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キュニスカ

 あっという間に広場アゴラから人の姿が消え、竪琴を手に呆然としたままのカルキノスと、彼を連れてきた三人の男たち、そしてアクシネだけが残される。

 いや、もう一人、いた。


「アクシネェ!」


 アクシネの兄の巻き添えをくってぶっ倒れていたグラウコスが、頭を押さえながら立ち上がってくる。


「まぁぁぁた貴様かッ!? ふざけるな! 痛いだろうがッ!」


 強盗でも平謝りに謝って退散しそうな形相で迫るグラウコスだったが、


「おうっ!」


 アクシネはまったくそちらを見もせずに、兄の上に乗ったまま、機嫌良くこちらに片手をあげてきた。


「すくいぬし! げんきだったかあ?」


「救い主、だぁ?」


 気勢をそがれた様子で、グラウコスがぶつぶつと言う。


「何言ってる。違うぞ。こいつはカルキノスだ。カ、ル、キ、ノ、ス!」


「違うっ!」


 妙な呼び名を教え込もうとするグラウコスを慌てて制止したが、


「カ、ル、キ、ノ、ス?」


 覚えてしまった。


「カルキノス、かあ? なんか、きいたことあるな。……あああっ! わかった。あの、あれ!」


 アクシネは嬉しそうに両腕を振り回し、兄の上から勢いよくどいた。

 兄が苦しそうな呻き声を発したが、気にも留めず、こちらを指さして笑顔で叫ぶ。


「むかーしむかし、えいゆうヘラクレスに、ふみつぶされたやつだっ!」


「誰がだっ!?」


 それは「蟹座」のカルキノスである。


「なあ、おい! カルキノス!」


「だから、違うって……!」


 アクシネは、必死に反論する若者の胸倉を笑顔で掴むと、がくがくと力いっぱい揺さぶってきた。


「わたしは、おまえがいったとおり、ちゃーんと、しごと・・・をしてきたぞっ! スパルタじゅうのみんなに、おまえがくると、しらせてきたっ! えらいな! わたしは、とってもえらいなあ!」


「うぐぐぐぐ」


 ものすごい力で振り回され、カルキノスは、舌を噛まないように歯を食いしばるのが精いっぱいだった。


「まったく、あいかわらず、いかれた女だッ!」


 グラウコスが吐きすてると、それを聞きとがめたのか、アクシネはぴたっと若者を揺さぶるのをやめ、グラウコスをじっと見据えた。


「おっ? 何だ、貴様ァ! やるのか? 俺は、甘っちょろいおまえの兄貴と違って、女でも容赦は――」


「……おまえ、だれだっけ?」


「グラウコスだッ!」


 すっとぼけているのか本気なのか、真顔で言ったアクシネに、だんだんと地面を踏みつけて、グラウコス。

 アクシネは笑顔になり、


「やっぱり、そうかっ!」


 うんうん、と、何度も大きくうなずいた。


「わたしも、そんなきがしてた」


「嘘をつくなッ! 完全に忘れとっただろう、貴様ッ!?」


「いーや、おぼえてるぞお。グラグラーゴロッゴゴッ」


「何の音だ、それはッ!?」


 もはや人間の名前ですらない。

 と、そこへ、


「アクシネ!」


 鋭い声がかかった。

 カルキノスが思わずそちらを向いたのは、聞いたことのない声だったから、というだけではない。

 その声は、女の声だったのである。


「まったく、あんたときたら、あいかわらず馬鹿のままなのね」


(おおっ!)


 と、カルキノスが思わず目を見張ったのは、組まれた両腕の上で誇らしげに衣を押し上げている二つの豊かなふくらみのためでもあり、美しく整った、勝ち気そうな顔立ちのためでもあった。

 きゅっとくびれた胴。大きく張った腰。

 非常に魅力的な女だった。

 そして、怒らせるとすごく怖そうだ。


「あっ! えーと」


「ゼノンの妻、キュニスカよ」


 アクシネが唸りだすのを、ばっさりと切って捨てるように、女は名乗った。

 

(人妻!?)


 カルキノスは、驚き、かつ、がっかりした。

 しかも、彼女が手で示した「夫」は、彼をここまで連れてきた金髪の男だった。


(あいつ、こんな美人と結婚してたのか……)


 まったく、神々は不公平である。


「ああ、そうだ! キュニスカ、キュニスカ」


 アクシネは、言葉の響きを楽しむように口の中で繰り返し、嬉しそうにうなずいた。


「そんなきはしてた」


 一方、キュニスカのほうは、アクシネの呟きなど耳にも入れていない。


「何なの? これ」


 彼女は腕を組んだまま、カルキノスの頭の先から爪先までじろじろと眺めた。


「ほんとに、ひょろひょろの、腐った棒みたいな男ね。あたしとレスリングをしても負けちゃうんじゃないかしら?」


「とんでもない、美しい奥さん」


 人妻であっても、このように魅力的な女性とは、できるだけお近づきになっておきたいものだ。

 カルキノスは、自分では一番男前に見えると信じている角度で微笑み、気取った口調で言った。


「あなたのようにたおやかな女性が、レスリングだなんて――」


「あんた、あたしをなめてんの?」


 カルキノスの言葉は、危険な具合に目を細めたキュニスカの言葉にぶった切られた。


「よそのへなちょこポリスでは、どうだか知らないけれどね。スパルタでは、女だってレスリングをするわよ。弱っちい男なんて、首をひねって、地面に叩きつけてやるわ」


 言われてみれば、傲岸に組まれたキュニスカの腕は、一見女性らしいやわらかさを感じさせはするものの、よくよく見れば、筋肉の隆起がはっきりと分かるほどに鍛え上げられていた。

