第20章 私の一連の行動
そして事件が起こる。
彼と出会ってからそろそろ一年だなぁ、などと感慨にふけながら学校へ登校した。しかしどうも周囲が騒がしい。警察官らしき制服を着た人間が、複数いる。教室で親しい友達に事情を聴くと、どうやら学校内で人死にがあったらしいのだ。
場所は保健室。一応、基本的な情報はそれだけしか分からないはずなのだが、人の口に戸は立てられないらしい。第一発見者か、現場を目撃した人が事件に関する詳細を吹聴してしまったのだ。
被害者は三年の女子生徒。名前は知らない。保健室のベッドの上で、衣服が乱れた状態で発見されたのだ。つまり事故や病死ではない。明らかに何者かに乱暴された形跡があり、そのあと何かしらの方法で殺されたのだ。
殺人。私の周囲は、不安と好奇心で満ち溢れていた。
しかしそんな中、私の脳裏にはすでに犯人の姿が浮かび上がっていた。
熊谷良吉。奴が見知らぬ女子生徒を凌辱している光景が、瞬時に、しかもリアリティに想像できる。理由は簡単だ。一年前、その女子生徒は私だったのだから。事件を詳しく聞いたわけではないため、奴がどんな心境で、どんな方法で殺してしまったのかは想像に絶するが、ただ一つ、私の中ではほとんど確定していた。
故意だろうが過失だろうが、犯人は熊谷だ。
途端に彼のことが心配になった。当然、彼も事件のことは耳にしているだろう。いくら友達がいないと言えど、ここまで噂になっている事柄を知れないほど世間と隔絶はしていないだろう。……たぶん。
もし彼が事件ことを細かに聞いているのなら、どのように考えるだろうか。
私がされた屈辱を知っている彼なら、私と同じく熊谷が犯人だと気付く?
それとも事件に興味すら持たない?
彼がどう思い、どう動くのか気になった。
私はその日のうちに、自らの正体を明かさずに接触を試みる。
「マックでも寄っていかへん?」
誘い文句は何でもよかった。彼の状態を知れるのならば。
彼は不思議そうな顔をした後、待ち合わせがあるからと言って、私の誘いを断った。
よかった、いつも通りだ。いつも通り、彼は私の妄想を追いかけている。特に事件のことも気にした様子はないし、完全に私の杞憂だったようだ。
せっかくだし、今度は妹に化けて一緒に帰ろう。そして彼の好きな物を作ってあげよう。
学校内で殺人事件が起きても、私たちの日常が変わるはずはなかった。
***
次の日、警察の事情聴取に呼ばれた。どうやら昨日の放課後、校内に残っていた生徒全員に話を伺っているらしい。まったく、ご苦労なことだ。
熊谷に疑いの目を向けさせてあげたいのは山々だったが、それだと私が疑うきっかけを話さなければいけないと思い、結局は黙ったままだった。
「昨日の放課後、どうして残っていた? それはどこで、いつまで?」
要約すれば、それだけの質問だった。
私の正面に座る女刑事、黒峰さんが、人当たりの良い笑顔で問い掛けてくる。この人のことは、どうも好きになれそうになかった。似ているのだ、私に。同族嫌悪というものらしい。どこがどう似ていると問われれば答えに窮するが、なんとなく、第一印象としてそう思ってしまっただけだ。
その横に座る背の高い男の刑事、桜枝さんを一瞥する。彼は眼を細めて、私のことをじっと観察していた。気持ち悪かったが、特に何かを話そうとする仕草がなかったので、空気か何かを扱うように無視した。
