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「希望を捨てずに」


     *     *     *



 空の半ばにかかっているはずの太陽はまったく姿を見せず、黒雲寄せるネフェレゲレタゼウス神が注ぎたもう雨はますます勢いを増し、一度は遠ざかったかに思われた雷も再び激しく鳴り響きはじめた。


 散発的な戦いが、ヘイラのあちこちで続いている。

 今、比較的静かな一角に、二十名ほどのメッセニア人たちが集まっていた。

 当初から集団で行動していたわけではなく、混乱の中、あちらへ走りこちらへ逃れしているうちに、嵐に吹き寄せられる落葉のようにしてここに集まることになった人々だ。

 男も、女もいる。

 彼らを守るものは、押し崩した小屋や、その他何でも使えるもので築いた貧弱な防壁一枚だった。


「諸君」


 全員がものも言わず、その場の閉塞感が頂点に達しようとしたとき、一人の男が意を決したとばかりに立ち上がり、口を開いた。


「スパルタ人どもがこのヘイラに攻め入って、丸二日が経った。

 アリストメネス将軍は、いまだ戻っておいでにならない。

 諸君は、絶望し、武器を捨てるか?

 どうだ、戦士諸君! 諸君は、武器を捨てて投降すれば、スパルタ人たちが俺たちを憐れみ、生かしてくれると思うか?」


「いいや」


 その場に集まった男たちは、異口同音に言った。

 その声は、小声ながらも確信に満ち、彼らの目は死と間近に向き合う緊張と興奮とに光っていた。


「奴らは、俺たちを皆殺しにするだろう」


「そうだ。……どうせ殺されるなら、最期まで、戦い抜くしかない」


「そうだ。我らがメッセニアに自由を!」


 はじめに口を開いた男は、我が意を得たりとばかりに頷いた。


「その通りだ。諸君らも、あるいはすでに聞いたかもしれない。あのかわいそうな兄弟の話を!

 スパルタの将軍が、壁の入口を封鎖して居座っている。兄弟は、将軍の情けにすがろうとして、武器も持たずにそこへ近づいていったのだ。

 それを、奴らはどうしたか? 無残にも、無抵抗の彼らを、槍で刺し殺した。たった九つと、六つの少年たちを!」


 男たちが、女たちが唸りをあげた。

 嘆きと、それを上回る憎悪と怒りのこもった唸りだ。


「女たちよ! 君たちは、夫たちの、息子たちの奮戦を、死をその目で見ながら、自分たちは生きながらえて、スパルタ人どもの奴隷となることを望むか?」


「いいえ!」


「私たちも、最期まで戦う」


「息子たちの命を奪われてたまるものですか!」


「我らがメッセニアに自由を!」


「そうだ!」


 演説する男の口調はますます熱を帯び、いまや最高潮に達しようとしていた。


「いまや、滅びの時が来たのだろうか?

 否! 我らがここで戦い続けてさえいれば、アリストメネス将軍は必ず戻り、勝利をもたらしてくださる。

 最後まで希望を捨てずに、戦うのだ! 恐怖を捨て、敵に立ち向かおう!

