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選びとるもの

 雨雲の到来を予期したヘリオドラが立ち去って、いくらもしないうちに、空はにわかにかき曇り、大粒の雨が落ちてきた。


 一瞬の閃光からひと息もせず、空が割れたかと思うような大音響がとどろきわたる。

 カルキノスは思わず悲鳴をあげたが、その声すらも、ごろごろという灰色の雲の唸りにかき消されてしまった。

 乾ききった大地には恵みの雨だったが、カルキノスには、そうではない。


「偉大なる黒雲寄せる君ネフェレゲレタ、全能なるゼウス神よ、どうか怒りをお鎮めになり、俺たちを――」


 祈りの文句を唱えながら、濡れて垂れ下がってくる屋根がわりの皮のあちこちを、必死に両手で持ち上げて支える。

 一箇所がくぼむと、どんどん雨水が溜まり、その重みで差しかけ小屋の骨組みが傾くのだ。

 だから、ときどき持ち上げる場所を変えて、溜まった雨水を端へ、端へと追いやり、流さなければならない。


 だが、そんな奮闘も空しく、皮の縫い目や破れ目からは容赦なく水が滴り落ち、さらに地面を伝って流れ込んでくる雨水によって、すでにカルキノスが座っている場所はぐしょ濡れのぬかるみと化していた。


「意味ない!」


 思わず叫ぶ。

 こんな有様なら、むしろ外に出て潔く雨に打たれたほうが、いくらかましかもしれない。


 もちろん、先ほどまで働いていた洞窟の中に避難することは、一番に考えた。

 雨漏りがしはじめてすぐに、走って入口まで行ったのだ。

 だが、その入口に、一本の縄が横向きに張られていた。

 おそらく、あの番人の若者――アッソス――が、立ち去るときに張っていったのだろう。

 次に麦の配給が始まるときまでは、こうしておく規則になっているに違いない。

 いくつかある洞窟の入口は、みな、そうなっていた。


 腰ほどの高さに、ただ一本の縄が張ってあるだけなのだから、下をくぐり抜けることは容易にできる。

 一度外して、中に入ってから、もう一度張り直したっていいのだ。


 ――問題は、それが許される・・・・行為・・なのかどうか、ということだ。

 もしも、許可なく縄を越えて洞窟に立ち入る者は処罰されるというきまりになっており、その対象に、カルキノス自身も含まれるのだとしたら?


 番人の若者が立ち去る前に、もっと細かいことをいろいろと聞いておかなかったことが悔やまれた。


(やっぱり、外で雨に打たれたほうがましかな……)


 少なくとも、この臭い泥は洗い流すことができるだろう。

 だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。


 雲の向こうで陽が落ちたのか、あたりはほとんど真っ暗だ。

 はじめのうちこそ、暑さが和らぎ、いくらかありがたさを感じたものの、濡れた体はどんどん冷え始めている。

 危険をおかして敵地に潜入し、首尾よく『壁』の内側にまで入り込んだのだ。

 雨に打たれたあげくに病気にかかって死んだりしたら、目も当てられない。


 天空を背負うという巨人アトラスのように、ますます重く垂れ下がってくる屋根を両腕で支えながら、カルキノスはどろどろになった尻を浮かして少しでも濡れていない場所に移動しようとした。

 だが、濡れていない場所など、もうどこにもない。

 また、皮の裂け目から稲光が射しこみ、地上のすべてを殴りつけるような雷鳴がとどろいた。


(ゼウス神よ!)


