることに疲れていたのだ。
「おいしい……」
だが当然、そのリンゴには毒など塗られていない。
その甘さと共に久々に少年は人の優しさに触れたのだ。いや正確にはこの国に来た時からそれは何度となく少年に向けられていた。だが少年の目には重く厚い、目には見えないベールがかけられていたため気づかなかったのだ。
商人も、そして奴隷として少しの間彼と共に過ごした少年少女は無理にそれを剥がすことはしなかった。そのベールこそまだ幼い少年にとっての自己防衛だったからだ。
ベールを少しだけ上げた少年は腕に垂れていくリンゴの果汁さえももったいなく思え、己の腕に舌を這わせた。奴隷になる前なら許されるわけもないその行動を咎めるものはこの馬車の中にはいない。
むしろ彼らはその少年に「俺の分も食え」とまだ口をつけていないリンゴを差し出した。そして涙を流しながらリンゴを次々に食らう少年を愛おしそうに見つめては、去り際に「これも食わせてやりな」と王都で買ったであろう野菜や果物、はたまた家族へのお土産なのだろうチョコレート菓子をリリノアの紙袋に入れて行った。
リリノアの目的地である彼女の家から少し離れた大通りで馬車を止めてもらう頃には乗った時よりも紙袋が一つ増えていて、少年に持ってもらわなくてはいけないようになっていた。
リリノアの右腕には相変わらず少年の首輪に繋がった鎖が巻き付けられており、右手は少年の手をガッチリと掴んでいる。涙と鼻水とガチガチに凝り固まった警戒心を溢れるがままに出した少年に、もうそんなことをする必要はない。だからこれは単純にリリノアがそうしたいからに他ならない。
「もうすぐだから頑張って。あ、そうだ。今日の晩ご飯はシチューでいいかしら?」
「……はい」
少年はリリノアと手を繋ぎながら肌に触れる風を愛おしく感じていた。
彼の故郷、グリーラド皇国は数年前まではこの場所のように自然が豊かで、国民達も朗らかな性格の者が多かった。その気質から奴隷制度を導入していない唯一の国として存在した。
全ては数年前、西の軍国と名高いシェバール王国が攻め入ってくるまでのこと……だが。
シェバールの王は皇帝、皇妃、側妃、そして重役達を一人残らず殺した。その時残ったのはまだ10にも満たない第1皇子とその双子の、身体の弱かった第2皇子だけであった。
シェバールの王は新たなグリーラド皇国の皇帝として第1皇子を据え、そしてグリーラド皇国を改革していった。第1皇子にも王族としての矜持がある。だが家族を皆殺しにされ、身体の弱い弟を人質に取られてはまだ幼い皇帝が選べる道は憎き仇が引いた道しかなかったのである。
だが一度だけ幼い皇帝はシェバールに逆らった。
心優しい彼が、いくら自分の保身と弟のことを思ったとしても国の至る所に火をつけ、必要な場所以外は全て更地され、そしてシェバールに逆らう者を全て殺すことを許せるわけがなかった。
そしてシェバールはその皇子を用なしとみなし、国民の前で殺した。逆らえば子どもであろうと容赦なくこうなることを示すためだ。
シェバール国王の目論見通り、誰一人としてシェバールの取り組みに異議を唱える者などいなかった。長年兄に守られていた第2皇子さえももう生きる屍となっていた。
シェバール国王はその弟に殺す価値すら見出せず、これからの資金とするため他国の奴隷商人に高く売りつけた。元王族という肩書きのある少年は高く売れた。国王からすれば嬉しいことだった。だが様々な売りようがあると踏んで高額を払った奴隷商人からすればその少年を買い取ったことがあんなにも大損害を巻き起こすとは思っても見なかった。
なにせ少年はすでに生きる気力を失っており、いくら元王族という肩書きがあろうともこんな子どもを買い取っても何も面白いことなどないと誰もが商談には乗ってこないのだ。そして少年の見た目が、グリーラドの王族の特徴とは当てはまらない髪と目の色がそれを加速させた。それは他国から嫁いできた皇妃の何代か離れた先祖でも発現した色であり、親しい者からすれば彼が王族の血を引いているというのは紛れも無い事実であるとすぐにわかることではあるが。