 肩幅もけっこうある。

 標準よりも遥かにごつい男たちと並んで立っているために、目立たなかっただけだ。


「普通、女が、男と戦うことはないがな……」


「あら、大丈夫よ。あたしのほうが強いわ」


 横から口を挟んだ金髪の男――夫であるゼノンに、キュニスカは、ふふんと笑って言い返す。

 カルキノスは、自分の目玉が、眼窩から転げ落ちるのではないかと思った。

 女性が運動競技を、それもレスリングをするなど、信じがたい話だ。

 さらには、妻が夫に対してこんなふうに対等に、いや、それ以上かもしれぬ立場でものを言うなど、アテナイ市では絶対に考えられないことだった。

 いや、そもそも、祭礼の日でもないのに人妻がこんなふうに堂々と表を歩いていること自体が、まずありえない。

 アクシネという、ありえなさすぎる例を最初に見たせいで、感覚が麻痺していたが――

 スパルタでは、これが普通だとでも言うのだろうか?


「レスリングでの勝負が恥ずかしいなら、徒競走でも、槍投げでも、円盤投げでもいいわよ? あたし、何で戦ったって、あなたに負ける気がしないから」


 女性から面と向かって「あなたに負ける気がしない」などと言われた日には、普通のスパルタの男なら、相手が女でも構わずぶん殴るか、それができなければ自分を恥じて首をくくる。

 カルキノスは、ぽかんと口を開けたまま、


(スパルタには、とんでもない女がいたもんだ)


 と、のんきに驚いていた。

 彼の方こそ、スパルタでは、普通ではない。


「そうだ、キュニスカ。この客人のことだが……」


「ええ、あたし、その話をしに来たのよ」


 夫の言葉をさえぎり、キュニスカは立板に水の勢いで喋りはじめた。


「立派な将軍ならばともかく、こんなへなちょこ男にうちの扉をくぐらせるなんて、あたしにはとても我慢できません。あたし、いらいらして、こいつを井戸の中へ蹴りこんじゃうかもしれないわ」


「だが……」


「ねえ、あなた。あなたみたいに立派な戦士の家に、臆病者を入れるなんて良くないことよ。詩人だか何だか知らないけれど、臆病者には違いないじゃないの。あなたの名誉にきずがつくことになるわ」


「だが、アポロン神の……」


「もちろん、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンの御意志だというなら、この男がスパルタに留まることに、異存はありません」


 ゼノンは、妻の言葉の勢いにされて、もはやほとんど喋れていない。


「でも、その留まる場所が、うちである必要はないでしょう? よそに頼めばいいじゃない。……そうだ! ちょうど都合よく、連れあいも子供たちもなくて、場所が空いているような家があるわよ」


 キュニスカは、ぱんと手を叩くと、のっそりと起き上がって衣の埃をはたき始めたところだった黒髪の男に向かって言った。


「ちょっと、ナルテークス! このお客、あなたのところで預かってくださらない?」


大ういきょうナルテークス……?)


 植物の名前である。

 本名だろうか?

