表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

79/84

「一人でじゅうぶん」

 戦いは夜じゅう続いたが、どちらにとっても決定的は状況は訪れぬまま、灰色の朝が訪れた。

 空はいまだ分厚い雲に覆われ、雨が降り続いている。

 雲の上ではごろごろと遠雷が響き、地上では散発的に激しい戦いの物音が起こった。

 スパルタ側も、メッセニア側も、全員が一睡もしていなかった。誰にも、眠気を感じる余裕すらなかった。

 カルキノスは、まだ壁の突入口の横に立っている。

 自然に、ここが本陣ということになっていた。


「おい、どうした! 怪我人か!」


「そうだ! カリアスが脚をやられた。手当てを頼む!」


「アリストメネスはいたか!?」


「いいや、我々は見ていない!」


 血を流している仲間に肩を貸し、盾で庇いながら本陣まで戻ってきた戦士たちが、大声で答える。

 本陣を固める戦士たちが脇へよけ、負傷者と、彼を運んできた者たちを通した。

 朝が来て、ようやく互いの姿が見えるようになり、離れた場所からでも敵味方がはっきりと判別できるようになったおかげで、夜じゅう神経を張り詰めていた本陣を固める戦士たちは、いくぶん緊張を和らげていた。


 だが、それは夜のあいだと比べてのことで、決して警戒が緩んだわけではない。

 誰もが油断なく視線を巡らし、周囲を警戒している。

 こちらから向こうが見えるようになったということは、向こうからもこちらの様子が見えるのだ。

 離れた場所から、弓矢で狙われるおそれもある。


「誰か、これまでに、アリストメネスと戦った者はいないのか?」


 カルキノスの問いかけに、


「分かりません」


「奴ら、あちこちで、アリストメネスの名を叫んでいましたが……」


「こちらでは、見ていません」


 壁際に座りこんでいた戦士たちが、かすれた声で答えた。

 誰もが血を流し、低い呻きを噛み殺している。

 中には、頭を布で巻かれ、顔がほとんど見えなくなっている者もいた。

 彼らは夜のうちに、これ以上戦えないほどの傷を負った者たちだ。

 そこにいる男たちの中には、もはやカルキノスの問いかけに答えない者たちもいた。戦いの中で命を落とし、盾に載せられて運ばれてきた男たちだ。


 男たちが運ばれてくるたびに、カルキノスの視線は彼らの顔の上を走り、グラウコスではないことを確かめていた。

 彼がいないことを確かめるたびに、束の間の安堵が湧きあがり、同時に、罪悪感を覚えた。

 今ここに血を流して横たわっている者たちだって、誰もが、誰かにとってのかけがえのない友であるに違いないのだ――


「では、ライオスという男の名前を聞かなかったか?」


 再度問いかけたカルキノスに、男たちはかぶりを振るばかりだった。


「火さえ使えれば……」


 血だらけになりながら仲間を担ぎこんだ戦士たちのひとりが、悔しげに唸った。


「この、薄汚いぼろ小屋が邪魔なんです」


「そうです! 見通しが利かず、隊列を組むこともできない」


「道幅が狭いせいで、敵と出くわしても、戦うことができるのは先頭にいる数名だけだ」


「その通りだ! 戦いが起こっても、後ろの者は手出しができない上に、背後に回り込まれて挟まれるおそれもある」