「教室で友達と話をしていました」
「そのあと、そのお友達と一緒にご帰宅を?」
「いえ、一人になりたい気分だったので先に帰ってもらいました。それから少し座ったままぼおっとしてて、結局はすぐに帰りましたけど」
半分本当の建前である。実際、一昨日の帰りは友達と談笑していた。
けど一人になった理由は、彼を監視しようとしていたからだ。いつも以上に長居をしていたらしいのだが、一時的に友達に捕まってしまったためか、いつもは教室にいるはずの彼を見失い、結局は諦めて帰ったんだけど。
私が答えると、黒峰刑事が何故か、クスリと笑った。
「高校生の間で今流行っているのかしら?」
「と言いますと?」
「先ほど取り調べをした生徒も、あなたと同じようなことを言っていたもので」
「同じようなこと?」
「教室でぼおっとしていた、と」
彼のことだ。私はついつい、彼の名前を口にしてしまった。
黒峰刑事が訝しむ。
「お知り合いですか?」
「えぇ、多少は……」
これは思わぬ失態だった。
もし彼の方に私との関係を問いただされたら、今まで築き上げてきた物がすべて瓦解してしまう。あまり深く訊かないでほしいと言うのも、事情が事情なために、余計な疑いを生んでしまうかもしれない。
為せるべきことがなく、私は気づかれない程度に唇を噛んだ。
二人の刑事が顔を見合わせる。その表情は、どことなく真剣そのものだった。
「実はですね、その彼が妙なことを言っておりまして」
「妙なこと?」
「はい。なんでも今回の事件、被害者を死に追いやったのは自分だ、とおっしゃってたんです」
「…………は?」
理解できなかった。なんだそれは。つまり自白? 彼が殺人犯?
いやいや、そんなわけがない。どう考えても、被害者の女子生徒と彼の関係が繋がらない。私はこの一年、彼をずっと監視し続けてきたのだ。彼の交友関係は完全に網羅しているつもりである。
ならただの奇行か? 自白をする意味は? 犯人を庇う理由は? 単に警察をからかっているだけ? たとえ冗談だとしても、遊びでは済まされないことくらい、彼にも判断できるはずだろう。
彼の目的は何だ?
「それで……警察は彼を逮捕するんですか?」
「いえいえ、そういうわけではありません。実のところ、事件はすでに解決しかかっています。今はその裏付けの証拠として、こうやって生徒の皆様に話を伺っているだけなのですよ。ただ彼の発言も容易には無視できません。一応は調べさせてもらいますが、あなたが何かご存じならば、できれば教えてもらいたい」
何も知らない。私だって知りたいくらいだ。
混乱する中、それ以上は特に質問されず、適当に話を切り上げて退室した。
***
彼に直接問いただす? 誰に化けて、どうやって?
無理だった。彼が刑事に自白したことを知っている人物はいないし、その意図を知りたい人物もいないだろう。すべては彼の中だけで完結している行動だ。私が必死に考えたところで、答えが出るはずもない。
いや……自白した=警察に捕まりたい?
どうして? 彼が逮捕され、何かメリットがある?
犯人が捕まれば、捜査は終わり。真犯人は捕まらない。それが目的? 彼は犯人を庇っている?
