「それでも」
豪雨の中、スパルタの男たちは音もなく山道を這いのぼっていった。
先頭に立つのはピュラキダスだ。
毎晩、共同食事の場から灯りも持たずに暗闇の中を歩いて帰るよう訓練されるスパルタの男でなければ、夢にも試みようとは思わないような夜間行だった。
ピュラキダスの頭の中には、枝分かれする血管のような無数の道と、それぞれの分岐で取るべき道を示す目印とがはっきりと浮かんでいた。
捕らえたメッセニア人たちを拷問にかけ、ひとつずつ聞き出したヘイラへの道。
その道を思い描かない日はなかった。
繰り返し頭の中で思い描いた道は、もはや実際に見た記憶と区別ができないほど、想像の中に明瞭な像を結んでいた。
だが、想像の中の道は、昼間の道だった。
雨も降っていなかった。
たとえ現実に通い慣れた道であっても、明るさが変わるだけで、まるで別の場所を通っているかのような気分になるものだ。
ましてや、本当は来たこともない道なのだ。
ピュラキダスは必死に暗がりに目を凝らし、手で探り、分岐ごとに、これはと思う手掛かりを辛うじて見出しながら、水が川のように流れ落ちてくる険阻な山道を這いのぼっていった。
仲間たちがその後に続いた。
足の下で石が動き、武具が触れ合うかすかな音は、激しい雨音がみんなかき消してくれた。
やがて、ピュラキダスは立ち止まった。
とうとう、道が分からなくなったのだ。
蛇のように長くのびた軍勢は、沈黙の中で停滞した。
誰もものを言う者はなく、先頭近くの者たちは食い入る様にピュラキダスを見つめていた。
ピュラキダスは、自分の後ろにひしひしとつめた男たちのほうを振り向きたい衝動に駆られながらも、それを必死に抑えて、三叉路に立ち尽くしていた。
三本の道のうち、ふたつは山を登る方向に延び、ひとつは降りる方向に延びている。
いずれもはっきりとしたものではなく、単に道のように見えているというだけかもしれなかった。
この三叉路のことは、一度も聞いたことがなかった。
しばらくは一本道が続くものと思っていたのだ。
ピュラキダスがなすすべもなく立ち尽くしていると、背後でかすかなざわめきが起こり、カルキノスがグラウコスの背に担がれてきた。
「行き過ぎだと思う、多分」
カルキノスは腕を伸ばし、来た道のほうを指さした。
「ここへ来る途中で、右手にあった、崖みたいな場所……岩だらけの……あそこを登るんだ……」
たちまち、男たちのあいだをさざ波のように指示が伝わっていった。
海底に棲むという八本足の生き物のように、スパルタの軍勢は最悪の足場の上でぐにゃりと隊形を変え、岩を登り始めた。
先頭に立つのは、グラウコスとカルキノスだ。
いかに比較的軽いとはいえ、男一人を背中に担いで息も乱さずに力強くのぼってゆくグラウコスの姿に、後続の男たちは熱い賞賛の眼差しを向けた。
だが、彼に担がれているカルキノスには、グラウコスの首筋を濡らすものが雨であると同時に熱い汗であること、息を乱していないのではなく、必死に呼吸をととのえてそう見せているだけだということがはっきりと伝わってきた。
これ以上、彼を疲れさせてしまっては、戦いのときに彼を危険に陥れることになる。
ここで降ろしてほしい、とカルキノスが言おうとしたそのとき、黒々とした木々の影の向こうの夜空に、かすかに白っぽく浮かび上がるものが見えた。
(ヘイラ)
呟きは声になっていたらしく、グラウコスが足を止め、顔を上げた。
その壁を一同が目にしたとき、目には見えず音にもきこえないが、場の圧力が一気に高まるのをカルキノスは感じた。
今にも弾け飛びそうな力を、沈黙が辛うじて制しているかのような。
グラウコスが手を解き、カルキノスを地面に降ろした。
