嘘
「それで、どうなった!?」
目をきらきらさせて身を乗り出してきたミノンの勢いに、カルキノスは思わず上体を反らした。
横を見れば、ドリダスもまた、食い入るような眼差しでこちらを見ている。
日はとっくに暮れて、小さな天幕の中に三人、脚を折り曲げて座っている状態だ。
火は焚いていない。
月と星の光で、外のほうが明るいため、入口は開け放していた。
「どうなった、って……別に、どうもならないよ」
少年たちの興奮ぶりに、少し呆れて微笑みながら、カルキノスは応えた。
「そこで、お別れさ。……ああ、助けた彼女が、どうしてもお礼をしたいって言うから、水を一口もらったけど」
「はあぁ?」
何だそりゃ、と言いたげな顔で、ミノンが大げさにずっこける真似をした。
「何だよ、もう! 甲斐性がねえなあ!」
「甲斐性って……」
「だって、あのヘリオドラさんだろ!? 評判なんだぜ。めちゃくちゃ美人じゃんか!」
「確かに、美人だった。でも……」
「ほら、物語とかでさ、あるだろ!? 美人を助けて、その美人と……なっ!?
それが、男の甲斐性ってもんじゃんか。
せっかく美人が、お礼がしたいって言ってくれてるのに、水を一口って」
戻ってきたミノンたちの「何か変わったことはなかったか」という問い掛けに、カルキノスは、ヘリオドラと若者たちとの悶着と、ライオスの活躍について報告していたのだった。
最後のヘリオドラの言葉に、少年たちは、何やら色々と期待したらしい。
「英雄ならさ、そこで子供の一人や二人、作ってくるところだろ! なっ、ドリダス!」
「いや、それも、どうかと思うぞ」
ミノンに対して、ドリダスのほうは、いくらかカルキノスに近い考え方らしかった。
「だいたい、ヘリオドラさんは結婚してるじゃないか」
「そこは関係ないんだよ。お前、あの話、聴いたことないか? ほら、イリオンの歌。羊飼いのパリスが、メネラオス王の奥さんを奪って……」
「いや、それ、ものすごい戦争になったやつじゃねえかよ……」
呆れるドリダスに、
「その通りだ」
カルキノスもうんうんと同意した。
「それに、俺は英雄じゃない。美男子でもないし」
「いや」
急にドリダスが言って、自分の顔の前に、横向きにした手を掲げてみせた。
「そんなことはない。あんた、こうやって見たら、けっこういい男だぜ」
カルキノスは、はっとした。
ドリダスは、カルキノスの顔の下半分を手で隠し、鼻よりも上を見てそう言ったのだ。
もしも、彼が過去に一度でも、スパルタの将軍カルキノスの顔を見たことがあったら――
カルキノスは急いで頭巾を下げ、俯いた。
「ばっかやろっ」
ミノンが、慌てた様子でドリダスを小突いた。
「その言い方、逆に気の毒だろうが!」
「あ……ああ、そうだな。悪い、アイトーン」
「いや……」
唸るように答えて、カルキノスは、心に誓った。
もう、誰の前であっても、強く誰何されない限り、顔を上げるのはやめよう。
周りの様子や、相手の顔が見えないのがひどく不便なのだが、あまりにも危険すぎる。
この傷は、人相を変えるためだが、人の記憶にも残りやすい。
幸い、ドリダスがこちらの正体に気付いた様子はなかったが、もしも、この顔を知る者に、今のようにされたら――
「それじゃ、飯でも食うか!」
明らかに意識して明るい声を出し、ミノンが袋から取り出したのは、焼きしめたパンだった。
スパルタでは、一人の戦士の一度の食事として、やや物足りない程度の大きさ。
「でかくなってるな」
ドリダスが、嬉しそうに言った。
「いや、そりゃ三人分だからだろ! よし、公平に分けるからな、見てろよ……」
ミノンは慎重な手つきで、パンの上に爪で印をつけ、それをもとにしてほぼ正確に三等分した。
「よし。どうだ?」
「うん、確かに、どれも同じくらいだ。器用だよな、ミノンは」
「まあな。けど、二つと違って、三つに割るのはけっこう難しいな。……ほら、アイトーン」
ミノンが、パンのひとかけらをカルキノスに手渡す。
「ライオスさんが、ちゃんと配給係に話をしてくれたんだ。やっぱ、あの人は偉いよ」
「何でも、ごまかさずに、きっちりするからな、ライオスさんは。信用できる」
「うん……」
固いパンを噛み切り、噛みしめた瞬間、香ばしい麦の風味が広がり、目から涙が溢れてきた。
「えっ! おい、アイトーン? 何、泣いてるんだよ!?」
「これまでほとんど、飲まず食わずだったんだろ……よっぽど、腹が減ってたんだなあ」
ミノンとドリダスがかわるがわる言う、その言葉が、胸に突き刺さる。
『ヘイラ山の周辺での耕作を、一時、禁止にするというのはどうだろう?
