第1章 僕と『彼女』の関係
「なぁ、帰りにマクドでも寄っていかへん?」
終礼後、帰路や部活に向かうクラスメイトをボケっとしたまま見送っていると、右斜め後方からそんな声が聞こえた。まさか僕に対する発言だとは露程も思わず、ついつい聞き流してしまう。
「なんや、無視かいな。そないだから君は友達がおらへんのやで」
そこまで言われて、ようやく僕に向けられている言葉だと自覚した。別に肩を叩かれたからではない。現在この教室に残っている学生の中で、友達がいないのは僕だけだからだ。
席に座ったまま、僕は首だけを回して彼女の方を振り返った。
「相変わらず、死んだ魚のような目ぇしてんなぁ。まな板の上の鯉か、君は」
「まな板の上の鯉の方が、僕よりももうちょっと威勢がいいと思うよ」
「違いない」
クククと声を押し殺して笑う少女。笑いのツボが異様な場所にあるな。
さて、普通に言葉を交わしてしまったが、会話を成り立たせるためにはもうちょっと情報が必要だ。具体的には、この女子生徒が僕に声をかけてきた目的。そして一番大事なのは、彼女が誰であるのか。
この高校のセーラー服を着込んでいるし、誰も彼女のことを不審がらないところをみると、このクラス、もしくはこの学年の生徒であることは間違いないようだ。ただ如何せん、僕には彼女の素性が分からないから困る。
「で、君は今まで何しとったん? エア友達とでも話しとったんか?」
「エア無機物ならともかく、エア友達とか普通に痛すぎるだろ。せめて妄想の世界へ逃走していたって言ってくれ」
「せやな。そういえば君は、妄想大好きっ子だったな」
なんでそんなこと知ってるんだ? 僕が妄想を糧にして生きているなんて、誰にも言ったことないはずだけど。
僕が訝しげにしたまま言葉を失っていると、彼女は大きく教室内を見渡した。
「あらまぁ、もう誰もいなくなってしもうたやん。そんなところで呆けとらんで、早くアタシとマクド行こうや。君も帰宅部なんやろ?」
「今日は部活はサボりたい気分なんだ」
「帰らへんつもりかいな」
鈴を転がすような声で、彼女は笑う。よく笑う女の子だ。
「冗談は置いといて、僕は今日、用事があるんだ。君の提案には乗れない」
「家にも帰らず、こんな所で呆けていて用事? もうちょっとマシな断り方してくれへん?」
「人を……待ってるんだよ」
「人?」
「うん、『彼女』をね」
ドヤ顔で宣言すると、彼女は目頭を押さえて天井を仰いだ。まさに目も当てられない失敗を犯したような仕草だ。
「あちゃー、彼女持ちだったんかいな。そうならそうと、早く言ってくれんと。こないな所でアタシと親しく話してるの見られたら、勘違いさせてしまうやん」
「大丈夫だよ。僕の『彼女』は寛容なお人なんだ」
「それはそれで心配やけどな。浮気されて嫉妬せん女は、やめておいた方がええで」
ありがたいようなありがなくないような助言を残しながら、彼女は慌てて鞄を拾う。どうやら本気で僕に気を遣っているようだ。
「そんじゃ、アタシはさっさと退散させてもらうわ。君との食事はまた今度。彼女さんによろしゅー言っといてくれや」
「あぁ。それと、君に一つだけ言っておきたいことがあるんだけど……」
小さく手振って背を向ける彼女に対し、僕はわざわざ呼び止めた。どうしても言っておかなきゃならないことではないのだけど、しかし忠告だけはしておいた方がいいだろう。
「君のその関西弁、とても下手だよ。もっと勉強した方がいいんじゃない?」
「下手糞なのは当然や。今日初めて使った口調やからな」
一オクターブほど上ずった声は、どうやら喜びを表しているようだ。きっと満面の笑みを浮かべているのだろう。
「そんじゃ、バイバイ」
「うん、また」
別れのあいさつを交わし、スカートを翻した彼女は、夕日が照る廊下へと消えて行った。
わずかに捻っていた首を元に戻し、僕は黒板上の時計を見上げる。時刻は四時半。五月の生温い風に乗って、窓の外から運動部が謳歌する青春が聞こえてくる。最終下校にはまだほど遠い時間ではあるが、このクラス同様、他のクラスも残っている生徒はいないだろう。
「さて、行くか」
嘘をついてしまった罪悪感からか、いつまでもこの場に留まるのは少々気が引けた。
いや、半分は嘘ではない。なぜなら僕が『彼女』を待っているのではなく、『彼女』が僕を待っているからだ。名も知らぬ少女のお誘いを断る理由としては、十分だろう。