 体を縮め、カルキノスが思わず祈ったときだ。


「アイトーン!」


 悲鳴のような声がして、カルキノスは一瞬、幻聴かと思った。

 横を見ると、そこにヘリオドラがいた。

 布をかぶり、雨をよけようとしているが、その布がすでにぐしょぐしょに濡れて体にはりついている。


「ヘリオドラ!?」


 屋根を支えた姿勢のまま、カルキノスは目を見開いた。


「どうしたんだ、こんな天気なのに!」


「ひどい嵐だから、あなたが心配になったのよ!」


 ヘリオドラは叫び、直後にとどろいた雷鳴に悲鳴をあげて身をすくめた。


「だって、この小屋、ぼろぼろなんだもの! やっぱり、ものすごく雨漏りしてるじゃない」


「いや、それは、そうだけど――」


「私、あなたに助けてもらったお礼を、まだしていなかったでしょ。

 よかったら、雨が止むまでのあいだ、うちに来ない?」


 カルキノスは、開けた口を閉めるのも忘れて、ヘリオドラの顔を見つめた。


『うちに来ない?』


 人妻が、よその男に対して言う言葉ではない。

 これは、罠なのだろうか。

 判断はつかなかったが、この際、はっきり言わなければならないと思った。


「でも、あなたは、結婚していらっしゃるでしょう?」


 ヘリオドラの顔が凍りつき、それから、深く傷ついたような表情が浮かんだ。

 だが、それは一瞬のことだった。


「失礼ね! 変な意味じゃないわ!」


 眉をつり上げて怒鳴ったヘリオドラに、


「ごめん!」


 カルキノスは、反射的に謝った。

 ヘリオドラは、はっとしたようだった。


「……いえ、いいの。でも、あなた、このままじゃ病気になってしまうわ。傷にも障るでしょう。だから、今夜だけ、うちに泊まっていけば?」


「え!?」


『泊まっていけば?』


 ますます、とんでもない言葉だ。


「遠慮しないで。この雨、きっと、しばらくのあいだは止まないわ。

 明日になってから、ライオスさんにでも頼んで、屋根をどうにかしてもらえばいいじゃないの。それか、許可をもらって、特別に洞窟に寝させてもらうか――」


「いや……でも……いや、泊まるなんて、それは、さすがに君の旦那さんが怒るだろう?」


 特段に嫉妬深い夫でなくとも、妻が、どこの誰とも知れないよその男を連れてきて、家に泊めるなどと言い出したら、いい顔をするはずがない。


「大丈夫よ」


 だが、ヘリオドラは、奇妙に確信ありげだった。


「夫は、山道の見張りの当番に当たっているの。明日の朝までは帰ってこないわ」


『明日の朝までは帰ってこないわ』


 古くからある話だ。

 おそらくは人間というものがこの世を歩き始めて以来、ずっと繰り返されてきた物語。


 嫉妬深い夫。

 美しい妻。

 その妻と親しくなる、よそものの男。


(危険だ)


 薔薇に生えた棘のように、美しい色合いの虫が持つ毒のように、危険だ。

 ヘリオドラの黒い目が、じっとこちらを見つめている。


「……雨が、止んだら、すぐに帰るよ」


 二人きりでなら、アリストメネス将軍に関する話が聞けるかもしれない。

 彼女が先ほど言いかけて、やめた話の続きも――


「いいわ。来て」



     *     *     *



 ヘリオドラが夫と二人で暮らしているという小屋は、とても狭くはあったが、カルキノスがいた差しかけ小屋と比べれば、王の館のようにすばらしい造りに思えた。

 何しろ、雨漏りがしないのだ。


 屋根は、幾重にも重ねた乾いた枝葉。

 激しくぶつかってくる雨のしずくの音さえ、どこかやわらかく感じられた。

 木材で四隅の柱を建て、壁のかわりとして、木の皮、獣の皮をはりめぐらしてある。


「立派な家だね」


 ずぶ濡れになったぼろを体から引き剥がし、思いきり絞りながら、カルキノスは言った。


「この小屋は、ここができて、まだ間もない頃に建てられたのですって」


 灯りはなく――火を使うことが禁じられているのだから、それも当然だ――小屋の中はひどく薄暗く、互いの姿がぼんやりと見えるか見えないか、といった程度だった。

 ヘリオドラが体をひねり、長い髪を絞った。

 本人が意識しているのかどうかは知らないが、その姿はとても艶めかしく、カルキノスは思わず生唾を飲み込んだ。


 気のせいだろうか、ほのかに、甘いにおいまでするような気がする。

 互いの姿がはっきりと見えないことを、神々に感謝したい思いだった。

 雨で濡れた衣が彼女の肌にぴったりとまとわりついているところなど、こんなに間近で見たら、男としての衝動に完全に火がついてしまいそうだ。


(落ち着け)


 カルキノスは大きく息を吸い、吐いた。

 彼女には、夫がいるのだ。

 それも、かなりややこしそうな。


 同時に、アクシネの姿が浮かんだ。

 怒っている姿ではなかった。

 遠く、野原にひとり、斧を持って、酷暑にも乾きにも耐える一本の樹のように立っている姿だった。


「いくら何でも、不用心じゃないですか?」


 少し冷静になり、カルキノスは、わざと冗談めかした口調で言った。


「よく知りもしない男と、こうして二人きりになるなんて。俺が、いきなりあなたを襲ったりしたら、どうするんです?」


「あら、そうする?」


 先ほどは腹を立てたヘリオドラも、今度は、いたずらっぽい調子で応じてきた。

 カルキノスが、本気で言っているのではないと分かっているようだった。


「あなたは、そんなことはしない人だと思うわ。優しい目をしているもの」


 そう言って、ヘリオドラは、ふと目を逸らしたように見えた。


「私、人を見る目はあるの。今はね」


(今は?)


