「自由を求める心は、死なない」
三日目の朝が来た。
糸のように細い雨が降っている。
勢いこそ衰えたものの、一度も止むことなく、まだ降り続けているのだ。
だが、空がわずかに明るくなり始めている。
雨は、まもなく上がるだろう。
戦いの物音は、ほとんど聞こえなくなっていた。
怒りに燃えたスパルタ側の猛攻撃と、メッセニア人たちの死に物狂いの応戦とによって、ヘイラの町は――町であった場所は、一面が血と骸におおわれている。
カルキノスは、転がる死体をよけ、あるいはまたぎ越えながら、一人でふらふらと歩いていた。
スパルタの戦士たちは、味方の死傷者の収容と、息のある敵を探し出してとどめを刺すことに忙しい。
「よいか、若者たちよ! 気を抜かず、最後の後始末まで、きっちりしておかなければならんぞ。
一人も生かさぬという心がけがなくては、思わぬところで足元を――」
聞いたことのある大声が、そう言っている。
カルキノスは、彼らのそばを影のように通り過ぎた。
「ん?」
若い戦士の一人が、訝しげに顔をあげて目をこすった。
そのすぐ隣で、敵の死体を脚でひっくり返していた男が、怪訝そうに振り向いてくる。
「どうした?」
「いや……今、そこに、カルキノス将軍が」
「こら! そこ、よそ見をするなっ! ……見よ、こちらの敵も、まだ息があるではないか! 死んだふりをして、急に襲ってくることもあるのだぞ。よく目を開いて探せ! 全ての敵を、完全に殺すのだ!」
カルキノスは、ふらふらと歩き続けた。
傾いた細い体に赤い衣をまとい、足を引きずって歩く様子は、まるでこの戦いで命を落とした魂のひとつが頼りなげに地上をさまよっているかのようだった。
道端に、メッセニア人の死体と折り重なるようにして、スパルタの若い戦士の骸が転がっている。
かっと目を見開き、食い縛った歯を血に染めて死んでいる。
その手首に、名前を記した小さな木の板がくくりつけられている。
彼もまた、カルキノスの歌をうたいながら戦ったのだろうか。
歌のことばを心に思い浮かべ、若い魂を燃やしながら死んでいったのだろうか。
死は美しい――
「違う」
カルキノスの目から涙の粒が転がり落ちて、雨にまざった。
死が、祖国のための死が美しいものであるというなら、今、自分の中に生じている感情はなんだ。
この光景を目の当たりにして、それでも死は美しいといえるのか。
倒れてゆく友の姿を目の前に見て、死は美しいと歌うことができるのか。
ここに倒れている戦士たちは、だまされたと怒り、恨みながら死んでいったのではないか。
死にたくない。
まだ、死にたくない。
ああ、俺たちはお前の言葉に従い、ひとつしかない陽の下の命を捨てたというのに――
お前は、何故、まだ生きているのか、と。
「アリストメネス……」
そうだ、奴を、探し出さなくてはならない。
それが、自分が今、ここに生きている理由。
死んでいった者たちへの弁明だ。
奴を探し出し、対峙する。
自分が死ぬことになるのか、アリストメネスが死ぬことになるのか、分からない。
だが、それはもうどうでもよかった。
輝けるアポロン神の神託は、必ず成就するのだ。
たとえ、それが、どのような形であったとしてもだ――
「アリストメネス」
独り言のように呟きながら、その姿を探し求めて歩く。
カルキノスは、いつの間にか、ヘイラの最も奥まった場所にまでたどり着いていた。
わずかばかりの平地と、そびえ立つ背後の山肌がぶつかるその場所には、湧き水が出ていた。
崖の面から野生のいちじくの樹が伸びていたが、幹の半ばから折れて濡れた地面に倒れ、枝葉が真っ赤な水に浸かっていた。
そして、周囲はすべて死体の山で埋まっていた。
無数のメッセニア人たちの骸から流れ出した血が、湧き水を赤く染めている。
男。女。子供たち。
彼らのほとんどは、刺し殺されたようだった。
そばに、幾人か、首をくくってぶら下がった死体もあった。
スパルタ人たちに追い詰められ、もはや抵抗は不可能と悟ったとき、彼らは、スパルタ人の手で殺されるよりは、再び奴隷の身となるよりはと、自ら死を選んだのだ。
――本当に?
