「まってる」
「おはよう! カルキノス!」
「うぐぐぐぐ」
頭がもげるのではないかと思うほどの勢いで揺さぶられ、カルキノスは唸りながら寝台の上に起き上がった。
自分を叩き起こした相手は、早くも部屋から消えている。
少しばかりふらつきながら中庭に出ると、空は暗さの中にも青みを増して、あとほんのわずかで夜が明けることを示していた。
中庭を通り過ぎて、表に出る。
「あっ。おはようございまっす!」
「おはようございます」
「うん、おはよう」
アイトーンとテオンが、新しく豆を植えるために地面を掘り返し、耕して畝を作っているところだった。
草の上で、朝露がきらめいている。
そこへ、グナタイナが歩いてきた。
「おはようございます。今朝は早起きでいらっしゃいますね、昨日、遅くまで歌を作っていらしたのに」
「ああ……」
グナタイナは、大きな水がめを抱えていた。
近くの小川から汲んできた水を、台所に運び込もうとしているのだ。
「アクシネに叩き起こされたんだ。……竪琴の音、聴こえていたかい?」
「はい。とてもいい響きでしたよ」
「ありがとう。……ちょっと出てくる」
薄青い世界の中を、杖も使わずにすたすたと道を歩いていく。
兵舎の近くでは、男たちが草原にごろごろと寝転がって休憩していた。
一人だけ起きている者がいると思ったら、グラウコスだ。
なぜか、朝露に濡れた野の花をいっしょうけんめい摘んで集めている。
姉のテミストに渡すのだろうか。
それとも、恋人にだろうか。
「おっ、カルキノスか!」
「ああ、おはよう」
グラウコスに手を振り返すと、向こうの茂みの陰から、誰かが起き上がった。
ナルテークスだ。
彼はこちらに微笑みかけ、黙って道の先を指さした。
「おはよう、ナルテークス。……アクシネは、あっちに行ったのかい?」
ナルテークスは頷いた。
礼を言って、足取りも軽く、道をたどってゆく。
やがて周囲がオリーブの林になり、地面が緩やかな上り坂になりはじめた。
オリーブ畑を抜けると、野生の、何ともつかない低木や草がごちゃごちゃと生え始める。
香り高い野草をかき分けながら、徐々に急になる斜面を登ってゆくと、丘の上に着いた。
折しも、金色の朝日が昇った。
その洗われたように澄んだ光線に目を射られて、あっと声をあげる――
「カルキノス!」
そこに、アクシネが立っていた。
逆光で顔は見えなかったが、いつもの、満面の笑みを浮かべていることが声で分かった。
「まぶしい! きれい! ……き、れ、い。なっ!」
アクシネは、大事そうに腕に抱えたものを見下ろし、その小さな顔を覗き込むようにして言った。
それから、ぐるりと体の向きを変え、抱えているものをカルキノスのほうに向けた。
「ほら、みて! おとうさん、きた!」
カルキノスは微笑んだ。
彼は光の中を、ゆっくりと、妻と子に向かって歩み寄っていった。
* * *
目を開けると、あたりは暗く、湿った泥のにおいがした。
雷の音がごろごろと大地を震わせ、その鈍い震動が背中に伝わってくる。
仰向けになった自分の上に、丸い小さな屋根のようなものがかぶさり、なおも激しく降りしきる雨から顔を守ってくれていた。
だが、それが何なのか、すぐには分からなかった。
「おっ」
不意に、横から、視界いっぱいにアクシネの顔が広がった。
「おはよう! カルキノス!」
アクシネは嬉しそうに叫びながら、ごしごしと力強くカルキノスの胸や腹をこすった。
雨に濡れた体を温めようとしてくれているらしかった。
「アクシネ……」
彼女がここにいることが、まだ、信じられない。
「どうして、ここに?」
「しごとだ!」
