「おかえり」
真っ暗な空から、神々の怒りのような凄まじさで雨粒が叩きつけてくる。
時折、肌に痛みを覚えるほどの強さだ。
黒雲に覆われた空の一角がかっと光り、凄まじい雷鳴がとどろく。
目の前にそびえるヘイラ山の影が巨大な黒い塊となって浮かび上がり、また闇の中に消えた。
スパルタの戦士たち数百人は、部隊ごとに分かれ、灌木の茂みの中に身を伏せていた。
彼らの長く伸ばした髪も、武装も、打ちつける雨に濡れそぼっている。
衣の赤は、水を含んで、ほとんど黒のように見えた。
伏せた地面から弾け飛んだ土が戦士たちの手足といわず顔といわずにへばりつき、全員が不気味な泥人形のようだ。
それは、王といえども例外ではない。
「せめて、木の下へ、お入りになりませんかッ!」
横から思わず叫んだグラウコスに、
「アリストメネスと一戦交える前に『聖なる塚』に入れというのかな?」
アナクサンドロス王は、泥にまみれた顔で呆れたように笑ってみせた。
稀に、人間が落雷を受けて命を落とすことがある。
そういう人間は、ゼウスに撃たれた者として聖なる塚に埋められ、丁重に祀られるのだ。
人間の傲慢を許さぬ神々の態度を表明するかのように、ゼウス神の雷霆は、周囲から抜きんでて高いものを打ち砕く。
だからこそ、スパルタの男たちは灌木の茂みの中に伏せ、立ち上がって頭を突き出すことのないようにしているのだった。
兜も脱ぎ、槍も横たえ、そのきらめきがゼウス神の眼に留まらぬようにしている。
「それにしても、この季節に、こんな嵐が来るとはな。さすがのお嬢さん――いや、カルキノス将軍の奥方も、これには参ったようだ」
言われて、グラウコスはそっと頭を上げ、隊列の後ろのほうを見たが、アクシネの姿はまったく見えなかった。
『ぎゃああああ! かみなり! あぶないあぶない! わああああああぁ!』
大騒ぎをするアクシネを、メギロスが宥め、後方へ連れていったのだ。
見たこともないアクシネの慌てぶりに男たちは思わず笑ったが、嘲笑する者は一人もいなかった。
実は誰もがそう喚きたいことを、男たちに代わって、彼女が派手に表明してくれていたからだ。
敵を前にして怯えを晒すなど、言語道断。
だが、神々の怒りの前には、震え上がらぬ者はいない。
『あああああ! あぶないあぶない! ふえがぬれる! たいへん!』
よく聴けば、彼女は、そうも叫んでいた。
雷の恐怖に錯乱しているのか、単に極度に興奮しているだけなのか、よく分からなかった。
そんな彼女の叫び声も、離れればもうまったく聴こえないほど、雨音が激しい。
黒い雲の上では、神が地上を見回して雷霆の次の狙いを定めておられるのではと思わせる、ごろごろという不穏な唸りが響き続けている。
いっそのこと、ゼウス神がヘイラ山を一撃し、メッセニア人どもを焼き払ってくださればいいのに、とグラウコスが歯噛みした、そのときだ。
「王よ!」
雨音に負けぬよう声を張り上げながら、転げるような勢いで駆けてきた男がいる。
本隊から西に離れた位置で歩哨に立っていたはずの「馬乗り」ヒッポメネスだ。
その名の通り、騎兵の中でも、馬を御する技で彼の右に出る者はいない。
だが今、彼は自分の足で走ってきた。
馬たちは一か所に集められ、草で編んだ雨避けをかぶせられ、石像のようにじっとしている。
「ヘイラ山の西側から、武装した一隊が降りてきました。スパルタの方へ動いていきます!」
「なに」
ヒッポメネスの報告に、アナクサンドロス王とグラウコス、そして声の届く範囲にいる者たちが、揃って目を見開いた。
(この嵐の中を?)
