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第21章 私と刑事の関係

 痛い、痛い。額が痛い。心が痛い。

 どうしてこうなったのだろう。何が原因だったのだろう。何も分からない。


 リビングで仰向けに寝転びながら、私はしとしとと涙を流した。


 計画を邪魔されたことで、彼は激昂していた。いや、あの言い方は違うな。純粋に、私が危険な目に遭ったことに対して、憤ってくれていたに違いない。彼は妹思いの優しいお兄ちゃんだ。一年間妹を演じてきた身としては嬉しいし、彼を愛する立場としても誇らしい。


 けど――この偽りの生活も、もう限界に近いと感じていた。


 涙を拭い、床に転がっている仮面を拾う。

 オペラ座の怪人のような、無機質な仮面だ。相手が相貌失認でもなければ、絶対に変装で使おうとは思わない代物だろう。こんな物まで購入して、私は何がしたかったのか。 


 彼を助けたい気持ちは本物だ。彼を愛する気持ちも本物だ。


 でも本当にこの手段しかなかったのか、疑う気持ちが次々と溢れ出てくる。

 後悔はしないと決めたはずなのに、私の選んだ道が本当に正しかったのか、答えが欲しかった。

 携帯電話を取り出し、今では一番使用する電話番号へと掛けた。


「赤木先生、夜分遅くに失礼します。今から兄がそちらに行くと思いますので」

『はぁっ!? なんで?』

「ちょっとしたことで喧嘩をしてしまいました。彼が家を飛び出していったので、行き先はそちらしかないかと」

『喧嘩ねぇ。君、泣いているのかい?』

「えぇ、少し……」


 一応嗚咽が治まるまで待ってはいたが、電話越しでもはっきりと分かるほど、呼吸が回復してはいなかったらしい。


「それで、赤木先生にもお伝えしないといけないと思いまして」

『何を?』

「もしかしたら、この生活が今日で終わるかもしれません」

『…………』


 電話の先で、先生が息を呑むのが分かった。

 私もまた、深呼吸して息を整える。後悔はしない。それにもう、前に進むしかない。


『私は何をすればいい?』

「何も。何も訊かず、何も言わないでください。いつも通りで接してくれればいいです。あとは……私がすべて話します」

『分かった。君に任せる』


 物分りの良い人で本当に良かった。


 携帯電話を閉じ、リビングを大きく見回した。自分の家と同じくらい見慣れてはいるが、そこはどうしようもなく他人の家だった。誰が招いたわけでもなく、愛する者のために勝手に住み着いた女。それが私。


 そう考えると、ひどく惨めな気持ちになってきた。こんな気持ちになるのも、今までの報いだと思う。

 彼を騙し続けてきた報いだ。偽りだらけの生活が、一生続くわけがなかったのだ。

 彼のためであり、私のためでもあったこの芝居が幕を閉じようとする。演劇ならそれで終わりだけど、私たちの人生はまだまだ続く。


 彼はどう思うだろうか。


 ずっと偽り続けてきた私を貶すだろうか。良い劇だったと拍手をくれるだろうか。

 家族がいないことについては? 絶望でショックのあまり、また自殺をしてしまうだろうか。それとも知らぬ存ぜぬで、何が起きても私は今まで通り家族を演じ続けていくべきか。……これ以上、彼を騙し続けることは罪悪感があったし、自信もなかった。


「あー……楽しかった」


 嘘ではない。本当にこの一年間、彼との生活は楽しかった。


 でも言葉にした途端、すべてが夢幻であったような気分になった。いや、結局は幻想だったのだろう。その幻想を、私がすべて現実だと偽ってきただけに過ぎない。永遠じゃなかった夢が、ただ醒めただけなのだ。


 しかし終わりは終わりでも、最後のけじめだけはつけようと思う。


 家中を掃除して、私が居た痕跡を消す。別に意味はない。ただ私の存在が染み付いてしまったこの家を、彼に返すだけだ。何かが変わるわけでもないが、私の中のエゴはすっきりとなるはず。


 そして彼を迎えに行こう。ここは彼が帰ってくる場所だが、私の待つ場所じゃない。迎えに行って、すべてを話そう。彼がどんな反応をしようとも、私は受け入れる。そう決心し、私は彼の家を後にした。


「――――ッ!?」


 大学病院に向けて、数分ほど歩いた場所だった。

 ニュータウンから街へ下る坂道。等間隔に並ぶ街灯が、白と黒のストライプを演出をしている歩道。歩行者も車も通らないその夜道で、彼は倒れていた。


 最初、光を反射しないその物体を見た時、ゴミ袋か何かかと思った。近づくにつれ、人の形が浮かび上がってくる。酔っ払いかよと、嫌な気分でその人物の傍を通り過ぎようとすると、不意に脳裏に刺激が奔った。


