「ずっと」
「テオン……もう、終わりだ。ヘイラは陥ちる」
カルキノスは、震える声で言った。
自分は、この期に及んで、彼を説得しようと試みている。
だが、何のために?
「今、君が言ったことは、忘れるよ。帰ろう、一緒に……」
そうだ。
スパルタに――家に、帰るためだ。
そう、約束した。
だから、帰るのだ。
(皆、おまえの歌を歌いながら死んでいったのに?)
(おまえは、死は美しいと言ったじゃないか)
(おまえを守るために、何人の男たちが死んでいったのだ)
(どうして、おまえだけが、家に帰るのだ?)
「俺は、帰る……アクシネのいる家に……帰るんだ」
たとえ、それが許されぬことであるとしても――
「わたしは」
テオンの顔が歪み、泣き笑いのようになった。
「もう、奴隷として生きることはできない」
「やめてくれ!」
カルキノスは両手を振り回して喚いた。
「もういい! テオン、帰ろう! 俺は、君とは戦いたくない……
これ以上の戦いは無意味だ。反乱は、終わった! 家に帰ろう! もはや、ヘイラは滅びる!」
「いいえ、まだです、スパルタの将軍テュルタイオス」
テオンの頬を、また、ひとすじの涙が伝った。
その皺だらけの手が、槍の柄を握り直した。
「あなたを殺せば、神託は成就しない」
カルキノスは、振り回していた両手を降ろした。
(やはり、勢いで説得することは、無理だったか)
ずっと欺かれていたのかという衝撃がある。
胸を引き裂かれるような哀しみがある。
なぜ、これまで気付くことができなかったかという情けなさもある。
それでも、頭のどこかに冷静な部分が残り、冷たい目をして状況を見定めている。
そんな自分が嫌だった。恐ろしかった。
それでも、口は動き、次の言葉を紡ぐ。
「もう遅いよ」
先ほどの激昂が嘘だったように静かな口調に戻って、カルキノスは言った。
「戦いの趨勢は、もう決まった。今から、何がどうなろうと、勝敗は変わらない」
「まだ、分かりません」
テオンの口ぶりも、静かだ。
獣が獲物に襲いかかる直前の一瞬の、張り詰めた静けさ。
「《斜めの君》アポロン神の御言葉は、いかようにも解釈が成り立つものでしょう。そのうちの、どれが正解なのかは、最後まで分からない……」
「そうだ、テオン。分からないんだ。神託は、俺がここでスパルタの将軍として死ぬことによって、はじめて成就するのかもしれないよ……君は、その手で、神託を成就させることになるんだ……」
「あの歌が、聴こえますか」
一歩も譲らぬやり取りを、ふと忘れたように、テオンは片腕を振った。
遠くから、歌声が聴こえてくる。
敵を追い 踏みしめた土
父祖より 受け継ぎし地を
息子らに 手渡すために
勝利を確信したスパルタの男たちが、喜びをほとばしらせて歌っているのだ。
敗者にとって絶望の響きでしかないはずのその歌を聴きながら、テオンの表情からは、気力が失われていない。
「ほら……スパルタの男たちが、あなたの歌を歌っている。
テュルタイオス、あなたは、スパルタを支える柱だ。あなたを失ったと知れば、きっと、スパルタ軍は恐怖にとらわれる。輝けるアポロン神が自分たちを見捨ててしまわれたのだと思い、恐慌に陥る……」
「いや、違う、テオン。そんなことがあるはずがない。もう、戦いは終わったんだ! 今、俺が死んだところで、何も変わらない。スパルタの勝利は揺るがない!」
「いいえ、あなたは、御自身の存在の大きさを分かっておられないのです」
テオンの声が、いっそう静かに、穏やかになった。
「戦いは、これで終わりではない。
メッセニア人たちの一部が、ヘイラからの脱出を果たしたのを、私は見ていました。希望は、全て失われてしまったわけではないのです。
そうだ……アリストメネス将軍だって、生きている。将軍は、メッセニアの生き残りを率いて脱出し、再起して、スパルタに戦いを挑む! 翼を広げた鷲の盾が、再び戦場に輝くのです!