 以前は、そうではなかったということだろうか。

 含みを持たせたようなヘリオドラの言葉に、カルキノスが首を傾げたその時、雨音が激しさを増した。


 まるで、壺から勢いよく注がれる水の真下にいるようだ。

 何か話したとしても、その声が聞きとれないのではないかと思うほどに騒がしい。

 しばらくは二人とも身動きもせず、黙って、雨の音に耳を澄ましていた。

 ずいぶん長いあいだに思えたが、実際には、それほどの時間でもなかったのだろう。


「これで、みんなの飲み水が、たくさん溜まるわね」


 ようやく雨音が弱まり、ヘリオドラが、ほっと息をつくように言った。

 あの差しかけ小屋は今ごろ雨に打たれて潰れているのではないだろうか、などとぼんやり考えながら絞った衣を叩いてのばしていたカルキノスは、彼女の言葉で、ふと我に返った。


「ヘイラの人たちは、水を、雨水に頼っているのかい?」


「まさか。湧水があるの。そうでなければ、こんなところで暮らしていけないでしょう」


「湧水か……」


 思わず声に出してから、カルキノスは慌てて口を噤んだ。

 自分が考えたことを、ヘリオドラに見抜かれてしまいそうな気がしたのだ。

 その湧水を絶てば、ヘイラは陥落する――

 だが、それは人間の身に許されることではない、と。


「水場は、大切に守られているわ」


 カルキノスの心を読んだかのように、ヘリオドラは続けた。


「いつも、番人がいるの。あなたが麦を守っているようにね」


(あなたが、麦を?)


 その瞬間、カルキノスは不意に、背中に冷水を浴びせられたようにぞっとした。

 今、自分は、ここにヘリオドラと二人でいる。

 持ち場を離れて、だ。


『ここで休んで、食糧の見張りも兼ねるってわけだ。何かあったら――たとえば、泥棒なんかが来たら、大声で叫ぶんだぜ』


 番人の若者が言い残した言葉が、脳裏にこだました。


(まさか)


 恐ろしい考えが頭に浮かんだ。

 もしや、今この瞬間にも、縄が外され、扉は開けられ、麦が盗み出されているのではないか?

 ヘリオドラは、そいつらとぐる・・で、うまいこと言って自分を誘い出し、麦の見張りをなくしたのではないか?


 明日になり、麦の量が、記録と合わないほどに減っていたら。

 自分は、殺される。

 間違いなく殺される。

 あれほど厳密に記録をつけているのだ。ごまかしようがない――


 そう考えると、居ても立ってもいられなかった。


「どうしたの!?」


 驚いて声をあげるヘリオドラを置き去りに、カルキノスはいきなり立ち上がり、雨の降り続く外に飛び出した。


「アイトーン!」


 かすかな叫び声を背中に聞きながら、泥水を跳ね上げて走る。

 ヘリオドラに案内されてきたここまでの道は『壁』の外ほどに複雑ではなく、記憶に刻まれている。

 雨の中を走りながら、何かが、規則的に脇腹にぶつかるのを感じた。

 紐で肩から斜交いにぶらさげた、何か小さなもの――


 ピュラキダスから渡された小刀だ。

 カルキノスは、それを掴み、ぐっと握りしめた。


 武器は、これだけしかない。

 もしも麦泥棒たちが複数だったら、とても太刀打ちはできない。

 その時は、大声を上げて周りに知らせよう。

 自分が持ち場を離れていたこともばれてしまうが、その場で殺される、あるいは、泥棒たちを見逃して、後で処罰されるよりはずっとましだ。


 だが、自分が大声を上げたところで、皆、出てきてくれるだろうか?

 ヘリオドラが男たちに絡まれたときでさえ、近隣の住人たちは誰も姿を現さなかったのだ。

 ましてや、人の声をかき消してしまいそうな、この大雨の中では――


(!)


