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第22章 私の決意

 次の日、私はとある物を購入していたため、学校に遅刻してしまった。だが、どうでもいい。授業など、私の日常生活においては取るに足らないこと。奴さえ排除できれば、いつでも安心して受けることができるのだ。今はあらゆる苦痛に耐えるのみ。


 午後の授業を受けながら、私はこの後のことだけを考えていた。


 覚悟はできているといっても、恐怖を感じていないわけではなかった。怖い。できれば逃げ出したい。一年前の悪夢の再現は、私にとっては死に直結するほどの悲劇だろう。実際に、一歩間違えば自殺に至っていたのだから、あながち間違いではない。


 でも……たぶん避けられない。いや、避けるつもりはなかった。

 すべては彼のため。熊谷の罪を、より一層重くするため。

 マネキンのような無機質な仮面を被った私は、静かにその時を待つ。


***


 終礼後、担任との帰りの挨拶を済ませても、私は席を立たなかった。この数日間、学校を休んでいたことについて友達が心配の声をかけてくれたが、私は適当にあしらった。別に煩わしかったわけではない。単に談笑できる思考回路を持ち合わせていなかっただけだ。全身を拘束する緊張は、両脚を竦ませるほど。ある程度の時間を待つつもりではあったが、本当は足が動かなかったから、席を立たなかったのかもしれない。


 午後四時半。あらかた周囲の人間がいなくなってから、私はようやく教室を後にした。目的地は職員室。そこにいなければ他を捜すだけ。まさか帰ってはいないだろう。

 どのみち、学校内を徘徊する手間は省けたようだ。


「熊谷先生」


 自分のデスクで作業をしていた熊谷に、後ろから声を掛けた。

 椅子が回り、身体全体がこちらを向く。私の姿を認めた熊谷は、吐き気がするほど気持ち悪い笑みを見せた。


「なんだい?」


 声を聞いただけで鳥肌が立つ。全身を這いずり回すような視線を、私の肌が全力で拒絶しているのだと思う。嫌いな物とはいえ、たとえゴキブリを素手で掴んだとしても、ここまで鳥肌が際立つことはないだろう。


 だがこの程度で拒絶していては、後々耐えられそうにない。

 私は心の中で深い溜め息を吐き、あらゆる嫌悪感を我慢した。


「少しお話しがあります」

「お話し?」


 熊谷の眉が寄る。その仕草が、あまりにも演技臭かった。

 話の内容を予想しているからこそ、しらばっくれているのだろう。もしこの場で彼を刺したことについて追及しても、知らないの一点張りで通すはずだ。だって証拠がないもの。自ら口を割るはずがない。

 だからこそ、私は誘う。


「ただこの場ではちょっと話しにくいことなので」

「ほお?」


 顔色が変わり、熊谷はチラリと他の教員たちを一瞥した。特にこちらを見ていたり、聞き耳を立てている人はいないようだ。どうせ声も届いていないだろうし、生徒が先生を訪ねてくることなど、全然珍しくもない。


 ただ笑顔の綻んだ熊谷の顔は、どうしようもなく不快だった。

 今すぐこの場で殴り殺したい衝動を抑えながらも、私はさらに熊谷へと寄る。


「夜七時、保健室で待っています」


 返事は聞かなかった。言葉が伝わったことを確認すると、私は踵を返した。

 熊谷に背を向け、一度も振り向くことなく職員室を退室した。

 強引というか自分勝手というか、相手の意思も確認しないままの誘いだったが、奴は絶対に来る。来ないはずがない。あれだけ私に固執していた熊谷が、私からの誘惑で、しかも保健室と聞き、足踏みをするわけがない。


 呼び出しはした。もう後戻りはできない。


 問題は残り二時間強、私の意志が変わらないことを願うだけだ。恐怖心に心が負け、逃げ出してしまうかもしれない。だから私は、彼の顔を思い浮かべながら……彼との幸せな生活を妄想しながら、決心を固める。


***


 五月とはいえ、午後七時ともなれば完全に陽は落ちてしまう。特に学校というお昼が主要な時間帯となる施設では、暗くなるのも早い。すでにほとんどの電灯は消され、人がいるのも職員室か、最終下校時刻を違反している部活くらいのものだろう。この時期にはまだ肝試しをするのには早いし、文化祭で精を出すことになるのも半年後である。