 死んでいった者たちのために! 幼い者たちのために! 我らがメッセニアに自由を!」


 爆発的な叫びをあげて、その場に集まっていた者たちは走り出した。

 肉食獣に追い詰められた力弱い獣が時折見せるような、決死の凄まじさだ。

 男たちは武器をつかんで走り、女たちは衣のすそを持ち上げ、そこに石でも壺の破片でも、スパルタ人に投げつけることができそうなものは何でも詰め込んで走った。


 人々が走り去ったあとに、ひとりの女性が、まるで魂を奪われたようにぼんやりとたたずんでいた。

 その女性は、まるで風雨にさらされて削れた路傍の古い柱のように無視されていた。

 走り去っていった人々の誰ひとりとして、彼女に声をかけようとも、彼女のほうを振り向こうともしなかった。

 いや――


「やれやれ」


 一人、戻ってきた。

 先ほど、熱い演説を繰り広げていた男だ。

 彼は用心深くあたりを見回しつつ、ゆっくりと後ずさって女性のところまで戻ってくると、


「来い」


 その場に一人で突っ立っていた女の手をひっつかみ、駆け出した。

 皆が駆けていったのとは、正反対の方向にだ。


「……あなた」


 男に手を引かれて走りながら、女はまるで夢でも見ているかのようなあやふやな調子で呟いた。


「どこへ、行くの?」


「逃げるんだ」


 何を分かり切ったことを、といわんばかりの苛立たしげな調子で、自分の妻を振り返ることもせずに男は答えた。

 女は――ヘリオドラは、目を見開いた。

 濡れて顔にはりついた長い黒髪の下で、左の目のふちと頬が、赤黒く腫れあがっていた。


「でも……あの人たちは、戦いに行ったわ。あなたが、あんなふうに言――」


「勝てるわけがない!」


 走りながら、男は怒鳴った。

 手首を掴む手に力がこもり、ヘリオドラは悲鳴をあげた。


「相手は、スパルタ人だぞ! 壁の内側にまで入り込まれたのでは、もうだめだ。逃げるしかない」


「でも」


 また、殴られるかもしれない。置き去りにされるかもしれない。

 それでも、言わずにはいられなかった。


「それなら、あの人たちも、一緒に逃げれば」


「時間稼ぎだ」


 夫はうんざりしたように言い、あがった息をととのえるために立ちどまった。


「あんな人数で逃げたのでは、敵の目につく。あいつらがスパルタ人どもの注意をひきつけているあいだに、こっちは脱出するんだ。さあ、行くぞ」


 掴んだ手をぐいと引いたが、彼の妻は立ち止まったまま、動き出そうとはしなかった。


「ヘリオドラ!」


「よく、わかったわ」


 再び声を荒らげた夫に、ヘリオドラは諦めたような笑みを見せた。


「私よりも、あなたのほうが、頭がいい。あなたについていけば、私は、安心ね」


「そういうことだ」


 短く言って、妻の手を離し、男は小屋の角から先の様子をうかがった。


「よし、誰もいないようだ……ここから一気に走って、裏の山へ――」


 その先、彼が何と続けるつもりだったのかは分からずじまいになった。

 鈍い音がして、男は地面に倒れ、それきりぴくりとも動かなかった。

 濡れた地面に、真っ赤な血がみるみるうちに広がっていった。


 ヘリオドラは、何が起きたのか分からないというような表情で、自分が右手に握りしめている先の尖った大きな石を見下ろした。

 石の先端は赤く染まり、そこから雨混じりの赤いしずくが滴り落ちていた。


「……ああ」


 不意に彼女の唇から虚脱したような呟きが漏れ、重い音を立てて石が地面に落ちた。


「自由」


 ヘリオドラは両手を上げて、踊るような足取りでその場をぐるぐると回り始めた。


「自由だ!」


 回るのをぴたりとやめると、彼女は夫であった男の死体からすばやく離れ、野生の獣のように姿勢を低くした。

 そして、飛ぶように走り出した。

 ディオニュマイソス神の信女ナスのように、衣の裾を蹴飛ばし、濡れた髪を振り乱して。

 もはや住民のいなくなった小屋のあいだを走り抜け、彼女はそのまま、山へと駆けこんでいった。


 その後、人里で、彼女の姿を見た者は誰もいなかった。

 山で死んだのか、それとも生きているのか、誰にもわからなかった。



     *     *     *


 

 槍の穂先が唸りをあげ、横殴りに喉元を襲った。

 メギロスは地面に転げて危ういところでこれを避け、すぐさま立ち上がった。


 恐れを知らぬ馬たちを駆けさせて互いに近づいた戦士たちは、馬体をぶつけ合わんばかりに接してすれ違いつつ槍を投げ合い、あとは、各々が地面に飛び降りて乱戦となっている。

 最初に飛び交った槍の穂先に貫かれ、落命した敵味方の戦士たちの死体がそこかしこに転がって雨に打たれていた。


 周囲のあらゆる場所で、メッセニアとスパルタの刃が激しくぶつかり合い、誰も、互いに気遣う余裕などなかった。

 奴隷の出であるメッセニアの男たちだが、スパルタの男たちの大部分が留守にしているはずとはいえ、敢えてスパルタ市を狙って襲撃しようとした猛者ぞろいである。

 若く、命知らずで、怒りに燃えている。

 その中でも、メギロスが相手取るのは、敵の首領、翼を広げた鷲の盾を持つ男――


(アリストメネス……死に損ないのくせに、なかなかやりおるわ)