ヘイラ山に立てこもっている奴らが、食糧をたやすく手に入れることができないようにするんだ。武器のときと同じだよ。
耕作地から手に入るものがなくなれば、彼らは、いっそう頻繁に略奪隊を送り出してくるに違いない。それを、よく見張っておくんだ。彼らを捕らえることができれば、ヘイラの情報を手に入れることができるかもしれない』
かつて、スパルタの男たちの前で自分が口にした言葉が心によみがえった。
この、ひとかけらのパンが、その結果なのだ。
大柄なドリダスは、そのぶん腹も余計に減るに違いなかったが、パンをがっつくようなことはせず、ごく小さくちぎっては、ゆっくりと口に運んでいた。
少しずつ、時間をかけて食べたほうが、わずかな食べ物でも満腹感を得られるのかもしれない。
カルキノスは、自分のぶんも彼らに分けてやるべきなのではないかと考えたが、結局、それを口に出すことはなく、受け取ったぶんを黙って全部食べた。
「それにしてもさ」
また、空気を変えるように、ミノンが言った。
「アイトーンは、喋るのがすごくうまいよな!」
「えっ?」
「さっきの、ヘリオドラさんを助けたときの話だってさ、まるで物語を聴いてるみたいだったぜ。なあ?」
「ああ。ライオスさんの活躍のところも、目の前に見えるみたいだった」
ドリダスが頷いて、地面にこぼれ落ちたパンくずを拾い上げ、息を吹きかけて口に入れた。
「まるで、詩人みたいだな」
その言葉に、一瞬、呼吸を忘れた。
胸元にいきなり短剣を突きつけられたような気がした。
「そう、かな。それほどでも」
それだけ言うのがやっとだった。
声がかすれたのは、泣いていたせいだと、彼らが思ってくれたならいいのだが。
「なあ。あの歌、もう一回歌ってくれないか?」
天幕の壁に背中を押しつけるようにして横になりながら、ミノンが言った。
「ほら、ライオスさんのところで歌ってた歌だよ。女の歌」
「糸紡ぎの……?」
「そうそう」
「俺も聴く」
ドリダスも、ミノンと反対側の壁に背中を押しつけて横になりはじめる。
夕食をとって、いくばくかの満足感の中ですぐに眠らなければ、空腹に耐えられなくなると、彼らは分かっているのだ。
カルキノスは、ためらった。
『まるで、詩人みたいだ』
そう言われた衝撃が、いまだ心から去らない。
カルキノスが、今、スパルタに不在であるという事実は、さすがにまだメッセニアには伝わってきていないようだ。
だが、いつかそうなったとき、スパルタから来た歌う逃亡奴隷と、スパルタの詩人カルキノスとを結びつけて考える者が現れはしないだろうか――?
