第2章 僕と妹の関係
『彼女』に苛められてから、僕はそのまま昇降口へ足を運んでいた。追ったところでどうせ追いつけないだろうし、何より今日分の荊木成分はさっきのあれで事足りたのだ。これ以上の余計な欲は、身を滅ぼすだけ。実際、次会ったときはマジで殺されそうだし。
「ま、それも楽しみの一つではあるんだけどねぇ」
一人ごち、昇降口で靴を替える。蜂の巣のような下駄箱を眺めると、ほとんどに上履きが入っていた。この時間だから仕方がない。いや……ちょっと待てよ。ということは、この学校の生徒である『彼女』の下駄箱スペースも存在し、もう帰ってしまったなら上靴が残っているはずだ。さっきまで『彼女』が直に履いていた上靴。それを今、自由にクンカクンカできるチャンス!
と、拳に力を入れてまで意気込んでみたものの、二秒で諦めた。僕は『彼女』の下駄箱を知らない。
「あー、やっと来た! おっせーよバカ兄貴」
上ずったような甲高い女子生徒の声が聞こえ、僕は肩をすくませる。やれやれ、最近の若者は日本語が乱れていると聞くが、よもやここまでとは。どうやって育てば、女の子があんな乱暴な言葉を使うようになるのやら。
「無視してんじゃねーよ。あんたの妹だっつーに」
「知ってるよ。バカ兄貴と呼ぶのはお前しかいない」
それにこんな目と鼻の先で叫ばれたら、知らん顔もできへんわい。
ご紹介にあずかった通り、このおてんば少女は僕の妹だ。名前は進藤涼香。良くも悪くも普通の名前である。が、もうちょっと慎ましい性格だったらよかったのに。両親も、お淑やかに育ってほしいと願ってつけた名前だろうに。
ほんの十数センチ先の瞳から視線を外すこともできず、僕は予備動作なしに頭を前後に振った。
「がっ……!?」
ヘッドバッドが涼香のおでこにクリーンヒット。一般女子よりも若干広めなおでこは形容しがたい音を立て、その場に沈んでいった。
「何すんの!」
「いや、ヘッドバッドしがいのあるおでこが目の前にあったから、つい……」
「まさかのヘッドバッド魔!? バカ兄貴はデコの広い女子見つけたらヘッドバッドせずにはいられない変な性癖でもあんの!?」
「冗談に決まってるだろ。本音を言えば、僕だけ鼻血出してるのは不公平だと思ってさ」
「デコ殴って鼻血なんて出ないでしょ!」
「出ない……かな?」
どうなんだろうな? 出ても不思議ではないと思うんだけど。
「で、何しに来たんだ? 終礼ならもうだいぶ前に終わってるし、ここは一年の昇降口じゃあないだろう」
「せっかく待ってあげてた妹にヘッドバッド食らわせた挙句、邪険扱いですか! ウチに救いはないのか!?」
一人勝手に悶絶する涼香。僕の妹って、こんなリアクション芸人みたいだったっけ?
我が妹は一つ下の一年生である。兄妹そろって同じ国公立に入学するのは珍しいとか言われたこともあるが、そんな話はどうでもいい。受かってしまったんだから仕方がないだろう。先に入学した僕が、妹と違う高校を選べるはずがないんだし。
「一人で帰るのが心細いから、バカ兄貴を待ってたんでしょ! ったく、よっちゃんと話してる間に来ると思ってたのに、こんなに遅くなりやがって」
「そりゃ悪かったな」
これが最近流行りのツンデレってやつなのか? でも実の妹に言われてもなぁ。……『彼女』にされたら、どんなに心が高鳴るだろうと妄想してみたり。
「そんじゃ、早く帰るよ。お腹すいたんだから」
「お……おぅ」
なんだこいつ、突然腕を組んできやがった。しかもかなりの密着型で。未だ冬服だから人肌の感触は皆無であるものの、女の子の胸が接触してるのを意識して戸惑ってしまう。これが『彼女』だったら……なんて願望はあっても、妄想が困難になるほどに。
さすがに腕を組んだままの下校は気恥ずかしいものがあったので、昇降口を出てからは手をつなぐ程度にとどめておいた。いやぁ、それでも僕たちが兄妹と知っている生徒からは、どう映るんだろうな。変な解釈はしないでほしいんだけど。
「ねぇ、あれ……」
「ん……」
昇降口を出て、校門へと伸びるアスファルトを歩む途中、涼香が前方を指さした。心なしか進む足取りも重くなる。その先にある物を確認し、僕もまた緊張気味に軽く頷いた。
「怖いよねぇ。自殺か事故かもわかってないんでしょ?」
「いや、ただ単に生徒には公言されてないだけなんじゃないか?」
本日早朝、学校内で変死体が見つかった。警察から発表された事実は『事件現場は保健室』とのことだけであったが、人の口に戸は立てられないらしい。かん口令も意味をなさいまま、様々な噂がなされていた。
被害者は僕とはまったく無縁の、三年生の女子生徒。保健室のベッドで、眠るように死んでいたそうだ。保険医は一昨日の夕方から会合があり、留守にしていた。保健室の扉には鍵が掛かっていたが、保険医が自身で所持していたものの他に、職員室で保管されているのが一つあるため、誰でも施錠開錠は可能だった。ただそれでも、わざわざ鍵が掛かっていた保健室で人が死ぬのは、事故でも自殺でも不自然だ。
涼香が指差したのは、公立高校の日常にはまったく不必要な乗り物だ。白と黒にペイントされた車体に、赤く輝くランプ。事件を捜査しに来たパトカーだ。昼よりかは数は減っているものの、現場である保健室は今でも多くの刑事がひしめき合っている状態である。
涼香が心細いと言って、僕を待っていた理由がこれだろう。最近なにかと物騒なことが多いので、陽の出ているうちでも女子の一人歩きは避けた方がいい。
「大丈夫。すぐ解決するさ」
パトカーの横を通り過ぎる際、少しばかり大きめの声で言ってみた。
別に嫌味というわけではない。根っからの本心だ。ただそこに、僕の願望が含まれていないだけ。
間違いなく、事件は近日中に解決されるだろう。事件現場と計画性のない犯行を考慮に入れれば、犯人が追いつめられるのも時間の問題。日本の警察をなめちゃいけない。
そう、この事件には犯人がいる。だってこれは殺人事件なのだから。
しかも僕は、ある意味共犯者だったりする。
「ねぇ、早く行こうよ」
「あぁ……」
いつの間にか足を止めていたみたいだ。パトカーの隣に立っている二人の警官が、じっとこちらを睨んでいる。別に僕らを怪しいと思っているわけではなく、ただ単に不愉快な思いをしているだけだろう。一日中校内の警備をしていて、この人らは一体どれだけ、高校生の興味溢れる目で見つめられたことだろうか。心中をお察ししたくはない。
そのまま僕らは校門をくぐる。繋いでいるはずの涼香の手の感触が、今はなかった。
警察を実際に目にしてしまったからか、どうしても考えに没頭してしまう。
僕は自分の目的のために進んで共犯者となったわけだが、さて、これからどうしようか。