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再会

「うーんうーんうぅーん……うううううぅん?」


「――ぃやかましいッ!」


 真横でぐるぐると回りながら唸り続けるアクシネを、何とか無視しようと努力していたグラウコスだったが、四呼吸分ほど粘ったところで、忍耐力の限界が来た。


「お前は、蠅かッ!? さっきから、人の横でうんうんうんうんと! うるさくてかなわんッ!」


 怒鳴りつけると、アクシネの回転がぴたりと止まる。


「なに?」


 いま何か言ったか、というような表情で、訊いてきた。

 あれだけ回転しておいて、少しも目が回った様子がないことも、今の怒鳴り声がまともに聞こえていなかったことも、にわかには信じがたい。

 だが、アクシネは「とぼける」ということのできる人間ではないことを、グラウコスはよく知っていた。

 そして、彼女が唸りながら回転していた理由も、彼には分かっていた。


「あの、奴隷のじじいのことか?」


「うん」


 アクシネは頷き、また回転し始めた。


 テオンが姿を消してから、もう数日にもなる。

 彼は、いまだ戻っていない。

 あの家の奴隷たちのうち、最も古株で、家の中のことをよく知り、日常の営みを切り回していたのがテオンだ。


 主人であるテュルタイオスは既になく、女主人のアクシネもほとんど家にいない。

 この状況でのテオンの失踪は、家中の秩序に深刻な影響をもたらす――具体的に言えば、主人も女主人も監督者もいない状態で、他の奴隷たちがこれ幸いと仕事を怠けたり、示しあわせて逃亡を企てたりする――おそれがあった。


『アクシネさんには、しごと・・・があるそうですから、私がやるしかないでしょう』


 と、グラウコスの姉のカリストが、自分の家の仕事を終えた後で、わざわざ毎日通って奴隷たちの監督をつとめている。


『なんか、いえのなか、ぴっしりした!』


 とは、アクシネの言だった。


 そのアクシネは、まだ、その場でくるくると回転し続けている。

 遊んでいるのではない。

 彼女は、テオンが不意にどこから出てきても即座に見つけられるように、一度に(・・・)全部の(・・・)方向を(・・・)見ようとしているのだ。


「テオン、いないな。ずっと、いない……さがしても、いない。

 どうしたんだろう? がけからおちてたら、どうしよう?

 たすけてあげたいけど、わたしは、もう、いかなくちゃならない。しごと・・・があるから……」


 ひどく薄情な言葉にも聞こえたが、グラウコスは、そうは言わなかった。

 テオンが姿を消してからというもの、アクシネが日課の狩りも中止し、朝から晩までずっとテオンを探して走り回っている姿を、グラウコスは何度となく目にしていた。


「まあ、大丈夫だろう。多分な」


 なんとかアクシネを落ち着かせようとそう言ってから、我ながら説得力のないことだ、とグラウコスは思った。

 テオンが、アクシネに何のことわりもなく姿を消すなど、まず尋常の事態ではない。

 彼の失踪の理由は、まったく分からなかった。

 他の奴隷たちにも話を聞いてみたが、誰にも思い当たるふしはないようだった。

 逃亡という可能性もあったが、グラウコスが心配しているのは、別のことだ。


(あのじじい……まさか、カルキノスを追っていったのではないだろうな?)


 まったくありえない話ではなかった。

 あの年老いた奴隷は、主人にひどく忠実な性質だった。

 カルキノスのメッセニア行きを知り、たった一人で旅立った主人を助けるつもりで、彼を追いかけていったということも考えられる。


(もしも、そんなことになっていたら、最悪だぞ)


 思わず、眉間に深くしわを寄せた。

 テオンがメッセニアの支配地域で捕らえられ、拷問にでもかけられて、カルキノスのことをぺらぺら喋ったりした日には――


(正体がばれたら、カルキノスは、殺される)


 その場で殺されるならばまだしも、積年の恨みに燃えたメッセニア人たちによって、ひどい責め苦を味わわされることになるかもしれないのだ。


(許さんぞ)


 あの、ひょろっとした体、独特な歩き方。

 普段は穏やかで、いざとなると火を吐くように繰り出される弁舌。

 笑顔のアクシネに翻弄されて困っている表情。


『俺は、帰ってくるよ』


 頭巾の下から、静かにそう呟いてきた、あの声。


(俺たちが、助ける)