誰の心の中にも、その思いがある。
だが、ヒッポメネスの見間違いではないようだった。
「稲妻の光でしか見ることができませんでしたが、馬に乗った者が十かそこら……徒歩の者は、もっといました。おそらく、この嵐に乗じて近づき、スパルタの不意を突くつもりです!」
「この天候の中を、移動するか」
アナクサンドロス王は唸るように言った。
「指揮官は、アリストメネスだったかな?」
「分かりません」
ヒッポメネスは率直に言った。
「王よ。我らの主力は、こちらにあります。もしも、この嵐が続けば、スパルタに残った皆は、奴らの接近に気付かないかもしれない。突然襲撃されたら――」
内心の焦燥に突き動かされるようにそこまで言って、ヒッポメネスは口を噤んだ。
周囲で耳をそばだてていた者たちには、彼の言いたいことが分かった。
『スパルタに引き返しましょう』
今の話を聞いた誰もが、同じ思いを抱いている。
ヘイラを陥落させるべく、アナクサンドロス王はスパルタが擁する戦士たちの主力を率いてここに来ていた。
スパルタの町に残るのは、老兵たちと、実戦経験の浅い年若い者たち、そして女たちだ。
もしも、不意を打たれたら――
皆の脳裏に、これまでに襲われた集落の数々、とりわけアミュクライの惨状がよみがえった。
黒煙の下に散らばる、焼け焦げた家の残骸。
道に転がる、かつて良き友であり、良き父、良き夫であった者たちの亡骸――
「何をしている」
「……はっ?」
「行け!」
目を見開いた若者の肩を強く掴み、突き放して、アナクサンドロス王は告げた。
「そなたの愛馬と共に! 嵐のごとく、奴らよりも速く駆けよ! スパルタの皆に、敵襲を報せるのだ!」
ヒッポメネスは口を開け閉めしながらアナクサンドロス王の顔を凝視していたが、不意に魔術から覚めた者のように身震いすると、返事もせずに踵を返して駆け出した。
やがて、馬を集めた囲いの方から鋭い一声がして、ヒッポメネスが出発したことが分かった。
「我らは、ここを動かぬ。カルキノス将軍からの合図を待つ!」
王は男たちを見回し、そう宣言した。
スパルタの軍勢がここまで接近していることを、メッセニア側が感知しているかどうかは分からない。
だが、仮に知られているのだとすれば、スパルタの軍勢をヘイラ山から引き離すため、わざと出撃したという可能性もある。
だとすれば、奴らを追うことは、まんまと敵の術策にはまることになるのだ。
メッセニア側の出撃が、自らを囮としてスパルタ軍を引き離す作戦であるとすれば、敢えて気付かれにくいこの大雨の中で決行するのは不自然であるとも思える。
だが、こちらは主力を率いてきているのだ。
全てがあからさまになる晴天のもとでは、ヘイラ山から出撃すると同時に押し包まれ、殲滅されてしまうと考えた可能性もある。
「しかしッ、待つと言っても、こんな嵐では……!」
アナクサンドロス王の言葉に思わず反論しようとして、グラウコスは、ぐっと続きを呑みこんだ。
スパルタの軍勢の規律において、戦略上の命令に対して口答えをするなど、あってはならないことだからだ。
『こんな嵐では、カルキノスだって、狼煙を上げることもできない』
そう彼は言おうとしたのだが、落ち着いて考えてみれば、合図の方法を狼煙と決めているわけではなかった。
必ずこれと決めれば、潜入するほうも合図を待つほうも、その方法にこだわってしまう。
それでは、いざ取り決めたやり方が不可能となったとき、他の方法では通じなくなるし、もっとよい手段を用いる好機があっても逃してしまうことにもなりかねないのだ。
だが、どのようなやり方にせよ、この天候では、カルキノスも動くまい。
それならば、即座にスパルタにとって返し、襲撃者たちを蹴散らしてから、再びここに戻ればよいのではないか――
「グラウコスよ」
王は穏やかに問いかけた。
「ときに、そなたのご母堂は、お幾つになられたか?」
「は? 確か、四十……」
王の何でもないような調子に釣り込まれて思わず答えそうになり、グラウコスは、はっと言葉を切って苦い顔になった。
「たとえ王の質問でも、それは。人に話したと分かったら、叩き殺されます」
「四十を過ぎてスパルタの若い戦士を叩き殺すようなご母堂ならば、奴隷ごときとの戦に、決して後れは取るまい」
アナクサンドロス王は、グラウコスの目を正面から見つめた。
「女でも、スパルタの女だ。老いてもスパルタの老人、子供でも、スパルタの子らだ!