 紐でくくりつけて固定でもしているのか、左手の指を全て失っているはずの男は、何の不自由も感じさせずに盾を使いこなしていた。

 その槍さばきは異様に冴え、すでにメギロスの体のあちこちに傷を負わせている。

 だが、極度の興奮のためか、ほとんど痛みは感じなかった。

 兜のなかで、自分自身の荒い呼吸が反響している。

 雨音がそれをかき消し、目の前の敵の耳に届かぬようにしてくれていることを、メギロスはありがたいと思った。


「奴隷のくせに、なかなか、やるではないか」


「偉そうに言うが、だいぶ、息が上がっているようだな」


 見抜かれていたか。

 メギロスは、兜の下で唇を曲げて笑った。

 これだけ激しく肩が上下していれば、気付かれても不思議はない。


 仲間たちとともにスパルタのために戦い続け、歳をとった。

 同じ年に兵舎に入った戦友たちのうち、今もなお地上にとどまっている者たちはごくわずかだ。

 結婚し、娘たち、そして息子たちを得た。

 スパルタの戦士の魂を受け継ぐ子らを。

 なすべきことはすでに終わり、自分にも、時が来たということかもしれない。

 だが、まだだ。まだ――


「もはや、俺の穂先を、かわし切ることはできまい。老人は、さっさと、冥府へ行け」


「貴様のほうこそ、息が切れておるぞ」


 メギロスは向かい合った敵を嘲笑い、大地を踏みしめて立った。


「だいたい、奴隷が、何を偉そうにほざくか。その武具も、馬も、我らから盗み取ったものであろう! 盗人猛々しいとは、このことよ」


「違う」


 兜の奥から睨みつけてくる眼が、凄絶な光を放った。


「貴様らが飲み食いしているものこそ、すべて、俺たちの土地から奪い取ったものだ! メッセニアはスパルタ人のものではない! 俺たちの土地、俺たちの故郷だ!

 貴様らを殺し、父祖たちのものを取り戻すのだ。我らがメッセニアに自由を!」


 遠くから、アナクサンドロス王の声がかすかに聞こえたようだったが、もはやメギロスの耳には届かなかった。

 槍の穂先が飛んでくる。

 体を沈め、盾を突き出してそれを払いのける。

 若い頃、初めて競技祭に出たときのように、体は熱く、心はおそろしく澄み切っている。


 何十年も戦ってきて、今このとき、最も目が鋭くなっていると感じた。

 敵がふるう武器の動きが、一瞬先の軌跡に至るまではっきりと見える。

 年老いた自分の体の動きが、もはや相手の速さについていけなくなりつつあることも。


 メギロスは目を見開き、足を踏ん張り、右手に握った槍をふっと一瞬手放して、宙に投げ上げ――

 その瞬間、目にも止まらぬ速さで繰り出された敵の槍の穂先が、メギロスの左の鎖骨を砕き、肩を貫いて後ろから飛び出した。


(これで)