 決然と顔を上げる。


 広場を埋め尽くすように、戦支度をととのえたスパルタの男たちが集合していた。

 風をはらんではためく赤い衣、兜の上の房飾り。

 鈍く輝く鎧と、色鮮やかな盾。

 林立する槍の柄の先に光る、鋭い穂先。


 集合し、整列した男たちを見守るように、女たちは広場の周辺に集まっている。

 母たち、妻たち、姉妹たち、娘たち。


 今駆けつけてきたらしく、息を弾ませたカリストが、こちらの目を見つめ、拳を掲げてくる。

 しっかりやってこい、というように。


 人混みの中に、布で顔の下半分を覆ったキュニスカの姿もあった。

 彼女は、大きく頷いた。

 信じている、というように。


しごと・・・


 アクシネが呟き、手にした笛をぐっと握りしめた。

 いまや、彼女もまた武装している。

 革の鎧に、革の兜。

 身にまとう赤い衣は、兄が身に着けていたものだ。


「さあ、君!」


 走ってきた笛奏者の男が、アクシネの肩に手を置いた。


「いよいよ、稽古の成果を発揮する時だ。君には、この隊の先頭に立ってもらうぞ。しっかりやれ!」


「はーい、ししょー!」


「何の嫌がらせだ……」


 元気よく返事をするアクシネに、グラウコスは、思わずそう呻かずにはいられなかった。

 アクシネがつけられたのは、彼が指揮する部隊にだったからだ。


「やれやれ」


 若い戦士の一人が、聞こえよがしの大声で言った。


「スパルタの命運のかかった戦に、女の笛で出撃とは!」


 その声が耳に入り、グラウコスは、眉を逆立てた。


 この馬鹿が、何を言っている。

 出撃の直前に、要らないことを言ってアクシネを怒らせでもしたら、どんな面倒なことになるか――


「なに?」


 聞き逃してくれていればいい、と思ったのだが、案の定、アクシネはちゃんと聞いていた。

 彼女はくるりと向きを変えると、ものすごい速さでその若者の前に走っていった。

 近づく足取りに、一切の迷いがない。

 その声が、ずらりと並んだ戦士たちの列のどこから聞こえたか、彼女は、ちゃんと聞き分けていたのだ。


 一歩踏み出せばぶつかりそうな距離から、まっすぐに見つめられて、


「お、女の笛で、出撃とは……」


 若者は、今さら引っ込みがつかなくなった様子で、そう繰り返した。


「なに?」


 アクシネはさらに一歩近づき、若者の顔を、ありえないほどの至近距離からのぞき込んだ。

 若者は表情を引きつらせ、ほとんどくっつきそうな位置にあるアクシネの両目をしばらく見返した後で、


「…………前代未聞だ」


 おそらく、最初に言おうとしていたこととは少し違う言葉を、やっとの思いで吐き出した。


「ぜんだいみもん!」


 アクシネは嬉しそうに繰り返してから、首を傾げた。


「ぜんだいみもんって、なに?」


「これまでに誰も聞いたことがない、という意味じゃ」


 その声を耳にして、戦士たちがたちまち姿勢を正した。

 アナクサンドロス王だ。


「戦士たちよ! いよいよ、スパルタの命運を決する戦いのときが来た。

 この戦にあたり、スパルタの婦女子までもが笛奏者として参戦するとなれば、男である我らは、一人一人がどれほどの働きをせねばならぬか、もはや言うまでもないであろう!」


「ないであろう!」


 アクシネが王の真似をして元気よく叫んだ声が響きわたり、グラウコスは無言で彼女をひっ捕まえ、口を手で塞いだ。

 もごもご言うのを、渾身の力で絞めつけておとなしくさせる。

 人妻だが、この際、そんなことに構ってはいられない。


 アナクサンドロス王は口の端で少しだけ笑ったようだったが、すぐに、決然とした表情になった。


「この場で、語るべき言葉はもはやない。カルキノス将軍が待っている。

 ――行こう、戦士たちよ!」


『行こう!』


 男たちの声がひとつになり、同時、笛と竪琴の音が響き始めた。

 力強く、迷いのない音。

 肉体を奮い立たせ、魂を力づけるような。

 グラウコスが手を放すと、アクシネはそれまでのことなど忘れたように笛の吹き口を咥え、他の笛奏者たちと合わせて行軍のための曲を奏で始めた。


(おお)