そして次第に痩せ細っていく少年の姿に商人の管理さえも疑う者が多かった。
そうなればどんなに沢山の奴隷を抱えようが売れるわけもない。
商人は仕入れよりもうんと安い、けれども奴隷としては平均値よりも高い値段で手持ちの商品を全て一人の奴隷商人に売るとその職を自ら辞した。
その大量に奴隷を買い取った商人こそ、ギルファザード王国の王都でリリノアが会った商人である。
彼は多くの奴隷の買取を少し高いとは思っていたが、全体の質を考えればこんなものかとさして一人一人の出自までは気に留めなかった。
実際にそこで買い取った奴隷達はたった一人を除いては磨けば光るものばかりだった。
一人は少し身を整え、仕立てのいい服を着せれば貴族が使用人にしたいと名乗り出てきた。それは彼にとっての上客で一も二もなく売ることを決めると数ヶ月後にあの子はよく働くと追加料金まで握らせてくれたものだ。
そしてまた一人は元来手先が器用な性質らしく、毛糸と針を与えればたちどころに奴隷達の布団を編んで見せた。それが気に入られ、王都の張子に買われていった。それからしばらくして主人に金を返し終えたその奴隷はその店の張子として生きることを決めたのだとわざわざ報告に来たほどだ。
そしてまた一人はある日、魔導師の素質が見出され国に買われていった。今では王立学校に通っているのだと報告があった。
――とこんな風に売られていって、残りは少年ただ一人となった。
叩き売り状態で売られた少年がまさか元王族だとは知らない商人はなんとかしてこの少年も誰かいい人、出来ればそれは金払いも良ければいうことはないのだが、を探していた。
そんなところにやってきたのがリリノアである。
「おかわりはたくさんあるからたぁんと食べなさい!」
リリノアは知らない。
奴隷の彼のことなど何も知ろうともしない。
その証拠に彼女は家に一歩踏み入れるとすぐに少年の首輪の錠を外し、近くの席に座らせたかと思えばコンロに火をつけるための薪の上に奴隷所有書を破って積もらせた。そして迷いなく、マッチで火をつけたのである。
「クリームシチューはね、息子が好きだったのよ!」
料理の最中、リリノアは一人で話したい放題話した。
途中で彼女の家族だった夫と息子は他界していると耳にしたせいもあり、少年はずっと聞き手に回ることにした。もちろんそれは自分の過去をあまり語りたくはないという気持ちも少しはある。けれどこんなにも聞き手に飢えている目の前の女性の話を切ってしまうようなことはできなかったのである。
「あなたね、死んだ息子に、カインっていうんだけどね、あの子によく似ているのよ。だから見た途端、ビビビッてきちゃった。だからあそこからついつい連れてきちゃったんだけど、良かったかしら?」
少年には食べろと言っておきながら、リリノアは目の前のシチューに手もつけず、今度は顔を覗き込むようにして少年に話しかけた。
少年はまさか質問されるとは思わずにかきこんでいたスプーンの動きをそれを合図にぴたっと止めるとゆっくりと口の中の物を喉に送り込んでからゆっくりと口を開いた。
「私は奴隷です。あなたが望むのならどうしても構いません」
少年はリリノアの質問に我に返された。
今までのいくつかの行動はひと時の夢だったのだと自分に言い聞かせ、そして再び瞳の奥は闇を見つめた。
けれどリリノアは少年のそんな心持ちなどお構いなしに喜びに身体を震わせ、そして彼の両手を握った。
「あらほんとうに! ならあの子の、カインの弟になってちょうだい」
「え?」
リリノアの命令もとい頼み事は少年の今までの経験では処理しきれない異形のものだった。
だがリリノアはそれを拒否と受け取ったのか慌てた様子で少年から手を引くと、宙にそれを惑わせながら弁解を始めた。
「別に無理にとは言わないわよ? ほら、人生は本人が決めるものだし。そもそも私はあなたを買ったつもりはなくて、帰るところがあるなら今からでも帰っていいのよ? 遠いのなら、送るし……」