「そうだな……」


 呟くように生返事をしながら、カルキノスは奇妙なことに、地上に雨を注ぎ続けるゼウス神に感謝したいような気持ちになっていた。

 昨夜からの雨がいまだに降り続いているために、地上のすべてがぐしょぐしょに濡れそぼっている。

 たとえ、皆がそう望んだとしても、火をかけるという選択肢は採りようがないのだ。


 もしも晴天であったならば、ヘイラは今ごろ、スパルタ人たちの手によって火の海になっていたかもしれなかった。

 それだけは見たくない、という思いが、カルキノスの中にある。

 だが、炎と煙によって相手を殺すことと、剣と槍によって殺すことにどれほどの違いがあるのか、問われたとしても、はっきりと答えることはできそうになかった。

 名誉の問題である、と言うことくらいはできそうだったが、それはスパルタ人にとっての問題であって、メッセニア人たちにとっては何の違いもないだろうとも思った。


 そもそも、なぜメッセニア人どものことなど思いやる必要があるのか、という問いにも、答えられそうになかった。

 そして、スパルタの将軍として今ここに立ち、最前線に出ることもなく指示を下していながら、メッセニア人たちのことを思いやるなどという考えそのものが、ひどく食い違った、傲慢なものであるということも理解していた――


(はやく、決着がつけばいいのに)


 一晩中、カルキノスはここに立ったまま、祈るような思いでいた。

 メッセニア人たちが、さっさとあきらめて投降するか、さもなくば逃げ出してくれればいいのに。


「壁の外側は、完全に制圧しました」


「捕らえられる限りの者は捕らえ、後は殺しました」


「うん、よし、よくやってくれた……」


 頷きながら、少し涙が出そうになった。

 パンを分けてくれたときのミノンとドリダスの顔が、脳裏に浮かんでは消えた。


「あとは、壁の内側を片付けるだけですな」


「俺たちの前に立つ度胸があるなら来てみろ! 皆殺しにしてやる」


「うん、その意気だ、しっかりやってくれ……」


 まるで立っている地面が今にも崩れていきそうに、足元がふわふわする。

 きっと、眠っていないせいだ。

 それとも、恐ろしいからか。


『どうして、そんな怖い顔をするの? 違うわ、やめて!』


 逃げ出す前に、最後に聞いた、怯えたようなヘリオドラの声が、耳の奥で繰り返し響き続けている。


(これ以上、死傷者を増やしたくない――)


「どいてくれ、そこを通してくれ!」


 また、傷ついた戦士が運ばれてきた。

 三人の仲間によって運ばれてきた男の横にもう一人がついて歩き、懸命に声をかけ続けていたが、負傷者のだらりと垂れた腕は、すでにその体から命が失われつつあることを示しているように思えた。

 垂れ下がった手首には、例の名前を書きつけた小さな板がくくりつけられていた。


(このまま、ばらばらに戦っていても、無駄な被害が出るばかりじゃないのか)


 スパルタの戦士たちの犠牲を、最小限にとどめなくては。

 自分の命令によって戦う軍勢を、最善の道筋で勝利へと導くことこそが、将軍のつとめだ。


(いったん、全体の状況を把握して、態勢をととのえるべきかもしれない――)


