大河
スパルタの男たちは顔を見合わせた。
しばらくは互いに目配せを送りあったり、小声でぼそぼそと囁きあったりしていたが、やがて、
「それならば……」
と一人が口火を切ったとたんに、口々に希望を言いはじめた。
「武装行進歌をやってもらおうか」
「リュクルゴス頌歌!」
「カルネイア祭のとき、最後に皆で歌うやつ」
「ヒュアキントス讃歌は?」
「アルテミス・オルティア讃歌」
「アポロン讃歌がいい!」
(うっ)
次々と出てきた題名に、カルキノスは思わず頬を引きつらせた。
(全然、分からん!)
知っている詩がひとつもない。
アテナイ市に昔から伝わる歌、流行ったことがある歌ならば、だいたい何でも吟唱できる自信があった。
その知識が、いきなりまったくの役立たずになってしまったのだ。
当たり前といえば当たり前だが、地峡を隔てて遠く離れたアテナイ市とスパルタ市とでは、人々が親しむ詩も、歌唱や演奏の旋法も、まったく異なっている。
アポロン讃歌という題名だけは分かったが、アテナイ市で歌っていたものは当然、アポロン神を讃えつつ、アテナイ市が戦争に勝つことを祈願する内容だった。
そんなものをスパルタの男たちの前で歌ったら、袋叩きにされかねない。
『何でも、君たちの好きな詩を聞かせよう』
あんな大きなことを言わなければよかった。
調子に乗った自分を思いきり殴りたい。
下手に相手の希望をたずねたりせず、得意な詩ではじめればよかったのだ。
だが、もしもそれが彼らにとってまったく耳馴染みのないものだった場合、散々にこき下ろされて終わったおそれもある。
いや、いや、過ぎたことを考えても仕方がない。
今この場をどう切り抜けるか、それが問題だ。
このままでは――
「待て。全員で、口々に言ってもはじまらん。ここはひとつ、ホメーロスでどうだ?」
「おお!」
集まった中では年長と見える髭面の男の提案に、周囲の男たちが次々と賛同した。
「それならばぜひ、イリオンの歌で『メネラオス奮戦す』のくだりを!」
「『軍船の表』!」
「『ヘクトルの死』がいい。アキレウスとヘクトルの一騎打ちは、何度聴いても胸が躍る!」
(よ……よっしゃあああ! 助かった!)
見かけ上は平静をよそおいながら、カルキノスは内心、拳を突き上げて小躍りしたい心境だった。
イーリアスならば自信がある。
彼らが口にした内容から推して、自分が知っているイーリアスと、彼らが知っている詩は同じもののはず。
これぞ神助というものだ。
意見をまとめてくれた髭面の男が、アポロン神の御遣いにさえ見える。
(そこの髭のあんた、本当にありがとう! そのうち、あんたの活躍を立派な詩に作ってあげるから!)
心の中で、髭面の男に礼を言ってから、
「では、一曲。イリオンの歌より『メネラオス奮戦す』を……」
カルキノスは竪琴をかまえ、そっと弦に指をおいた。
メネラオスといえば、かの有名なトロイア戦争の発端となった美女ヘレネの夫で、古代のスパルタの王である。
男たちは、黙ってこちらを見つめている。
まるで祝い事の前の子供たちのような、わくわくした様子だ。
(これなら)
すうっ、と息を吸う。
今、詩歌女神たちの息吹が、この喉から流れ出す――
「パトロクロスが激戦の末
トロイア勢に討ち取られ――」
(いける!)
カルキノスの朗々たる声の響きに、スパルタの男たちの顔が、ぱあっと輝いた。
掴んだ。
「戦神アレスの寵愛受けし
アトレウスの子メネラオス
それに気付くや燦然と
輝く武具に身をかため――」
『戦陣に立つ男らの
あいだをかき分け突き進み
パトロクロスの亡骸を
うちまたいでぞ身構える!』
(な!?)
カルキノスは驚きのあまり、もう少しで違う弦を弾くところだった。
出し抜けに、集まった男たちが声をそろえ、一言一句完璧に、詩の続きを暗唱しはじめたのだ。
「金髪なびかすメネラオス……」
『仔牛を守る母牛の
ごとくに亡骸守り立ち
盾と槍とをうち構え
寄らば討つとの気勢を示す!』
スパルタの男たちの合唱はどんどん声量が増し、気分が盛り上がってきたのか、ばんばんと自分の太腿を叩いて拍子をとる者たちまで出てきた。
「されど、とねりこの……!」
『槍振るう
パントオスの子は憤然と
アレスの寵あるメネラオス
彼に詰め寄り言うことには――』
カルキノスの声も、竪琴の音も、もう、ほとんど聞こえていない。
(こいつら……!)