武器を手にした死体は少なかった。
多くの者は、自らを刺したのではない、誰かに刺し殺されたのだ。
本当に、ここに倒れている者たち皆が、死を望んでいたのだろうか。
そう強制された、思い込まされた者もいたのではないだろうか。
だが、彼らが生きることを望んだからといって、スパルタ人たちがそれを許したとも思えなかった。
死 ハ 美 シ イ
そう聴こえてきたような気がして、カルキノスは耳を塞いだ。
それでも、歌は止まなかった。
カルキノスは自分の耳を強く掴み、それでも歌が消えないと分かると、両方の拳を固めて自分の耳を何度も叩いた。
それでも、歌は消えなかった。
狂ったように自分の耳を打っていたカルキノスの動きが、ふと止まった。
それから、彼は、猛烈に震えだした。
震えながら、目を見開き、折り重なった死体の山のなかの、ひとつの体を見ていた。
一目見ただけで、分かった。
ドリダスだった。
うつ伏せに倒れていても、その髪の様子、体つきでわかった。
彼は自分の胸の下に腕を畳みこむような姿勢で地面に倒れており、その背中からは、剣の切っ先が飛び出していた。
ドリダスは、殺された友のあとを追ったのだ。
カルキノスがその手で刺し殺した、ミノンのあとを。
「ああああああああああぁ」
カルキノスは濡れた地面に倒れ込み、声をあげて泣いた。
死、死、死ばかりだ。
守れなかった。誰ひとり。
もう、どうでもいい。もう、何もできることはない。
どろどろの地面に額をつけて、うずくまった。
今この瞬間に、どこからかアリストメネスが近付いてきて刺されたとしても、別に構わないと思った。
何が起きたとしても、もう、ここから動きたくない。何もしたくない――
背後から、足音が聴こえた。
正確には、誰かの足の裏が小石を踏みつけ、それが地面と擦れたような、かすかな音がした。
カルキノスは、跳ね起きた。
振り向き、身構えるまでが一瞬だった。
精神は絶望しても、本能が、肉体を突き動かしている。
そして、そこに立っている者の姿を見たとき、カルキノスは、ふっと両腕の力を抜き、体の脇におろした。
二人は、向き合って立ったまま、どちらも、何も言わなかった。
カルキノスには、まったく分からなかった。
なぜ、彼が、ここにいるのか。
だが、一呼吸もしないうちに、何もかも分かったような気もした。
「……テオン」
カルキノスは、かすれた声で、彼の名をゆっくりと呼んだ。
「ここで、何を、してるんだ?」
問いかけたが、カルキノスの中で、答えはもう出ていた。
こんなふうに再会した以上、可能性は、ただひとつしかない。
テオンは、どこで手に入れたのか、一本の槍を両手に握りしめ、穂先をこちらに向けたまま、じっと見返してきた。
テオンの頭髪はおどろに乱れ、頬はこけ、濡れた衣はどろどろに汚れて、まるで数日も飲まず食わずで山の中をさまよっていたような様子だった。
だが、その目は燃えているようだった。
「……迷いました。とても」
やがて、彼は、そう言ってかぶりを振った。
そのときの彼の表情は、とても哀しげに見えた。
「こんなことは、しなくたっていいことだ。今のままの暮らしでも、いいではないかと……そう思っていました。でも……どうしても、諦めきれなかった」
「何を?」
問うカルキノスの声は、静かだ。
武器を手にした相手を刺激してはまずいから、という理由ではない。
衝撃が大きすぎて、かえって何の感情も湧きあがってこないのだ。
テオンは、槍を手に、じりりと一歩進み出てきた。
「あなたがたが手にしていて、わたしたちは持たないもの。……自由です」
「だから……スパルタから逃亡して、メッセニア側についたのか?」
そう言いながら、カルキノスは動かない。
まだ、信じられないという思いがあった。
これは夢なのではないか、とさえ疑っている。
思考が一瞬にして飛躍し、不意に、アクシネのことが頭に浮かんだ。
彼女がついてきていて良かった、と思った。
もしもアクシネがスパルタに残り、テオンによって人質に取られていたとしたら――
きっと、自分は、動きがとれなくなっていただろう。
「テオン。君は、いつから、スパルタを裏切っていたんだ」
「アリストメネス将軍の処刑の日です」
迷いなく返されたその答えに、カルキノスは、さすがに驚愕した。
表情には出さないようにつとめたが、成功したかどうかは分からなかった。
(……そんなに?)