 泥水を跳ね散らし、つんのめりそうになりながら、カルキノスは足を止めた。

 洞窟が見えた。

 周囲に人影は、なかった。

 自分がいた差しかけ小屋も、雨に打たれた屋根がいっそうひどく垂れ下がってはいたが、一応、まだ建っている。


 カルキノスは用心深くあたりを見回しながら、洞窟の入口に近づいていった。

 横向きに張り渡された縄も、そのままだ。

 暗い洞窟の入口に立ち、中をのぞき込む。

 姿勢を低くし、すかすようにして必死に目を凝らした。

 洞窟の床に、濡れた足跡はひとつもなかった。


「……アイトーン!」


 安堵感と虚脱感で呆然と立ち尽くしていると、後ろからヘリオドラの声が聞こえた。

 彼女は、この雨の中、カルキノスをわざわざ追ってきたのだ。


「どうしたの!? 急に、飛び出して……」


「ごめん」


 彼女を泥棒とぐるではないかと疑ったこと、驚かせてこんなふうに雨の中を走らせてしまったこと。

 二重の申し訳なさで、カルキノスは、大きく顔をしかめた。


「急に……心配になったんだ。留守にしているあいだに、誰かに麦が盗まれていたらどうしようって」


「そうだったの。驚いたわ」


 うん、心配だから、やっぱり、俺はここにいることにするよ。

 そう言おうとしたとき、カルキノスは不意に、自分が裸同然であるということに気付いた。


(しまった!)


 慌てて飛び出してきたせいで、ヘリオドラの家に、衣を置き忘れてきたのだ。

 明日になれば彼女の夫が帰ってくる家に、あんなものを置きっぱなしにしておくわけにはいかない。


 激しい雨の降り続く中を、二人で歩いて戻った。

 二人とも、無言のままだった。


「ごめんなさいね」


 家の中に入り、座ったとき、ヘリオドラがぽつりと言った。


「なんだか、私、あなたを苦しませているみたいだわ」


「そんなことはないよ」


 置き忘れていた衣を見つけてまといながら、カルキノスはもごもごと言った。

 居心地の悪い沈黙が流れるよりも先に、話題を変える。


「ところで、さっきの話だけど。……ほら、湧水の話。

 最初に、それを見つけて、ここに町を作ろうと決めたのは、誰なんだい?」


「さあ」


 ヘリオドラはまた髪を絞りながら、首を傾げた。


「知らないわ。私たちがここに逃げ込んできたときには、もう、かなり大勢の人がいた。でも、その頃には、まだ、壁はなかった。私たち、みんなで石を運んで、作ったの」


「そうか。アリストメネス将軍は、そのとき、もうヘイラにいた?」


「……ええ、そうね。いらっしゃったわ」


「じゃあ、やっぱり、湧水を最初に見つけたのも、アリストメネス将軍なのかな」


 ヘリオドラは髪を絞る手をとめて、カルキノスのほうをまじまじと見た。


「あなたは、将軍のことを、とても聞きたがるのね?」


「尊敬しているんだ」


 はっとしたが、それを表情には出さずに、カルキノスは答えた。


「自由のために、スパルタに逆らって立ち上がるなんて、並の勇気じゃできないことだから」


「そうね、自由のため……」


 ヘリオドラは、何か深く考えに沈んでいるかのような調子で呟いた。


「自由は、本当に、大切だものね」


 その口ぶりには、スパルタの軛を振り切ること以外にも、何らかの意味が含まれているような気がした。

 カルキノスは思わずじっと目を凝らし、暗がりに沈むヘリオドラの表情を見極めようとした。 

 そのときだ。

 闇の中で、ヘリオドラの視線が、はっと動いたように見えた。


「何?」


 カルキノスの囁きに、彼女は答えなかった。

 座っていた姿勢から体を浮かし、耳を澄ます。

 ものの気配を感じ取った獣のように。


 カルキノスも、つられて耳を澄ました。

 聴こえてくるのは、激しい雨の音。それだけだ。


 いや、待て。

 今、何か――


「隠れて!」


 その瞬間、押し殺した声をあげてカルキノスを突き飛ばしたヘリオドラの顔は、真っ白に見えた。


「夫よ!」


「えっ」


 その単語に、頭が真っ白になりかけた。

 雨音の向こうから、かすかな声が聞こえてくる。

 怒鳴るように言葉を交わし合う、男たちの声。


 何故。今夜は、帰ってこないはずでは。

 入口からは逃げられない、鉢合わせになる。


 どうしよう。

 殺される――


「そこから!」


 ヘリオドラが指さした方向へ、言葉の意味を理解するよりも先にカルキノスは立ち上がり、突進した。

 暗い、壁の隅。

 行き止まりだ。逃げ場がない!