よろめいたカルキノスを、後ろに続いていた戦士たちが支えた。
二人分の盾を担いで登ってきた戦士が、ひとつをグラウコスに渡した。
ピュラキダスが背後から進み出てきて、隣に立った。
彼が合図をすると、戦士たちは音もなく剣を抜いた。
壁の手前には、粗末な天幕と小屋が無数にひしめき合っている。
人影はなかった。
みな、日が暮れてからは外出してはならないという掟を忠実に守っているのだろうと、カルキノスは思った。
だが、この豪雨の中で、人間が安らかな眠りにつくことは難しい。
間違いなく、起きている者もいるだろう。
ピュラキダスが、カルキノスを見た。
彼だけではなく、グラウコスも、他の男たちも、みなカルキノスを見ていた。
カルキノスは今、将軍としての決断を求められていた。
今ここで戦いの雄叫びを上げ、壁の外にいる者たちを皆殺しにしてから、壁の内側へ攻め入るべきか。
だが、壁の入口は、カルキノスが知るかぎり一つしかなかった。
他の入口もあるのかもしれないが、たとえあったとしても、そこがカルキノスが知る一つよりも幅広く通りやすいとは思えなかった。
壁の外で戦いの物音が起きれば、壁の内側にいる者たちは、スパルタの軍勢が来たことを知り、壁の入口を内側から塞いでしまうだろう。
あそこを塞がれたら、内部に攻め入ることは、ひどく難しくなる。
不可能とは言わないが、時間がかかる。
その時間で、メッセニア人たちは衝撃から立ち直り、スパルタの軍勢を迎え討つ態勢をととのえてしまうだろう。
それでは、奇襲の意味がなくなる――
ミノンとドリダスの顔が脳裏に浮かび、消えていった。
カルキノスは、手ぶりでついてくるようにと促し、若い戦士たちに支えられながら一同の先に立って進みはじめた。
抜き身の剣を手にしたスパルタの男たちが、厳粛な儀式のように静かにその後に続いた。
音もなく、天幕や小屋のあいだを縫って滑るように進む軍勢の様子は、まるで自然の法則に逆らって山をのぼってゆく水の流れのようであり、死そのものが前進していくようだった。
メッセニア人たちの誰かが布の隙間から外を見ていたとしても、夢だと思うか、恐怖のあまりに身動きもできなかったであろう。
やがてカルキノスは、壁の内側への入口にたどり着いた。
見える場所には、見張りはいなかった。
カルキノスを支えていた若い戦士のひとりが、自分が先行すると身ぶりで告げた。
彼は抜き身の剣だけを手に、身を屈め、入口をくぐって姿を消した。
いまやその場の全員が、穴の中の暗闇を凝視していた。
どこで誰が突然喚き出したとしても不思議ではないほどに、空気が張り詰めている。
もちろん誰ひとりとして口を開く者はなかった。
叩きつける雨音以外には、何の物音も声も聞かれなかった。
すぐに若い戦士が顔を出し、手招きをした。
狭い入り口を、男たちは一人ずつ身を屈めて通り抜け、槍と盾を次々に手渡しあって、壁の内側に整列した。
雨の降りしきる音だけが響いていた。
無数の小屋と天幕の群、これまでたどり着いたことのなかった敵の本拠地を前にして、スパルタの戦士たちは無言のまま、自分たちが殺戮の限りを尽くすことになるであろう場所を見つめていた。
空の一角がかっと光り、雷鳴が轟いた。
大地が震えた。
カルキノスの横で、グラウコスが鋭く息を吸い込んだ。
「男を殺す戦神アレスよ!」
男たちは絶叫し、剣を振りかざして一斉に突進した。
* * *
その夜、メッセニア人たちは自分たちが今まさに最悪の災いに襲われつつあることを知った。
屋根の下で不安なまどろみの中にいた者たちは、夢から覚める間もないまま、布を跳ねのけて飛び込んできたスパルタ人たちに刺し殺された。