そんなにも前から、彼は、自分たちを裏切っていたというのか?
そうだ、そういえば、おかしなことはあった。
アリストメネスの処刑の後、テオンは何日も、家に戻ってこなかった。
アクシネが毎日、彼を探していたことを覚えている。
ひょっこりと戻ってきたテオンが口にした説明は、確か――「崖から落ちて足を挫いていた」。
そう聞いたときには、疑問も持たずに納得した。
崖から落ちたのは、自分も同じだったからだ。
だが――テオンは、その後もずっと、自分たちと一緒に暮らしていたのではなかったか?
問いただしたいことはある。山のようにある。
だが、カルキノスは黙っていた。
問わずとも、テオンが口を開いたからだ。
まるで、弁明を聞いてもらいたがっているように聞こえた。
「信じては、いただけないでしょうが……あの夜よりも前には、わたしは、本当に、このままスパルタで暮らし続けようと思っていたんです。アクシネさんと、あなたと共に、暮らしていこうと……本当に、そう思っていたんですよ」
テオンの目が、一瞬だけ、何かを懐かしむように細められた。
遠くで、誰かの断末魔のようなかすかな叫びが聞こえ、また静かになった。
「でも、あの夜……アクシネさんから、あなたがいなくなったという報せを聞いて、わたしたちは、あなたを探しに行きました。そのとき、処刑の場に引かれてゆくアリストメネス将軍の姿を見たんです。
わたしは、将軍を山へ引き立ててゆく列の後について、山を登りました。なぜ、そうしようと思ったのか、はっきりとは分かりません……
とにかく、皆の注意は将軍ひとりに向き、離れたところで隠れているわたしには、誰も気付きませんでした。そして、あのとき……将軍が言った、あの言葉が……」
テオンは口を閉じた。
彼の心の中に、今もその言葉が、アリストメネスの声が響いているようだった。
それがどんな言葉だったのか、カルキノスには知る由もない。
あの時、カルキノスは絶望し、死に場所を求めて、遠く離れたところをさまよい歩いていた。
「アリストメネス将軍の、あの言葉を聴いて……わたしは、思い出してしまったのです。ずっと、忘れようと努めていたこと。……自由ということ。自由のために、戦うということを……」
「だから……君が、ケアダスの下から、アリストメネスを助け出して、メッセニアまで送り届けたのか?」
カルキノスの問いに、テオンは、目を丸くした。
それから、声を立てて笑い始めた。
(何だ)
激しい違和感があった。
笑いがふさわしい場面ではないから、というだけではなかった。
彼が、こんなふうに声を立てて笑うところを、これまで、一度も見たことがなかったからだ。
「何が、おかしいんだ?」
「わたしは、おかしいから、笑っているのではありません。――嬉しいからです」
テオンが何を言っているのか、分からない。
その穏やかに見える笑顔が、急に、狂気のそれのように思えてきた。
「嬉しい……?」
「ええ。本当に……すばらしいことですよ。わたしが語った物語が、これほどの力を持つようになるなんて。まるで、偉大な詩人にでもなったようではありませんか?」
「物語だって?」
依然として、言っている意味が分からなかった。
できることは、ただ、彼の言葉をそのままに繰り返すことだけだ。
「そう、物語です。……アリストメネス将軍は、もう、いません。あのケアダスでの夜に、将軍は、命を落とした。グナタイナとともに。
スパルタ人たちは、あれからずっと、将軍の幻を恐れながら戦い続けていたんです」
「……いいや!」
今の言葉は、さすがに繰り返すことはできなかった。
「そんなはずはない。崖の下には、将軍の死体はなかった。アクシネとグラウコスが、実際に下まで降りて、確かめたんだ!」