 ――違う。隙間・・だ。

 地面と、壁がわりにはられた皮のあいだに開いた、わずかな隙間。


 カルキノスはすかさず体を横向きにして寝そべり、力任せに皮を引き上げた。

 広がった隙間から、体をねじ込み、強引に転がり出る。

 夢中で衣のすそを引っ張り、引きずり出した。

 体が、濡れた泥にまみれた。


 どこだ、どこだ、ここは?

 真っ暗だ。雨が降っている。

 夜空が見えた。外だ。


 ほとんど接するようにして建った隣の小屋と、ヘリオドラの家との隙間。

 幅が、手首から肘までの長さ程度しかない。

 カルキノスは、その隙間に挟まってしまったような状態で横たわっていた。


「あなた!」


 家の向こう側、入口のある方から、ヘリオドラの声が、奇妙に明瞭に聴こえてくる。


「びっくりしたわ。今日は、お帰りにならないんじゃなかったの?」


(そうか)


 声の聴こえ方で、分かった。

 ヘリオドラは、夫を迎えに、外に出ている。

 自分の体が濡れていることを怪しまれないために、わざと、そうしたのだ。


 カルキノスは壁の隙間でもがき、何とか立ち上がろうとした。

 濡れた衣が何かにひっかかり、体にまとわりつき、思うように身動きができない――


 家の中から、くぐもった声が聴こえてきて、カルキノスは動きを止めた。

 壁がわりの皮がごそごそ動けば、ここにいることがばれてしまう。


「まったく、ひどい雨だ」


「拭いてあげます」


 男の低い声と、ヘリオドラの声。

 ヘリオドラはできるかぎり何気なく話しているようだったが、これまでの事情を知っている身にとっては、やけにそらぞらしく聴こえた。


「外からあなたの声がして、驚いたわ。勘違いかと思った。どうして、急にお帰りになったの?」


「あまり雨がひどいんで、今夜の見張りは、全員引き上げることになったんだ」


 男の声が、忌々しげに言った。


「山道は、もうまるで泥水の小川だ。とても立っていられない。だから引き上げてきた。

 どうせ、こんな夜に、スパルタの連中だって登ってきやしないんだ。壁の連中も、家に帰った」


「そんなことをして、怒られないの?」


「ライオスのことか? ――奴は、関係ない!」


 急に男の口調が跳ね上がり、じりじりと姿勢を変えて立ち上がりかけていたカルキノスは、思わず飛び上がりそうになった。


「奴は今、いない。文句も言わないさ。たとえ、いたって、文句なんざ言わせるものか。こんな大雨の中、外に突っ立っていたら、雷に打たれるか、病気になっちまう!」


(ライオスが、いない?)


 その言葉を聞いた瞬間、恐怖にこわばり麻痺したようになっていた思考が、凄まじい速さで回転を始めた。


『奴は今、いない』


『今夜の見張りは、全員引き上げることになった』


『壁の連中も、家に帰った』


いまだ・・・!)


 黒雲寄せるゼウス神が与えたもうた、千載一遇の好機だ。

 ヘイラから脱出するには、今しかない。

 じりじりと足を滑らせ、家と家の隙間を、横に移動する。


 もう少し。

 あと、もう少しだ――


「おい」


 はっきりと、男の声がした。


「何だ、これは? ここの床が濡れてる」


「そう? 今、私がそこを通ったから……」


「濡れ方が違う。誰かいたのか?」


「どうして? 誰もいないわ。嫌だわ、雨漏りがしているのかしら。降り方が、こんなにひどいんだもの」


「お前……」


「どうしたの……あなた、どうして、そんな怖い顔をするの? 違うわ、やめて!」


 暗闇の中、カルキノスは目を見開き、小刀を握りしめた。


(ごめん!)


 そのまま、雨に打たれながら、一目散に駆け出した。


(ごめんよ、ヘリオドラ)


 飛び込んでいって、彼女を庇いたかった。

 だが、自分には、今しかないのだ。


 この嵐に紛れて壁を越え、山道を駆け下り、すぐ近くまで来ているはずのスパルタの軍勢に合流する。

 そして、この町を滅ぼすのだ。


(ごめんよ!)


 熱い涙が、頬の上で、叩きつける雨に混じる。

 誰もいない壁の出入口を、体を激しくぶつけながら抜け、カルキノスは走った。



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