第23章 僕の決意
あらかた質問し終えた桜枝刑事が、病室を出て行った。それと入れ替わりに、白衣姿の女性が入ってくる。胸の大きさから、たぶん赤木先生だろう。いやいや、別に僕がエロ餓鬼だから胸を凝視してたわけじゃなくて、単なる確認作業ですよ。顔以外に、特徴的な場所を覚えなきゃなりませんからね、僕は。
けど、今はそんな冗談を言えるような精神状態ではなかった。
「顔色が悪いようだけど、何かひどいことでも言われたのかい?」
「むしろひどいのは先生の方ですよ」
「私が?」
「僕の家族を演じていたあの人の名前を教えてください」
すかさず問いただした。
少しだけ間を置いた赤木先生が、呼吸とともにその名を零す。
「荊木小百合というらしい。君と同じ高校に通っているそうだ」
息が詰まる思いだった。いつもは僕の口からしか発しないその名が他人から漏れ、とても新鮮味を感じられた。いばらきさゆり。素敵な名前であり、愛おしくもあり、僕を幸福へと導いてくれる呪文でもあった。
でもだからこそ、少しばかり恨みがましくなってしまう。
「どうして……」
どうしてもっと早く言ってくれなかったのか。
八つ当たりのように、赤木先生を責めてしまうところだったが、寸でのところで気持ちを抑え込み、僕の怒りはベッドのシーツを強く握りしめるだけで終わった。
先生は僕と荊木さんの関係など……僕がどれほど強く荊木さんを想っているかなど、知る由もないのだ。それに彼女の名を聞くのは、僕自身が拒んだ。先生は決して悪くはない。僕を騙していたことについての謝罪は、もう聞いた。
でも、それじゃあやっぱり、荊木さんは生きていたんだ。
たった一つの事実が起爆剤となり、胸の中の至福が膨張する。あまりの幸福感に圧迫され、呼吸が困難になるほど嬉しかった。
「先生、今から時間はありますか?」
「もう夕方だよ。診察時間はもうすぐ終わる。私は職務から解放されるわけだ。本来なら面会時間も終わりだが、私は立場上特別扱いでね。つまりこれから数時間は君と一緒にいられることができる」
なんだよ、その遠回しな言い方は。と、ちょっと苦笑してしまった。
だがちょうどいい。
「じゃあ、ちょっとだけお話ししてくれませんか?」
「何の話にする?」
「昔話をお願いします」
彼女がどういう経緯で僕の家族を演じ始めたのか。失ってしまったこの一年間の出来事を、僕は知りたかった。
赤木先生の話を聞いていると、いつの間にか夜になっていた。主治医と言えど、さすがに消灯時間までは患者と面会できないようで、後日また見舞いに来ると約束を残して退室していった。
僕は堅いベッドに背中を預け、真っ暗な天井をじっと見つめていた。
この一年間、彼女と過ごしてきた日常を思い返す。
長いようで短く、いろんな事があったようで劇的な出来事もない一年だった。当たり前のように起きて、当たり前のように寝る。当たり前のように生きて、当たり前のように活きる。そして当たり前のように接し、当たり前のように会話をする。
僕に当たり前の生活をくれた彼女。
母親であり、妹であり、時には見知らぬ友人であった彼女。
僕のすべてを支えてくれた人が、僕が最も愛した彼女だった。
……こんな幸せ、他にない。
枕を抱いて悶絶する。
彼女のことで頭がいっぱいだった。彼女のことしか考えられなかった。彼女に会いたかった。
あぁ、会いたい。今すぐ会いたい!