「では、こうは、お考えになりませんでしたか? アクシネさんと、グラウコス様が降りることができたのなら……あるいは、お二人よりも先に、降りた者がいるかもしれないと」
「何だって?」
「わたしです。あの夜が明けてすぐに、わたしは、崖を迂回してケアダスの下へ降り、将軍の鎧を脱がせ、盾も、死体も遠くへ運んで、隠したんです。
あなたは、勇気がある方だ。スパルタ人たちよりも、ずっと。アリストメネス将軍がよみがえったと聞けば、あなたなら、ケアダスの下を確かめようとするかもしれないと分かっていました。死体が見つかったのでは、将軍は死んだのだということが、確実になってしまう……」
そこへゆく道がどれほどの険路なのか、カルキノスは、実際に見たことはない。
だが、アクシネと、グラウコスはその道を行き、そして戻ってきた。
心理的な障壁を乗り越えさえすれば、不可能な道ではない――
おそらくは、年老いたテオンの足であっても。
「何の、ために」
そこまで呟いて、不意に、脳裏に閃くものがあった。
「アリストメネスが、まだ生きていると信じさせ、スパルタ人を恐れさせ……メッセニアの人々を、鼓舞するためだったのか?」
テオンは頷いた。
「死体を隠してから、わたしは、命をかけてヘイラに走りました。ヘイラの主だった者たちに会い、将軍の最期を伝えました。そして、……そう、わたしの思いつきだったんです。わたしが、提案した。彼らは、将軍の死を、同胞たちにさえ伏せて、皆の士気を保とうとしました。身代わりをたてて、将軍はまだ生きている、将軍は死地からさえ戻ったのだと……
ヘイラで、聞きませんでしたか、キツネの話を? アリストメネス将軍は、キツネに導かれて崖の下から脱出したのだと……あの話は、わたしが作ったんですよ。このわたしが!」
槍の穂先を激しく揺らして、テオンは片手で自分自身の胸を叩いた。
飛びかかって、槍を奪うことができるか。
いや、だめだ、遠すぎる。
柄に手が届く前に、槍を引かれ、刺し殺されてしまうだろう――
「だが、わたしだけの力ではない。将軍は、自由を求める人々の心そのものです! だからこそ、アリストメネス将軍はよみがえった! 戦いのあいだじゅう、あなたも聞いたでしょう、メッセニア人たちが将軍を呼ぶ声を。
自由を求める心は、死なない。消し去ることはできないんです。たとえ殺されようと、何度でもよみがえる。自由を奪われる者がいる限り……」
「――そうか」
カルキノスは、ふと呟いた。
濃い霧が吹き払われ、旅人の目の前に広大な風景が広がるように、すべてのことがつながり、明瞭に浮かび上がってきた。
「君は、メッセニアの主だった者と会ったと言ったな。……君は、ライオスとも会っていたんだ。彼が言っていたことの意味が、今になって分かったよ。『作戦』というのは、君を、俺に対する刺客としてスパルタに送り返すことだったんだ……」
『スパルタの将軍カルキノスは、もうすぐ死ぬ』
『そうだ。暗殺者……これまでに何度も試みてきたが、全て失敗に終わった。これまでは、な』
『だが、今度こそは成功するだろう。これまでとは違う』
ライオスが自信ありげに口にしていた言葉が、一言一句の響きもそのままに、脳裏によみがえってきた。
あれが、テオンのことだったのだ――
「どうしてだ?」
カルキノスは、思わず、そう言わずにはいられなかった。
「ずいぶんと、手間取ったじゃないか。君がスパルタに戻ってきてから、俺がこっちに旅立つまで、何日も余裕があった。そのあいだ、君は、その気になれば、眠っているあいだに俺を刺すことも、俺の食事に毒を混ぜることもできたのに――」
「アクシネさんが、あなたの側から、離れようとしなかったからです」
テオンの言葉に、彼女の温もりが、その髪のにおいが、不意に生々しくよみがえった。
(アクシネ……)
知らず知らずのうちに、彼女が、命を守ってくれていたのだ。