『スパルタの人々は、脳みそまで筋肉でできているが、歌と踊りを好むことは非常なものがあるという』
馬鹿にしていた。
詩人の歌にぽかんとして聴きほれ、その声と音色と力強い物語に陶然とする……そんな反応を予想していた。
だが、実際はどうだ。
(上手い!)
美声であるというのではない。
だが、詩歌の文句を完璧に覚えていることはもちろん、戦場の緊迫感、戦う王たちの気魄がそのままによみがえってくるような「熱」が、彼らの歌にはあった。
戦車につけられた馬たちのいななき、討たれる者の悲鳴、勝利の雄叫び、怒号、ぶつかり合う青銅の武具の響きが、まざまざとこの場に立ち上がってくるようだ。
こちらの吟唱をつぶそうという思惑か、とも一瞬思ったのだが、そうではない。
表情を見ていればわかる。
彼らは、心の底から合唱を楽しみ、自分たちの声によってよみがえる英雄たちの世界に没入していた。
物語が進むにつれて男たちの歌はますます熱を帯び、登場人物のせりふの部分がくると、いつも役割が決まっているとでもいうのか、何の相談もなく誰か一人が朗々と独唱した。
まるで、メネラオス王その人であるかのような迫真の歌いぶりだ。
また別の登場人物になると、今度は、例のグラウコスが歌いはじめた。
先ほどまでの下品ながなり声とはまったく違う、いしにえの武者になりきった、声音豊かな熱唱だ。
(違う……こうじゃない! これでは……)
カルキノスは、もはや合唱の片隅に加わりつつ、竪琴で伴奏をつけているだけという状態になっている。
(これでは、俺の力が、何も発揮できていない!)
だが、うねりながら大地をおし分けてゆく大河のごとく、男たちの合唱は否応のない力強さで進み、カルキノスは彼らを主導するどころか、遅れまいと必死に追いかけていくような有様で竪琴を爪弾き続けた。
(違う、こうじゃないんだ……)
と、思い続けながら。
永遠かとも思える時間の後、とうとう「メネラオス奮戦す」のくだりは終わり、男たちは最後の一声を、腹の底から声をしぼり出すようにして歌い切った。
「いやあ、良かった、良かった!」
誰かが満足しきったようにそう叫び、周囲の男たちもいっせいに歓声をあげて手を叩いた。
「まったくだ。実に良かった!」
「カルキノスの歌声に、つい、戦場に誘われた気分になったぞ」
「ここまで皆の気持ちがひとつにそろったのは久々だな」
「竪琴の音色もなかなか良かった」
「うむ、見事だ!」
(えっ)
ほとんど呆然自失していたカルキノスは、何度も乱暴に――どうやら彼らの基準ではそれが「普通」らしかったが――肩を叩かれて、やっと我に返った。
(良かった? 今のが? ……そうじゃない。だって、今のは)
俺の力が、何ひとつ、発揮できていない。
「では、次はぜひ武装行進歌を!」
「いや、ヒュアキントス讃歌だ!」
「アポロン讃歌!」
(まずい)
元に戻ってしまった。
イーリアスをやって、あれほど盛りあがった直後である。
ここで「できない」などと言ったら、場の空気が一気に白けてしまう――
そのときだ。
「ん?」
カルキノスを囲む男たちの目つきが、一瞬にして変わった。
森で猟師の気配を察した野生動物のように、一同の表情がこわばる。
同時、ほんのかすかに、音が聴こえた。
ものすごい速さの、足音だ。
「奴だ!」
「おい、そっち――!」
驚愕の声と警告とが交錯し、
「ホォウッ!」
どこかで聞いたことのある叫び声とともに、ぱぁんと地面を蹴って跳びかかった何かが、男たちの輪の外周に突っ立っていた黒髪の戦士の体を突き倒した。
「あーにきィ! ただいまあ!」
どこからともなく現れた彼女は、先ほどとまったく同じように倒れた兄の上に馬乗りになり、その胸板になつっこく頬をこすりつけた。
「斧女だ!」
「まずい、目を合わせるなッ」
「絡まれるぞ!」
まるで妖女三姉妹のひとりでも出たように、男たちはいっせいに視線を逸らし、いかなる敵も恐れぬはずのスパルタの戦士にしては妙にすばやい動きで距離をとった。
関わりあいになりたくない、という空気が、清々しいまでにはっきりと出ている。
「おお、そういえば」
一人が、ぽんと手を叩き、わざとらしい大声で言った。
「俺たちは、レスリングの途中だった」
「そうだ! 俺は、徒競走の途中だった」
「審判の途中だった!」
「槍、投げてくる」
男たちは、各自が途中だった何かを急に思い出して、さっさとその場を立ち去っていった。