 間近で響くその音の力強さに、グラウコスは我知らず、微笑を浮かべていた。

 調べに、心が宿っている。

 音が、その場所を目指している。


「行こう、ヘイラへ!」


 アナクサンドロス王の号令と同時、軍勢がゆっくりと動き始めた。

 運命の地を目指して。



     *     *     *



 その瞬間、カルキノスの心は、奇妙に凪いでいた。


『スパルタの将軍カルキノスは、もうすぐ死ぬ』


 そう言い放ち、こちらを見据えるライオスを目の前にして、武器もなく、逃げ場もなく――

 それでも、恐怖心はなかった。


 死を宣告され、かえって肝が据わったのだろうか。

 自分でも、分からない。


「えっ? ……では……何か、作戦が?」


 心からそう言ったと自分でも思い込みそうになるほどの素直さで、口にしていた。

 貫くのだ。

 恐怖心がないのは、自分は・・・カルキノス・・・・・ではない・・・・からだ。

 どこまでも、全力で、嘘をつき通す――


 こちらを見据えて、ライオスは、にやりと笑った。


「ああ」


「あっ、もしかして……呪い、ですか? それとも……暗殺者を?」


「やっぱ、お前さんは始末しといたほうがいいんじゃねえかって気がしてきたよ」


 頭が回りすぎるぜ、と呆れたように肩をすくめてみせ、ライオスは、急に怖いほど真剣な表情になった。


「いいか、アイトーン。このことは、他言無用だぜ?

 もしも、このことの噂が広まるようなことがあったら、その出どころは、お前さんしかいねえ。

 そうなったら俺は、示しをつけるために、お前さんをひどい方法で始末しなきゃならなくなる……分かるだろう?」


 カルキノスは目を見開き、何度も小さく頷いた。

 それから、びくりとして、横を見た。

 番人の若者が、そこに平然と突っ立ったままなのを思い出したからだ。


「大丈夫だ。そいつは、このことを知ってる。俺の部下だからな」


「ああ……」


 腹心だからこそ、この場所を任せている、ということか。

 カルキノスは曖昧に頷きながら、今、そのことがはっきりして良かった、と思った。

 何も知らずに番人の若者と雑談でもして、うっかり余計なことを口走っていたら、それは全てライオスの耳に入るところだったのだ。


 ライオスが、ぐっと上体を近づけてくる。

 反射的に体を固くしたカルキノスの耳元で、ライオスは囁いた。


「そうだ。暗殺者……これまでに何度も試みてきたが、全て失敗に終わった。これまでは、な」


(何度か!?)


 これには、さすがに少し表情が引きつった。

 その暗殺者たちは、どうなったのだろうか。

 自分の知らないところで、スパルタの男たちに捕らえられ、始末されていたのだろうか。

 あまりの衝撃に、とっさには声が出なかったが、かえって幸いだったかもしれない。


「だが、今度こそは成功するだろう。これまでとは違う」


「違う? それは……どういう」


「――今は、これ以上は言わないでおこう」


 出し抜けに、ライオスは話を打ち切って身を起こし、カルキノスの肩を叩いた。


「もしも、誰かが食糧の心配を口にするようだったら、絶対に大丈夫だと言ってやってくれ。

 ライオスさんに秘策があるらしいからってな」


 頼んだぜ、と言い残し、ライオスはさっさと踵を返して洞窟から出て行った。

 一度も、こちらを振り返ろうとはしなかった。


「ライオスさんは、お忙しいからな」


 番人の若者がそう言って、手にしていた松明を、壁のくぼみにうまいこと立てかけた。

 扉を閉め、掛け金をかけながら、明るい調子で話しかけてくる。


「あんた……ええと、誰だっけ?」


「アイトーンといいます」


「アイトーンか。アイトーンね。前に会ったことあったっけ?」


「いえ……昨日、ここに着いたばかりなんです。

 いろいろあって、ライオスさんに、ここを任されることになりまして……」


「そうか、助かったよ! や、ここだけの話、前の奴が、ちょっとばかり、やらかしちまってな。

 それで、そいつがいなくなってから、俺たちが麦の出し入れと記録までしなけりゃならなくなって、めちゃくちゃ荷が重かったんだ。

 俺、この世で何が苦手って、数の勘定がいっちばん苦手でさ! 五杯、六杯……と数えてるあいだに、わけがわからなくなっちまうんだ。途中で話しかけられたりした日には、もう、ごちゃごちゃさ。

 で、はじめからやり直しになるだろ? ただでさえ焦るってのに、そこへ、あの女どもときたら!