リリノアは少年がシチューを食べてくれただけで嬉しかった。その姿はまるで死んだ息子が一瞬でも帰ってきてくれたように見えたからだ。
『困っている人を助けられるような大人になりたいんだ』
カインは幼い頃から父と母にそう夢を語り、15になるとすぐに見習い騎士に志願した。見習い期間が終わったら王都を出て地元へ戻ってくるのだと、そして今までお世話になった人達の助けになりたいと彼はよく語っていた。そして3年間の見習いを終えたカインは再びこの地をその足で踏むことはなかった。彼はその身を投げ打って人を助けたのだ。
リリノアはそんな息子を、最後まで信念を貫き通したカインを誇りに思っている。だが悲しくないといえば嘘になる。最後に好物のシチューを食べさせてあげられたならと思わずにはいられなかった。それが今、叶ったような気がしたのだ。
「帰る場所は……」
「ないならここにいればいいわ。さっきのことは忘れてちょうだい。ただの、おばさんの戯言よ。だけどここにいるなら一つだけ答えてちょうだい」
「……はい。なんでも」
「シチュー、美味しかった?」
「ええ、とっても」
少年は申し訳なさそうに視線をリリノアから反らしながら、その反面で嬉しそうに、それを表には出さないようにしていた。
この国では奴隷が合法化されており、リリノアが奴隷を見たのは一度や二度ではない。この国では奴隷という身分は法律である程度守られており、他国のようにひどい扱いを受けるということはあまりないことはよく知っている。それでも息子とよく似た少年が売り買いされることが気に入らなかった。
例え今時間が巻き戻ったとして、再びあの状況に立たされたのならば間違いなくリリノアは商人に3万という金を支払っただろう。
首輪を外して、奴隷という身分さえもなかったことにして、そしてたらふくご飯を食べさせてやるために。
「そういえばあなた、名前はなんて言うの?」
リリノアが少年にそう尋ねたのは彼がリリノアの家にやって来てから2週間と経った時のことだった。
それも斜向かいの家の老夫婦から少年のことを尋ねられて、唯一名前だけは返答に困ったから聞いてみたのだった。
素性はカインの王都での知り合いということにした。それはいつか少年が旅立った後でも理由が付けやすいからというのと、リリノア自身の心の整理がつけやすいからという理由である。
名前を呼ばなかったのは居なくなった時の悲しみを少しでも少なくするためだったのだが、知らないと知らないで不便だと気づいた。
「……名前なんて、ありません」
少年は嘘を付いた。
名前を忘れていたわけではないが、目の前の女性に自分の本当の名を教えてしまえば穢れてしまうような気がしたのだ。
するとリリノアは「あらそうなの?」とそれ以上聞き出すことはしなかった。
その代わりにうんうんと唸ってからそうだと閃いたように手を打った。
「なら、ケイネスなんてどう?」
「ケイネス……」
「そう。昔、魔王を倒した勇者の名前でね、ほらこの本にも載っているのよ!」
リリノアは息子のカインが幼い頃、寝るときですら離さなかったお気に入りの本を本棚から取り出して、開き跡のついたそのページを指差した。
「私の、名前」
「どう? 気に入らないなら他のものにしても全然……」
「いえ、私の名前は今日からケイネスです」
その名前は少年の元の名前からはかけ離れていたが、妙にしっくりと彼の心に出来た穴にスッポリとハマった。
おそらくそれがケビンであろうとアベルであろうと、なんでも良かったのだ。
己を買ってくれたリリノアから与えられた名前はその場に少年が生きているという、生きていてもいいのだという証明になるのだから。
少年はその日、呼ばれることのなくなった過去の名を捨て、ケイネスとして生きることに決めた。
もちろん亡くなった父と母、そして兄のことを忘れたわけではない。だが彼らは死の道を、少年は生の道を進むのだ。彼らとてずっと引きずり続けて生きることを望みはしないはずだ。
リリノアと出会ってまだひと月も経ってはいないが、彼女と過ごす日々は、彼女の作る手料理はケイネスに生きる気力を与えるには十分だった。