 カルキノスが指示を出そうと口を開き、息を吸い込みかけたときだ。


「何だ?」


 周囲を守る戦士たちがざわめいた。

 子供だ。

 近くの傾きかけた小屋の陰から、ふたりの子供が姿を現したのだ。

 どちらも少年で、ひとりはスパルタでならばまだ兵舎にも入らないような幼さ、もうひとりは十かそこらに見えた。

 泥に汚れていても、その顔立ちは一目で兄弟だと分かるほど似ていた。

 彼らはしっかりと互いの手を握り合い、雨水で顔にはりついた髪の下で目を見開いて、スパルタの戦士たちのほうに向かって、ゆっくりと歩いてきた。


「止まれ!」


 一斉に槍を向けられ、少年たちはぴたりと足を止めた。

 歩みを止めると、どちらの足もがくがくと震えているのが分かった。

 固く繋いだ手も、ふざけてぶらぶらさせているのかと思うほど激しく揺れていた。


「何だ、投降か? ……命を助けてほしいのか?」


「おい、喋れ、小僧」


「いや、もう殺そう、面倒だ」


「……だめだ、だめだ!」


 カルキノスは慌てて叫んだ。


「命令だ! 抵抗しない女子供は、殺してはいけない! 縛って――」


 そこまで叫んだ瞬間、まさしく一瞬のうちに、様々な出来事が起きた。

 近づいてきた少年の兄のほうが、弟を突き飛ばし、突き出される槍の穂先をかいくぐってカルキノスに突進した。

 その手に、小さな刃物のきらめきがあった。

 カルキノスは飛び退ろうとして何かに足をとられ、後ろ向きに引っくり返った。

 そこに、少年が体ごと突っ込もうとするのを、横手から猛然と駆け寄った一人の戦士が――


「殺すな!」


 刺し殺す寸前、悲鳴にも似たカルキノスの叫びを聞き、戦士は横ざまに槍を振るって、柄で少年を殴りつけた。

 少年は鎌で茎を叩き折られた花のように倒れた。その手から、短剣が離れて地面に落ちた。

 槍を振るった戦士とは別の若者が、狩りをする肉食獣の動きで少年に飛びかかり、押さえつけた。

 少年は金切り声をあげてもがき、抵抗した。彼を押さえる若い戦士が怒鳴りつけ、殴っても、叫ぶのをやめなかった。

 耳に突き刺さるような叫び声にかっとなったのだろう、若い戦士は剣を引き抜き、少年を刺そうとした。


「やめろ!」


 カルキノスは叫び、激しく手を振り回しながら起き上がって駆け寄った。

 ぬかるみに踏み込み、再び倒れそうになったカルキノスの腕を、そばにいた者が慌てて掴んで支えた。


「殺すな、殺すな! 女子どもは殺すな! スパルタに送り、奴隷にするんだ……」


「呪われろ!」


 少年が金切り声で叫び、捕らえられた蛇のように身をよじった。

 もつれ乱れた髪の下から、ぎらつく目がカルキノスを睨みつけた。


「呪われろ、スパルタの将軍め! 我らがメッセニアに自由を!」


「黙れ!」


 彼を押さえつけている若い戦士が、再び少年の頭を殴りつけた。

 細い首ががくんと真横に曲がり、脊椎が折れたのではないかと思われた。


「いいから! もういいから、手を出すな! ――おい、君!」


 カルキノスは叫び、側にいた別の戦士を呼んだ。


「彼が押さえているあいだに、君が、この子供を縛り上げるんだ! 捕虜にする。連れていけ、殺してはいけない!」


 少年を押さえつけている若い戦士の名誉を傷つけないよう最大限に配慮して、カルキノスはそう言った。

 若者が怒りのあまり少年を殴り殺してしまわないうちに、この場から遠ざけておきたかったのだ。


「おい、さっきの、もうひとりは!? 弟のほうも――」


「えっ?」


 戦士のひとりが振り向き、困ったような顔をした。

 彼は、穂先を下に向けて槍を持っていた。

 その穂先からは赤い血が滴り、地面には、もう動かなくなった弟の体があった。

 兄が絶叫し、関節が外れそうな勢いで身をよじった。

 汗と垢にまみれた体が、掴もうとする戦士たちの手を滑り抜けた。


 矢のように突進してくる少年の血走った目を静かに見つめながら、カルキノスは、その場に突っ立っていた。

 彼の怒りを、理解することができた。

 その哀しみも。絶望も、憎悪も――


 びしゃりと生温かいしぶきが顔じゅうにかかり、カルキノスは反射的に目を閉じ、唾を吐き出した。

 むっとするような鉄臭さが口いっぱいにひろがり、すぐに、雨と泥のにおいに変わっていった。


「危ない、ところ、でした……」


 動揺に息を荒らげ、声を詰まらせながら、剣を振り切った姿勢のまま、戦士のひとりが呟いた。


「うん……」


 首を失った少年の骸から、ゆっくりと後ずさって遠ざかりながら、カルキノスは何度も目をこすり、血だらけの顔をこすった。


「カルキノス将軍……もう、あとは、死に物狂いの連中しか残っていません。こいつらのように。生かして捕らえるなど、無理です。殺すしかない」 


「それは……皆殺しにされると思っているからさ。だから、必死に抗う……降伏すれば、命が助かるかもしれないと思えば……きっと……」


 カルキノスはそこまで言って、言葉を切った。

 永遠に消えぬ憎悪を邪視によって送りこもうとするかのように、少年の首が、地面の上からカルキノスを睨みあげていた。


「将軍」


 その場にいた戦士たちの中でも、最も年長と思しきひとりが、丁寧に言った。


「寛大さをもって敵を懐柔しようという将軍の御心は、分からんではないです。しかし、殺してはならないとなれば、逆に、こちらが殺されてしまう危険があります。立派なスパルタの戦士が、卑しい奴隷に……」


