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第3章 昨日の話

 昨日の話をしよう。


 遺体が発見されたのは今日の早朝だが、女生徒が殺されたのはそのさらに前、つまり昨日の夕方だった。このことは、たぶん一般には発表されていない。知っているのは僕と、捜査に来た警察と、そして犯人だけだろう。


 時刻は午後六時くらいだった。季節がら日は長く、日没まではもう少しだけ時間がある。

 空はオレンジから徐々に夜色へと染まっていくが、校舎内はなお一層暗かった。

 誰もいない教室。

 照明の灯っていない廊下。

 当たり前の日常を過ごす空間が、まるで別世界になる様を眺めるのが、僕は好きだった。

 だからというわけではないが、ちょっとした違和感を放つその場所に興味が向いてしまったのは、別に偶然ではなかったのかもしれない。


 そこは閉まっているはずの保健室だった。


 保険医が出張のため、三日間ほど保健室が使えないことは全校生徒が知っている。今日の帰り際、担任の塩崎からそう伝えられた。もしどうしても治療が必要な場合は、職員室に予備の鍵があるので、誰かに許可を得てから使用するように、とも。

 だから保健室の扉が開いていること自体には、それほど不思議ではない。


 けどこんな時間に? 誰が?


 一番気になったのは、保健室内に明かりが灯っていないことだった。しかも廊下と比べて異常に暗い。室内のカーテンを閉め切っているのだろうが、何故?


 誰かが使用した後、閉め忘れて帰ったという可能性もある。だが、僕の好奇心に従順な二本の足は、ちょっとした冒険に向けて進まずにはいられなかった。


「どうして君がここにいるの?」


 それは最初、どちらが口にしたのか分からなかった。いや、どちらが口にしたとしても問題がないことには、すぐに気づいた。僕から『彼女』に言ったんだとしても、『彼女』から僕に愚痴ったのだとしても、同じことだ。


 どうして僕がここにいるのか、どうして『彼女』がここにいるのか、それはどちらでも同じこと。


 保健室の中、入り口付近に『彼女』が立っていた。佇んでいたともいう。

 肩越しに振り向いて、僕を睨む。その顔があまりにも白すぎて、真っ暗闇の中で立体的に浮かび上がっているよう。いつもは愛しい『彼女』の蔑む目線が、この時ばかりは少しだけ恐かった。


 室内は何も見えないほどに暗かった。本来窓がある場所をカーテンが覆っていることと、扉から差し込む微弱な夕日が、ほんの数メートル先の床をかろうじて照らしているだけ。保健室に一度もお世話になったことがなく、かつ未だ暗闇に目の慣れていない僕が足を踏み入れるのは、少々危険な気がした。

 なので僕は、目の前の『彼女』と談笑に興じた。


「また思いもよらない場所で出会うことになったね。やっぱり僕と君は、運命の赤い糸で結ばれてるのかな?」

「うるさい、黙れ、死ね」


 はい、終了。今日は逃げないから、会話に付き合ってくれる雰囲気だと思ったのに。


 しかし雰囲気と言えば、なんだかとても物々しい。それに変な臭いもする。消毒液独特の臭いにもあまり良い思い出は無いけれど、それに混じって更なる異臭が嗅ぎ取れる。窓もカーテンも閉じているため熱気が籠っているからか、妙に空気が沈んでいる。具体的に言えば、汗臭さだ。夏場の体育倉庫の臭いに似ているが……いや、この臭いはもっと生物的な……。


「一応忠告だけはしておくけど、その先には行かない方がいいわよ」

「え……?」


 気づいたら、『彼女』が後ろにいた。単に僕が室内へと歩を進めただけだったが、無意識のうちに足が動いていたことに驚いてしまう。しかし『彼女』の忠告を受けてもなお、僕の足は闇へ踏み込むことに躊躇いはなかった。

 一歩踏み出し、息を呑む。

 このシチュエーションは、僕が日常的にしていた妄想とほぼ同じだった。

 保健室。

 暗闇。


 そして……ベッドの上に横たわる少女。


 一つだけ違うのは、少女がまったく動かないこと。

 手首に触れてみる。温かいが、脈はなかった。口と鼻に手をかざしてみる。呼吸をしていなかった。さすがに鼓動を聞くのは憚れたが、結果は間違いなかった。


 死んでいる。


 これは……ダメだ。こんなことあってはならない。


 気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。


 違う。違う。僕はこんな妄想をしていたわけじゃない。僕の妄想は、もっと安穏で、平凡で、当たり前のような快楽があって……。


「それは私じゃない」


 振り向く。意味不明なことを言った『彼女』は、無表情のまま未だそこに佇んでいた。

 傍に『彼女』がいたことが、高鳴った僕の動悸を抑えてくれる。安心したのだ。一人じゃないことが、今はとても心強かった。


 そう、何も動揺することじゃない。誰かも分からぬ女生徒が死んだところで、僕の平穏が崩れるわけじゃない。『彼女』はそこにいる。『彼女』だけが人生のすべてである僕にとって、この少女が死んでしまったことは、取るに足らない問題なのだ。


 改めて、ベッドの上の死体を眺める。気持ち悪さは治まった。室内に漂う異臭に対する吐き気を除けば、だが。


 徐々に落ち着きある僕の思考は、冷静に今後のことを考える。

 やるべきことは二つ。そして選択肢は一つだけ。

 早々にここから去り、警察に通報する。

 だが……。

 一つの可能性が、僕から行動力を奪った。


「この娘、君が殺したのかい?」


 振り向いて、問いただす。

 『彼女』は肯定するのでも否定するのでもなく、ただ曖昧に微笑んだだけだった。


「君なら解るでしょ?」


 そのたった一言で断定した。これは殺人事件だ。

 そして犯人は、たぶん……。


「どうするの?」


 無感情な『彼女』の問いかけに、はっと我に返った。どうやら、今後の成り行きと自分がどうするべきかを試行錯誤していたらしい。思考の海から帰還しても、ベッドの上の死体と『彼女』は変わらずそこにいた。


「どうするもこうするも、僕にできることなんて一つもない。せいぜい、この現場を見なかったことにするだけだ」

「そう……」


 悲しげな表情を隠すように顔を伏せた『彼女』は、踵を返すと音もなく保健室から出て行った。そんな『彼女』の背中を、僕は追おうともしない。追う意味はない。だって『彼女』は逃げたのではなく、僕のすることを肯定してくれたのだから。


 ベッドの上の少女から目を離さないまま、一歩二歩と身を引いた。三歩目で少女の輪郭が闇へと溶け込む。四歩目で完全に見えなくなった。


 あとはこのまま帰るのみ。すべてを見なかったことにし、事の成り行きを見守るだけ。

 そう思って、僕もまた『彼女』のように退室しようとしたのだが。


「これは……?」


 偶然にも、デスクの上に鍵が置いてあるのを発見した。本来鍵が閉まっているはずの保健室だったのだ。つまり犯人は鍵をデスクの上に置き、行為の後は忘れて逃げたのだろう。もしくは意図的に扉を開けたままにしておいたのか……いや、それはあり得ない。


 僕は最後、保健室の鍵を閉めてから帰路についた。

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