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歴史



 歴史は語る――

 メッセニアのアリストメネス将軍が、生き残った人々を率いてヘイラから脱出し、アルカディアへと亡命を果たしたことを。

 そして、その生涯をかけて、スパルタと戦い続けたことを。

 それでも、ヘイラの陥落はメッセニアとスパルタとの力関係を決定づけ、メッセニア人たちはその後、三百年近くにわたってスパルタへの隷従を強いられることとなる――



     *     *     *



 まるでそぞろ歩きでもするような調子で、竪琴の音色が、とぎれとぎれに響いている。

 太陽の位置はすでに中天をかなり過ぎ、陽炎がゆらめくほどの暑さも少しずつ和らいできた。

 緑が一面に茂り、そこらじゅうに大ういきょうナルテークスやアザミ、名もないがさがさした草などがはびこっている。

 そこへ、


「ホッ!」


 と掛け声をあげながら、突然、横手の茂みを割って飛びだしてきた人影がある。

 子供かと思えば、大の大人だ。


「おや」


 すぐ近くの木陰に腰をおろし、一心不乱に竪琴をかき鳴らしていた男は、飛び出してきた人影に気付いて朗らかに声をかけた。


「アグライスさんじゃないか!」


 衣のすそに植物の種をいっぱいくっつけた女は、その声を聞きつけて、くるりと振り向き、おやっという顔をした。

 軽やかな足取りで走り寄ってきて、笑顔で言う。


「おまえ、しってる! えーとな、えーと、…………おまえ、だれだっけ?」


「テルパンドロス。レスボス島から来た詩人さ!」


「ああ、そう、そう」


 彼女はそう言いながら、大きく頷いた。


「そんなきはしてた。……アグライスってだれ?」


「君だよ」


「わたし?」


「そう」


 不思議そうに自分の胸に手をおいて言うアクシネに、テルパンドロスは、大きく頷いてみせた。


「もう、誰も、君のことを斧女アクシネとは呼んでいないよ。

 笛奏者アウレートリスのアグライスだ。

 将軍テュルタイオスを助け、スパルタを勝利へと導いた――」


 テルパンドロスは頌歌でもうたうような調子でそう言った。

 彼女の腰にいつもさがっていた斧は、今はなく、かわりに二管の笛アウロイが帯にくくりつけられている。

 当のアクシネは、にこにこしながら黙って立っていた。

 喜ぶでもなく、嫌がるでもなく、まるで、理解できないし興味もない出来事の説明でも聞いているかのような態度だ。

 テルパンドロスのほうも、特にそれを気にした様子はなかった。


「ところで僕は、テュルタイオス……カルキノスに、会いたいと思っているんだが。君、彼がどこにいるか知――」


「しらない!」


 テルパンドロスの言葉に押しかぶせるようにして、アクシネはいきなり叫んだ。


「しらない、しらない、しらないなー! わたしは、カルキノスがどこにいるか、ぜーんぜん、しらない!」


 むやみに大きな声で断言し、頭がもげそうな勢いでぶんぶんとかぶりを振る。


「そうか」


 あまりにも怪しい態度だったが、それ以上は追及することなく、テルパンドロスは微笑んだ。


「じゃあ、彼を見かけたら、伝えておいてくれたまえ。僕は、ずっと、君と勝負する日が来るのを待っているって」


「わかったー」


 そう叫び、アクシネは白く光る埃っぽい道を走っていった。



     *     *     *


 

 歴史は語る――

 スパルタの大祭であるカルネイア祭の音楽部門で、レスボス島出身の詩人テルパンドロスが、優勝の栄冠を勝ち取ったことを。

 彼はまた、ピュティアの競技祭の音楽部門でも、四回連続優勝の栄誉に輝いた。

 テルパンドロスの名は今もなお、七弦の竪琴キタラの伴奏による歌唱法を確立した者として、音楽史に刻まれている――



     *     *     *



「おっ?」


 走り続けていたアクシネは、そう呟いて目の上に手をかざすと、急激に速度を緩めた。


「ハイモス、もう一歩だ、あと一歩踏み込め! ……アルキアス! 上体が泳いどるぞ! もっと深く膝を曲げ、跳びかかろうとする獣のように構えろ! ティタイオス……あっ、まずい、奴が来た!」


「きたよ!」


 アクシネは元気にそう言いながら、突然の闖入者に戸惑う様子の若者たち――訓練の真っ最中で、みな短剣を握っている――のあいだを次々にすり抜け、彼らの指導者の前に立った。