彼が熊谷を庇う理由。そんなもの、あるはずはない。
もしくは彼は、誰か他の人物を犯人と仮定しているのか……。
訳が分からず、ぐちゃぐちゃだった。
とにかく、彼を監視しなくてはならない。すべての記憶が戻ったとは思わないけど、何かが変だ。何かが齟齬を生み、私たちの日常が別方向へと傾いてしまっているような気がする。
軌道修正をしたい。
無我夢中で私は進藤涼香の仮面を被り、彼と下校を試みる。
しかし――。
「…………」
先を越されてしまった。
下駄箱で、サングラスを掛けた巨大な男が立っていた。私は咄嗟に角に身を潜めた。こちらに気づいている様子はない。そいつはまったく違う方向を向いている。その先から――彼が歩いてきた。
「よう」
桜枝刑事が、彼に声をかける。彼は呆けた顔のまま、その男を見上げた。
どう考えたって、事件の調査だ。彼が業務妨害にも等しい発言をしてしまったため、個人的に話をしに来たのだろう。マズイことになった。刑事は私の顔も知っているため、迂闊に側も通れない。今日は彼との接触は諦めるか……。
などと混乱しながら考えてはみたものの、冷静になってみればなんてことはない。
私には、彼の家族と偽っているというアドバンテージがあるのだ。焦る必要はない。先回りするか、後々堂々と彼の家に帰ればいいだけのこと。
善は急げ。私は彼らより先に、彼の家へと帰宅した。
家の中は、当然のことながらもぬけの殻だ。空き巣でもない限り、この家に入れる人間は二人しかいない。赤の他人であるはずの私は、さも自宅であるかのように鍵を取り出し、中へと入った。
ピンときたのが、彼の部屋だ。私はたびたび彼の母親に化けて家中を掃除することがあるのだが、彼の部屋はほとんど入ったことがない。
もしかしたら、何か彼が自白した理由になるヒントがあるかもしれない。
それほど期待もせず、藁をもつかむ思いで彼の部屋へと侵入する。
そして発見してしまった。机の上に放置されていた、書きかけの脅迫状を。
もう疑うこともない。今回の事件、彼は熊谷が犯人だと思っている。そして自白した理由も、脅迫状などという物騒なものを作った理由も、私は知ってしまった。
正直、嬉しくもあり、悲しくもあった。
彼は未だ荊木小百合の妄想を見ている。そして呪いも有効。一年前のあの夜、私が受けた屈辱を他の誰かに知られないようにするため、彼は動こうとしているのだ。彼の荊木小百合を想う気持ちが本物で、とても喜ばしいとは思う。
しかしだからこそ、私は少しだけ寂しい。
彼が愛しているのは荊木小百合であって、私ではない。家族である私は、彼から受ける愛の形は違う。自分が望んでそうしたとはいえ、彼が見ている荊木小百合に対し、若干の嫉妬心を感じてしまった。
けど、この脅迫状はマズイ。
彼は熊谷と接触してどうする? 一年前にあった出来事を口外するなと、彼は熊谷に警告するはずだ。しかし本当にそれで済むか? 愛する人物を犯した相手と対面して、彼は平静を保っていられるだろうか。
熊谷も熊谷の方で、そんな警告を受け入れるはずがない。むしろ私と彼の関係を問いただしてくるだろう。
この一年間、私と彼が一緒にいるところを、何度か熊谷に目撃されてしまっていたらしい。十分に気を付けたつもりではあったが、奴の口から直接、彼の名前が出た時にはとても驚いた。一度だけ、彼のことは恋人だと口を滑らしてしまったことを後悔している。
今まで彼と熊谷が接触した様子はないが、熊谷は変態でストーカーだ。奴もまた、私のために彼をどうするか分かったもんじゃない。
この脅迫状を破棄することもできない。直接彼に止めろと言うこともできない。
どうすればいいのか。
悩み果てた挙句、私は結局、最終手段を行使するほかなかった。
***
謎の美少女A。通称ナビエ。ノリで考えた呼称だが、ちょっと気に入ってしまった。
しかし今は和気藹々と話している場合ではない。
誰とも分からぬ人物で彼と接触するのは、こちらが相手の相貌失認を知っているということ。進藤涼香という人物を登場させず、かつこちらの身と目的をばらさないための奥の手だった。もしかしたら彼が妙な疑いを持ってしまうかもしれないし、そのせいで偽りの日常に罅が入ってしまうかもしれない。謎の美少女Aの仮面を被ることは、危ない橋だった。
まずは何気ない会話で、彼の足を止める。第一印象は上々。彼もこちらの小芝居に乗ってくれているようだった。
だが本題に触れたその瞬間――彼の豹変ぶりを目撃して、私は絶句してしまった。
彼は本気だ。もう、口で何を言っても意志は変わらないだろう。
彼は私を守るため、人すらをも殺してしまうかもしれない。
そんなことは許せない。許せるはずがなかった。
たとえこの日常が終わろうとも――。
彼が熊谷の下駄箱に脅迫状を入れたのを確認すると、私はすぐにそれを抜き取った。
私は……熊谷の身代わりになった。




