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間 章 1年前の話②

「救急車が来るまで、お話ししない?」


 屋上から飛び降り、全身で夜空を仰いでいる僕の隣に、荊木さんが腰かけた。セーラー服のまま、体育座りだ。頑張って視線を向ければ、そこには楽園が広がっている。バレそうにないし、じっくり脳裏に焼き付けて冥土の土産として持っていこう。


 ――お話し?


「あぁ、君は喋らなくてもいいよ。私が一方的に話すから、聴いてて」


 ――うん、分かった。


「それにしても、こうして最期に誰かと話す機会があってよかった。遺書も書いてないし」


 ――遺書?


「うん。私ね、自殺する」


 実際に自殺した人間の手前か、その言葉は彼女の口からすんなりと出たようだった。


 ――どうして?


「私この前ね、レイプされちゃった。処女だったのに。無理やり犯された……」


 揚々と語ろうとしているが、心の傷が彼女を蝕んでいるのは明らかだった。


 ――誰に?


 どうせ僕はもうすぐ死ぬと高を括っているのだろう。彼女はまるで壁に話しているかのように、すらすらと無感情に、自らの処女を奪った人物のことを話し出した。


 そいつの名前は熊谷良吉。この学校の国語教師らしい。一年は担当していないため、僕も当然のことながら、彼女すら奴の顔は知らなかったそうだ。成績のことで呼び出され、彼女は変に思ったようだが、それ以上の疑いはなく、当時誰もいなかった保健室へ。


 そこで彼女は、いきなり告白された。


 もちろん、断ったそうだ。しかし今まで下手に出ていた熊谷が豹変。内側から鍵を掛けると、奴は彼女を無理やり襲った。


 暗闇。保健室。ベッドの上で辱めを受ける彼女。

 この一年間、妄想の中で、僕は何度熊谷の顔をナイフで刺したことか。


 ――警察に通報しないの?


 彼女は黙って首を横に振った。


「たとえ警察でも嫌だ。アイツを捕まえるためだっていっても、無理やり犯されたことなんて誰にも言いたくない。私は純潔なままでいたい」


 そしてそのまま死にたい。彼女はそう切実に願った。


「君が私の遺書代わり。でも、誰にも言わないでね」


 ――うん、言わないよ。


 これが彼女から科せられた、一つ目の呪いだった。

 以降、僕はその日のことを誰にも語ったことはない。何度妄想していても、一度も口にしたことはない。熊谷について調べることすらしなかった。それは彼女を冒涜する行為だと考えていたし、僕は彼女の過去を見たくはなかった。

 その出来事は、無かったことにしなくてはならないのだ。


「ありがとう。君、優しいからきっと助かるよ」


 いやいや、全然ダメそうだよ。荊木さんが意識を繋ぎ止めていてくれなきゃ、もう数分前には死んでいたに違いない。それに優しいから生き残れるなら、この世界は善人しかいないことになる。君が遭った災難とは矛盾している。


 ……とは言えなかった。


 僕は黙って首肯した。

 すると彼女は、にっこりと微笑んだ。


「さって気が済んだことだし、救急車のサイレンも聞こえてきたし、私もそろそろ決心しようかな。あ、君が飛び降りた校舎とは別にするから、安心して」


 むしろ仲良く死にたかったなぁ、とか思ってみたり。


 お尻の汚れを払いながら、荊木さんは立ち上がった。

 どうやらお別れの時間のようだ。名残惜しい。永遠にこの時間が続けばいいのに。でも現実は無情だ。僕は救急車で運ばれ、彼女は誰にも知られずにひっそりと死んでいくのだろう。それは悲しかった。


 僕はこの時、すでに荊木さんに恋をしていた。吊り橋効果なんて言わせない。無様な姿のまま死に逝く僕に、優しく語りかけてくれた彼女が、どうしても愛おしくなっていた。


 ――ねぇ。


「うん?」


 聞こえなかったのか、彼女は再び僕の口元に耳を寄せた。


 ――好きになってもいいですか?


「うん、いいよ。けど、一つだけ条件がある」


 ――条件?


 徐々に混濁していく意識は、すでにほとんどの視覚を奪っていた。彼女がどんな顔をしているのか分からない。とても残念だった。


 しかし次の瞬間、荊木さんの顔がはっきりと視野に映し出された。何も奇跡が起きて視力が回復したわけではなく、彼女が顔をさらに寄せてきたから。お互いの距離はあまりにも近く、触れ合いそうなほど。

 そして――。

 荊木さんは、僕の唇を奪った。


「私のこと、絶対に忘れないでね」


 これが二つ目の呪いだ。僕は一度も彼女のことを忘れたことはない。授業中も、食事中も、寝ている時だって、毎日荊木さんは夢の中に現れる。そしてここ数ヶ月では、荊木さんの幻を造りだすことに成功した。

 彼女は僕の妄想の中で生き続けてるのだ。


 ――うん、絶対に忘れない。


 そう答えると、彼女は満足そうに頷いた。


 そこで僕の意識は途切れる。次に気が付いた時は病院のベッドであり、顔も分からぬ人間たちが数人、僕の周りを取り囲んでいた。


 以降は今まで通りだ。軽い記憶喪失のため、自らの自殺の原因すらも忘れ、僕は何気ない日常へと戻った。入学早々自殺をしたからか、もしくは相貌失認に陥った僕が意図的に避けていたからか分からないが、友達の一人もできず、一人ぼっちで一年を過ごした。ま、これといって不便はなかったわけだけど。


 熊谷のことと荊木さんのことは、まったく調べなかった。奴がどういう男なのかも知らないし、彼女がどういう手段で自殺を図ったのかも知らない。ただ、会話の内容から、僕と同じで飛び降り自殺だったんだろうと推測する。


 偽りといえど満ち足りた日常でも、僕は一つだけ後悔していることがある。

 あの時、上辺だけの言葉でもいいから、彼女の自殺を引き止めておけばよかった、と。

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