 思い出したのは、初めて彼と対面した光景だった。


 飛び降り自殺なのに、仰向きに倒れていた彼。そしてこの人物も、酔いつぶれているにしては妙な格好で腹を上に向けている。

 恐る恐るその人物に近づき、顔を覗き込んで――彼だと判明した。


「なん……で……」


 頼りない街灯の光が、彼の腹から湧き出る鮮血を照らし出していた。

 正直、結びつかなかった。ここで倒れている彼と、真っ赤な血。混乱した頭では、その二つの因果関係が理解できなかった。


「あっ……あっ……」


 声が出ない。唾液が喉を絡む。呼吸が荒い。

 どうして私はここまで気が動転している? この光景は、過去に一度だけ見たはずだ。ただ血の出ている場所と、彼の意識があるかないかの違いだけ。以前はほとんど取り乱すことがなかったはずなのに。

 やっぱりダメなのだ。

 私は彼を失うことが恐い。彼に嫌われることが恐い。

 愛してしまったから。依存してしまったから。

 彼の家族を演じることによって、私が彼を生かしていたわけではない。私が彼に生かされていたのだ。

 風前の灯である彼を前にして、私は初めて、そう確信した。


***


「お話はできそうですか?」


 対面する黒峰刑事が、抑揚のない声で言った。


 喫茶店の中、この女刑事と二人。店内にそこそこ客入りはあるものの、隔離されたような席のためか、ほとんど二人きりの気分だった。他の客の談笑が、店内のBGMとして届く程度である。

 私は黙って頷くと、自分用に提供されたホットコーヒーを口にした。苦い。ちょっとだけ苛立ちながら、慌てて砂糖とミルクを入れる。これは注文時に黙り込んでいた私のために、黒峰刑事が勝手に注文したものだった。どうせなら、もっと甘い物にしてくれれば良かったのに。


「顔色がまだ優れないようですが」

「大丈夫です。話くらいはできます」


 もう三日も経っているのだ。いつまでも引きづり続けるわけにもいかない。

 そう、彼が刺されてから三日も経った。本当は最初、彼の搬送先で黒峰刑事に声を掛けられたのだが、どうやらその時の私はショックからか意識が朦朧としていたらしく、しっかりと話ができる状態ではないと判断し、後日にしてくれたのだ。


 彼の第一発見者として、私は取り調べを受けているらしい。


 正直、彼を発見した後、どうやって救急車を呼んだのか、それからどうなったのか、あまり鮮明には覚えていない。記憶が無くても、やるべきことはちゃんとやってしまう人間の本能に、素直に感心してしまった。


「まず最初に朗報があります」

「朗報?」

「えぇ、彼が意識を取り戻しました」

「…………あぁ」


 関心のなさそうな声が出た。そして涙も溢れ出た。


 医師からは命に別状はないと聞かされていたものの、実際に彼が目を覚ました事実を聞き、とても安心してしまった。どっと疲れが落ち、無意識に身体の枷となっていた緊張がすべて外れた。


 ハンカチで涙を拭う。拭いても拭いても止まらない。話くらいできると言った手前、ちゃんとしなきゃと思いながらも、口からは嗚咽しか漏れなかった。


 黒峰刑事は、じっと座ったままこちらを見つめていた。彼女が女でよかった。男の前で泣きたくはなかったし、何より変に声を掛けられて、この幸せな時間をふいにしたくはなかった。同じ女同士、黒峰刑事にも今の私の気持ちが分かっているのかもしれない。

 しばらく泣くと、徐々に気分が治まってきた。心のわだかまりが体外へ放出され、幾分か楽になった。


「無粋かもしれませんが、捜査に協力していただきたいと思います。質問にはお答えできますね?」

「……はい」

「ありがとうございます」


 それは望むところだった。私だって、彼を刺した犯人を早く突き止めたい。


 いや……。


 犯人は大方予想ができていた。熊谷良吉。奴しかいない。しかしこの三日間、私が行動を起こさなかったり、誰にも話さなかった理由は、確信がなかったからだ。眠っている彼の耳元で仇を取るなどと豪語したのにもかかわらず、結局は何もできなかった。


 前の事件、私は一度失敗している。絶対に熊谷が犯人だと思っていたのに、実は全然違う生徒だった。前例があるため、迂闊に決めつけることができなかったのだ。それでも見もしない犯人像に熊谷が浮かんでしまうのは、私がとても深く奴を恨んでいるからだと思う。