そのとき……あなたに生きていられては、困る! すみません!」
テオンが不意に突進し、槍の穂先を突き出してきた。
カルキノスは、横に飛びのいてこれをかわした。
突いてきたのがスパルタの男だったならば、身動きする間もなく心臓を刺されていただろうが、テオンは武器の扱いを知らない。
ほとんど飲まず食わずで何日も過ごしていたために、体力も底をつきかけている。
だが、それはカルキノスのほうもまったく同じだ。
武器を持たず、右脚がきかないぶん、圧倒的に不利だった。
「うぉっ」
再び突き出された穂先を、辛うじてかわす。
このままでは当たらないとみて、テオンは突くのをやめ、踏み出しながら、なぎ払うようにして槍を振ってきた。
「いっ」
反射的に突き出した両手を穂先がかすめ、身がすくんだ。
突きならば、狙いはただ一点。だが、払えば面で攻撃が来る。かわすことが、ずっと難しくなる。
「すみません!」
大声で叫びながら、テオンは槍を引き戻し、もう一度振りかぶってきた。
(だめだ)
とっさに下がろうとしたが、踵が、何かに当たっている。おそらくは、メッセニアの誰かの死体に。
動けない。避けられない――
『わしらの剣が他国のものよりも短いのはな』
テオンが振りかぶった槍の穂先が、白く光って見えた。
同時、記憶の深みから、声がよみがえった。
誰がどこで言っていた言葉かは思い出せなかったが、その誇らしげな声の響きまで、はっきりと。
『戦場で刃を交わすときに、敵に対して、より深くまで踏み込むためよ』――
「おぉおおお!」
斜めに切り下げるように穂先が振りおろされてきた瞬間、カルキノスは、前に飛び出した。
槍の穂先ではなく柄が、左脇腹にぶち当たり、息が詰まるほどの痛みが走ったが耐えた。
テオンが槍を慌てて槍を引こうとするよりも早く、その柄を両手でがっちりと掴み、もぎ取ろうとする。
互いに、物も言わずに引き、あるいは押して、一本の槍を奪い合った。
血と雨に濡れた足元が滑る。
不意に、槍を強く引かれて、カルキノスは堪え切れずに膝をつき、引きずられたが手は放さなかった。
テオンはカルキノスの全体重を支え切ることができず、よろめき、姿勢を崩した。
だが、彼も槍を放さなかった。
「もう、やめよう、テオン! こんなことをしたって、何もならない!」
「そんなことを言うのは、あなたが自由だからだ!」
テオンは狂ったように激しく槍の柄を揺さぶり、カルキノスの手をもぎ離そうとしながら怒鳴った。
「自由を奪われた者は、それを取り戻すために、命を懸けるんだ!」
「あれー」
声が、きこえた。
ひどく、場違いで、ひどく、懐かしい声が。
カルキノスにとっても、テオンにとっても、それは同じだった。
カルキノスの意識がそちらへ向いた一瞬、テオンが踏み出し、槍の柄を掴んでいたカルキノスの手を蹴り飛ばした。
カルキノスの片手が、槍の柄から離れる。
その隙に、テオンはとうとう槍をもぎ取った。
だが、彼はその隙を狙ってカルキノスを刺そうとはせず、激しく肩を上下させながら数歩下がって、身構えた。
「とりあい? けんかかあ?」
そのあいだに、声の主は不思議そうに言いながら、戦っていた二人の男のあいだに歩いて割り込んできた。
恐れも、ためらいも、欠片ほども抱いていないかのような態度で。
「けんかは、よくないなー。ちがでる!」
テオンは、あんぐりと口を開け、目を見開いていた。
取り戻した槍の穂先が震えている。
彼女がここにいるという事実を、まだ、信じられないでいるのだ。
カルキノスには、テオンの気持ちが、痛いほどに理解できた。
「なにしてる、テオン? なにしてる、カルキノス? わたしはなー、わたしは、ずっと、うえのほうからみてた。ふえは、したにおいてきた、ぬれるから……」
「アクシネ」