次第に元気を取り戻し、それと同時に身体に肉を付けていったケイネスをリリノアは畑に山にと連れ出すようになった。
「働かざる者食うべからずよ!」
働き手が増えたと同時に食いぶちも増えたのだからこれは使わなければ損だとケイネスがこれから生活していく中で覚えなければいけないことを少しずつ教えていった。
ケイネスは驚くべきほどに物事を知らなかったが、夫と息子が亡くなってからは退屈な日々を過ごし続けていたリリノアにとって彼の知らないことを教えていくことにやり甲斐を感じるものだった。
ケイネスのあまり動かない表情を変えているのは自分なのだと思うと、まるで昔に帰ったような気になるのだ。
もちろんリリノアとてケイネスが息子のカインではないことは重々に理解しているし、彼が家族ではないことも分かっている。
それでもいつかは居なくなってしまうであろう少年との時間を楽しもうと思ったのだ。
それから5年が経ち、ケイネスは王都にいた頃からは想像できないほどによく笑うようになった。それだけではなく、石のように真っ白だった肌は畑仕事のせいでほんのりと焼けており、骨と皮ばかりだった腕はリリノアの手料理と鍬に鍛えられたおかげでほどよく筋肉がついている。
今や村ではカインの弟なのではないかと言われるほどにケイネスはよく馴染んでいる。もちろん村人とて本当にそう思っているわけではない。彼らは彼女の亡き夫も息子もよく知っているのだから。
だが2人だけを見ていれば親子にしか見えないのだ。
それほどまでに2人は幸せそうに見え、事実幸せだった。
2人は心の中でこの生活がいつかは終わってしまうとビクついていたが、2人は揃って心の奥底で永遠に続いて欲しいと願っていた。
そんな時だった。ある日、勇者選出の御触れが回った。
紙に書かれたのは歴代の勇者に当てはまる身体的な特徴だった。
それに当てはまるものは王都にある勇者の剣を引き抜くチャンスを得ることが出来る――と。
それはケイネスの容姿と合致した。
だが自分が選ばれるはずなどないと彼が王都に出向くことはなかった。
それから一月ほどすると王国各地に騎士が派遣された。
どうやら勇者が見つからなかったらしいのだ。ならば勇者の特徴と合致する者をこちらから探し出そうという魂胆らしい。
それから数週間としないうちに田舎の村に不似合いなほどに綺麗な馬車がやって来た。そしてその馬車は噂を辿り、リリノアの家の前に止まった。
そして馬車から出てきた騎士は「これは王命である」とリリノアにはよくわからない公式の文書を突き出して、代わりにケイネスを馬車へと乗せてしまった。
「すぐに帰ってきます。帰ったら芋の収穫を手伝いますから」
去り際にケイネスはそう言い残した。実際にこの時のケイネスは本当にそうするつもりだったのだ。
――勇者に、選ばれるまでは。
王都の外れにある森の最奥の大石に突き刺さった剣を抜けと命令され、ケイネスは他の少年たちがそうしたように柄に手をかけた。
するとそれは今までピクともしなかったのが嘘のようにケイネスの手に吸い込まれるようにして引き抜かれた。
「彼こそが勇者だ!」
そう周りの人間が木霊するかのように声を上げ続けた。
けれどケイネスにはその意味が理解できなかった。なにせ彼はこれからあの村へと帰ってリリノアと共に芋の収穫をするつもりだったのだから。
けれど誰もケイネスの都合など気にする者はいなかった。
村に帰りたいのだと再三伝える彼はすぐに謁見の間に連れられ、先に選定されていたのだという騎士と魔導師、そして聖女に会わされた。
そこでようやくケイネスは勇者というものになってしまったのだと理解した。
早速冒険に出かけるように言われたケイネスは途中、国王から渡された金でリリノアへ向けて手紙を書いた。
収穫を手伝えないことを申し訳なく思う――とそんな旨を書き記した。
そしてそれから村につくたびに彼はリリノアへと手紙を出した。必ず彼女の好きそうな土産品を添えて。
けれど一度だって自分の居場所や現状を記すことはなかった。