「わかった」
だが、カルキノスは、そう答えた。
きっと大丈夫だ。
あれは、戦士の歌ではない。
ミノンとドリダスは、行き倒れている自分を助け、パンを分け、こうして寝床まで貸してくれているのだ。
せめて、自分の持っているもので返礼がしたい。
それに、ミノンがしきりに「女の歌」と言うわけが、カルキノスには分かるような気がした。
糸紡ぎは、女の仕事。
(母親――)
奴隷たちの中には、自分の生みの親を知らずに育つ者も少なくない。
彼らは、会ったことがあるのだろうか。
こんなふうに、歌ってもらったことがあるのだろうか――
カルキノスは、声をひそめ、あの歌を歌った。
グナタイナの顔が浮かんできた。
涙が出てきたが、歌を途切れさせることなく、何度も繰り返した。
「今日、初めて聴いた歌だ」
腕を枕にしたミノンが、心地好さそうに目を閉じ、呟いた。
「でも、懐かしい……」
それだけ呟いて、彼は寝入ったようだった。
ドリダスは、もう、軽くいびきをかきはじめている。
そっと歌を終えて、カルキノスは、二人の体のあいだ、というよりも隙間に、何とか体を横たえた。
足の先だけ、どうしても入口から出る。
(もう、いいか、これで)
あまりごそごそしていては、せっかく寝ついた彼らを起こしてしまうかもしれない。
カルキノスはあきらめて土の上に横になり、目を閉じた。
その瞬間に眠りが訪れて、彼の意識は静かな闇の中に落ちていった。
背中が、妙に涼しい。
そう感じて目を開けたとき、カルキノスは、天幕の中に一人きりでいた。
(えっ)
ミノンとドリダスの姿は、どこにもない。
一瞬、夢を見ていたのかと思った。
慌てて天幕から首を突き出してみる。
あたりはまだ暗く、東の空がほんのかすかに白みはじめたかどうかというところだ。
他の小屋や天幕は、静まり返っている。
こんなに早くから、彼らは、もう見回りの仕事に出かけていったのだろうか。
(ここに、長くいてはいけない)
天幕の中に戻って座りこみ、まだぼんやりする頭で、カルキノスはそう考えた。
昨日は疲れのためにすぐに眠ることができたものの、ほとんど身動きひとつできない狭さだったのだ。
これが毎日続くとなると、かなり辛いものがある。
ミノンとドリダスに、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。
それに。
(これ以上、彼らと一緒にいたら……俺は、きっと、戦えなくなってしまうだろう)
アリストメネス将軍の生死を掴み、生きているのならば、とどめを刺す。
このヘイラを――彼らの町を破壊し、焼き払い、彼らを縛り上げて連れていくのだ。
それが、スパルタの勝利。
(ごめんよ)
寝起きの乾いた目に涙がわきあがった。
その瞬間に、ぐいと、襟首を掴まれた。
(何だ――!?)
「よう、アイトーン」
後ろ向きに引き倒され、なすすべもなく仰向けにさせられる。
倒れ込み、見上げた先にあったのは、薄笑いを浮かべているライオスの顔だった。
その手に握られたナイフの刃が、薄暗い中で、白く光って見えた。
「お前、スパルタの間諜だな」
(なぜ)
目を見開き、ナイフの切っ先を見つめながら、頭に浮かんだのはその言葉だった。
(どこから、ばれた!?)
ミノンかドリダスが気付き、ライオスに話したのか?
だが、なぜ?
もしかすると、自分は眠っているあいだに、寝言で何か口走ったのか?
それとも、スパルタにメッセニア側の間諜が潜入していて、カルキノスがメッセニアに入ったという情報を掴み、報告したのか?