席を立った僕は、鞄を肩に引っ提げて廊下へと飛び出した。左右に長く伸びる空間はオレンジ色に染まっているだけで、人間らしき影は一つもない。こういうシチュエーションを望んでいた。僕と『彼女』の逢瀬は、誰にも見られたくないのだから。
目的の場所は、歩いて十秒。教室一つを隔てた、二年一組である。
鼻歌交じりに、心なしか軽い足取りで僕は『彼女』が待つ教室へと向かう。二年二組には誰もいない。そして待ちに待った二年一組には――期待通り、『彼女』がいた。
「や、荊木さん。待った?」
教室の真ん中でただ呆然と座っている『彼女』に向けて、僕は廊下から声をかけた。
呑みこまれるような黒い髪を揺らしながら、『彼女』はゆっくりと振り返る。憎悪のこもった瞳が、僕を真正面から射た。
「また来たの? 変態ストーカーさん」
「その言葉選びは正確ではない。ストーカーは大抵が変態だから、それじゃ二重表現になってしまうよ。頭痛が痛い、みたいな」
「二重表現で強調しているという認識はないのかしら」
「つまり僕は稀代の変態ってことか。君にそう言ってもらえるのは、なんていうか感無量だね」
強がりではなく本当。僕は特別マゾというわけではないが、『彼女』に罵られるんだったら何だって愛情の糧にしてしまう自信はある。
だがしかし、『彼女』には僕の好意は分かってもらえないようだった。
溜め息と舌打ちを同時にした後、『彼女』は乱暴に席を立った。そして僕の位置からは遠い方の扉を選んで廊下へと飛び出す。
「あららぁ。もしかして、機嫌損ねちゃったかな?」
と言いつつも、臍を曲げている『彼女』も可愛いと思いながら、イノシシのように猛進する『彼女』の背中を追った。
『彼女』の名前は荊木小百合。ちょっとばかり嗜虐的な性格を除けば、どこにでもいそうな女子高生だ。僕と同じで、全国何万人と存在する高校生の中の一人でしかない。
ただし、『彼女』はなかなかな美人なのだ。百点満点で言えば、当然の如く百二十点。つまり他の女子生徒とは比類なき美しさなのである。……ま、僕の激ラブ補正と誇大妄想を含めた評価ではあるけれど。
そんな『彼女』と僕の馴れ初めを話したいのは山々だが、それは後日にしておこう。今は荊木さんを追うことに専念したいのだ。せっかくこんな時間まで待っていた手前、『彼女』を見失ってしまうのは得策ではない。
「待ってよぉ、荊木さん。今日は一緒に帰ろうよ!」
うっわー、我ながら気持ちの悪い声が出てしまった。他の生徒が見ていたら、即通報ものだろう。『彼女』が特に助けを求めようとしていないのが幸いだ。
競歩並みの速度で逃走する『彼女』の背中を、僕は惚れ惚れしながら追う。
いやぁ、なんと美しい髪だろう。肩甲骨のやや下まで届く『彼女』の黒髪は、乱暴に揺れているのにまったく崩れない。むしろ右へ左へ、黒い川が流れているようだ。きっと良い匂いがするに違いない。
ふと、突き当りに至るのと同時に、『彼女』の背中が消えた。僕は今までの余裕な態度を一変させ、慌ててその後を追う。『彼女』は階段で階下に降りたのだろうが、その姿が見えなくなるだけでこうも不安を抱いてしまうのは、それだけ僕が『彼女』に恋してるんだろうなぁ。
そんな惚気にも満たない妄想で表情を緩ませながら、僕もまた角を曲がる。
「え――?」
とその時、不意に身体が宙に浮いた。
浮いたといっても、わずか数センチのことだ。ジャンプにも満たない。が、そのわずか数センチの不自由が、命取りになることだってある。だってここは階段だ。廊下よりも慎重にならなければいけないし、もし足を踏み外した場合、その後どういう事態に陥るのかなど、小学生でもわかる。
そして期待に漏れず、当たり前のような物理法則の中で生きる僕は、当たり前のように階段を転げ落ちた。
ドカッ、バキッ、ミシッと派手な音を立て、僕という物体は踊り場でようやく静止した。
「……ったく、階段を落ちるのは毒舌系ツンデレヒロインだけでいいっつーに」
仰向けで大の字に寝転がった僕は、眼球だけを動かして階上を見上げた。そこにバナナの皮なんて無い。いるのはセーラー服姿の少女が一人。先に降りて行ったはずの『彼女』が、何故か上の階から降りてきた。しかも汚物でも見下げるような瞳を、僕に向けながら。
「前に言ったはずよね? 今後、私の後をつけてきたら容赦はしないって」
なるほど。つまり階段を降りたと見せかけ、陰に隠れて僕の足を掛けたってわけか。多少の過激な行動は覚悟してたけど、まさか本気で命を取りに来るとは思わなかった。だって階段から転げ落ちたら、下手すりゃ死ぬで?