起きていた者たちと跳ね起きた者たちはみな、ただならぬ気配と物音、あちこちで上がる断末魔に、いまやスパルタ人たちがどうやってか壁の内側に入り込んだことを悟った。
「一人になるな!」
壁の入口のかたわらには、カルキノスが陣取り、切れ目なく次々と入り込んでくるスパルタの戦士たちに声をかけ続けていた。
「ヘイラの中は、狭くて見通しがきかない。数人で組になって動くんだ! 一人で囲まれたら危険だぞ。組になって! 一人で動くな! 物陰から回り込んでくる敵に気をつけろ! ……女子供は殺すな、捕まえるんだ、できる限り殺すな!」
入口の周囲には盾と槍を手にした戦士たちが二重、三重に展開し、突入口である壁の入口周辺を確保している。
幾度か、闇の中からメッセニアの男たちが飛び出し、決死の形相で突っ込んできたが、スパルタの男たちの一重目の守りを破ることもできずに刺し殺された。
この勢いをおしとどめることは、堤防の破れ口から噴出する濁流を止めようとする試みにも似て、もはや不可能であるように思えた。
「気をつけろ!」
波のように弱まっては高まる雨音と雷鳴の合間に、叫び続けるカルキノスの声が響いていた。
「一人になるな、組になって動け! 女子供は殺すな!」
* * *
スパルタ人たちが壁を越えて襲いかかってきたという事実はメッセニア人たちに計り知れない衝撃を与えたが、同時に、否応なく決死の覚悟を決めさせた。
もはや指揮官のもとに集結し、態勢を立て直すだけの時間はなかった。
各自が何でも手元にあるものを武器として飛び出し、死に物狂いで戦うしかなかった。
メッセニア側では、敵味方を識別するための合言葉は決められておらず、人の気配を感じて互いに忍び寄り、出会いがしらに危うく同士討ちになりそうになることもあった。
だが、それはスパルタ側とて同じだ。
雨のために足場は悪く、隙間なく立ち並んだ天幕や小屋のために見通しが利かず、突き進むうちに自分たちがどこにいるのか分からなくなった。
無数の物陰のどこにメッセニア人たちが潜んでおり、急に襲いかかってくるか知れないので、スパルタ人たちは槍の先で天幕を突き刺しながら、用心深く進んでゆくしかなかった。
そんな彼らの背後に、メッセニア人たちが物陰を伝って回り込んでゆく。
不意打ちから、あるい偶然の遭遇から始まった激しい戦闘が、あちらこちらで繰り広げられていた。
そんな戦いのひとつの中に、アクシネの師匠である笛奏者もいた。
「るぁあああぁ!」
叫びながら剣を振るい、棍棒を手に正面から殴りかかってきた男の体を斬り下げる。
生温かい血がしぶき、濡れた鉄臭いにおいとともに男が倒れた。
相手の体のどこを斬ったかなど確かめている余裕はなく、笛奏者は必死に周囲を見回した。
いまや、そこらじゅうで戦いの物音が上がり、叫び声が響いている。
暗く、見通しがきかないせいで、どこに味方がいるのか分からない。
彼は、敵地の真ん中で一人になってしまったのだ。
愛用の笛はふもとに残し、ここへ登ってきた。
スパルタの軍勢が笛の調べにのせて行進するのは、全軍が歩調を合わせ、臆病ゆえに足の進まない者をはっきりと見分けるためだ。
そうやって遅れる者が出ないようにすると同時に、気が逸って突出しようとする者をも抑える。
スパルタの強さの真髄は、全軍がひとつの意思によって動く手足のように完璧な機動をすることにあるからだ。
笛奏者たちの役割は、まさしくそこにあった。
彼らが笛を吹奏するのは、スパルタの勝利に貢献するためなのだ。
だから、笛の調べによってそれができないならば、剣と槍をもってするのだ。
それが可能である限りにおいて。
この命があるかぎりにおいて――
(神々よ!)