ヒッポメネスが愛馬を御し、急を告げに走った。彼は、必ずや敵に先んじるであろう。
我らの家族が、スパルタを守り抜く。
この天候では、と言うが、この天候の中を、メッセニアは動いたのだ。
いつ、カルキノス将軍からの合図があるか分からぬ。
我らは、ここを動かぬぞ!」
アナクサンドロス王が宣言した、まさにその瞬間。
世界が半分に割れたような白いぎざぎざの光が誰の目にもはっきりと見え、爆音と共に大地が震動した。
落雷が、スパルタの男たちから少し離れたところに生えていた樹を直撃したのだ。
樹齢数十年は下らないと見えた樹の上部が、木っ端微塵に砕け散った。
真っ赤な炎が噴き上がり、雨にうたれて、すぐに消えた。
樹の高さは半分ほどになり、黒い棒杭のような姿になっていた。
男たちは皆、言葉を失った。
「危ないところであった」
かたわらで目を剥いているグラウコスを軽く拳で突き、アナクサンドロス王はそれ見たことか、という調子で言った。
その声に怒りや皮肉はなく、からかうような響きがあった。
「あれは?」
不意に、誰かが言った。
その戦士がおぼつかない手つきで指さしたほうを、全員が見た。
「何だ」
「前の奴! 見えん!」
「何かいるのか? どこだ」
「シッ! 見ろ、あそこだ。俺の指を、ずっとまっすぐ伸ばした先……」
そのとき、再び稲妻が空を切り裂き、白い光が一瞬だけ世界を影絵のように浮かび上がらせた。
荒野を、何かが、動いている。
それは、ある者の目には黒い毛の獣のように、ある者の目には不気味にうごめく影のように映った。
ヘイラ山の麓と、スパルタの男たちのちょうど中間のあたりを、男たちから見て左から右へと、その黒いものは動いてゆく。
時折、跳ねるようにして進んだかと思うと溶け崩れるように地面に伏せ、またむくむくと起きあがって進みはじめる――
「何だ」
「獣か、人か? それとも――」
「槍を投げて殺すか? 放っておくか?」
息を詰めて凝視するスパルタの男たちの存在には気付かぬ様子で、影はよろめきながら進み、男たちの正面を通り過ぎ、遠ざかりはじめた。
そのとき再び閃光が走り、激しい雷鳴が大気をつんざいた。
影は、稲妻に撃たれたように地面に倒れた。
そのとき、黒い中からにゅっと伸びた人間の手のかたちを、目を見開いて凝視していた男たちは見逃さなかった。
「人間だ!」
「メッセニア人か?」
「捕らえろ!」
たちまち、数人の戦士たちが槍を掴んで駆け出す。
「ゼウス神に穂先を向けるな! 槍を伏せよ!」
アナクサンドロス王の怒鳴り声と同時、再び閃光と共に雷鳴がとどろき、人影に駆け寄ろうとした戦士たちは慌てて槍を放り出してひざまずいた。
スパルタの戦士ともあろうものが槍を手放し地に伏せるなど、他の時ならば鞭打ち程度では済まされないふるまいだったが、今この場に、それを咎める者はいなかった。
「このっ」
跳ね起き、あっという間に駆け寄った男たちは、狼が狩りをするように人影を取り囲み、ぬかるみに引き倒した。
ひどく痩せた男だった。
何かをぶつぶつ喋り続けている。
「貴様! メッセニア人か?」
男は棒のように引きずり起こされながら、まだ何かを言い続けていた。
言うというよりも、大声で何事かを喚いているのだが、雨音があまりにも激しいために聴き取れないのだ。
「なんだ、気でも違っているのか?」
「いや、待て……」
男たちは口を閉じ、耳を澄ました。
雨音の合間に、奇妙になじみ深い韻律が耳に入ったような気がしたのだ。
男がその名を 残すは戦に
みごと倒れたとき
永久の栄光が その身を飾りて
祖国ある限り 歌い継がれん
メッセニア人ならば口にするはずのない、彼らの歌。
スパルタの戦士たちは、目を見開いた。