それだけで分かるだろう、という調子で彼女は言ったが、カルキノスが黙りこんでいるのを見て、もう少し説明したほうがよさそうだと感じたらしい。
「ふえ! わたしはなー、ふえをふく。ししょーにならった! わたしはふえをふく、そして、みんなあるいていく! わたしのしごと!」
「目が覚めたか」
アクシネが何を言っているのか、よく飲みこめずにいるうちに、そんな声がきこえた。
同時、上にかぶさっていた丸い屋根のようなものがすっと横にどき、暗い空が見えて、雨がまともに顔面に振りつけてきた。
グラウコスが、仲間のもう一人とともに両手で自分の盾を捧げ持ち、カルキノスの顔の上にかかげて、雨を防いでくれていたのだ。
「ちょうどよかった。俺たちは、これから行ってくる」
「行ってくる……?」
起き上がりながら、ぼんやりと繰り返したところで、カルキノスは、はっと我に返った。
スパルタの軍勢が、動き始めている。
灰色の幕を通したようにぼんやりとかすむ風景の中を、幻影のように静かに、人影が列をなして進んでゆく。
その向かう先は、ヘイラだ。
「出撃の順番は、籤で決めた。一番を取りたかったが、こればかりは神意だからな、仕方がない。俺たちの隊は、今からだ。音楽がないのが残念だが」
グラウコスの言葉を聞いて、カルキノスは初めて、幻影を見ているかのような奇妙な感覚の正体を理解した。
スパルタの軍勢が動くときには必ず伴うはずのものが、今は、ないのだ。
歌がない。
笛の吹奏もない。
奏者たちはおそらく、楽器を武器に持ち替え、戦列に加わっているのだろう。
楽器を雨で濡らすことはできないし、そもそも、大きな物音をたてては、奇襲の意味がなくなる。
「必ず、勝ってくるからな」
「……それは?」
カルキノスは、見慣れぬものを目に留めて、思わず声をあげた。
ぐっと拳を突き出してみせたグラウコスの左手首に、小さな札のようなものがくくりつけられているのだ。
「おう」
グラウコスは見せびらかすように手を突き出して、ぶらぶらと振ってきた。
「自分の名前を刻んだ札だ。木切れに、焼けた鉄串で書きつけて、紐でくくりつけてある。これで、どうなっていても、どこの誰だか、すぐに分かるだろ」
「えっ」
「みな着けているぞ。特に、若い者はな。死ぬ覚悟ができているという証だ」
「そんな……」
自分でも驚くほど、声が震えた。
見回せば、そばにいた若者たちが笑って腕を掲げてくる。
どの手首にも、同じ木の札が巻かれている。
「将軍の歌にあるように、俺たちは戦います!」
「そうです。恐れを捨てて!」
「死んでも名誉と共に語り継がれ、家族の誉れになります」
「だから、何も怖いことはありません!」
カルキノスは愕然として、グラウコスの顔を見つめた。
グラウコスは、静かな表情をしていた。
「お前の言いたいことは、分かってる。……もちろん、勝って帰るつもりだ。待っていろ」
「俺も行く」
その言葉は、あまりにも自然に、腹の奥からせり上がってきた。
スパルタの戦士たちと合流して、それからどうするか、はっきりとした考えがあったわけではない。
山を駆けくだるあいだは、知り得た情報を何としてでも生きて伝える、という使命感しかなかった。
それ以上のことなど、考える余裕はなかった。
無事に仲間たちと合流し、情報を伝えた今、もはや自分の役目は終わったと考えてもいいのかもしれない。
だが――
「俺は……俺の歌を、偽物にするわけにはいかない。みんなを戦いに送り出して、自分だけ、安全なところで待っているなんて……それじゃ、あの歌の言葉が、嘘になってしまう! それに」
心の奥底にある思いと、口にする言葉のあいだに、決定的な断絶がある。
自分自身そのことに気付きながら、カルキノスは続けた。