そのことが村に残されたリリノアには歯がゆくて仕方がなかった。
名産品よりも、季節が巡る度に収穫が手伝えないとの謝罪の言葉よりも、彼女はケイネスのことが知りたいのだ。
ご飯はちゃんと食べているのか。
勇者というのは危なくはないのか。健康に気をつけているか。
仲間とは上手くいっているのか。
かつてカインにもっと自分のことを書いてくれと怒ったことがあった。彼はいつだって自分のことは後回しで、友人のことやこちらを伺うことしか書かなかったのだ。
そう思うとやはりケイネスは見た目だけではなく、中身までもカインに似ているのかもしれないとリリノアは顔を歪めるのだった。
そして彼が王都へと旅立った日から欠かさず行なっている、森の聖域への供物の献上を今日も今日とて続けるのであった。
例えケイネスが二度と村に戻っては来なくとも、彼が幸せに暮らせることだけを祈ったのだ。
その願いが神に通じたのか、ケイネスと仲間たちは大きな怪我をすることなく魔王城へと辿り着いた。そして力を合わせて魔王の元へと辿り着いたのである。
交戦中、魔王は何度となくケイネスに揺さぶりをかけた。
「手を組まないか? 私ならお前の敵を全滅させることが出来る」――と。
けれどケイネスは揺らぐことなく、彼に剣を突き立てた。
「私は復讐など望まない」
空気中に舞って消える魔王の身体を構成していた黒い塊に宣言する。
復讐などのために生きてなるものかと。
確かに彼はあの日まで人という人が憎くてたまらなかった。けれどリリノアに会って変わったのだ。
リンゴを分けてくれる男がいた。
シチューを食わせてくれるリリノアがいた。
2人で分けて食べなさいと野菜をおすそ分けしてくれる老夫婦がいた。
奴隷出身だと打ち明けてもなお変わらず肩を組んでくれる仲間がいた。
ケイネスの目に宿るのは復讐なんてものではなく、彼らと出会えたこと、そして共に生きられることへの希望なのだ。
旅の目的であった魔王討伐を済ませた勇者一行は足早に王都へと戻った。
それは早く村へと戻りたいというケイネスの意思を最大限に尊重したものだった。
行きの半分もかからないほどの時間で王都へと到着した勇者一行はすぐさま国王陛下への謁見を申し出た。
「此度の活躍、褒めてつかわす。ひいては貴公らに報酬を与えよう」
長々とした祝辞の後で、国王陛下は初めに彼らに約束した通りに褒美の品を与えようというのだ。
すると初めに口を開いたのはケイネスだった。
「ならば私にこの城で一番脚の早い馬を貸していただけませんか?」
一国を救った勇者の願いにしては小さな願いに国王陛下は首を傾げた。なにせ国王陛下は彼らが何を望もうとも叶えてやるつもりだったのだ。まさかその報奨にと望むものが馬だとは想像だにしていなかった。それも貸してくれというのだ。
「馬など何に使うのだ?」
そう問わずにはいられなかった。
するとケイネスは真面目な顔をして答えた。
「村へと帰るのです」――と。
国王陛下はその答えにますます疑問が深まるばかりである。
「なに、帰りの馬車なら出してやる。他に望むものはないのか?」
勇者はあまりにも謙遜な男であると、褒美なのだからもっと強欲になれと国王は促した。けれどその言葉にケイネスはゆっくりと左右に首を振る。
「私が望むのはあの村での、リリノアさんとの生活なのです。これ以上望むものなどありません」
ケイネスにとってはそれが何より幸せなことなのだ。
大きな屋敷で昔のような高級料理を食べるよりも、あの温かな部屋で彼女の作ってくれたシチューが食べたいのだ。
使用人に世話されるよりも彼女と共に畑を耕していたい。そして皺だらけの指で写真を撫でながら話す夫と息子との思い出話を聞かせて欲しいのだ。
「だがな……」
国王陛下はウンウンと唸って困ってしまった。今までの文献を読み返しても一度だってそんな無欲な勇者など居なかったのだ。
名誉や称号、金や地位、それらを望むのが常であり、そしてそれを今までの国王は彼らが望むがままに与えてきた。それこそが彼らへの一番の労いになるからである。
