表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

81/84

「死なないで」


「カルキノス。……カルキノスッ!」


 すぐ近くで、誰かが、何かを叫んでいる。

 壁に寄りかかって立ち、ぼんやりとそう感じていたカルキノスは、


「えっ? ……ああ」


 しばらく経ってから、不意に、自分が呼ばれているのだと気付いた。

 頭がぼんやりして、まるで夢の中にいるようだった。

 昨夜も、その前の晩も、まともに眠っていないせいだろう。

 最後に寝台の上でぐっすりと眠ったのはいつだったか、もう、思い出すことができなかった。


「何だい?」


 そちらを向きながら、雨をよけるために頭まですっぽりとかぶっていた毛織の赤い衣を、わずかに後ろにずらす。

 若い戦士のひとりが、気を利かせて上衣をゆずってくれたのだ。


「お前、そろそろ山を降りてはどうだ?」


 横からそう言ってきたのは、グラウコスだ。

 彼は脱いだ兜を腕に抱え、太い眉をぐっと寄せて、こちらを見ていた。

 どう見ても睨みつけてきているとしか思えない表情だったが、心配のあまり表情を歪めているのだと、付き合いが長くなった今ではわかる。


 グラウコスは、つい先ほど、この本陣に戻ってきたところだった。

 傷ついて動けなくなった仲間を肩に担ぎあげ、ここまで運んできたのだ。

 彼の武装は、降りやまぬ雨でも洗い流すことができないほど、大量の血にまみれている。

 返り血なのか、仲間の血なのか、彼自身も傷ついているのか、見分けがつかない。


「もう、ほとんど、けりはついたと言っていい。後のことは、俺たちに任せろ」


「いや」


 急にはっきりとした口調になって、カルキノスは、前方に視線を戻した。


「まだだ。まだ、降りるわけにはいかない。俺は、スパルタの将軍として、最後まで、最前線に留まらなくては」


「だが……」


「まだ、アリストメネスだって、姿を現していないんだ。戦いは、終わっていない」


「だが、カルキノス、お前は」


「――ところで」


 なおも言い募ろうとするグラウコスに、カルキノスは、


「君……どこかで、アクシネを見たかい?」


 急に思い出したとでもいうような調子で、まったく関係ないことを尋ねた。


「アクシネを?」


 思いもよらぬ名を不意に聞かされて、グラウコスはますます眉を寄せた。


「いや、見ていない。俺は、ずっと壁の内側で戦っていたからな。

 ……なぜ、そんなことをたずねる?」


 聞き返し、カルキノスの反応をうかがう。

 だが、その問いに、カルキノスは答えなかった。

 視線をまっすぐ前方に据えたまま、静かな表情で、ただ立っている。


 グラウコスは、彼には珍しいことだが、ためらった。

 本当は、無視するな、と怒鳴って殴ってやろうかと思ったのだ。

 だが、今のカルキノスには、どこか、手を出すことがためらわれるような気配があった。


(こいつは、何を見ているんだ?)


 視線の先を追っても、特に何があるわけでもない。

 まるで、何も見えていないかのように。

 あるいは、深い考えに沈んでいて、目の前の光景が目には映っていても、意識には届いていないかのように。


(アクシネだって?)