堪えきれない願望は、突発的な行動の動力源となる。
ベッドの上で上半身を起こした。真っ暗でほとんど何も見えない。でも消灯時間から何時間も経っているだろう。眠気と腹時計からして、深夜三時か四時か。どのみち、高校生が起きている時間帯ではない。
けど、僕の中で暴れる興奮は、常識という枷に囚われることはなかった。
彼女に会いたい。その一心で、僕は病院を抜け出した。
***
腹が痛くて歩む足が遅かったため、家に到着するまで意外と時間がかかった。すでに東の空が白ばんでいる。病院を出た時には物音一つしないほど夜が深かったのに、すでに世間の喧騒が出始めていた。いったい、何時間歩いたんだろうな。
しかし陽が昇らないうちに帰宅できたのは運が良かった。朝早く、手術着で世間を往来していれば普通に通報ものだろうから。
所定の位置に隠してある鍵で、玄関を開けた。三日ぶりの我が家だ。彼女はどうしているだろう。喧嘩別れしてから、路上に倒れている僕を発見したようだが、彼女はそのままここで住み続けたのだろうか。いや、僕のいない家に留まっていても意味はない。もしかしたら、彼女はここにはいないかもしれない。
早く会いたいと願いながらも、それほど期待はせずに家に上がった。
しかし――。
「なんだ……これ……」
家の中は普通だった。普通すぎて驚いてしまった。
空き巣に入られ荒らされているわけではない。三日前と比べて、特別様変わりしているわけでもない。ただ無機質だった。
あらゆる物が整理整頓されている。食器も片付けられている。掃除もある程度はこなされている。普段と違うところと言えば、三日間家を空けていたための、籠った空気のみ。そこはまるで、従業員が欠伸交じりに整えた、ホテルの一室のようだった。
つまり生活臭がまったく感じられないのである。
……いや、たった三日やそこらで、そうそう変化するわけがない。僕が感じ取ったのは、意図的に生活臭が消された痕跡だった。
僕と彼女の二人が過ごした匂いが、見事に消失していた。
だからこその驚愕。誰がどういった意図で、そんな面倒なことをするのか。
誰か、といえば彼女しかいない。けど、どうして? どういった目的で?
僕の脳裏に浮かんだのは、最悪な予想だった。
自分が存在していた証を消そうという行動は、つまりもうここには戻らないという意思なんじゃないか? 僕が……彼女を責めてしまったせいで……。
鳥肌が立った。ほんの数時間前までは幸せの絶頂だったはずなのに、一気に不幸のどん底に突き落とされた気分だ。彼女に会えなくなるということ。それはつまり、僕に生きる理由が無くなるということ。
会いたい。彼女に会って確かめたい。
僕は自分の部屋に向かった。あまり入らないでほしいと、母親となった彼女に言い含めていたためか、そこだけは手を付けた様子がなかった。記憶の中にある、最後に見た自室とすべてが同じ配置だった。
机の上に乱雑に放置された教科書等。脱ぎ散らかされた制服。出しっぱなしの最新ハードゲーム機。どれも僕しか手を付けず、彼女の匂いはしない物ばかりだった。
その中で、ちょっと異質なある物を発見する。
保健室の鍵だった。そういえば死体を発見したあの日から、ずっと借りっぱなしだったっけ。
痛む腹を押さえながら、僕はその鍵を強く握りしめた。
今日は平日だったか。なら普通に学校もある。奇妙な生活を送ってきた彼女も、普通に通学するだろう。学校に行けば、彼女に会えるはずだ。
いてもたってもいられず、僕は制服へと着替えた。
正直、刺された場所は気絶するほど痛かった。傷は開いていないようだが、激痛は四肢を完全に脱力させるほど。制服に着替えること一つとっても、相当な時間を要した。まったくもどかしく、嫌になるくらい身体が動かないが、今さらやめるわけにもいかない。
ようやく気が終え、不備がないか鏡を見て確かめる。服装はともかく、顔色が最悪だった。目の下にはどす黒い隈が浮かんでいるし、全体的に青白い。もし僕に表情を認識できる能力があったら、まったく別人だと思っていたかもしれない。
ま、どうでもいい。
僕のことなどどうでもいい。体調のことなど、腹のことなど関心がない。
ただ今は、彼女のことを想うのみ。
揺れる足取りで、家を出た。行きだけは楽だった下り坂も、歩くスピードが速くなって震動が腹に伝わり、今はとても苦痛だった。何度も立ち止まって休憩したが、額から滲む冷や汗は止まらない。徐々に視界も虚ろになってきた。
だがここで倒れるわけにもいかない。