わけもわからず涙がこみ上げてきそうになって、カルキノスは必死に堪えた。
そうだ。まだ、望みはある。
テオンは、アクシネを巻き込むことを避けるために、カルキノスへの手出しを控えていた。
カルキノスの命を奪うために、なりふり構わぬ手段には出なかったのだ。
彼の中には、まだ、迷いがある。
きっかけを掴めば、説得できるかもしれない。
「そうこうしているうちに、俺がこっちに旅立ってしまった。だから、追いかけてきたんだな。君は、いつ、こっちに着いた?」
「三日前です。ずっと、山の中に隠れていました。本当は、わたしも出ていって、皆を助けるべきでしたが……」
テオンは、表情を大きく歪めた。
「戦いが始まる前に、あなたを見つけ出すつもりでした。いや、本当は、荒野で追いつくつもりだったんです。でも……」
テオンの表情にある苦さは、何に向けられたものなのだろうか。
「あの戦に……アリストメネス将軍との戦いに赴く前……旦那様は、秘かにわたしを呼んで、おっしゃいました。俺は、もう戻らないだろう。どうか、この先も、カルキノスとアクシネを――
テュルタイオスと、アグライスを、助けてやってくれと……」
旦那様というのが、自分ではなく、ナルテークスのことだということはすぐに分かった。
テオンの目から一粒の涙がこぼれ、彼はうつむいた。
「わたしは……迷いました。旦那様との約束を破りたくなかった。旦那様は……何だか……わたしの、息子のような気がしているんですよ。おかしなことですが。
それに、あなたのことも、嫌いではなかった。好きでしたよ、どちらかといえば、とても。
あなたほどに、他人のために身命をなげうつことができる人間は、なかなかいない。そんなふうに、鼻までなくして……
尊敬していました。それに、感謝しています。あなたを殺したいわけではない。あなたは、奴隷であるわたしたちを、正当に扱ってくれた……」
テオンは、不意に言葉を切った。
その肩が、小さく震えている。
彼は、ゆっくりと顔をあげてきた。
「でも……それは、感謝しなければいけないことなのでしょうか?」
その目に、紛れもない怒りと、憎悪がある。
「わたしは……わたしはねえ、本当は、詩人になりたかったんです! 幼い頃からずっと。
わたしだって、あなたみたいに歌いたかった! あなたのように、自分の言葉で、人々の心を動かす歌を作りたかった! だが、それは、スパルタでは、奴隷には決して許されないことです!」
知らなかった。
テオンが、そんなことを考えていたなんて。
彼が、何を夢見て、何を望んでいたのかなんて、少しも知らなかった。
「解放を……目指せば、良かったじゃないか……」
「アイトーンはどうなりましたか」
即座に言い返してきたテオンに、カルキノスは、何も言い返すことができなかった。
彼の言う通りだった。
スパルタでは、奴隷が、その心からの望みを叶えることなどできないのだ。
カルキノスは、何か言わなくてはならない、と思った。
心にある語彙のすべて、論理のすべて、人の心を動かすための巧みな言い回しのすべてを思い起こそうとした。
だが、彼にかけることのできる言葉など、何ひとつとしてなかった。
輝けるアポロン神の庇護を受け、いまやスパルタの将軍と呼ばれている、自由な詩人の自分には、何ひとつ。
「わたしは、あなたが好きだった。そして、あなたが憎かった。羨ましかった! あなたの歌を、皆が喜んで聴く! あの、居丈高なスパルタ人たちが、少年のように神妙な顔をして!
あなたの歌を、誰もが知っていて、誰もが歌う。歌い継がれて、千年先にも残るでしょう……
それなのに、わたしたちの……わたしの声は、誰にも聴かれずに消えていくんだ! 誰にも、知られることもなしに! まるで、なかったことのように!」