 グラウコスが内心で首を捻った、そのときだ。


「カルキノス将軍!」


 壁の外から、戦士たちが慌ただしく駆け込んできた。

 麓で休息を取るべく、山を降りていったはずの男たちだ。

 それなのに、これほど早く登り返してくるとは――


「報告です! アリストメネスの、偽物が出ました」


「スパルタを、襲おうとした連中です!」


「アナクサンドロス王の、率いる部隊が、これを壊滅!」


 武装を身に着けたまま、ほとんど休まずに山道を駆け戻ってきたのだろう。

 激しく息を切らしながら、かわるがわる叫ぶようにして彼らは告げてきた。


「よし!」


 グラウコスが、思わず笑顔になって手を打ち、


偽物・・だって?」


 カルキノスは、硬い表情のまま聞き返した。


「はっ……他の男が、奴の盾を持ち、アリストメネスに化けていたのです」


「左手の指は揃っており……偽物であることに、間違いありません」


「生き残った者を尋問し、その男の正体を吐かせたそうです。そやつは、ライオスという名の男であったと」


「ライオス……!?」


「奴を、ご存じでしたか?」


 呆然と繰り返すカルキノスの反応を、どう取ったものかと訝しみながら、男たちは続けた。


「その、ライオスを、自らのお命と引き換えに、メギロス様が討ち取ったのです!」


「御立派でした! それは壮烈な御最期であったと」


「メギロス様は、他でもない、あの将軍の歌を口ずさみながら逝かれたそうです。死を超えて、不死へと至る、と――」


「まさに、スパルタの誉れ!」


 カルキノスの顔が、大きく歪んだ。

 まるで泣きだそうとするかのように。


「……カルキノス将軍?」


 いよいよ不審そうに戦士たちが呟いた、そのときだ。

 歌声が、きこえてきた。

 合唱ではない。

 たった一人が歌う、か細い声だ。


「何だ?」


 一同は虚を突かれ、辺りを見回した。

 途切れ途切れにきこえてくる歌に耳を澄ませば、その歌詞は勇壮な進軍のためのものでもなく、神々に勝利を祈願するものでもない。

 戦場には、あまりにも似つかわしくない内容。

 メッセニア人の男が、酔った勢いで、次々とおかしな失敗を繰り広げる――


 その瞬間、カルキノスの顔が凍りついたようになったが、その場の誰も、そのことには気づかなかった。


「……あいつだ!」


「見ろ、あそこにいる」


 ぼろを着た、メッセニア人の男。

 まだ若い。少年と言ってもいいかもしれない。

 顔に泥を塗りたくり、人相をわからなくしている。

 楽器のかわりのつもりか、手にした、湿った板切れを打ち鳴らしながら、踊るように足踏みをして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


「今度は、何だ」


 本陣に立つスパルタの男たちは、最初の軽い驚きを抜け出すと、隠そうともせずにうんざりとした表情を浮かべた。

 彼らにとって、こういう事態はすでに二度目だ。

 あの男――少年?――が狂気に憑かれているにせよ、そのふりをしているだけにせよ、まともに相手をしてろくなことはない。

 先ほどの兄弟の例が、それを証明しているではないか。


「俺が片付ける」


 戦士の一人が冷ややかに言い、手にした槍を軽く放り上げて逆手に持ち替え、流れるように投擲の構えに入った。

 そのときだ。

 カルキノスが、急に一歩、前に出た。

 一歩だけではない。

 ふらふらと歩いて、進み出ようとした。

 必殺の意思を込めた投槍の、その投擲の軌跡に――


「おい!?」


 グラウコスが、そのことに気付いた。

 彼は片手を挙げ、今にも槍を投げ放とうとする戦士に向かって鋭く声をかけた。


「よせ!」


 その瞬間、色々なことが、同時に起こった。


 投槍の投擲を静止しようとしたグラウコスは、視界の端――斜め上・・・に、動く影をみとめた。

 周囲の誰もが、歌い踊るメッセニア人に気をとられ、そのことに気付いていない。

 もちろん、カルキノス自身も――


「危ないッ!」


 グラウコスが、カルキノスに飛びかかる。

 周囲の男たちが、何ごとかと振り返る。

 カルキノスも、振り返ろうとした。

 その彼を力いっぱい突き飛ばしたグラウコスの体が、どんと揺れた。

 グラウコスの肩に、槍が――柄の後ろ半分が折れた槍が、真上から突き立っていた。

 折れた槍の柄を掴んでいるのは、小柄な人間――


 スパルタの男たちの目には、その人間は突然宙から降ってわいたように思えた。

 そう、その者は、まさしく上から・・・降って・・・きたのだ。

 スパルタの戦士たちが背にしていた、ヘイラの壁。

 その壁の上の、わずかな幅を道のように伝って、駆けてきた――


 かすかな呻き声を発して、グラウコスが倒れる。

 襲撃者も一緒になって地面に転がった。


 突き飛ばされたカルキノスは、地面に転がり、頭をぶつけた。

 だが、倒れながら、何が起きたのかは、呪いのようにくっきりと見えていた。

 これまで、まるで厚い幕でも通したように遠くから聴こえるようだった物音も、急に鮮烈に耳に届くようになった。

 地面を打つ雨音のひとつひとつも、そこに混じるグラウコスの呻きも、はっきりと聴こえた。


「グラウコォォォス!」


 カルキノスは絶叫した。

 ゼノン、アイトーン、ナルテークス、グナタイナ、メギロス。

 守れなかった。誰ひとり。

 それなのに――

 この上、グラウコスまでも、目の前で、失うのか?