 静けさが満ちる廊下を、音を立てないように歩く。約束の時間よりも少し遅れたためか、保健室の前ではすでに熊谷が待っていた。


「や、もしかしたら来ないかと思っていたよ」

「…………」

「君もようやくその気になってくれたんだね」

「…………」


 熊谷の言葉は完全に無視し、私は保健室の扉を開けた。

 中は真っ暗だった。消毒液の臭いが鼻をかすめるのと同時に、吐き気がする。この臭いが嫌いというわけではない。ただ思い出してしまっただけだ。一年前の、あの日のことを。


 挫けそうになりながらも、奥へと進む。カーテンを閉めると、完全な闇が精製できた。

 熊谷が保健室に入ってくる気配。そしてカチッという、何かのスイッチオン。多分内鍵を掛けたのだろう。これで完全に退路は断たれた。


「真っ暗だね。けど君が明るいのが嫌だというのなら、僕はこれでもいい」


 本当に気色が悪い。永遠に夢の中に出てきそうな声だ。

 しかし奴が電気を点けないのは有難かった。私はポケットの中に忍ばせておいたボイスレコーダーの録音スイッチを押し、それを堂々とデスクの上へと置いた。


「一つだけお訊きしたいことがあります」

「なんだい?」

「進藤君を刺したのは、熊谷先生ですよね?」


 わずかな沈黙。予想できない質問ではないはずだ。まったく関係がなければ、私の言葉の意味を理解することもできないだろう。理解できているからこそ、どう返すべきがベストか思案しているのだ。この時点で、私はもう確信した。


「何のことだ?」


 案の定、熊谷はシラを切った。


「とぼけないでください。刺された時、進藤君は先生の顔を目撃してるんですよ」

「あ、そう。相貌失認だって聞いてたから、真正面から刺してもばれないと思ってたんだけどな」


 ほんのちょっと鎌をかけただけで、熊谷はあっさりと自白した。あまりにも筋書き通りに事が運んでいて、少し怖くなる。


 普通に問いただしていれば、熊谷も知っていた通り、彼が相貌失認という盾を取って否定し続けていただろう。


 しかし私から奴を誘惑すれば、多少は口も軽くなるんじゃないかと判断した。しかも二人きりの保健室。すでに臨戦態勢に入っている熊谷は、早く会話を終わらせたいはずだ。まさか録音されているとも知らず、熊谷は口を割る。


「どうして……彼を?」


「決まってるじゃないか。君は彼のことが好きなんだろ? だから僕に構ってくれない。じゃあ排除するしかないじゃないか。そうすれば、君は僕に振り向いてくれるんだろ?」


 国語教師とは思えないほど、支離滅裂な言い分だった。

 何故、彼がいるから自分の方を向いてくれないと思っているのだろうか。何故、彼の次には自分がいると思っているのだろうか。理解不能な言葉に、吐き気と頭痛を感じた。


「だからって、殺そうとするなんて……」

「いやいやいや、勘違いしないでくれ。殺すつもりはなかったさ。その気だったら、簡単にできてたよ。ただ警告のつもりだったんだ。これ以上、君と一緒にいるようなら、今後も痛い目に遭うよっていう意味で」

「ふざけないでよ!!」


 感情が漏れた。『荊木小百合』という仮面が剥がれそうになった。それほど、熊谷の言葉は私の癇に障ったのだ。自分を制御できないほどの怒りを覚えたのは、初めてだった。

 感情の発露は一度叫ぶだけにとどまらせ、私は再び無機質な仮面を被った。


「熊谷先生は警告の意味で、進藤君を刺した。そういうことですね?」

「そうだよ。現に君は、僕の元へと来てくれたじゃないか」


 ゆっくりと、熊谷の輪郭が近づいてくる。反射的に後退しようとしたが、足が竦んで動かなかった。もちろん動くつもりなどなかったが。


「もういいだろ? 奴のことなんかどうだって。僕と楽しい時間を過ごそう」

「やめ……て」


 熊谷が私の腕を取った。抵抗はするものの、悲しきかな、性別の違いはそのまま筋力にも表れていた。力強く握ってくる熊谷の手は、びくともしない。


 この作戦の致命的な問題は、私の退路がないこと。抵抗しても、押し負かされてしまうことは嫌というほど理解している。だから私は彼のために、一年前を繰り返す覚悟でこの場に臨んだ。


 そしてそのデメリットですらも、奴を陥れるために利用する。

 殺人未遂、および生徒に対する強姦。奴の罪を上乗せするため、私は身体を預けた。

 できるだけ嫌そうに、無理やり襲われている感じで叫ぶ。


「やめてください! 人を呼びますよ!」

「誰も来やしないさ。君の裸は、僕以外は見ることはない。安心しなよ」


 強引に、ベッドの上に押し倒された。堅いシーツが、背中を打つ。

 仰向けになったまま目を開けると、熊谷が馬乗りになってきた。奴の両脚で身体が固定されているため、身動きが取れない。掴まれている両腕も同様だった。ベッドに括り付けながら、奴の荒い息が私の首元をなぞる。


 気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い。

 怖い怖い怖い。助けて助けて助けて。


 一年前の悪夢の再来。今回は私が仕組んだこととはいえ、許容できるわけがなかった。

 無心の仮面を無理やり貼り付けようとするも、失敗する。何も考えないことなんかできない。恐怖が全身を蝕んでいた。ただ目の前の悪夢に対し、絶望を感じるのみ。


 涙が出た。抵抗をやめた。生きることを諦めた。

 あとはただ、絶望に身を任せるのみ。

 それでも叶うはずのない懇願が、口から漏れた。


「誰か……たす……けて」


 奇跡を願い、私はゆっくりと瞼を閉じた。

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