「俺は、スパルタの将軍だ。俺が前線に出なければ、神託は成就しない!」
若い戦士たちが、この上ない尊敬の眼差しを注いでくる。
違う、違うんだ。そうじゃない――
「もう、出たじゃないか」
ぼそりと、グラウコスが言った。
声に、宥めるような響きがあった。
若い戦士たちは、驚いたようにグラウコスを見た。
「カルキノス。……お前は、お前の戦いを立派にやり遂げた。たった一人で最前線に出て、生きて戻ったんだ。見事な勝利をおさめてな。
敵が見張りを怠っているという情報は、お前がいなければ、決して手に入らなかった。それだって、立派な勝利だ。違うか?」
グラウコスが、側に黙って立っているアクシネのほうを懸命に見ないようにしていることが分かった。
その言葉の端々から、声にならない思いが溢れ出てくるかのようだった。
ここからの戦いは、俺たちに任せろ。無駄に死ぬことはない。
お前は、アクシネの側にいてやれ。
「ありがとう」
カルキノスは、穏やかに微笑んだ。
「君の言いたいことが、分かるよ。……でも、グラウコス。君自身が、誰かから、そんなふうに言われたとしたら……君は、それで納得ができるかい?」
グラウコスは、何か言い返そうとして、言葉に詰まった。
「斥候に出て、敵を発見し、戻って報告して……よくやった、お前は立派に仕事をやり遂げた、だから、もう休んでいていい。そう言われて、皆が、友たちが、戦いに向かっていくのを、後ろから見送る。そんなことを、君は、我慢できるのかい?」
グラウコスの表情が歪むのを、カルキノスは静かに見つめていた。
こんな言い方をしたのは、こう言えば、彼は反論できないと分かっていたからだ。
たとえ心でどう思っているにせよ、若い戦士たちが大勢いる前で、カルキノス将軍に対して、それでいいなどと答えられるはずはないと。
「俺は、スパルタの将軍だ」
黒い影のように見えるヘイラの山塊に、面影と呼ぶにはあまりにも近すぎる、いくつもの表情の記憶が重なった。
倒れていた自分を救って、わずかな食べ物を分け与えてくれたミノン、ドリダス。
気さくに色々なことを話してくれた番人の若者。――そうだ、彼の名前は、アッソスだ。
そして、見捨てて逃れてきてしまった、ヘリオドラ……
「だから、俺は行くよ」
その言葉から、不退転の決意を感じ取ったのだろう。
グラウコスの濃い眉が、ぎゅっと寄った。
小さな子供が、泣き出すのを我慢している表情にも似ていた。
「死ぬなよ、絶対に」
唸るように言い、カルキノスを肩を叩く。
そこへ、横から出し抜けに、アクシネが顔を出した。
「わたしもいくぞー!」
「――馬鹿たれィッ!」
グラウコスは腕の一振りで彼女をなぎ倒そうとしたが、アクシネは泥をはね散らかしながら跳び下がり、この攻撃を避けた。
グラウコスはなおも突進して彼女を捕らえようとしたが、伸ばした手はことごとく空を切った。
「この期に及んで、何をふざけたことを言っとるんだ、お前はッ!? ここから先は、本当の戦だ! 残れッ!」
「むりー!」
スパルタとメッセニア、双方の命運を賭した一大決戦の前だというのに、アクシネの口調は、いつもと何ひとつ変わらない。
「ししょーは、もう、いっちゃった! カルキノス、いまからいく! グラグラもいく! だから、わたしもいく!」
「何のために?」
怒鳴りつけようとしたグラウコスを、片手をあげて制し、カルキノスは静かに尋ねた。
「アクシネは、何のために、戦いに出たいんだ?」
「たたかい? ちがう、ちがう!」
アクシネは、大きな身ぶり手ぶりでカルキノスの言葉を打ち消した。
「わたし、ふえをふく! カルキノスといっしょに!
