第9章 脅迫
奴の名前は熊谷良吉。この高校の国語教師である。今は主に三年生の授業を担当しているため、僕とはまったく縁がない。だからこそ、僕は奴を探しあぐねていたのだ。授業でお世話にならないため、誰かに呼んでもらうか、こうやって脅迫状を送ることでしか会うことができないのだから。
僕が熊谷に忠告することは、ただ一つ。アイツの罪を、決して他言させないこと。
熊谷が今回の殺人事件の犯人ならば、そろそろ警察に捕まるだろう。そして自供させられるはずだ。今回の事件と、それに関連して、一年前、熊谷が犯した犯罪を。
一年前の事件は、一般には露呈していない。というか、警察に通報されたわけでもない。何故なら被害者である『彼女』が、ずっと黙り込んでいるから。しかも『彼女』はこうも願っている。自分がされた屈辱は、決して誰にも知られたくない。だからこそ熊谷が逮捕され、警察に話されては困るのだ。僕にも決して他言するなと、『彼女』にお願いされたのだから。
「…………」
陽は完全に落ちた。そろそろ指定の時間、午後九時くらいだろうか。電灯は一切灯っていないため、壁掛け時計で時刻を確認することはできない。どの道、デスクの下に隠れている僕の位置からは、物理的に時計を見ることはできないんだけども。
場所は職員室だ。熊谷のデスクからは死角になる位置に陣取って、奴が来るのを待つ。
脅迫状の内容はどうでもよかった。奴が奴だと判断できればいいのだ。殺人事件の決定的な証拠写真を撮った。お前の机の引き出しに入れたから、二十一時に取りに来い。そんな適当な内容だ。もちろん、証拠写真などあるはずはない。
暗闇の中、永遠にも似た時が過ぎていく。
耳に届くのは、時計の針と、自らの鼓動と、わずかばかりの鈴虫と――。
そして――職員室の扉が静かに開く音。
――来た。
足音は一つ。電灯も点けぬまま、ゆっくりとこちらに近づいてくる。奴が自分のデスクの前に立ち、引き出しを開けるその時が――来た。
椅子を押しのけ、僕は無心で飛び出した。
期待通り、奴の背中が目の前にあった。まさか背後の机の下に人が隠れていたとは夢にも思わなかっただろう。奴は驚いて振り返る仕草をしたが、僕の方が圧倒的に早かった。
まずはこちらを振り向かないように密着し、羽交い絞めにする。抵抗はされたが、動きを封じることは簡単だった。相手の身体が異様に軽い。違和感を覚えながらも、興奮の絶頂に達した僕の頭が、必要以上の筋力を解放しているのだと、勝手に解釈する。火事場の馬鹿力というやつだと思った。
揉み合いながら、僕は相手の後ろ髪を掴むことに成功した。膝で後ろ腿を蹴り上げ、体勢が崩れたところで、相手の頭を何度も何度もデスクに叩きつける。不快な衝撃音は職員室中に轟き、奴の抵抗力を奪う。
奴が力を失くしたところで、僕は耳元で囁いた。
「お前が一年前、荊木小百合を犯したことは知っている。今回の殺人事件も、お前が犯人なんだろ? いいか、絶対に喋るな。お前が荊木小百合を強姦したことについては、絶対に誰にも話すな。完璧に忘れろ、完全に無かったことにしろ。もし警察なんかに自供しやがったら――殺してやる」
奴の頭を掴む手に、自然と力が入った。
そう。コイツは荊木さんを強姦し、処女を奪った悪党だった。
今回の殺人事件で、死体を発見した瞬間に熊谷の顔が浮かんだのはそのためだった。
暗闇。保健室。そして――衣服が乱れた少女の死体。
桜枝刑事の言っていたことは本当だった。死因は心筋梗塞。おそらく性行為中の突然死――いわゆる腹上死だ。
コイツは『彼女』だけでは飽き足らず、また別の女子生徒までをも強姦した。その途中に死亡。きっと被害者は心臓が弱かったに違いない。殺意がなかったのは明白だ。常識的に考えたら、あんな場所で人殺しをするわけないし、何より保健室の鍵を置きっぱなしにするなど、死亡後の犯人の慌て方が手に取るように分かる現場だったから。
でも――殺意がないといっても、僕はこの男を許せるはずがなかった。
熊谷は『彼女』を無理やり犯した。僕の最愛の人を強姦した!
