嵐の前
ヘリオドラの顔を見た瞬間、心に湧き起こった様々な感情を何と名付けるべきか、カルキノスは戸惑った。
まずは、驚きだ。
それから、いや、これも当然のことではないかという考え。彼女は『壁』の内側に住んでいるはずだから、ここに現れたことには、何の不思議もないのだ。
嬉しさもある。
見知った顔に出会った喜び。
醜いと避けられた容貌を、そうは言わない人間と出会えたことの喜び。
そして最後に、はっきりと感じたのが、疾しさだ。
それまではアクシネのことを考えていながら、ヘリオドラと会った瞬間に、少しでも「嬉しい」と感じた自分を、不誠実だと感じたのだ。
「どうして、こんなところにいるの?」
カルキノスの内心には、当然ながらまるで気付かぬ様子で、ヘリオドラは朗らかに話しかけてきた。
これまでの経緯をかいつまんで説明すると、彼女は手を叩いて、自分のことのように喜んだ。
「そう! よかったわ。ライオスさんに認められるなんて、すごいじゃない。――あら? 耳、どうしたの? 怪我をしたの?」
「ああ、ちょっとね」
カルキノスは、言葉を濁した。
ライオスの酷薄な一面を、彼女に話してよいものかどうか、とっさには判断がつかなかったからだ。
幸いにして、ヘリオドラは、それ以上突っ込んで尋ねてはこなかった。
「ヘリオドラ、十二杯ね」
カルキノスが麦を掬い取り、正確に擦り切り一杯ずつ袋に流し込むあいだ、彼女はカルキノスの姿を見つめ、何か楽しいものでも見るかのように微笑んでいた。
「アイトーン、あなたは、これからいつもここにいるの?」
「うん、多分。寝泊まりも、ここでするように言われてる」
「よかった。じゃあ、いつでも会えるわね!」
とびきりの笑顔を残して袋をかつぎ、去ってゆくヘリオドラの後ろ姿を、カルキノスは黙って見送った。
「……おい、おい、おい!」
彼女の姿が見えなくなると、壁際に腰をおろしていた番人の若者が凄い勢いで立ち上がり、扉を閉めようとするカルキノスの背中をぼんぼんと叩いた。
「何だよ! あんた、ヘリオドラさんにむちゃくちゃ気に入られてるじゃないか!」
「ああ、うん」
どう答えるべきなのだろうか。
あれだけの美人だ。
人妻とはいえ、この若者も、彼女に気があるのかもしれない。
「昨日、彼女が困ってるところを、偶然、助けることになってさ。それで知りあったんだ」
あまり話をぼかすと、逆に、あることないこと勘繰られそうな気がする。
ひとまず、当たり障りのない程度に事実を述べておいた。
「気をつけたほうがいいぜ」
若者が急に真顔になったので、カルキノスは一瞬ひやりとした。
彼女に馴れ馴れしくするな、という脅しかと思ったのだ。
それは、半分正解で、半分、間違いだった。
「ヘリオドラさんに手を出すと、やばいからな。――彼女の旦那、むちゃくちゃ嫉妬深いんで有名なんだ! ヘリオドラさんとちょっと話しただけで、怒り狂ってよ。これまで何人、ぼこぼこにされたか」
「えっ……」
ものすごく嫌な情報だ。
特に、決して揉め事を起こすべきではない、今の状況では。
まるで、今まさに崖から踏み出しかけたところで、その先は崖だよ、と教えられたような気分だった。
今知ることができて良かったのだが、できることなら、もっとはやく知りたかったと思う。
カルキノスは、深刻そうな顔でこちらを見ている番人の若者の顔を、じっと見返した。
俺は今見たことを言わないよ、という一言を期待したのだが、番人の若者は、そういう機微を理解できる体質ではなかったらしい。
「ヘリオドラさんはさ、さっきの奥さん連中から遅れて、一人で来ただろ?」
訳知り顔で、滔々と解説を始めた。
「まあ、何だな。はっきり言えば、外されてるんだよ。分かるだろ? 女のどろどろってやつ。
もちろん、あれだけの美人だからな。やっかみもある。
だが、それだけじゃない。あの奥さん連中の旦那の中に、ヘリオドラさんに色目を使って、ヘリオドラさんの旦那にぼこぼこにされた奴がいるんだよ。誰とは言わないけど! そりゃ、仲が険悪にもなるわな」
「なるほど、そういう……」
「ヘリオドラさんは、人懐っこい性格っていうのかな、誰にでも気軽に声をかけるだろ。
あんたみたいな……いや、悪い意味じゃないぜ? でも、あんたみたいな……悪い意味じゃないぜ? あんたみたいな顔の男ってさ、普通の女は、びびるっていうか、避けるだろ。さっきの奥さん連中みたいに。
でも、ヘリオドラさんはそうじゃない。それで、馬鹿な男はさ、ころっといっちまうんだよな。こりゃ、脈があるんじゃないかと、勘違いするわけだ」
若者の話を聞きながら、カルキノスは、自分でもはっきり分かるほど険しい表情になっていった。
過去に数多くの揉め事が起きたにも関わらず、悪びれもせずに、男に声をかける。
夫がそれをよく思わないことを、明らかに知っていながら、だ。
ヘリオドラは、いったい、どういうつもりなのだろうか?