 やれ、すりきり一杯じゃないといけないだの、袋に入れるときに少しこぼれただのってぶつぶつ言うし、それで余計にこんがらがるしで、もう、無茶苦茶さ。

 ここの当番が回ってくるのが憂欝で仕方がなかったんだが、あんたが来てくれて、本当に助かったぜ!」


「はあ……」


 カルキノスは、ようやくそれだけ相槌を打った。

 ものすごくよく喋る男だ。


「あんた、数は数えられるか?」


「えっ……あ、はい、多分、人並みには……」


「そうか! すげえな。俺はだめだ。五、いや六、いや、やっぱ五くらいまでだな、はっきりしてるのは。あとはもう、何が何だか分からなくなるんだ。

 で、また最初からやり直しになるだろ? 袋に入れたぶんを全部あけてさ。それなのに、女どもときたら――」


 しかもまた同じ話になっている。

 これは大人しく聞いておいたほうがいいのか、それとも、無限の繰り返しに陥る前に止めるべきだろうか――と、カルキノスが迷っていると、


「来たわよ!」


 急に入口のほうから声が響き、どやどやと足音がしたかと思うと、大ぶりな袋を手にした数人の女たちが洞窟の中に入ってきた。


「あら! やっと新しい配給係が来たのね」


「あんたじゃだめよ、時間ばっかりかかって」


「こっちは忙しいんだから」


「さっさと倉庫を開けてちょうだい!」


「はい、はい、分かりましたよ」


 先ほどまでの饒舌さはどこへやら、番人の若者はすっかり閉口した様子で掛け金を外して扉を開け、壁際に退いた。


「ちょっと、あなた! 新しい配給係なんでしょ?」


「ぼやぼやしないで、さあ、早く麦を」


 女たちの勢いに圧倒されるように、カルキノスは開いた扉の中へと踏み込んでいった。

 山と積まれた麦の手前に、器がひとつ転がっている。

 これが、麦を計量するための枡だろう。

 側には、一枚の板切れと、そこに紐でぶら下げられた小さなナイフのようなものがあった。

 板の右端には、謎の模様が並んでおり、その横に何本も引っ掻き傷のような線がついている。


(この模様は、一体……)


 麦を配給する、とはいっても、具体的に何をどうするのか全く指示を受けていなかったことに気付いて呆然と立ち尽くしていたカルキノスだったが、


「テクメッサ。十五杯よ」


 まず進み出た女が、さっさと指示をしてくれた。

 彼女が突き出した腕に、革の腕輪が巻かれ、板に描かれているのと同じ模様のひとつが描かれている。


「そこに、私がつけてるのと同じ模様があるでしょう。……そこよ、板の、ほら!