斜め後ろの物陰から、何者かが駆け寄ってくる気配がした。
笛奏者は振り向こうとして、地面に落ちていた何かに足をとられ、その場に仰向けに引っくり返った。
駆け寄ってきた男が何ごとかを叫んだ。
敵だ。その手には剣があった。
体をひねり、武器を持ち上げようとしたが、あまりにもあっという間だった。
敵の剣が、振り上げられ、振り下ろされる――
その瞬間、運命のようにどこからか飛んできた槍が、男の脇腹をまともに貫いた。
男は剣を泳がせて取り落とし、濡れた地面に横ざまに崩れ落ちた。
自らの血と泥にまみれて、もう、動くことはなかった。
武装したスパルタの戦士が駆け寄ってきて、注意深くあたりを警戒しながら身を屈め、倒れた男の体に足をかけて力任せに槍を引き抜いた。
「あなたは……!?」
「テルパンドロス」
笛奏者を救った戦士は、彼に視線を向けることなく、盾を構えて周囲に視線を配りながら言った。
「レスボス島から来た詩人さ!」
「あなたが……あの!?」
笛奏者は目を見開いた。
レスボスのテルパンドロス。
親しく言葉を交わしたことはなかったが、姿を見かけたことなら何度でもある。
今、名高い詩人は、汚れた鎧兜に身を包んでいた。
兜からこぼれ出た、美しいと噂の金髪は、雨と泥にまみれている。
笛奏者の知るかぎり、テルパンドロスはここのところ、自分の屋敷に引きこもるか、山の中を逍遥するかして、公の場にはほとんど姿を現していなかった。
彼が自らの竪琴に定められたよりも多くの弦を加えたかどで長老会に処罰されたことは、誰もが知っていた。
テルパンドロスはそれでひどく傷心しているのだと、人々は噂しあっていた。
カルキノス将軍と人知れず歌を争い、敗れたからだという言う者もいた。
「まったく!」
だが今、ようやくこちらに顔を向けた詩人の表情にやつれた影はなく、その視線は、兜の下からまっすぐに笛奏者を射抜いた。
「本当に、戦争なんて嫌なものさ。うんざりだ。僕のように立派な詩人が、楽器を武器に持ち替えて戦わなくてはならないなんて!」
無駄によくとおる声でそう言うと、テルパンドロスは笛奏者に手をさしのべ、腕を掴んで引き起こした。
「あなたは……なぜ、ここに?」
笛奏者は、そう尋ねずにはいられなかった。
自分は、志願してヘイラ山に登ってきた。
テルパンドロスは、下に留まることもできたはずだ。
今はカルキノス将軍の陰に隠れて名声を落としたように見えても、彼の詩人としての実力は、そうすることを許されるだけものだった。
「なぜ、ここに?」
テルパンドロスは呆れ返ったように繰り返した。
「当たり前じゃないか。戦争に参加しなくては、真にスパルタの男たちの尊敬を勝ち得ることはできない。そうしなくては、僕が信じる本当の美というものを、彼らに教えることもできやしないだろう? 僕がスパルタに招かれてから起こった戦争で、僕が参戦しなかったものは、ひとつもない」
彼は苛立たしげに頭を振った。
「だから、戦争は嫌いなんだ! 僕は美しい詩を作り、歌いたい。戦争は、詩作の時間を奪う!
僕たちは、本当は、こんなことをしている場合じゃないんだ。歌合戦もまだだというのに!」
最後の言葉で、テルパンドロスが言う『僕たち』が誰を指しているのか、笛奏者にも分かった。
カルキノス将軍だ。
テルパンドロスが求める敵も、戦いは、ここにはなかった。
好敵手と認めた者と、神々の前で心ゆくまで詩歌の技を戦わせることこそ、彼の望みだ。
「さあ行こう、笛奏者よ! ここには美しい音は何ひとつないけれど、それでも行こう。
この戦いから生きて帰って、好きなだけ歌うんだ。
だから、今は、この身の及ぶかぎり、力戦奮闘しようじゃないか!」