生まれてこの方あまり出したことのなかった本気を意地でも発揮し、長時間かけてようやく学校へと到着した。授業中なのか、校内は変に静まり返っている。校庭で体育が行われていなくてよかった。
誰にも見咎められることなく、僕は下駄箱で靴を替える。
大事な大事な彼女を求め――僕は保健室の扉を開いた。
***
「誰か……たす……けて」
その一言を引き金に、僕は飛び出した。暗闇の中、がむしゃらに突進する。近場にあった物を手に取った。たぶんデスクチェアだろう。腹筋に力の入らない僕でも軽々と持ち上げられる代物だが、無いよりはましだ。今はなりふり構ってられない。
デスクチェアを頭の上まで振り上げ、救援者に覆いかぶさろうとしている人型の輪郭へと叩きつけた。手ごたえあり。あまりにも不意打ちだったためか、その人間はガードすらできなかったようだ。降り注いだ衝撃に耐えきれず、バランスを崩す。
「ひっ……!」
男の短い悲鳴。デスクチェアが軽すぎるためか、それほどダメージは与えられなかったようだ。ならば何度も殴打して、意識を奪うのみ。
僕は再びデスクチェアを振り上げた。
が、思わぬ悲運に見舞われた。
男が床に倒れてしまったため、暗闇と完全に同化してしまい、輪郭すらもあやふやな状態となってしまった。未だ暗闇に目の慣れていない僕は、倒れた動作と今の悲鳴から、男の位置を予想する。
ヒット。しかし頭ではないようだ。このままでは形勢を維持できない。相手が混乱から醒めて反撃されれば、勝ち目はない。ただでさえ、こちらは衰弱しているのだ。何とかして相手の意識を奪いたかったが……。
限界だった。
三度目のデスクチェアを振り上げた瞬間、下腹部に激痛が奔った。同時に両脚の力が抜ける。間抜けにも、僕もその場で両膝をついた。
額と背中から汗が滲み出る。冷や汗なのか脂汗なのか。どちらにせよ、これはマズイ。
息を荒げ、目の前の男を睨む。まったくの暗闇だからそれで怖気づいたわけではないようだが、身じろぎした男は咄嗟に立ち上がり、小さな悲鳴を上げて出口へ駆けていく。
暗闇が功を奏したようだ。相手はこちらが手負いだとは気付いていないだろう。
けど、外へ出すわけにはいかない。一度逃してしまったら、他人の顔を見分けられない僕が追うことが困難になってしまう。
「待……て……」
残念ながら、間に合わなかった。
背を向け、保健室の扉の鍵を開けた男は、一目散に廊下へと飛び出していった。おぼつかない足取りを壁で支えながら、僕は必死で男の背中を追った。
だが無理だった。
下腹部辺りから、血が滲み出る。傷口が開いたのだ。病院から自宅を経由して学校へ。そしてデスクチェアを大きく振りかぶったのが、祟ったのだろう。いやむしろ、よくここまでもったものだと、縫合した医者と自分の気力を褒めるべきか。
耳鳴りがするほど静かで、淡い蛍光灯の光が照らす廊下に腰を下ろした。
壁に背を預けて、腹を押さえていた手の平を凝視する。
真っ赤だった。どうしようもなく僕は生きていて、そして今にも死にそうだった。
……自分の血を見て生きてることを実感するなんて、僕は真正の変態か何かかよ。
自嘲気味に笑ってみる。このまま静かに眠れそうだった。
「××××君!」
誰かが叫んでいる。何を言っているかは分からなかったが、声は聞こえた。
そしてその声の持ち主が、もっとも聞き慣れた人物の物だということも、朦朧とする頭で理解できた。
すでに首を動かす気力もない。ぼんやりと自分の腹の辺りを眺めていると、視界の端から女の子が駆け寄ってくるのが見えた。
「どうして……君が?」
女の子は泣いていた。僕を心配してくれているのか、それともとても怖い目に遭ったのか。
僕は最後の体力を振り絞り、血まみれの手で女の子の頭を撫でた。
「もう、大丈夫だよ」
この人はたぶん、荊木小百合さんなのだろう。けど僕には、彼女の表情が分からない。彼女が誰なのかを知るすべはない。人の顔を認識する機能を失ってから一生、荊木さんには会えないだろう。
そう思っていた。
でも違った。簡単なことだったんだ。彼女が荊木小百合であることを証明するのは、たった一つのことをするだけだった。
僕は、涙の溢れる彼女の瞳をじっと見つめた。
それは、半年くらいずっと保留にしていた言葉。僕の日常生活を崩壊させるかもしれない一言だった。
けどもういい。僕は家族なんていらない。彼女が側にいれば、それでいい。
多くの物を失い、そして一番大事な物を手に入れられる魔法の言葉を、僕は呟いた。
「君はいったい……誰なんだ?」