 爆発的な怒りが膨れ上がり、肉体を突き動かす。

 カルキノスは、ピュラキダスがくれた小刀を引っつかんだ。

 これまでずっと首から下げていたのだ。

 教えられた通り、柄を逆手に握っている。

 言葉にならない咆哮を発しながら、カルキノスは地面から跳ね起き、襲撃者に飛びかかった。

 小刀を握った拳を、今しも身を起こそうとする相手の、背中の真ん中に叩きつけた――


 全ては、あっという間の出来事だった。

 襲撃者は地面に倒れた。

 地面のうえでわずかにもがき、すぐに動かなくなった。


 カルキノスは中途半端な姿勢のまま、凍りついたように動きを止めて、見下ろしていた。

 小刀はカルキノスの手から離れて、敵の背に深々と埋まったままだった。

 小柄な襲撃者の、うつぶせた顔が横に向き、雑に巻きつけた覆面がずれて、顔立ちがあらわになっていた。

 カルキノスの唇から、震える声が漏れた。


「ミノン?」


 かっと目を見開いた彼の顔は、驚愕の表情を浮かべているようにも見えた。

 その口はもう何も語ることなく、唇の端から、どろりと血が流れ出した。


「そ、ん」


 彼を刺した手応えが、右手に残っている。

 自分が、彼を殺した。

 救ってくれた、思いやりのある言葉をかけてくれた、食べ物を分けてくれた相手を、この手で刺し殺したのだ。

 急に、膝ががくがくと震え出して、止まらなくなった。

 その場にへたり込むこともできずに、カルキノスは震え続けた。


「卑怯者が! よくも、グラウコス様を!」


 怒り狂ったスパルタの戦士たちが怒鳴り、すでに息絶えたミノンの体を次々に槍で刺す。

 彼らが口にした名の響きが、カルキノスの意識を繋ぎとめた。


「グ、ラウ、コス」


 彼は、自分の身代わりとなって刺されたのだ。

 カルキノスは、事情を知らぬ者が見たらふざけているのかと思うようなおかしな動きで、両手両足を曲げたまま、がたがたと全身を揺らしながらグラウコスに向き直り、近付いた。

 すでに駆け寄った男たちが、グラウコスの様子を調べている。

 カルキノスは激しく揺れながら、グラウコスのかたわらに崩れるように膝をついた。

 その体に、血に濡れた手を当てた。


「グラウコス……」


 彼の体温と、荒く不規則な息遣いが伝わってくる。


「お願いだ……グラウコス、君まで、いなくなったら……」


「触れるな! この槍に触れるな! 下手に抜いて、血が流れ出したら死ぬぞ!」


「そちらへ運べ!」


「隊長、我慢してくださいよ、俺たちが助けます!」


「そこ、どいてくれ、どくんだ! 道をあけろ!」


 四人の戦士たちが息を合わせて、グラウコスの体を持ち上げた。

 カルキノスの両手が、グラウコスの体から離れた。

 男たちは、息を合わせ、細心の注意を払いながらグラウコスの体を運んでいく。

 怪我人たちが集められている一角へ運び、手当てを受けさせようというのだ。

 だが、そこはまた、戦死した男たちの亡骸が並べられている場所でもあった。


(どうか……)


 友の体から滑り落ちた両手を地面につけたまま、カルキノスは、立ち上がることができなかった。

 運ばれていくグラウコスの姿を、視線だけで追った。


(お願いです、神々よ……彼を)


「メッセニア人め! 上から、不意打ちを食らわせてきやがるとは」


「グラウコス様が、カルキノス将軍を守った!」


「奴隷どもめ、よくも、俺たちの隊長をやりやがったな!」


 戦士たちの怒りの叫びが、声にならないカルキノスの祈りをかき消してゆく。


「俺たちの手で、ヘイラを滅ぼす! 一人も生かすな!」


「報復だ! 奴らを永遠に後悔させてやる!」


「もう一人はどこだ? 逃げたか!」


「行くぞ! 狩り出し、追い詰め、皆殺しにしろ!」


 スパルタの男たちが、狼の群のように駆けだしてゆく。

 彼らは駆けながら、歌い始めた。

 


   踏みしめた その場を守り

   退かず 斃れたならば

   死を超えて 不死へと至る

   彼を讃えよ

   語り伝えよ

   男の歌を!



 そうだ。

 男たちよ、恐れることなく進め。

 祖国のために戦って倒れたならば、死は美しい――


「……死なないでくれ……!」


 絞り出すように言ってカルキノスが零した涙は、彼の眉間から額を伝って流れ、濡れた地面に溶けた。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