 そう。その横に、十五本、線を描くのよ。それから、私の袋に、麦を十五杯入れるの」


「ちょっと、大丈夫なの? しっかりしてちょうだいよ!」


「あなた、新人ね。どこの人?」


「昨日、ここに来たばかりで、ライオスさんから、ここで働くように言われたんです」


 麦を器にすりきり一杯、十五回ぶん量りとって袋に入れながら、カルキノスは答えた。


「スパルタから脱走してきたんです。出身はテラプネです」


「まあ、そう!」


「とにかく、気をつけてちょうだい。数字が合わなかったら、後で大変なことになるんですからね」


「そうよ。麦をごまかしたら、叩き殺されるわよ!」


「でも仕事は手早いわね」


「アレタピラ。十二杯」


「キュンナよ。十五杯ちょうだい」


 警告と、賞賛と、麦の注文が一気に来るので、確かに何が何だか分からなくなりそうだった。

 カルキノスは、麦が何杯分いるかという注文の声にだけ神経を集中させ、板に線を彫り付け、枡で麦を量り取っては袋に流し込んだ。


「……皆さんが、ここへ来るのは、一日に一度ですか?」


 隙を見て、さりげなく質問をしてみると、


「三度よ。この後、また来るわ」


「その後、臼で粉ひきをするのよ」


「ひきあがった粉は、パン焼き係がかまどで焼くの。でも、そのあいだもあたしたちは忙しいのよ! 煙が出ないように、そばについて見張ってなきゃならないの」


「煙があがれば、スパルタ人どもに私たちの居所がばれてしまうもの」


 一気にいろいろな情報が返ってきた。


(煙を探す、という方法があまり功を奏さなかったのは、こういうわけだったのか……)


「大変な仕事なんですね。がんばってください」


 頭で考えていることと、まったく違うことを口で話している。

 まるで、自分が二人いるような気分だった。

 彼女たちを欺いている、という意識と、この調子で喋ってくれればもっといろいろな情報が手に入るかもしれない、という打算と――


「あら」


 女たちは、感心したように言った。


「あんた、優しい男ね」


「そうね! 前の配給係の男、今はいなくなったけど、あいつは、いやな感じだったわ。いばりくさって!」


「俺たち男が、お前たち女を守ってやってるんだ、粉ひきやパン焼きなんて命がけでもない仕事ごときでぶつくさ言うなって、あたしたちを馬鹿にして!」


「私らが焼くパンがなければ、腹が減って、武器を持ち上げることもできやしないくせに!」


「私たちの仕事だって、戦うことと同じくらい大切だよ。何しろ、ものごと全部の大元なんだからね!」


「ほんとに、その通りですね」


 これは心から、頷く。

 糸紡ぎをするグナタイナの顔が浮かんできた。

 グラウコスの姉、テミストの顔も。キュニスカの顔も。


 男たちは戦い、女たちは家を守る。

 そうでない例も、もちろん、あるのだが――


「ねえ、あんた、頭巾を取ってみせてよ。まだ若いんでしょう?」


「えっ?」


 急に話が思いがけぬ方向に転がり、カルキノスは、返答に詰まった。


「そうよ、声に張りがあるもの」


「あんたの顔が見たいわ。名前、何だっけ?」


「さあ、こんな頭巾は、取っ払っちゃって――」


 素早く伸びてきた手が、身をかわすよりも早く頭巾をつかみ、後ろに払いのけた。

 息を呑む音。

 後ろのほうにいた女が、悲鳴をあげた。


「うお」


 腹の底から出たような短い唸り声は、番人の若者だ。

 彼もまた、今、カルキノスの風貌を初めて見たのだ。

 髪のない、眉もない、鼻もない男――


「少し、長話をしすぎたみたい」


 何度か唾を呑みこむように喉を上下させてから、頭巾を払いのけた女が、そろそろとその手を引っ込めた。


「それじゃ、もう行くわね。仕事があるから」


「そうね、急がなくちゃ」


「記録、ちゃんと、つけておいてよ」


 麦の入った袋を担いで、女たちはそそくさと洞窟から出ていった。

 番人の若者は、わざとらしく目をそらして、その場で行ったり来たりしている。


 カルキノスは、のろのろと手を上げて、頭巾を深くかぶり直した。

 自分は今、女たちが悲鳴を上げるような姿をしているのだと、あらためて思い知った。

 分かっていたことだ。

 確かに、覚悟の上でしたことではあったが、心は重くなった。


 そのとき、浮かんできた面影がある。

 鼻のなくなった、この顔を見つめて、


『わたしはいやじゃない』


 そう言いきった、まっすぐな眼差し。


(アクシネ――)


 会いたい。

 これまでになく強く、そう思った。

 そのときだ。


「ごめんなさいね!」


 どこかで聞いたことのある朗らかな声が、洞窟に響きわたった。


「少し、遅れちゃったみたい。……あら?」


 朗らかな声が、一段高くなり、満面の笑顔が見えるような響きになった。


「あなた、アイトーンじゃないの! まあ、また会えたわね!」


 顔を上げると、想像した通りの美しい笑顔が見えて、昨日助けた女性――ヘリオドラがそこに立っていた。


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