今まで抑えてきた殺意が、一気に浮上する。
殺したい。コイツを殺したい。それに――今なら簡単にできる。
目的も、平穏も忘れた僕の脳みそが、この下種を殺せと命令する。
抵抗はした。後々のことを考えれば、ここで去ることが一番利口なのだ。ほんの少しだけ残っている常識的な思考能力が、僕に引けと命じる。
だけど――。
僕は熊谷の首に両手を掛けた。そのまま力を込める。
殺したいという欲求が止まらない。
死ね、死ね死ね死ね!
鬼と化した僕は、奴の首を絞めることだけに徹する。
しかし――。
「く、苦しい……」
――え?
その瞬間、身体からすべての力が抜けた。同時にひどく困惑してくる。
今の声――女?
反射的に飛びのいていた。反対側のデスクに背中をぶつけるも、視線は目の前の誰かに釘づけだった。
暗闇からか、相手の顔はよく見えない。そもそも垂れ下がった髪が邪魔をしている。咳き込む声は女のそれ。それに羽交い絞めにした時のことを思い出す。異様な軽さ。それはとてもじゃないが、成人男性の体重ではなかった。
本当に女? コイツは――いったい、誰なんだ?
急に恐怖心が芽生えてきた。僕の中の鬼が鎮まり、殺意が消えたのだ。
あまりに急激に頭が冷えたためか、即座に現状を理解できない。完全に混乱している。様々な疑問が脳内を往来する。けどあらゆる解答を導き出すのは、後回しだ。奇跡的に、今すぐに何をすべきなのか、僕の本能が答えを出してくれた。
僕はその場から逃げ出した。
一目散に扉に向かい、職員室から逃走した。あの女のことなど一度も目もくれず、ただ離れたいがために、ひたすら無我夢中で走った。
***
かなり走ったような気がした。けど時間にしたら、ほんの十数秒のことだと思う。だってここはまだ校舎の中だ。最初から激しかった動悸が、自身の運動量を明確に計ってはくれなかった。
トイレへ駆け込み、洗面所に向かって、とりあえず吐いた。胃液と同時に、熱気と困惑と恐怖も吐き出したような気がして、一気に気が楽になった。
先ほどよりも冷静になった頭で、時間を遡ってみる。
ここは文化部棟と化した旧校舎の一階だ。職員室を飛び出し、渡り廊下を経てここまで辿りついた。いつも使っている校舎のトイレとは違い、暗闇の中でもひどく汚れているのが手に取るようにわかる。
そして熊谷の代わりに職員室に現れた女。あの女は、いったい誰だったのだ?
目を閉じ、頼りない月明りで照らされた女の顔を思い出してみる。が、そんな無駄なことはすぐにやめた。
僕は洗面台の鏡を見つめ、自嘲気味に笑った。
自分の顔すら分からない男が、他人の顔を思い出せるわけがないのだから。
にしても、どこに不備があった? 脅迫状を入れた下駄箱も、職員室のあの位置にあるデスクも、間違いなく熊谷の物のはずだ。実際に別人が現れたのだから信頼性は格段に落ちるものの、あの女が僕の脅迫状を読んだであろうことは確実だ。読まずにあの時間、電灯も点けずにデスクを漁るとは到底思えない。
いや、もうそんなことはどうでもいいのだ。
「失敗……した」
そう、失敗した。熊谷に忠告することができなかった。あとは奴が自らの余罪を自白しないことを祈るだけだが、そんな不確かな希望に賭けたくはない。殺人ともなれば、警察は犯人の余罪を絶対に追求するはずだ。
『彼女』の秘密が知られてしまう。
僕は、『彼女』とした唯一の約束を守ることができなかった。
「無様ね。変態さん」
声がした。首を回す。『彼女』が廊下に立っていた。
「ごめん。約束、守れなかった」
「構わないわ。アンタに借りをつもりはなかったし、強姦されたことなんて誰にも知られたくないなぁって程度のものよ。ただちょっと嫌な思いをするだけ。むしろあの男が警察に捕まるんなら、それはそれで小気味がいいわ」
「そんなわけにはいかないだろ。だってこれは……君の最後のお願いじゃないか」
「だから強制するつもりはないって言ってんの。アンタはさっさと帰って、明日の予習でもしていなさい」
恫喝のようにそう言い残し、『彼女』はさっさと廊下の奥へと消えて行った。
僕は未だに洗面台から動けず、情けなくも涙を流した。どういう意味の涙なのかは、心当たりが多すぎて自分でも判断ができなかったが、一つだけ、確かな理由があった。それは自分の耳にも届かぬ小さな呟きとなって、吐き出される。
「何やってんだろうなぁ……僕は」
ホント、馬鹿みたいだ。