 相手が兜の下で確かに笑みを浮かべるのをメギロスは見た。

 メギロスもまた、歯を剥きだして笑った。

 彼は己の身を貫いた槍の柄を左手でがっちりと握りしめた。

 右手には、一瞬の時を犠牲にして逆手に持ちかえた彼自身の槍があった。

 メギロスの口から地鳴りのような咆哮がほとばしる。

 刺された傷が抉れるのも構わず、彼は大きく槍を振りかぶり、間近にいる敵に向かって叩き込んだ――

 研ぎ澄まされた穂先は、敵の兜の頬当てのあいだのど真ん中を貫き、その口を串刺しにした。

 二人の戦士は、互いの武器をその身に突き刺したまま、どうっと地面に倒れた。



 目の前の敵の体に深々と刃を突き立て、その絶命の震えを感じた瞬間、アナクサンドロス王は、戦友の体がゆっくりと倒れてゆくのを見た。


「メギロス!」


 自分の口からこんな声が出るのかと驚きながら、アナクサンドロス王は悲鳴のように叫んだ。

 敵の体を蹴り飛ばして剣を引き抜き、倒れた戦友のもとに駆け寄る。

 ヘイラ山麓の戦いは終わりつつあった。

 それぞれに相手取っていた敵を討ち取り、生き延びたスパルタの戦士たちも続々と駆けつけてきた。


「メギロスの、手当てを!」


 そう命令を下しておいて、アナクサンドロス王は、まず戦友が討ち取った男の死体から槍を引き抜かせ、兜を剥ぎ取らせた。

 王は一瞬、顔をしかめ、それから、目を見開いた。

 兜の下からあらわれたのは、アリストメネスとは違う・・男の顔だったからだ。


 口から溢れ出た血で顔の下半分が染まり、人相が分かりにくい。

 逞しい体つきが似ている。

 だが、確かに、アリストメネスとは別人だ。

 見間違いなどではない。

 ケアダスの上で相まみえた夜、目に焼きついたその顔を、見間違えるはずがない。


 男の金髪が地面に広がり、散り落ちた花のように泥にまみれている。

 その目はかっと見開かれていたが、もう何も映してはいない。


「……この者の、左手を」


 王の言葉を受けて、一人の戦士が鷲の紋様の盾を裏返してみると、持ち手を握りしめる左手の指は、すべて揃っていた。

 アナクサンドロス王も戦士たちも、しばし言葉もなく見下ろしていたが、メギロスの手当てをしていた戦士たちに切迫した声で呼びかけられ、死体から離れて戦友に駆け寄った。


 メギロスは、自分の肩口に突き刺さった槍を両手で掴むようにして、わずかに身を起こした姿勢で戦士たちに支えられていた。

 駆け寄った爪先に、戦友の体から流れ出た血のあたたかさを感じ、アナクサンドロス王は動けなくなった。

 一目見ただけで、もはや手の施しようがないと分かる量の血があたりに広がっていた。

 メギロスの体を貫いた穂先は、肩を通る大きな血の管を破ったのだ。

 布を手にした戦士の一人は、もはや何もしようとせずにかぶりを振った。


「おお……王よ……アナクサンドロス」


 もはや目もよく見えていないのか、曖昧に視線を巡らせながら、メギロスは微笑んだ。


「わしは……わしは、アリストメネスの奴を、やりましたかのう?」


 アナクサンドロス王はしゃがみこんで、メギロスの無事なほうの腕を強く握った。


「ああ、やった」


 そう言って、何度も、大きく頷いてみせた。


「やったぞ。メギロス、見事な戦いぶりであった。息子たちの、娘たちの誉れじゃ。カルキノス将軍が、そなたのことを歌に歌うであろう。スパルタの英雄、メギロスの歌を……」


 多くの皺の刻まれたメギロスの顔に、深い安堵の色が浮かんだ。


「……死を超えて 不死へと至る……」


 しわがれた声でそう歌うと、彼は目を閉じ、深く息を吐いた。

 長い長い道のりを歩き通し、ようやく重荷を降ろした男のように。


 戦士たちのあいだから、抑えがたい啜り泣きの声がいくつもあがった。

 アナクサンドロス王は、友の体から槍を引き抜かせると、その皺だらけの額を優しく撫で、その身を地面に横たわらせて赤い衣で覆わせた。


 王は立ち上がり、もはや肉体を離れた友の魂が飛び去るのを見送るように顔を上げた。

 しばし宙をさまよったその視線は、やがて、黒々としたヘイラの山塊の上に止まった。


「……では」


 アナクサンドロス王の眉がぐっと寄り、厳しい表情になった。


「奴は……アリストメネスは、上にいるということなのか?」



     *     *     *



「行こうぜ」


 立ち尽くしているミノンの腕を、ドリダスは軽く叩いてそう言った。

 彼らの眼下では、今まさに彼らの町が、ヘイラが、滅びの時を迎えようとしている。

 彼らはそれを、隣の峰の上から見ていた。


 スパルタ人たちの襲撃が始まったとき、壁の外側は大混乱に陥った。

 最初は、何が起きたのか、誰にも分からなかった。

 敵がどうやってか壁の内側に入り込み、仲間たちを襲いはじめたのだと分かったとき、壁の外の住人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。