「そうだな……それは……それは、そうだ……」


 カルキノスは、吐息のようにかすかな声で言った。


「呼びかけても、今のように、あくまでも抵抗をやめないのなら……彼らは、スパルタの寛大さを受けいれなかったのだから……そのときは、殺してしまうしかない。でも……もしも、呼びかけに応じるなら……」


「分かりました」


 カルキノスの言葉をみなまで待たず、その戦士は短く応え、動ける仲間たちを呼び集めて駆け去っていった。

 他の戦士たちは何事もなかったかのように再び持ち場につき、いっそうの熱心さで周囲を見張りはじめた。

 少年たちの骸は、戦士たちがまるで木材の切れ端でも運ぶように手際よくどこかへ運び去っていった。


 黙って立ち尽くすカルキノスの足元を、少年の体から流れた血が浸して赤く染めていた。

 今、カルキノスの顔を濡らしているものが雨と血以外に何かあったとしても、戦士たちはそれに気付かず、あるいは気付かないふりをした。


「みんな、聞いてくれ」


 やがて、カルキノスは声を張り上げた。

 語尾が少し震えてかすれ、彼は大きく三度、息を吐き、また吸い込んだ。

 その頃には、周囲の戦士たち皆が、彼の言うことに耳を傾けようとしていた。

 視線は周囲に向けたまま、兜をかぶった頭をカルキノスのほうに傾け、耳を澄ましている。


「さっき、言おうとしたことだったんだが。

 これから、伝令を発し、各所で戦っている部隊を、順番にここへ呼び戻す!