だが目の前の勇者はそれを望まないのだ。それでは国王側が困ってしまうのだ。彼が望まないにしてもそれだけではあまりに彼自身の活躍には見合わない。そんなチンケな褒美しか与えられないとなれば子孫に笑われてしまうし、何より先祖に顔向けもできやしない。
国王は何とか彼に他の報酬を与えようと「屋敷はどうだ?」「一生暮らすに困らない金をやろう」と次々に案をひねり出した。けれどケイネスはフルフルと首を振ってそれらを拒否した。
すると今まで黙っていた3人が順番に口を開いた。
「国王陛下、どうか彼をいち早く村まで返してやってはいただけませんか?」
「彼の養母に会わせてやりたいのです」
「彼に馬を貸してあげてください」
そして3人ともが自らは何も欲しはしないと、だから勇者の望みを叶えてやって欲しいと深々と頭を下げた。
すると国王陛下はいよいよ彼らに何かを与えることを諦めた。勇者一行が揃って望んだその願いを叶えられなければ王家の恥だと思ったのだ。
国王陛下はすぐに兵を呼びつけ、城で一番脚の早い馬を用意させた。
ケイネスは少ない荷物の中から、リリノアからカインのお下がりで悪いんだけどともらった服を取り出して着替えた。
彼女に会うのに一切の武装など要らないのだ。
道中何かあると困るだろうとわずかな金を国王陛下から半ば無理矢理握らされ、ケイネスはその日中に城を発つことにした。
だが1つ心残りがあった。
それは魔王を倒すために共に戦ってくれた3人の願いを叶える場を壊してしまったことだった。
3人にすまないことをしたと詫びると彼らは揃って気にするなと笑った。
だが彼らがケイネスを理解してくれていたのと同じように彼自身も彼らのことをよく知っているのだ。
「リンドは家の再興をする予定だったのに……」
騎士リンドは没落貴族の長男として生まれ、4人の弟妹を養うべく王都へと出稼ぎにやって来ていた。今回の魔王討伐に名乗りを上げたのは目先の事前報酬と、そして国王陛下の提示したどんな願いでも叶えるという達成報酬のためだった。彼は報酬で爵位の向上を望む予定だった。
「シュタイナーは国庫に保管されている魔道書を読むためにこの戦いに参加したんだろう?」
魔導師シュタイナーは産まれてすぐ、その魔力量から貴族の養子として迎え入れられた。だが彼は何処にいても貴族の血が流れていないことを嘲笑われ、いつも1人だった。そんな中で唯一の救いだったのは魔道書だった。そして彼は生涯で世界中の魔道書を読み尽くすことだけが生きる喜びだった。
「フランは各地に教会を作って欲しいと……」
聖女フランはまだ各地にバラツキのある教会の数を地域差のないものにしたいと嘆願するつもりだったのだ。
自分とは違い、3人には命を懸けた戦いに臨むからには叶えて願いがあった。彼らのせっかくの機会を潰してしまったと、ケイネスは何と詫びればいいのかわからずに苦悶の表情を浮かべていた。
けれどケイネスを励ますかのように彼らは一層顔色を明るくしてみせた。
「家の復興なんてんなもん、王様に願わなくたってお前たちと共に戦ったこの腕さえあれば出来んだろ!」
「魔道書なんて今さら読まなくたっていいんですよ。もう、そのような物に縋らなくても生きていけますから」
「旅の道中、たくさんのシスターにお会いしました。彼女たちと共になら迷える子供たちを救うことはできます」
「みんな……」
何といい仲間と巡り会えたのだろうと感極まり、涙で視界は歪んでしまう。これでは馬の制御なんて出来るはずもない。指先で止めどもなく溢れる涙を拭っているとリンドはその背中を勢いよくバンと叩いた。
「そんなわけで、俺は万年金欠の生活に戻るから実家に帰ったら芋でも送ってくれ」
「それなら私は近くの森に自生してるという薬草を送ってもらいましょうか」
「お二人とも……」
「フランも今のうちに何か頼んどけよ。ここで別れたらこいつ、一般人に戻るんだぜ?」
「……でしたら時々でいいので手紙をいただけますか?」
「ああ」