まっすぐで、気が強く、人とは違うものの見方をする……少しアクシネに似たところのある女性だと思っていた。
だが、その実は、無邪気なふりをして客同士の競争を煽り、闘鶏を眺めるように男たちをぶつけ合わせて楽しむ売れっ妓の娼婦のような、腹黒い女性だったのだろうか?
「あんたも、気をつけなよ?」
「もちろん!」
カルキノスは険しい表情を打ち消し、意識して、へらへらした態度をとった。
「きれいな女は、薔薇の花と同じだ。触ろうと手を出せば、とげで怪我をする。
遠くから眺めるくらいで満足するのが、利口ってもんだ。
だいたい、俺みたいなもんが、あんな美人とどうにかなるなんて考えること自体が、馬鹿な話だよ。俺は、こんなざまになっちまって、女にもてるなんてことは、きれいさっぱり諦めてるんだ」
「いや、いや、そういう意味じゃないんだ」
番人の若者は、慌てたように両手を振った。
「悪かった。気にするなよ。……大丈夫、あんただって、体が治りゃ、これからいくらでも美人の嫁さんをもらえるさ」
(美人の嫁さんなら、もういるよ)
――ものすごく変わっているが。
カルキノスは微笑んで頷き、番人の若者を安心させてやった。
根が善良な男なのだろう。若者はたちまち笑顔になると、最近身近で起こった出来事を、尋ねもしないのにあれこれと話しはじめた。
そのほとんどが色恋沙汰についての噂話で、カルキノスにしてみれば本当にどうでもいい話だったが、彼は若者の話すことにいちいち相槌を打ち、大げさに頷いたり、驚いたりしてみせた。
本当に、よく喋る若者だ。
うまく水を向けさえすれば、アリストメネス将軍についての話を聞き出すことができるかもしれない――
だが、カルキノスがさりげなくその話題を切り出そうとした途端、どやどやと別の女性たちの一団がやってきて、会話どころではなくなってしまった。
単に麦をはかるだけと言えばその通りだが、正確さとすばやさが同時に要求される、なかなかに高度な仕事である。
だが、もともと手先は器用なほうだ。
今日はじめたばかりであるにも関わらず、十人目を超えるころになると慣れてきて、まるで職人のような手さばきで麦を袋に流し入れることができるようになった。
余裕が出てくると、カルキノスは、作業の合間を見て、列に並ぶ女性たちに話しかけるようにした。
当たり障りのない、短い会話だ。
だか、そんな会話の端々からも、いくつかの情報を拾い集めることはできた。
このヘイラでは、火事を警戒し、パン焼きはもちろん、その他の調理もすべて、決められた場所で行っているということだった。
どのテントや小屋の中にも炉はなく、それどころか、勝手に火をつかうことそのものが完全に禁止されているのだ。
食糧も水も、すべて配給制になっている。
それほどの不自由に耐えてでも、ここにいる者たちは「自由」を求めているのだ――
『三度よ』
はじめに言葉を交わした女性がそう言っていたように、ヘリオドラもあの後、二度、麦を取りに来た。
そのたびに、彼女はひとりだった。
あの奥さんたちも、もちろん来たが、その態度は最初とはうってかわって堅苦しく、そっけないものだった。
「えーと……よし。これで、今日の仕事は終わりだよ」
やがて、板に刻まれた線の数を何度も指さして数えてから、番人の若者が言った。
女性たちの列が、ようやく途切れている。
休みなく手を動かし続けるあいだ、ずっと固い地面についていた片膝が痛んだ。
膝をさすりながら座っているカルキノスに、番人の若者が笑いかけてくる。
「あんた、今日から寝泊まりする場所のこと、聞いてるかい?」
「え? いや、何も聞いてないけど」
「こっちだ」
若者が案内してくれたのは、洞窟の入口の脇に立てかけられた――という表現がぴったり当てはまる、みすぼらしい差しかけ小屋だった。
小屋といえば聞こえはいいが、床に敷きつめられた草らしきものはぺちゃんこに潰れて土とまじり合っているし、屋根と呼べないこともないぼろぼろの皮の破れ目からは、光がいろいろな太さの筋になって射しこんでいるという有様だった。