擦りむいて血を流している脚で、よろめきながら立ち上がり、カルキノスは呼びかけた。
アクシネは、斧を腰にさげたまま、抜いていない。
テオンとカルキノスの真ん中に立った彼女は、どちらかというとカルキノスのほうに体を向けて話している。
テオンが、もしも、無警戒なアクシネに、背後から危害を加えるようなことがあったら――
「テオンは……敵だ。スパルタを裏切った……」
「ん?」
何のことだろうという顔をして、アクシネはテオンのほうを見、それから、またカルキノスを見た。
「ここは、いやだ。みんな、しんじゃってる。もううごかない。
さっ! ふたりとも、かえろう! わたしは、おなかがすいてきた! かえろう、かえろう! ごはん、ごはん! くろいスープ!」
「アクシネさん」
テオンがかすれた声で呼びかけると、アクシネは、首を傾げながら彼に向き直った。
テオンは、その手から、槍を放していない。
「申し訳ありません。わたしは、もう……」
「えへへへへ、テオン」
異様に緊張した彼の声の調子に気付かないのか、気付いても、気にしていないのか、アクシネの態度はいつもとまったく変わらなかった。
「どうしたんだ? かおが、こわい!」
「来ないで下さい」
一歩、近づこうとしたアクシネに、テオンはまっすぐに穂先を向けた。
震える穂先は、しかし、確かに彼女の胴を向いている。
「あれー」
「……帰ろう、テオン……このまま」
テオンは何がしたいんだろう、という態度で立っているアクシネの後ろから、カルキノスは、呼びかけた。
さっき、テオンの槍を――その柄の一撃を左脇腹に受けたとき、あることを、思い出したのだ。
これが、最後の機会。
最後の希望――
「テオン、君は……俺を殺そうと思えば殺せたのに、殺さなかった。
思い出したんだ! スパルタを出発する夜のことだ。
あのとき、君は、俺と二人きりだった。俺の方から、思いきり殴ってくれと頼んだ!
あれほどの好機は、神に祈ったって巡ってくるものじゃない。君は、あのとき、そうしようと思えば、俺を殴り殺すことができたんだ!
いや、本当は、そうしたいと思っていたんだろう。今になって、ようやく、はっきり分かったよ。あのとき、確かに、君の一撃に殺意を感じた……」
涙が流れる。
テオンはこれまでずっと自分を憎み、殺したいと思いながらそれを隠していたのかと思うと、心が抉られるようだった。
でも――
「でも、あのとき……君は、自分から手を止めた。俺を、殺さなかったじゃないか!
そう思ってくれただけで、俺は、すべてを許せる。
だから、もう、やめよう、こんなことは! 家に帰ろう!」
テオンの視線が揺れた。
アクシネは、忙しく顔を動かして、テオンとカルキノスの顔を交互に見ている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「おっ」
アクシネが呟き、片手をあげて目を細めた。
朝日だ。
三日ぶりに雨があがり、地上に、いくつもの金色の筋となって陽光が射し込んだ。
「……おい!?」
遠くから数人ずつ組になって歩いてきたスパルタの戦士たちが、こちらを指さし、叫んだ。
「あれは……カルキノス将軍ではないか!?」
「あれは誰だ、武器を持ってる!」
「メッセニアの生き残りか!」
「――だめだっ!」
アクシネが叫んで飛び出し、猛然と駆け寄ってこようとした戦士たちの前に、両腕を広げて立ちはだかった。
「どけい、女!」
「どかない! いくな! カルキノスと、テオンが、だいじなはなし、してる!」
「このっ」
戦士たちは色めき立ったが、アクシネの手にはすでに斧が握られている。
下手に踏み込めば、頭を割られるかもしれない。
横から回り込もうにも、アクシネは巧みに距離をとっているから、すぐに気付かれ、捕捉されてしまうだろう。