それくらいは安いものだと目を細めると歪んだ視界の中心を陣取るリンドは慌てたように、そしてシュタイナーは疑うように付け加える。
「もちろん芋の箱にもいれろよ?」
「薬草だけ送ってきたらそれでおしまいになどしてはいけませんよ?」
「みんな……本当にありがとう。一緒に旅をしたのがお前たちで良かった……」
「まぁ、俺よりも強いやつなんてお前くらいだしな!」
「書斎に籠る以外の生活も悪くはありませんでしたよ」
「神のお導きに感謝しなければなりませんね」
「じゃな」
「ん」「はい」「ケイネス様の前途に加護があらんことを」
3人に早く帰れと背中を押され、ケイネスは王都を発った。
一番脚の早い馬をと所望しただけあって、その馬はまるで風に乗っているかのように風の抵抗なく走り続けた。
そして1日ほど走らせるとそこには見慣れた屋根があった。
間違いなくリリノアの家である。
馬を近くの木にくくりつけ、地上へと降り立ったケイネスは急く足をそちらへと向けて走った。
そしていよいよドアの前へと辿り着いて、はたととあることに気づく。
自分はこの場に帰ってきても良かったのかと。
そう思えば自然と身体は震えだした。
ずっとこの場に帰ることだけを目指していたのだ。ここは実家でも何でもないというのに、だ。
だがそんな不安は畑に行くためにとドアを開いたリリノアによって払拭される。
彼女はドアの前に佇むケイネスを見て、まず初めに言ったのだ。
「おかえりなさい」――と。
それだけでケイネスの心は羽根のように軽く、舞い上がる。
「ただいま、帰りました」
自然と口から溢れでたのはずっと、彼が言いたかった言葉だった。
ケイネスは自身がここへと帰ってきたのだという事実に心が持てる容量を越えて溢れてしまうのではないかと疑うほどに満ちていた。
「ケイネスが帰ってきたなら今日はクリームシチューね! 久々に腕がなるわね!」
「3年ぶりのクリームシチュー、楽しみです……」
出来たシチューを食べながらケイネスはリリノアに旅の道中での出来事を伝える。
騎士にカインと間違えられたこと。
彼が仲間たちに、街の人たちにどれだけ慕われていたのか教えてもらったこと。
謁見の間で初めて会った仲間たちのこと。
彼らと過ごした三年のこと。
そして別れ際、彼らに大きな借りを作ってしまったこと。
「お芋に、薬草に、手紙……ね。お芋はまだだけど、薬草なら今も森にいっぱいなってるから明日一緒に採ってきましょ!」
「うん」
「お手紙は、買ってこないとないわね……」
「それは大丈夫。帰り際にたくさん持たされたから」
「あらあらあらあら。こんなにいっぱい! 張り切って書かなくっちゃね!」
「それも同時に届くようにしなくちゃ」
子どものようにはしゃぐリリノアをケイネスは幸せそうに眺めていた。
けれどリリノアは唐突にその表情を真面目なものへと変えると「ケイネス」と少しだけ低くなった声で彼を呼んだ。
「何でしょう?」
釣られてケイネスも身体を固くさせる。
「……あなたはこのまま、ここにいたい?」
「それは、どういうことでしょう……」
「あなたはこの3年でいろんな場所を回ったって言ったでしょう? だからもしかしたらやりたいこと、行きたい場所ができたんじゃないかって。別にここに縛られていなくてもいいのよ? あなたのお友達みたいにお手紙さえ送って近況を伝えてくれれば、私はそれで充分よ」
「……彼らは自分の願いよりも俺の願いを優先してくれました。この家に、リリノアさんの元に一日でも早く帰ってこれるように」
「ケイネス……」
「リリノアさん、俺はこれからもあなたの側にずっといたい。出来ないことも知らないこともまだ多いけど、それでも支えられるように頑張るから。だからどうかこれからもここに置いてください」
「馬鹿ねぇ。そんなことを聞くなんて。好きなだけここにいなさいって言ったのは私なんだから気にしなくてもいいのよ」
リリノアはそういうと初めてケイネスの前で涙を流した。
王都に残った3人の仲間の元に届く手紙にはいつだってリリノアの姿があった。
国を救った勇者が愛した、彼の家族の姿が。