 逃げ遅れて捕らえられ、殺された者たちも少なからずいた。

 だが、若く素早いミノンとドリダスは難を逃れ、山の木々のあいだに身を隠しながら、辛うじてここまでたどり着いたのだ。


「なあ、行こう」


 ヘイラの断末魔の姿に目を据えたまま、じっと動こうとしない友に、ドリダスは辛抱強く同じことを言った。


「ぐずぐずしてたら、ここにも、スパルタ人どもが来るかもしれねえ。……ヘイラは、もうだめだ。ここを離れて、別の土地に行こう」


「それでいいのか?」


 ミノンが、振り向かないままでぽつりと言った。ドリダスは顔をしかめた。


「いいも何も……死んだら、何にもならねえだろ。そりゃ、悔しいが……こうなっちまったら、もう、俺たちにできることはねえよ」


「ヘリオドラさんが、まだ、あそこにいるかもしれない」


 ミノンは、ドリダスの返答など聞かなかったように続けた。


「あいつだって――誰だっけ、ほら、一緒に眠った――そうだ、アイトーンだって、まだ、あそこにいるかもしれない。

 みんなを見捨てて、自分は逃げて、それで、いいのかよ?」


「俺だって、いいなんて思ってねえよ!」


 ドリダスは思わず声を荒らげ、はっとして口を塞いだ。

 どこにスパルタ人が潜んでいるか分からない。

 今この瞬間にも、メッセニアの残党を狩り出そうと、奴らが近くまで来ているかもしれないのだ。


「だが、死んだら、何にもならねえ。命あっての物種だ。今は悔しくても、生きてりゃ、いつか忘れる」


「俺は、忘れたことはない」


 ミノンはそう言った。彼の視線は、ヘイラから離れなかった。


 彼が何のことを言っているのか、ドリダスには分からなかった。

 ミノンとは、ヘイラを目指して逃れてくる途中に初めて出会い、それ以来、ずっと行動を共にしてきた。出会う以前の経験について、たずねたことはなかった。


 だが、同時に、分かったような気もした。

 ミノンは、かつて、誰かを助けることができなかったのだ。

 そして、そのことを忘れられずにいるのだ。今日このときまで、ずっと。

 振り向いてきたミノンの目に、岩のように固い決意があるのを、ドリダスは見た。


「俺は、ヘイラに戻る。ドリダス、お前は逃げろ」


 ドリダスは、ばりばりと頭をかいた。

 唇を曲げて、言った。


「……他の誰が死んだって、俺には大して関係ねえけど、お前だけ行かせて何かあったら、俺は、それこそ死ぬまで忘れられねえよ」


 死んだら、何にもならない。

 だが、友を見捨てたことを悔やみながら生きることが、それよりも良いことなのかどうか、分からなかった。

 ――ミノンを、見捨てたくない。


「よし、戻ろうぜ!」


 きっと唇をむすんで駆け出そうとしたドリダスの腕を、ミノンが、後ろからぐいと掴んだ。


「何だよ!?」


 危うく肩が外れそうになって、ドリダスは怒鳴りながら振り返った。

 死の恐怖に立ち向かうためには、勢いが大切なのだ。

 一度、止まってしまえば、再び進むことが難しくなる。


 そもそも、ヘイラに戻ろうと言い出したのはミノンのほうではないか。

 なぜ、今、止めるのか?


「いや」


 ドリダスの腕を放して、ミノンは、考え深げに言った。


「俺が思うにはさ、ただ馬鹿正直に突っ込んだって、だめなんだよな」


「何だって?」


 眉をひそめて問い返したドリダスに、


「壁の内側に入り込んでるスパルタ人どもは、数も、武装も、俺たちと違いすぎる。ただ馬鹿正直に突っ込んでいったって、あっという間に刺し殺されるだけで、何にもならない」


 後ろ向きなことを、力強く断言すると、


「ほら、あれ、見ろよ」


 ミノンは地面に頬をつけんばかりに姿勢を低くして、崖の際まで近づくと、手を伸ばしてヘイラの一角を指さした。


「あれだ、あそこ。ほら……分かるか? 壁の入口のところ。ほら、今、俺が指さしてる……」


 ミノンの隣で彼と同じような姿勢をとり、片目をつぶってその指先の差す方向を追ったドリダスは、頷いた。


「ああ、あれか。壁の内側……」


「そうだ。壁の入口の、すぐ脇あたりだ」


「スパルタ人どもが集まってる。何かを守ってるみたいだ――」


 そこまで呟いて、ドリダスは、はっとミノンの顔を見た。


「スパルタの将軍、カルキノスか!?」


「そうかもしれない。多分、そうだ。奴が、ヘイラに来ているんだ。

 きっと、あそこがスパルタの本陣なんだ……」


 ミノンは言いながら、ゆっくりと身を起こし、親友の耳に口を近づけて、計画を囁いた。

 詳細を聞かされるドリダスの表情が、みるみるうちにこわばっていった。


「……でも」


「いや」


 反論しかけたドリダスをすぐさま手で制し、ミノンは言った。


俺が行く・・・・。俺の方が、お前よりもずっと身が軽いだろ?」


「けどな!」


でも・・も、けど・・も無しだ。だいたいドリダス、お前の役のほうが、俺よりもずっと危険かもしれないんだぜ?」


「そういう危ねえことを、よく人に頼めるな、お前は」


 ドリダスはぼやく調子で言い、笑った。

 その表情は、もはやそこから戻ることはないかもしれぬ戦場を前にしたスパルタの若者たちの表情と、とてもよく似ていた。


「だが、もう、危ないだの危なくないだの、言ってたって始まらねえ。ここは一発、賭けるしかねえんだ。……ミノン。俺は、お前の度胸に賭ける」


「俺も、ドリダス、お前の勇気に賭けるよ」


 互いの拳を軽くぶつけ合うと、少年たちは峰から這い降り、それぞれ別の方向へと走り去った。



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