カルキノス、しごとする。わたしも、しごとする。いっしょ! だから、わたし、ふえをふく!」
「アホウ! この雨では、笛は濡れるから吹くことができんと、お前の師匠が言ってただろうがッ!」
横から、地団駄踏むようにしてグラウコスが怒鳴ったが、
「そうか! じゃあ、わたし、うたってあげる! ふんふふふーん、たてとやりをー」
「アクシネ」
グラウコスが暴れはじめるよりも早く、カルキノスはアクシネに歩み寄り、その両手を握った。
「お願いだ。……お願いだから、残ってくれないか?」
「なんで?」
歌うのをやめたアクシネは、まっすぐにカルキノスを見て聞き返した。
自分が残る必要があるなどとは、欠片ほどにも思っていないという様子で。
「もしも、君がいなくなったら、俺は、さびしくて泣くから」
カルキノスがそう言うと、アクシネはしばらくのあいだ、きょとんとしていた。
「……なんで?」
やがて彼女は眉をひそめ、怪しむように顔を傾けて、ゆっくりと近づいてきた。
「なんで、わたしが、いなくなる?」
「君は、まるで、自分を不死なるものみたいに言うんだな」
カルキノスは、眉を下げて笑った。
アクシネにとって死とは、父が、母が、兄が、グナタイナがいなくなったことだ。
大切な人が、自分の前から、永遠にいなくなること。
――その逆は、考えたこともないのかもしれない。
自分が、誰かにとっての大切な人であり、自分が永遠にいなくなれば、相手がどんな思いをするかも、想像できないのかもしれない。
「アクシネ。俺は、君との約束を守っただろ。覚えてるかい? 俺は、帰ってくるよ、って言った。その約束を守って、こうして、生きて帰ってきただろ」
「うん」
「今度も、必ずそうするから」
言って、アクシネの目を見つめる。
嘘をついている、という感覚があった。
ヘイラへの潜入を試みる前には、必ず生きて帰る、どんなことをしてでも、という強烈な意思があった。己の意思を超えた、確信のようなものが。
だが、今は。
今は、どこか――
「だから……安心して、ここで待っていてくれ。
一緒に、しごとをするのは、また今度にしよう。もっと、天気のいい日に。
君は、笛をふく。そして……俺が、歌うんだ」
「そう?」
カルキノスの言葉に、アクシネは首を傾げ、しばし考え込んでいる様子だったが、
「わかったー!」
やがて、光るような笑顔で頷いた。
「わたし、ここでまってる。どこにもいかない。カルキノス、がんばれ!」
「うん」
「やくそくだぞ? こんども、まもる? ぜったい、かえってくる?」
「うん」
カルキノスは、ただそう言った。
彼は急にアクシネを強く引き寄せると、抱きしめて口づけをした。
周囲の男たちは何も言わず、目を細め、視線を遠くへやった。
自分自身が、愛する妻と、肉親と別れてきたときのことを、思い出しているのかもしれなかった。
カルキノスはゆっくりと後ずさってアクシネから離れ、彼女の顔を見つめると、踵を返して、ひょこひょこと歩き出した。
若い戦士たちが、慌てて駆け寄り、その歩みを支えた。
「アクシネ! 待っていろッ! 俺たちで、ヘイラの連中を、全員ぶっ飛ばしてくるからなッ!」
グラウコスが、むやみに大きな声で言った。
その声は少し震えていたようだったが、降りしきる雨のために、彼が泣いていたのかどうかは、誰にも分からなかった。
「出発だ!」
竪琴の音もなく、笛の音もなく、男たちは豪雨の中を影のように進みはじめた。
雨の中、棒のように突っ立って男たちを見送るアクシネのかたわらに、すっと進み出たのは、アナクサンドロス王だ。
王は騎兵たちとともにこの場に待機して、ヘイラから逃れ出てくるメッセニアの男たちがあれば、これをことごとく討ち果たす手はずになっていた。
ヘイラへと向かう男たちを、腕組みをし、微動だにせず見送っていたアナクサンドロス王は、しばらく経ってから、隣に立つアクシネのほうを振り向いた。
力づける声をかけようと開いた口が、その形のままで凍りつく。
ただ、見開かれた目だけが、だんだんと大きくなっていった。
そこに、アクシネの姿はなかった。