「そんな恥ずかしがらないでもいいのに。ところで、この後お茶でもしない?」
「まさか前から話せば私がデレるとでも思ってるわけ?」
「残念、下からでした」
そしてかなりの絶景だ。廊下で仰向けに寝転がっている僕に対し、『彼女』は階段を下りてくるもんだから、むっちりとした太腿とその先の白い物がちらちらと見える。こんな光景を拝めるのなら、僕は毎日でも殺されかけたいね。
「…………」
「?」
急に黙り込んだためか、『彼女』は気色悪いと感じる以上に、訝しげに思ったのだろう。眉を顰めて、僕を見下げる。あぁ、困ったな。そのサディスティックな表情も見たいけど、今は君のパンツから目が離せないんだ。
「あ……」
どうやら気づいたようだ。僕たちの位置関係と、僕の目線を辿っていけば自然とそうなるか。真っ赤に染まる顔もまた、かーわいぃ。
「この……変態がぁぁぁ!」
片足を上げた『彼女』が、勢い任せに僕の顔を踏みつけた。無機質な上靴の裏が、僕の鼻を折る。何度も何度も、『彼女』の気が済むまで。ただ、踏みつけの犠牲になっている鼻の頭よりも、床と接触している後頭部の方が痛かった。
いやぁ、それにしても僕はなんて幸せ者なんだろう。パンツ見れた挙句、踏みつけてもらえるなんて。僕にMの気はなかったはずだが、いずれそっちの道に目覚めそうだ。
……いや、ホントすみません。そろそろギブです。
と突然、『彼女』は僕に対する踏みつけ行為をやめ、強い足取りで階下へ降りて行った。僕の意を汲み取ってくれたのか、ただ単に飽きただけか、もしくは僕が死んだと思ったのか。どちらにせよ、あのまま続けていたら、いろいろとマズイことになっていたのは間違いない。
「さて……と」
本日の荊木成分補給完了。今日はもう帰って寝るだけだ。楽しいね、人生。
上半身を起こした僕は、後頭部の傷み具合を確かめて乱れた制服を整えた。若干、鼻の頭に違和感を覚えるが気にしない。できれば気にしたくない。ちょっと目も当てられない惨状になっていると思う。
「おい、どうした?」
不意に男性の声がした。下の階から、『彼女』と入れ替わりで誰かが上ってくる。階段の踊り場で寝っ転がってる男がいたら、そりゃ心配もするわな。ま、僕はガン無視する派だけど。
「本当にどうしたんだ? お前、鼻血出てるぞ」
「マジっすか」
まさか鼻血程度で済むとは思わなかった。鼻骨折れてなきゃいいんだけど。
「いやぁ、それがちょっと階段から落ちてしまいましてね」
「階段から!?」
と驚きながら、男は階段の上を仰ぎ見た。
「いえいえ、大丈夫です。最後の一段で踏み外して、床で顔面を打っただけですので」
「それにしても、お前な……」
呆れているのが目に浮かぶ。何か言いたそうに男は口を開いたが、結局やめ、ポケットティッシュを取り出した。
「おぉ、どこのどなたかは知りませんが、ご親切にどうも」
「何言ってんだ。お前の担任の塩崎だ。……見た目はそうひどくなっていないようだが、どうする、保健室行くか?」
「保健室は今使えないでしょう?」
「あぁそうか、しまったな」
とある事情のため、保健室は現在閉鎖されているはずだ。けど、保健室にお世話になるまでもない。そこまで痛くはないし、鼻血さえ止まれば大丈夫だろう。あとは鼻にティッシュを詰めて帰らねばならない、僕のプライド次第だ。
手渡されたティッシュを遠慮なく貪り、止血を試みる。残りは家に帰って処置すると担任に説得してから、僕は定まらない足取りで階段を下りた。正直、ちょっとだけ足腰に来ているようだ。でもまあ、これでも大体いつも通りだったりする。
そう、いつも通り。これが僕と『彼女』、荊木小百合との関係だ。