彼らの腕の中でがくりと仰け反った泥まみれの顔には、鼻がなかった。
「カルキノス将軍だ!」
ぼろをまとった痩せた体は、数人がかりであっという間にアナクサンドロス王の前に運ばれた。
話を聞きつけた戦士たちがその周囲に集まり、円形の人垣ができた。
「カルキノス!」
グラウコスは、ぐったりと仰向けになったカルキノスの肩を掴んで引き起こし、強く揺さぶった。
カルキノスの顔は泥にまみれ、鼻の傷があろうがなかろうが、人相がまったく分からないほどだった。
足は裸足で、暗くてよく分からないが、ひどい傷を負っているようだった。
グラウコスのそれと比べれば折れてしまいそうに細い手指も、あちこちの爪が割れて血にまみれていた。
名を呼ばれ、カルキノスは薄く目を開いたが、再びのけぞって白目を剥いた。
「カルキノスッ! 気を、確かに持たんかぁッ!」
グラウコスは怒鳴り、カルキノスに平手打ちを喰らわせた。
将軍に何ということを、と周囲の男たちが息を呑んだが、カルキノスはぶるりと体を震わせて頭をもたげ、グラウコスを見た。
男たちは、固唾を呑んで見つめ続けた。
泥にまみれた顔の中で、カルキノスの目に、意思の力が戻っていた。
「……今だ」
懐かしい、と、男たちは思った。
静かだったかと思えば不意に烈火のように燃え上がる、カルキノス将軍のいつもの話しぶりだ。
「今から、ヘイラに攻めのぼるんだ! 男たちよ、盾と槍を!」
「今から?」
さすがに驚いたように、アナクサンドロス王が繰り返す。
カルキノスは、はっとそちらに顔を向け、初めて、そこに王がいることに気付いたようだった。
「そうです、今から、今すぐにです!
いいか、みんな! メッセニアの男たちは油断している。この豪雨の中、君たちが攻めのぼってくることはないだろうと、見張りは全員が引き上げた! だから、俺は、山を下ってくることができたんだ。
今夜しかない。この嵐が止めば、再び警戒は強まる!
この嵐の中を、今すぐに、ヘイラに攻めのぼるんだ!」
「アリストメネスは!?」
「生きている」
グラウコスの問いに、カルキノスは唇を噛んだ。
「そういう話を、聞いた。だが、姿を確かめることはできなかった。どこにいるのかも。――それでも、彼を恐れて留まっていては、機を逸する! 行こう!」
「うむ」
アナクサンドロス王が言った。
「行こう」
「行こう!」
戦士たちの声が唱和する。
「行こう、ヘイラへ!」
グラウコスも叫び、急にわははと笑うと、カルキノスがぬかるみの上にぶっ倒れるほどの勢いで肩を叩いた。
「カルキノス! 約束を、守ったな!
この嵐の中、山を駆け下ってくるとはッ! さすがは、スパルタの将軍だッ!」
「もちろん……まだ、死ぬわけにはいかない」
カルキノスはよろめきながら立ち上がり、いまや満身に闘志をみなぎらせてこちらを見つめている戦士たちの顔を見渡していった。
「行こう、ヘイラへ。――決着の時だ!」
戦士たちが拳を固め、雷鳴をかき消すほどの雄叫びをあげる。
思わず槍を天に突き上げそうになり、慌てて下げる者もあった。
まなじりを決して頷いてみせたカルキノスの背後から、
「おおおおおお!」
嬉しそうな声が上がった。
カルキノスの顔と体が、ぎしりと固まった。
何だか、聞いたことのある声だった。
ひどく懐かしく、胸を締めつけられるような――
振り向くと、そこにアクシネがいた。
男物の赤い衣をまとい、革の武装を身に着け、びしょ濡れの姿でにこにこ笑いながら立っている。
「カルキノス! おかえり!」
彼は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた。
次の瞬間、白目を剥いて、泥の上に倒れ伏した。