 夜のあいだじゅう、敵と刃を交えていた者は、いったん山を下り、野営地まで戻ること。

 それと交替して、夜のあいだは列の後ろに、あるいはこの場にいて、じゅうぶんに戦いに加われなかったという者が、今度は前に出て戦うんだ」


「何ですって!」


 明らかな抗議の意思をこめた唸り声が上がった。

 同時に、歓喜を爆発させる声も上がった。

 前者はすでに武装を血に染めた戦士たちが、後者は、本陣を守るためにこの場にとどまっていた戦士たちがあげた声だ。

 決して、その逆ではない。


「みんな、昨夜から、一睡もしていない」


 戦士たちの声がしずまるのを待って、カルキノスは続けた。


「そろそろ、疲れが出てくる頃だ。こういう時がいちばん危ない。

 すでに武功をあげた者は、一度、野営地に戻って食事をし、少しでも眠って、体を休めるんだ。そうして、万全の体調で再び山を登り、仲間と交替してくれ」


「そんな! 仲間が戦っているときに、休むなど!」


「そうです、俺たちは疲れてなどいません!」


「まだアリストメネスが見つかってもいないのに!」


「……これも、スパルタの勝利を確実にするためだ」


 今にもカルキノスに詰め寄って胸倉をつかまんばかりの戦士たちの剣幕にも動じず、カルキノスは、当然の道理を説いてきかせるように穏やかに言った。


「メッセニア人たちには、補給はない。休んで交替することもできない。戦いが長引けば長引くほど、俺たちには有利になり、メッセニア人たちには不利になって――」


 その瞬間、山が破裂したかと思うような大音響が轟き、閃光が走った。

 夜が明けてからはごろごろと遠くで唸りをあげるにとどまっていた雷が、出し抜けに間近で炸裂したのだ。


「ほら、見てくれ!」


 カルキノスは雷鳴に負けぬよう、声を張り上げた。


「偉大なるゼウス神も、スパルタを激励しておられる。勝てるぞ!」


 また、激しい稲光が走った。

 そちらを指さそうとして、瞬間、カルキノスは自分の目を疑った。

 彼らの右手に聳える、尖った岩山。

 その山頂に、激しい閃光に浮かび上がって、くっきりと、ひとつの人影があった。

 そう、見えた。

 頂上にすっくと立って、こちらを見下ろしている、人間――

 カルキノスは三度、強く瞬き、かっと目を開いて見直したが、もうその姿はかき消えていた。


「おお!」


 だが、幻覚ではなかった証拠に、幾人かの戦士たちが同じ方向を指さし、興奮しきった声をあげている。


「見たか!? おいっ、見たか、今のを!?」


「ああ、見た、はっきり見たぞ!」


「何だ、おい? いったい何のことだ!?」


 何のことやら分からずにいる男たちが、声を荒らげた。

 のけ者にされた苛立ちではなく、敵がいたのかもしれないという焦燥のためだ。


「今、何を見たって!?」


「アルテミス女神だ!」


 カルキノスが見ていたのと同じ岩山の頂上を指さしながら、戦士の一人が叫んだ。


「俺は、この目で見た! 確かにはっきり見たんだ!」


「ああ、俺も見たそ! 武装したアルテミス女神だ!」


(何だって)


 カルキノスは、ぎょっとした。

 自分は直感的に「人がいる」と思っただけだったが――

 あれば、女性だったというのか?

 彼らが、どこからアルテミス女神だと判断したのかを聞きたい、とカルキノスは思った。

 弓を手にしていた? 短い衣を着ていた?

 輝く鹿でも供に連れていたのだろうか?