「グラグラー、げんき?」


「グ・ラ・ウ・コ・スだッ!」


 脳天から沸騰した血液が噴き上がりそうな剣幕で、グラウコスが怒鳴る。

 だが、その勢いとは裏腹に、彼の右腕はまるで人形の腕のように生気なく体の脇に垂れ下がっていた。

 ヘイラ陥落の日、ミノンが突き立てた槍の穂先は、グラウコスの肩を貫き、腕を動かすための神経か筋肉かを切断した。

 グラウコスは、戦士としての生命線である、武器を振るう利き手を失ったのだ。

 だが、彼は、絶望しはしなかった。

 少年たちを鍛え、スパルタを担って立つ戦士として育て上げることこそが、これからの自分の役目なのだと考えている。


「お前はッ、いい加減に、俺の名前をわざと間違えるのをやめんかッ! いったい何度、言わせたら、気がすむんだッ!?」


「なにを?」


「俺の名前だッ!」


「おおーっ!」


 アクシネは大きく仰け反ったかと思うと、しなった枝が跳ね返るみたいに元の姿勢に戻り、


「しってる。グラグラだっ!」


「うおおおおおッ!」


 笑顔で断言され、グラウコスは左手で頭を抱えながら仰け反った。


「貴様はッ………………いや。もう、いい」


「そう?」


「いや、まったくよくはないが……」


 これ以上まともに追及しても疲れるだけだと悟ったか、グラウコスは、自ら話題を変えた。


「ところで、お前、テュルタイオスを――カルキノスの奴を、どこかで見かけなかったか? 家を訪ねたんだが、いなくてな」


「カルキノス?」


 アクシネは目を大きくして繰り返すと、突然、くるくる回りながら大声で歌い出した。


「しらない、しらない、しらないなー! わたしは、カルキノスがどこにいるか、ぜーんぜん、しらない!」


「本当かッ!?」


 嘘くさいにもほどがあるぞ、と口の中でぶつぶつ言っていたグラウコスだが、やがて、表情を穏やかにすると、言った。


「もしも、あいつを見かけたら、言っておいてくれ。若い奴らが、新しい歌を聞きたがっている。俺たちは、お前を待っていると」


「わかったー」


 アクシネは大声で叫び、来た道の続きを、再び走り出した。



     *     *     *



 歴史は語る――

 脚の不自由なアテナイ人のテュルタイオスが、アポロン神の神託により、スパルタにつれてこられたことを。

 テュルタイオスが、戦場での勇壮な死を讃える歌によって人々を激励し、対メッセニア戦争においてスパルタに勝利をもたらしたことを。

 遥か後の時代になっても彼の名声は消え去ることなく、スパルタの人々は、テュルタイオスが残した詩を、父から子へと歌い継いでいった――



      *     *     *



「アクシネ!」


 走り続けていたアクシネは、急に呼びかけられて、土埃をたてながら立ち止まり、あたりを見回した。

 すぐ側の木立のかげから、歩み出てきた人影がある。

 奴隷の娘に大きな籠を持たせたキュニスカだ。

 彼女は今でも、その顔の下半分に布を垂らして隠していた。

 だが、言葉は、以前とほとんど変わらぬ明瞭さを取り戻している。


「そんなに急いで、どこへ行くのかしら。……当ててあげましょうか? あなたは、テュルタイオスの――あなたの夫のところへ行く途中なのね」


「え!」


 ずばりと言われて、アクシネは大きく目を見開き、あっちを見たり、こっちを見たりした。


「ちがう、ちがう。わたしはなー、えーと、わたしは、カルキノスのところに、いかない。ぜーんぜん、いかない!」


「そう?」


 明らかに笑いを含んだ調子で言うと、キュニスカは奴隷の娘が持っている籠から無花果いちじくの実をふたつ取り出して、アクシネに手渡した。


「ほら、これをあげるわ。うちの裏で、たくさんとれたから。持っていって、二人でおあがりなさいよ」


「やった、やった! やさしい! ふたりで――」


 跳びはねながらそこまで叫んだアクシネは、ちょうど地面に降りたところで、ぴたりと固まった。

 急に、背筋を伸ばし、ぶるぶるとかぶりを振った。


「いや、いや、ちがってた。ふたりじゃない。ひとりで、たべる! わたしが、ひとりで!」


「そうね」


 キュニスカは優しい口調でそう言うと、手を振って道の先を示した。


「さあ、お行きなさい」


「うん!」



     *     *     *



 タユゲトスの山々の影が長くのびて、速やかに平地をおおってゆく。


「いた!」


 夕映えの最後の光にまばゆく照らされる山道を駆け登ってきたアクシネは、跳びあがってそう叫んだ。

 彼女が探していた姿が、山腹にあった。

 彼はちょうど腰かけのような具合にすり減った岩に座り、スパルタの家々から煮炊きの煙が立ち上る様子を、じっと見つめていた。


「カルキノス!」


 大声で呼びかけると、彼はこちらに顔を向けた。

 鼻のない顔が、少し疲れたように笑った。