そんな事態が起こらないよう、ごく限られた者にしか、この計画は明かしていなかったのに――
だが、理由はともかく、実際にこうして正体がばれているのだ。
もう、おしまいだ。
殺される。
目の前のナイフで、刺されて、殺される――
恐怖が心を塗りつぶし、恐慌に陥りそうになった。
「へっ……え、へえっ!?」
カルキノスは、我が身をかばおうと両手を上げ、身をよじった。
「ちがいます!」
そう、声が出た。
「なんっ……何ですか!? やめてください……助けて!」
ライオスは表情を変えないまま、カルキノスの口を片手で塞ぎにきた。
カルキノスはもがき、暴れ、頭を左右に振って逃れようとした。
「あれは……作り話なんです! ああ言えば、あいつらが、引き下がると思って!」
まるで、自分以外の誰かが、自分の口を借りて喋っているかのような感覚。
死の恐怖に惑乱する本能を押しのけるように、凄まじい計算高さで瞬時に編み出された芝居が湧き上がってくる。
「旦那なんか、本当はいないんです! あの女性を助けようと思って、嘘をついただけです! 本当です! 彼女に――ヘリオドラさんに訊けばわかります!」
「うるせえよ」
いきなり掴まれた左耳に、鋭い痛みが走り、カルキノスは絶叫した。
首筋から後頭部にかけて、熱いものが流れ落ちる感覚。
目の前に、血で真っ赤に染まったナイフの刃が突き出された。
「俺は、嘘は嫌いだぜ。もう、ばれてんだ。全部喋りな。
素直に本当のことを言わねえなら、もう片方の耳と、両目を順番に抉る。
それでも喋らなきゃ、手足を一本ずつ切り落とす」
あの、目だ。
目的のためならば、人を殺すことを何とも思わない人間の目。
スパルタの戦士たちと、同じ目だ――
「お……お」
ばれている。
これ以上は無駄だ。
耳を潰されたら、目を潰されたら、生きていくことはできない。
素直に喋ったほうがいい。
そうすれば、無駄な苦しみを味わうことなく、一思いに死ぬことができるかもしれない。
涙が溢れてきた。
「同じだ……」
奥底から、湧き上がってくる声がある。
「あなたも、スパルタ人と、同じだ……! 違うと言っているのに、信じてくれない!
やってもいないことを、俺になすりつけて、殺そうとするんだ!
くそ! どうして! 助けてくれ! 死にたくない……!」
『スパルタ人の家で、奴隷として使われていたんですが、身に覚えもないのに、家の中の品物を盗んだだろうと言われて、折檻を……』
自分が話した嘘が、まるで石碑に刻まれた文章を読み上げるような正確さで頭によみがえってくる。
それを、貫くのだ。
作り話でも、強く、強く口にすれば、真実として聞こえる。
どこまでも、全力で、嘘をつき通すのだ。
相手に、もしかすると自分のほうが間違っているのではないかと、疑念を抱かせるほどに――
「悪かった」
目の前に突きつけられていたナイフが、すっと離れた。
「…………え?」
耳にした言葉の意味が、一瞬、本当に理解できず、カルキノスは完全に硬直した。
ライオスが、ナイフを、引いたのだ。
(うそ、だろ)
成功、したのか、自分は。
この嘘を――
今ので、ライオスに、信じさせることができたのか?
「そんな目で見るなって」
地面に腰を下ろし、ナイフの尻を指でつまんでぷらぷらと振りながら、ライオスは眉を下げて言った。
口調も完全に変わり、先ほどまでの冷酷さが夢か幻だったようだ。
「俺は、お前さんを、試したんだ。
寝起きに、俺に詰められて、そうやってまともな受け答えができるなら本物だ。
耳、すまなかったな」
軽く謝られ、ようやく自分が耳を切られたことを思い出して、ぎょっとする。
ばっと顔の横まで上げた手を、一度、止めた。
すぐに触るのも怖い。
板のように揃えて伸ばした指を、恐る恐る、近づけていく。
「大丈夫だ、付いてるぜ、耳。ここんとこを、ちょっと切っただけだ」
ライオスが、自分の耳たぶをつまみ、びよびよと動かしながら言った。
「すげえ血だらけになってるぞ、今。まあ、俺のせいだけどな。
後で、責任もって手当てするから、許してくれ」
「えっ……えっ? あの……」
「お前さんが言ってた、旦那がどうこうって話が芝居だってことには、もちろん気づいてたさ。
お前さんが本当にヘリオドラさんを追ってきた男なら、俺が駆けつけたとき、ヘリオドラさんは、真っ先にお前を片付けるように、俺に頼んだはずだからな。だが、彼女はそうしなかった。
俺があいつらを引きずって行こうとしたときにも、彼女は、俺についてこようとしなかった」
別人のように淡々と語るライオスの言葉を聴いているうちに、衝撃は徐々に抜け落ち、理解が浸透してきた。
「試した……?」
先ほどライオスが口にしていた言葉を、かすれた声で繰り返す。
「なぜ?」
問うたカルキノスを見下ろすライオスの表情が、ひどく真剣なものになった。
「お前に、任せたい仕事があるからだ」