「まずは事実確認から。あなたは進藤さんの自宅から出た後、偶然にも倒れている彼を発見した。違いますか?」

「違いません」

「失礼かとは思いますが、あなたと進藤さんの関係は?」

「私と彼は……」


 一度瞼を閉じ、考えた。


 私たちの関係は、一体なんなのだろうか。家族であり恋人でありまったくの見知らぬ仲であり、しかもそれらすべてが偽りだ。明確な繋がりなど、あってないに等しい。

 ただ面倒な説明を省くために、黒峰刑事に返す答えは決まっていた。


「恋人です。それも半同棲するくらい深い仲の」


「えぇ、存じています。数日前にも、あなたと進藤さんが一緒に帰宅していたのを、他の警官が目撃していましたので」


 それはきっと進藤涼香として彼の傍にいたのだろうが、余計な訂正はしなかった。


「事件当日も、進藤さんとは一緒に?」

「はい。けど些細なことから喧嘩をしてしまいまして、彼は出て行きました。その後しばらくして、心配になったので迎えに行こうかと思ったのです」

「彼がどこへ行こうとしていたのか、知っていたのですか?」

「ある程度は。精神科医の赤木先生の所が、一番可能性があるとは思っていました」

「そうですね。実際、彼は赤木医師の元を訪れています。その帰り道、何者かに刺された」


 帰り道だったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。もし行き道だったなら、それだけ長い時間、血を流し続けていたことになる。私が気まぐれで迎えに行こうとしたのも、本当に運が良かった。


「では本題です。あなたは犯人の姿を見ましたか?」

「いえ、道端に倒れている彼を見つけただけです。それらしき人影もありませんでした」


 どうやら黒峰刑事も期待していなかったようで、それほど残念そうな顔はしなかった。

 いや……何か違和感を覚えた。


「彼はお腹を刺されていたんですよね?」

「そうです。正面から、下腹部の辺りに」

「その時、犯人の顔は見なかったんですか?」

「それは……」


 言いかけ、黒峰刑事は訝しげな表情をした。

 その理由は分かる。


「進藤さんが相貌失認であることは、すでにご存じだと思っていましたが……」

「もちろん知っています。けど逆なんです。どうして犯人は、彼を正面から刺したのか」

「?」


 未だ私の考えが伝わっていないようだった。私の説明が拙いのは認めるが、もうちょっと理解力を高めてほしいところだ。


「刺し傷からして、犯人は確実に彼を殺そうとしていたわけではないんですよね? でも犯人は自分の顔を彼に晒した。つまり犯人は、彼が相貌失認であることを知っていた、ということになりませんか?」


 この説が有力ならば、偶発的に起こった通り魔である可能性は消えるはずだ。彼が相貌失認と知っている人物は限られてくる。そして熊谷も……同じ高校の教師であるため、知っている可能性は高い。そうでなくとも、知る機会は確実にあっただろう。

 しかし私の絶妙な意見も、黒峰刑事は顔色一つなく同意するだけだった。


「その通りです。加害者は、進藤さんと知り合いの可能性が高い」


 その言い方には、少しばかり腹が立った。分かっているなら、どうして早く犯人を特定できないのか。もう三日も経っているというのに。


「実は進藤さんが目を覚ました際、貴重な証言をしてくれました」

「証言?」

「犯人は、『人の物を盗ったら犯罪ですよ』などといった警告のようなセリフを残していったようなんです。そのため、警察は彼の知人から捜査を開始しています」


 あぁ、なんだ。考えるまでもなかったじゃないか。


「くま……」


 と言いかけて、やめた。


 ここで熊谷の名前を進言してどうなる? 警察も、奴に疑いの目は向けてくれるはずだ。けど肝心な証拠がない。私が熊谷の名を出した理由も希薄だし、相貌失認である彼が、目撃した犯人と一致すると言っても説得力に欠ける。


 今回の事件じゃなくても、何か他の容疑で熊谷を検挙できないだろうか。


 例えばいっそのこと、彼の努力を踏みにじってでも、私が乱暴されたことを告白してしまおうか。奴のストーカー性を示すことができれば、彼を刺す理由も少なからず浮上してくるはず。


 ……いや、ダメそうだ。時間が経ちすぎている。一年前の罪を告発したところで、相手にされないだろう。奴が否定すれば、どう考えても水掛け論になる。むしろ何故今まで黙っていたのか、何故今になって告発するのか、私の方が分が悪い。


 難しいだろうか。不可能だろうか。


 彼は命の危機にまで晒されているのだ。一刻も早く、あの変態を排除したい。私も彼も、奴が存在する以上、本当の幸せを手に入れることなどできそうにない。

 いったい、どうすれば……。


「どうかされましたか?」

「いえ……」


 ……そうか。簡単なことなんだ。

 証拠がなければ、作ればいい。


 彼が幸せになるためなら、私は不幸になってもいい。彼には『荊木小百合』という、素敵な恋人がいる。私が出る幕ではない。私は何と言われようと、彼の家族を演じ、支えるだけ。あの偽りの生活が終わるなんて妄想はやめよう。どんなに邪険に扱われようと、私は彼の家族を演じ続ける。それが私に与えられた使命。


 だから……私はどんな悲劇にも耐えてみせよう。

 やるべきことは、決まった。

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