 アクシネは一気に速度をあげて男の側へ走り寄ると、


「これ!」


 両手にひとつずつ握りしめていた無花果のうちのひとつを、いきなり相手の目の前へ差し出した。


「ここにくるまえに、キュニスカがいた! それで、これ、くれた。おいしい!」


 片手で無花果を差し出しながら、もう一方の手で握った自分のぶんを、もうかじり始めていた。

 カルキノスはかすかに笑いながら、ほとんど一瞬で無花果を平らげたアクシネの顔を見つめていた。


「おいしかったかい?」


「うん!」


「それなら、これも、君が食べていいよ」


「だめ!」


 差し出された無花果をやわらかく押し返そうとしたカルキノスに、アクシネは、汁でべたべたになった手を振って言った。


「これは、カルキノスのぶんだから、カルキノスがたべる。たべると、おいしい! げんきになる。ほらっ!」


「げんきになる」ことを証明してみせるつもりか、アクシネはやたらに両手を振り回しながら、そのあたりをぴょんぴょん跳ねまわった。

 カルキノスは、苦笑して、頷いた。

 皮ごと、無花果のやわらかな果肉にかじりついた。


「それでなー」


 カルキノスが無花果を食べる様子を嬉しそうに眺めながら、アクシネは言った。


「キュニスカのまえには、グラグラがいた。……まってる、って、いってた。みんなが、まってるって。

 それからな、そのまえには、あの、えーと……わすれちゃった! あの、あれ、あの……きんいろのかみのやつ。それで、しょうぶをまってるって」


 無花果を食べ終えたカルキノスは、何も言わずにアクシネの話に耳を傾けていた。


「でもな、でも、わたしは、カルキノスがどこにいるか、わかってたけど、しらないっていった。だって、カルキノスは、ここに、しずかにすわっていたいから」


「ありがとう」


 彼は小さく呟いた。

 その顔は笑っていたが、声は、ほんの少し、震えているようだった。


 アクシネは彼女の夫の隣にぴったりくっついて腰をおろし、手についた無花果の汁をなめ、その手を岩にこすりつけた。

 ふたりの眼下で、夕日に照らされたスパルタの家々の屋根が、みな金色に染まって輝いた。

 ふたりはしばらくのあいだ、何も言わずに、並んでその光景を見つめていた。


「カルキノス」


 やがて、アクシネが、小さな声で言った。


「おぼえてる? カルキノス、まえに、いいうたができたっていってた……」


 カルキノスの表情が大きく歪み、その目から、いっぱいに溜まっていた涙があふれ出した。


「歌えない。俺は、もう」


 鼻のない顔を、震える両手がおおった。


「歌いたくないんだ……」


 彼は全身を震わせて泣いた。

 その肉体と魂は深く傷つき、二度と癒えることはないかのようだった。


「いい、いい」


 アクシネは、囁くように言った。


「いいよ。……だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 彼女は夫を抱きしめると、嗚咽に揺れるその背中を、手のひらで優しく叩き始めた。


「ほら、ねるといい!」


 言いながら、カルキノスを膝枕して、背中を叩き続けた。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ、と囁きながら。


 カルキノスが涙を流しながら眠りに落ちたあとも、アクシネはその手で休みなく、ゆったりとした鼓動のように、カルキノスの背を打ち続けた。

 ときおり、もう一方の手をあげ、カルキノスの顔にとまろうと寄ってくる羽虫を、シッ、シッと言って追い払った。


 日が落ち、あたりが暗く涼しくなっても、アクシネは動こうとはしなかった。


 暗闇の中で、彼女は、小さな小さな声で歌いはじめた。


 やがて、一番星がのぼり、あとに続く無数の星々が夜の闇を埋めていった。




         【完】




《主な参考文献》


・アテナイオス(柳沼重剛訳)『食卓の賢人たち(2)』京都大学学術出版会 1998年

・クセノポン(松本仁助訳)『小品集』京都大学学術出版会 2000年

・テオグニス他(西村賀子訳)『エレゲイア詩集』京都大学学術出版会 2015年

・パウサニアス(飯尾都人訳)『ギリシア記』龍渓書舎 1991年

・プルタルコス(柳沼重剛訳)『英雄伝(1)』京都大学学術出版会 2007年

・プルタルコス(松本仁助訳)『モラリア(3)』京都大学学術出版会 2015年

・プルタルコス(戸塚七郎訳)『モラリア(14)』京都大学学術出版会 1997年

・ヘシオドス(廣川洋一訳)『神統記』岩波書店 1984年

・ホメロス(松平千秋訳)『イリアス』岩波書店 1992年

・藤村シシン『古代ギリシャのリアル』実業之日本社 2015年



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