 妹は斧女アクシネ、兄は大ういきょうナルテークス

 変わった一家である。

 親は、いったい、どういうつもりで名付けたのだろうか。

 アクシネの兄――ナルテークスは、何も答えずにキュニスカを見返した。

 困っているのか、怒っているのか、判別のつかない無反応ぶりだ。

 それから彼は、ちらりとアクシネのほうを見た。

 その視線の動きに、キュニスカが、ふふんと笑う。


「あなたの妹さん、あいかわらず、もらい手・・・・がないんでしょ? ちょうどいいんじゃない?」


「うわああああッ!?」


 急にこの世の終わりのような絶叫が響き、その場の全員が声もなく飛び上がった。

 特にカルキノスは、本気で心臓が止まるかとさえ思った。

 年寄りならば、今の瞬間にポックリいっていても不思議ではない。


手がない・・・・ッ!?」


 両目をひん剥いて見下ろしたアクシネは、自分の右手を見、左手を見、それから両手をそろえて、よくよく見た。

 その顔が、たちまち、ほへっと緩む。


「あー、だいじょうぶだったあ! りょうほう、あったぞ! ほらあ」


 ここに来るまでにどこを触ってきたのか、土や埃で灰色になった両の手のひらを、ほらほら、とキュニスカに見せる。


「そんな汚い手を、近づけないでちょうだいっ!」


 キュニスカが飛ばした張り手をものすごい速さでかわし、アクシネはもう一度自分の両手を見つめて、へへへへえ、と笑った。

 まるで、自慢の宝物を持っている子供のようだった。


「まったくもう! あなた、そんなことじゃ、お墓に入るまで、絶対に結婚は無理ね。お気の毒!」


「けっこん……?」


 キュニスカの憎まれ口に、また何かを思い出そうとするかのように宙を見つめていたアクシネだが、


「おおおっ!」


 灰色の手のひらを、ぱんと打ち合わせて、にこにこーっと笑った。


けっこん・・・・かあ! じゃあ、あれを、いわないとな! おぼえてるぞ! 『ヘラめがみさまのようにつつしみぶかく、ヘスティアめがみさまのひをたいせつにまもり、すえながく、おしあわせに』!」


「あたしは、もう、とっくに結婚してるのよっ!」


 悪口も嫌味も、何ひとつ通じていない。

 キュニスカは、だんだんと地面を踏みつけると、


「もう、いいわ! この話、決まりね。行きましょ、あなた!」


 踵を返して、ずんずんと歩き去っていった。


(いい尻だなあ……でも、嫁さんにするには、ちょっと気が強すぎるな)


 カルキノスがそんな感想を抱きながら見送っているうちに、


「すまんが、そういうことで、頼む」


 夫のゼノンが、ナルテークスの肩を叩き、そのまま去っていく。


(うわあ……嫁さんの言いなり)


 重要な判断はアポロン神に丸投げし、嫁さんの言葉には、言い返しもせずに従う。


(あんた、ほんとに、もうちょっと自分の頭で判断するってことをしたほうがいいよ……)


 と、カルキノスは自分の立場も忘れて、ゼノンに忠告してやりたい気分だった。

 三人組のうちの最後のひとりは、ナルテークスとカルキノスを交互に見ると、最後まで何も言わずに肩をすくめ、そのまま立ち去っていった。

 いったい何のために、今の今まで居残っていたのか、まったく分からんやつである。


「まあ、仲良くやれ」


 励ましか皮肉か知らないが、グラウコスは、ばんばんとカルキノスの肩を叩いてから去っていった。

 多分、皮肉のほうだろう。


「なに?」


 アクシネは、きょろきょろしている。

 ここまでの会話の内容が、まったく飲みこめていないらしい。

 カルキノスは、ナルテークス――本名かどうかは知らないが――のほうを見た。

 彼は、黙ったまま、ほとんど五呼吸ぶんほどのあいだ、じっとカルキノスを見返してきた。

 ……これは、遠回しに断っているのだろうか。

 そうに違いない。


(じゃあ、俺は、今夜からいったいどこに寝泊まりすれば……)


 とカルキノスが思い始めた矢先、ナルテークスが、ほんのわずかな動きで、うなずいた。


(良かったあああ!)


 ここで断られたら、即座に宿なしである。

 神殿にでも転がりこむしかないところだった。

 カルキノスは、助かるよ、という手つきをナルテークスに見せてから、


「ありがたいことに、君のお兄さんの許しが出た」


 と、アクシネに向かって言った。


「ありがたい? ……なにが?」


「君の家で、世話になることになったから」


「だれが?」


 あいかわらず、まったく話が進まない。


「俺がっ! 君と、お兄さんの家に、いっしょに、住まわせてもらうことになったんだっ!」


「いっしょに……?」


 またもや、ぼんやりと繰り返したアクシネだったが、


「すむのか!?」


 急に、声の調子を跳ね上げて、目を輝かせた。


「いっしょに!?」


 激しく手を動かして、自分とカルキノスを交互に示す。

 その剣幕に気圧されながら、カルキノスがうなずくと、


「やったー!」


 アクシネは両拳を突き上げながら、驚くほどの高さまで跳び上がった。


「いっしょに! いっしょにかっ! いこう、いこう! いっしょにいこう!」


 カルキノスの腕をつかみ、ぐいぐいと引っ張る。

 その勢いに脚がついていかず、あやうく転びそうになったカルキノスだが、アクシネの両手ががっちりと手首を掴んでいたために、かろうじて倒れずにすんだ。

 そこまで体格がよい方でないとはいえ、男一人の体を笑いながら軽々と支えるなど、アクシネの膂力は並大抵のものではない。

 彼女の太腿でぶらぶらと揺れている手斧が目に入り、もしかすると、自分は獅子の巣に運ばれてゆくウサギみたいなものなのではないか? という不安がカルキノスの心の内をよぎった。


(アクシネを怒らせるような真似だけは、絶対にしないでおこう)


 でなければ、冗談抜きで、命が危ない可能性がある。


「あにきィ! じゃあな、またな! わたしは、カルキノスと、いっしょにいくからな!」


 アクシネは、やはり無言のままの兄に向かってぶんぶんと手を振ると、カルキノスの手をぐいぐい引っ張って歩き出した。


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