 だが、カルキノスは、彼らにそれを尋ねることはしなかった。


「そう……その通りだ」


 興奮する戦士たちの前に進み出て、重々しく言った。


「君たちと同じものを、俺も見た」


「おお!」


「アルテミス女神を!?」


「カルキノス将軍が、アルテミス女神の御姿をご覧になった! 勝利のしるしだ。勝てるぞ!」


「もちろん!」


 カルキノスは笑みを浮かべ、堂々たる態度で請け合った。


「ゼウス神は、俺たちへの助けとして雲を集め、大雨を降らせ、メッセニア人たちの守りを解いてくださった。

 それだけではない。さらに今は御自身の娘神を遣わして、俺たちを激励してくださっている。

 俺たちは勝つ! この戦い、必ず勝てるぞ!」


 スパルタの戦士たちは、熱狂的な叫びをあげてカルキノスの演説に応えた。


「だから」


 笑顔を崩さないまま、カルキノスは続けた。


「ここは、焦らずにいったん退いて、休むんだ。力をたくわえて最前列に戻り、敵に何倍もの痛撃を食らわせるために……」


「分かりました」


 アルテミス女神によってもたらされた興奮の反動か、戦士たちは、先ほどまでとは別人のように素直に頷いた。


「将軍は、どうなさるのですか?」


 そう尋ねてきた戦士に、カルキノスはしばらくのあいだ返事をしなかった。

 彼の視線はあたりをさまよい、先ほどの人影をもう一度探し求めていた。


「カルキノス将軍?」


「……ああ」


 再度呼びかけられて、カルキノスは眠りから起こされた者のように瞬きをし、小さく笑った。


「俺は、ここに残るよ」



     *     *     *



 大地が砕けたかと思うほどの凄まじい雷鳴と閃光のあと、雨がますます強く降りはじめた。

 ヘイラ山の麓に残ったスパルタの騎兵たちは、一晩中雨に打たれながら、この場にとどまり続けていた。


「上は、どうなっておるのだろうな」


「まあ、若い者たちに任せておきましょう」


 アナクサンドロス王とメギロスは、どっかと地面に座り込み、若い者に集めてこさせた小石を地面に並べて遊戯をしていた。

 夜のあいだは、こうはいかなかったが、朝になって駒が見えるようになったのだ。

 駒の運びに行き詰まると、立ち上がり、投槍をぶんぶんと振り回す。

 体が完全に冷え切って筋肉がこわばることがないようにし、いざというときに十全に武器を振るうことができるようにするためだ。

 騎兵たちも、斥候を兼ねて、交替で周辺を駆け回っていた。

 こう雨に打たれ続けたのでは、体を動かしていないと、人間のほうが先に参ってしまう。


「王手じゃ」


「むむ」


 満足げにアナクサンドロス王がさした手を目を剥いて凝視したメギロスが、不意に、何かを感じたかのように顔を上げた。


「どうした、メギロス?」


「今……何か……」


 不可解そうに呟いたメギロスは、次の瞬間、顔色をかえて地面に這いつくばった。

 驚くアナクサンドロス王を前に、頬と耳をぴたりと地面に押し当てる。

 濡れた地面は、鈍重にではあったが、ほんのかすかな震動を伝えてきた。

 大地を叩きつける馬蹄の響き。

 こちらに近づく、騎馬の一団がある。


「敵襲じゃ!」


「敵襲だ!」


 メギロスが跳ね起きて怒鳴るのと、接近する一団を視認した斥候が叫んだのが同時だった。


「夜に、ヘイラを出ていった奴らだな。気付きおったか、こちらの動きに」


 麓に立って見上げても、ヘイラの山は静かな姿を雨の中に浮かび上がらせているだけだ。

 山上で今、凄まじい戦いが起こっているなどとは、知っていなければ、にわかには信じられまい。

 ましてや遠くから見るかぎり、気付くはずもなかった。

 雨のために、視界はけぶり、一条の煙すらも上がりようがないのだ。


 それでも、いずれかの神が囁いて、彼らは気付いたのかもしれない。

 あるいは、ヒッポメネスの愛馬が力走を見せ、敵に先んじてスパルタにたどり着くことができたのか。

 不意を討つつもりで近づいたスパルタが、思いがけず固い防備をととのえているのを見て、襲撃者たちは異変を察知し、引き返すことにしたのかもしれない。


「奴らを、ヘイラに帰すわけにはいかぬ。――男たちよ、出番ぞ!」


「腕が鳴りますな!」


 王の呼びかけに、そう叫び返したのはメギロスだ。

 彼の体は泥だらけのまま、すでに馬上にあった。

 特に体格の優れた黒い馬にうちまたがった姿は、神代の英雄のようだった。

 アナクサンドロス王もまた、引かれてきた愛馬に乗り、二人は並んで敵を待ち受けた。


「上の連中ばかりに、良いところを取られるわけにはいかんからな!」


 メギロスは、まるでグラウコスのようなことを叫んだ。

 一瞬、その兜の下に、若かりし日の彼の面影を見たような気がして、アナクサンドロス王は目を瞬いた。

 すでにスパルタの騎兵たちは、陣形をととのえている。

 敵は、速度を緩めることなく近づいてきた。

 もうすぐ、激突する。


「あれは……アリストメネスかな?」


 アナクサンドロス王は目を細めて、敵の先頭にいる男を見極めようとした。


「王は、後ろへ」


 敵と王とのあいだに、ずいと割り込むようにして、メギロスが馬を進めた。


「おい、こら、メギロス! わしに手柄を立てさせぬつもりか!」


「年上の者は、がつがつせず、年下の者に譲ってやるのが美徳とされておりますからなあ」


「それは黒スープの肉の話であろう!? だいたい、お前とわしは、二つしか歳が違わんではないか!」


 迫る敵を前にして、若い戦士の先陣争いのようにもめる王と長老を、男たちはあっけにとられて眺めていた。


「なに、たかが崖の底から這い戻った死に損ないなど、このメギロス一人でじゅうぶん」


 盾をつけた手でぐいと兜を押し下げ、右手に二本の投槍を握りしめて、スパルタの長老は歓喜に満ちた雄叫びをあげた。


「来い……アリストメネス!」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