「ここで休んで、食糧の見張りも兼ねるってわけだ。何かあったら――たとえば、泥棒なんかが来たら、大声で叫ぶんだぜ。……じゃあ、またな!」
「えっ。君は、もう行ってしまうのかい?」
「ああ、俺は、これで交替なんだ。今度、会うのは……四、いや五日。五日後だ。あんたが来てよかったぜ。元気でな!」
名前を尋ねる暇もなかった。
番人の若者がさっさと行ってしまうと、何もすることがなくなり、カルキノスはひとまず破れた屋根の下にもぐり込んだ。
(ああ、これは、これで)
あちこちに隙間があいているために、吹き込む風が適度に涼しい。
人の視線から離れ、一人になれたと思うだけで、ほっと体が緩んだ。
「いっ」
ライオスに切られた耳が、ずきりと痛んだ。
これまでは、忙しさのあまり、傷のことなどほとんど忘れていたのだ。
カルキノスは耳を何かにぶつけることがないように細心の注意を払いながら、そろそろと地面に横になり、手足を伸ばした。
三度、深く息を吸い、吐く。
四度目を吸い込むか、吸い込まないかのうちに、彼はもう眠りに落ちていた。
『ふふふ、いっしょ! ……ずーっと、ずーっとまえ、おかあさんといっしょにねた。こんなふうに。ふふふ』
『俺と君は、一緒に寝た。人に訊かれたら、そう言っていいよ』
『これから、いつもいっしょにねる? いつまでも?』
『うん』
『そうかあ! いっしょに! ふふふ』
温かな額と頬とが肩に擦りつけられ、アクシネの肌のにおいがした。
カルキノスは彼女を抱きしめ、くすくす笑っている彼女に口づけをした。
驚いて暴れ出すかもしれない、と思ったが、アクシネは、腕の中から、穏やかな目でじっとこちらを見返してきた。
(アクシネ……)
「アイトーン」
優しい声だ。
まるで、赤子をあやし、包み込む母のような。
(ああ、アクシネ、君に……)
「ねえ、アイトーン?」
はっとまぶたが開き、夢は破れ、目の前には、見知らぬ破れた皮の屋根があった。
そして、入口にしゃがみこみ、こちらを覗きこんでいる女性の姿。
逆光になって、一瞬、顔がよく見えなかった。
アクシネか、と思い、グナタイナか、と思った。
もちろん、そうではない。
「ヘリオドラ……」
慌てて起き直りながら、カルキノスは番人の若者から聞いた話をすばやく思い返していた。
『ヘリオドラさんに手を出すと、やばいからな。――彼女の旦那、むちゃくちゃ嫉妬深いんで有名なんだ! ヘリオドラさんとちょっと話しただけで、怒り狂ってよ。これまで何人、ぼこぼこにされたか』
「どうかした?」
「別に、用事はないわ」
なにげなさを装って尋ねると、こちらも本当に何でもなさそうな様子で、ヘリオドラが答える。
「あなたの顔を見に来ただけ」
(なぜ)
カルキノスは、内心、顔を引きつらせた。
あなたの顔を。――それは、まずい。
相手がどういうつもりであるにせよ、既婚の女性と、そういうのは、非常にまずい。
この場合は、特に。
「どうして、わざわざ?」
「さっき、麦を取りにきたとき、私、いつも一人だったでしょう?」
「ああ……」
「みんな、私のことを避けるの」
「えっ。どうして?」
「あら、私が出ていった後、アッソスが話さなかった?」
「アッソスって……番人の彼かい?」
「そうよ。彼、噂好きだから」
「……いや? 別に、何も」
少し迷った末に、カルキノスはそんなふうに答えた。
「私、嫌われ者なの」
ヘリオドラがさらりとそう言ったので、カルキノスは再び、何と返すべきか迷った。
そんなことはないだろう、と言うべきか。
どうして? と尋ねるべきか。
だが、迷っているうちに、彼女のほうがさっさと言葉を続けた。
「でも、あなたは、私を助けてくれたし、普通に話してくれたでしょ。
普通にお喋りができるって、私、久しぶりだったの。だから、あなたに会いに来たのよ」