状況を理解しきれないこともあり、戦士たちがためらっているあいだに、カルキノスとテオンは、隔てるものもなく向き合って立っていた。
「テオン」
カルキノスは呼びかけた。
もはや、語るべき言葉は尽くした。
今は、その名を呼ぶことの他に、何もなかった。
テオンは、自分の後方でアクシネとスパルタの戦士たちの押し問答が起こっていることには構わず、振り向きもせずに、朝日に照らされたカルキノスの鼻のない顔を、長いあいだ見つめていた。
やがて、彼はくしゃりと表情を歪め、笑うような、泣くような顔になった。
「でも、スパルタに帰れば、もう」
彼は大きく息を吸い込んだ。
その口が開き、喉が震え、朗々とした歌声がほとばしった。
カルキノスは目を見開き、朝の光の中で歌う男の姿を見つめた。
アクシネは思わず振り返り、アクシネと押し問答をしていた戦士たちも、口を閉じて聴き惚れた。
神々に愛される豊かな土地。
険しい山々のあいだに、青々とした牧草地が広がる。
田畑を耕し、家畜を養う男たち。
糸を紡ぎ、機を織る女たち。
花の咲き乱れる草原で、歌い、踊り、恋に落ちて――
「わああ」
アクシネが目を輝かせ、跳びはねながら叫んだ。
「うたってる! テオンが、うたってる! いいうた!」
「いい歌……」
テオンは歌いながら、泣いていた。
「そうでしょう。そうでしょう……もう、戻れないんです。わたしは、帰れない。ずっと押し殺してきた望みが、目を覚ましてしまったら、もう、引き返すことはできない!」
彼は槍を構え、突進した。
「死ね、スパルタの将軍! 我らがメッセニアに自由を!」
カルキノスは、その場を動かなかった。
まっすぐに立ち、突っ込んでくるテオンの顔を見つめていた。
神託が、成就する時が来たのだ――
おびただしい量の血がしぶいた。
テオンの体がカルキノスの体にぶつかる。
二人はそのまま、メッセニア人たちの死体の上に折り重なって倒れ込んだ。
冷えて固まった血の上に、流れ出したばかりのあたたかな血が広がっていった。
「……なんで?」
誰もが言葉を失っていた中、アクシネが、ぽつりと、震える声で言った。
「なんで? ……なんで? テオン、なんで? なんでだ! ばかあああ!」
彼女は、手にした斧を地面に叩きつけた。
その刃は、真っ赤に染まっていた。
「いいんです……これで……」
「よくない!」
カルキノスは、白目を剥いて、気を失っている。
テオンの声は、アクシネにしか聴き取れなかったはずだ。
かすかな、吐息のような声をはっきりと聞き分けて、アクシネはテオンの肩を掴んだ。
その指が、たちまち血で真っ赤に染まった。
「だめだ! しんだらだめだ! テオン、わたしのせいでしんだらだめ!」
テオンの槍の穂先は、カルキノスに届かなかった。
疾風のように走り寄ったアクシネが、その斧の一閃で、テオンの背を斜めに切り裂いたのだ。
おそらく、背骨が砕けている。カルキノスにのしかかるようにして倒れたテオンの体は、血にまみれ、ぴくりとも動かない。
下を向いたままの顔から、かすかな声だけが聴こえた。
「あなたの、せいではない……」
「いやだ! いやだ! テオンがいなくなったらいやだ! わたしのせいで、テオンがいなくなったらいやだ!」
「わたしの……わたしの歌……いいうた」
その声は、笑っているように聴こえた。
「アクシネさん、どうか……ずっと……このかた、と」
アクシネは泣いた。
斧を放り出したまま、地面に座りこんで泣いた。
そんな彼女をどうしたらよいのか分かりかねる様子で顔を見合わせたスパルタの戦士たちは、やがて、彼女を遠回りに避け、奴隷の死体の下敷きになって気を失ったままのカルキノス将軍に近づいていった。
まばゆい朝の光が、ヘイラを照らしている。
それは、スパルタの勝利を告げる光だった。