まずい、まずい、これはまずいぞ。
頭の中で、急を告げる鳴り物が乱打されているような気がした。
何とかうまく話を打ち切って、帰ってもらわなくては。
これ以上、深入りすることは危険だ。
罠かもしれない。
たとえ、そうではなかったとしても、この状況が彼女の夫の耳に入れば、ただではすまないだろう。
だが、
「旦那さんが怒るだろう」
と言えば、番人の若者――アッソスから、彼女についての話を聞いていたということがばれてしまう。
『……いや? 別に、何も』
ついさっき、そんなふうに答えたことを、カルキノスは後悔した。
最初から、正直に答えればよかったのだ。
「迷惑だったかしら?」
「いや……」
反射的に、そう、口から出た。
「驚いたんだ。こんな顔になって、女の人のほうから俺に話しかけてくれることがあるなんて、思ってもみなかったからね」
もう、会話の流れが生まれてしまっている。
ここから、無理に筋を変えようとするのは、かえって怪しい。
こうなったら腹をくくって、彼女との会話の中から、少しでも多くの情報を引き出すしかないだろう。
「何の話をする?」
「何でも! 何でもいいわ」
「じゃあ……ここのことを、いろいろ教えてくれないか」
「ここのことって、たとえば?」
ヘリオドラは、にこにこしながら聞き返してきた。
誰かと会話ができることが楽しくて仕方がない、というように見える。
「そうだな……たとえば、ここで有名な人たちのこととか。ほら、ライオスさんみたいな」
「そりゃあもちろん、アリストメネス将軍よね!」
ヘリオドラの口から、あまりにも朗らかな調子でその名が飛び出したので、カルキノスは一瞬、次の言葉を発することができなかった。
「あら、どうしたの?」
今、自分がどんな表情をしているのか、分からない。
死人を目の前に見たような顔をしているのかもしれない。
「だって……」
言葉に詰まり、口を二、三度、開け閉めしてから、カルキノスは、ようやく続きを吐き出した。
「アリストメネス将軍は、亡くなったはずだろう!? スパルタ人どもに処刑されて……」
「あなた、知らなかったの?」
ヘリオドラはそう言って目を丸くしてから、自分で納得したように手を打った。
「そうか、あなたは、ずっとスパルタにいたから、知らなかったのね。
アリストメネス将軍は、戻っていらしたのよ。
スパルタ人たちに崖から落とされたけれど、神々の御助けがあって、死なずにすんだの。そして、キツネの導きで――」
「ごめん、今、何だって?」
そうしないほうがいいと思いながらも、カルキノスは、思わず相手の話をさえぎった。
「……キツネ?」
「ええ、キツネよ。崖を登っていくキツネを見て、これなら自分にも登れないことはないと思って、這い上がったんですって。崖をよ? 本当に、すごい方!」
「本当だね……」
アリストメネス。
生きていたのか。
どこにいる。
「その、キツネの話、誰から聞いたんだい? まさか、アリストメネス将軍から?」
「いいえ! 違うわ。みんなが言ってた。噂になっていたの」
「君は、アリストメネス将軍に会った?」
「お話ししたことは、ないわ。でも、遠くから見かけたことなら、何度もある」
「そうか……俺も、一度でいいから、お目にかかってみたいと思ってた。
亡くなったと聞いたときは、絶望したよ。でも、生きていらっしゃったんだな……」
声がひどくこわばっているのは、感極まっているためだと、ヘリオドラは思ってくれただろうか。
「今、どこにいらっしゃるんだろう? 俺でも、お目にかかることができると思うかい?」
「分からないわ。将軍は――」
そこまで言って、ヘリオドラは急に言葉を切り、首をひねって小屋の外を見た。
カルキノスは、ぎくりとした。
彼女の夫が来たかと思ったのだ。
だが、何と言い抜けようか考えつくよりも早く、ヘリオドラがぽつりと呟いた。
彼女は、空を見ていた。
「珍しい。あの雲……これから、雨が来るみたい」




