それぞれのしごと
「私に触らないで」
女の声が、冷たく固い口調でそう言い切るのが聞こえた。
「見れば分かるでしょう? 私は仕事中。
飲み物を届けに行くところなの。見回りの子供たちにね。
あなたたちに構っているひまなんてないわ」
「まあ、そう慌てることないだろ。少しくらい遅れたって、大したことない」
「あんたのこと、よく見かけるぜ。『壁』の中に住んでるだろ。いつも、ここを通る」
(絡んでるほうは、二人いたのか……!)
天幕から半分、這い出したところで、カルキノスは大きく顔をしかめた。
若い男だ。声の調子で分かる。
若くしなやかな自分に絶対の自信を持っている、浮ついた、アテナイの広場にもよくいた手合いだ。
スパルタには、こういう若者は少ない。
稀にいても、年長の者たちに絞めあげられて、たちまちおとなしくなる。
(どうする)
出ていって、急に話しかけ、この顔を見せ、相手の気勢を殺いでいるあいだに女性を逃がすというのが当初の作戦だった。
だが、相手が二人、しかもこの手合いとなると、思っていた作戦が通用するかどうかは疑問だ。
(ライオスさんを呼ぶか?)
あの陽気な、しかしどこか冷ややかな表情が脳裏によみがえった。
『壁』の外のまとめ役。
治安の維持も担当しているのなら、こういった揉め事の仲裁は、彼の領分だろう。
だが、ライオスのいる小屋にたどり着くためには、ここから、揉め事の起きているまさにその道を突っ切って通らなくてはならない。
仮に通ることができたとしても、こんなごちゃごちゃした場所で、案内もなしに、もう一度あの小屋までたどり着くことができるだろうか。
たどり着くことができたとして、もしも、ライオスが留守だったら?
一瞬、このまま引っ込もうかと思った。
まだ、女性も、二人の男たちも、こちらには気づいていないようだ。
無茶をしてはいけない。
ここでは、自分は、ただの新入りの逃亡奴隷の一人。
輝けるアポロン神により招かれた男、という看板は通用しないのだ。
下手をして若者たちを怒らせたら、殴り殺されるかもしれない――
「ちょっと、俺たちと散歩でもしようぜ」
「俺たちにも何か飲ませてくれよ……」
「やめなさいよ。離して! 離せ!」
「……ちょいと、旦那方」
カルキノスは、しわがれた声で、囁くように呼びかけた。
背中を丸め、いつもよりも大げさに足を引きずりながら、ひょこひょこと近づいていった。
「まあ、およしなさいよ、そのへんで。ねえ?」
三人――絡まれていた女性と、男二人が、いっせいにこちらを見た。
「……何だ、てめえは?」
若者の一人が、完璧な威嚇の調子で唸った。
「ゴミ虫が。すっ込んでろ!」
もう一人も言った。
古い物語に出てくる悪役みたいな奴らだ。
「いや、いや、旦那方……そう、事を荒立てないほうがいい。ライオスさんの耳にでも入ったら、どうするんです?」
「ライオスさん、だぁ?」
「あいつかよ。何だか調子こいてやがったが、あんな野郎、大したことねえ」
(うわ)
あの、背筋がぞっと冷えてゆくような眼差しを思い返し、カルキノスは思わず周囲に視線を走らせた。
こいつらには、分からなかったのだろうか。
あの目。
スパルタの戦士たちと同じ目だ。
目的のためならば、人を殺すことを何とも思わない人間の目。
「俺たちが、あいつの名前なんかでびびると思ってんのか、カス野郎」
「あいつ、気に食わねえ。自分は『壁』の内側と繋がってるからって、威張りくさりやがってよお!」
(『壁』の、内側――)
そこに、アリストメネスもいるのか。
ライオスは、何かを知っているのだろうか。
一瞬、飛んだ思考を、目の前の状況に引き戻す。
ライオスの名前が通じないとなれば、こいつらを引き下がらせるには、何を言えばいいか――
「いや、いや、旦那方……そう息まくのはいいが、その女に手をつけたら、厄介なことになりますぜ?」
「あぁん?」
「おい、もっぺん言ってみろや、おお?」
若者たちは女性から離れ、こちらに向かってきた。
一人が乱暴にカルキノスの頭に手をかけ、髪ごとむしり取るような勢いで、頭巾を引き剥がす。
あらわになったカルキノスの容貌を目にした瞬間、若者たちの表情が凍った。
頭巾を掴んでいたほうなどは、つかんでいた手を離し、一歩下がった。
「その女はねえ……うちの旦那の、これでして」
できるだけ下卑た薄笑いを浮かべ、下卑た手つきをしてみせながら、カルキノスは言った。
「あっしは、まあ……この女の、そう、目付役みてえなもんでして。
これが、まあ、見かけと違って、ひでえ女で。
ずっと前にも、ちょっと目を離したすきに、間違いが起きちまって……このざまですわ」
言いながら、今はもうない鼻のあたりを撫でるような手つきをしてみせる。
「まあ、ね。相手の男のほうは、これよりももっと、ひでえことになっちまいましたけどね。
あっしは、見張りを怠ったっていうんで、このざまになっちまったが……
ちょん切られるのが鼻で済んで、まだ良かったってもんですわ」
そこでたっぷりと間をとり、意味ありげに頷きながら、若者たちに目配せをした。
「……やだ……ちょっと!」
若者たちが目を見合わせたところで、女性が、急に金切り声を上げた。
せっかく注意をひきつけて時間を稼いでいるのに、いつまでも逃げずにとどまっているから、どういうつもりかと思っていたのだが。
彼女は、カルキノスを指さし、叫んだ。
「あんた、あいつが使ってた犬野郎じゃない! こんなところまで、私を追ってきたっていうの!?」
(頭のいい女性だ)
カルキノスの意図を完璧に察し、調子を合わせて、芝居をしている。
ひひひひ、と我ながら気味の悪い笑い声を上げながら、カルキノスはじりじりと女性に近づいていった。
「ちょっと……寄らないでよ! 最低! ウジ虫野郎!」
「そう言われましても、これが、あっしの仕事なんで。
やっと見つけましたよ。さあ、旦那のところへ帰りましょう」
「触らないで!」
カルキノスに片手を掴まれて、女性は鋭く叫び、後ずさろうとした。
その目が左右に動き、若者たちを見た。
「ちょっと、あんたたち! 何を木偶の坊みたいに、ぼーっと突っ立って見てるの!?
この際だわ、あんたたち、こいつをやっちまってよ! それで、私を連れていって!」
若者たちは、もう一度、目を見合わせた。
確かに、いい女だ。
だが、きなくさい旦那とやらを敵に回してまで、手を出すほどのことはない。
そんな会話さえも聞こえてきそうな表情で目配せを送り合い、揃って背を向け、立ち去ろうとする。
「ちょっと!? 何よ、急に、手のひら返して――」
女性がそこまで喚いたとき、若者たちの足が、ぴたりと止まった。
(まずい)
カルキノスの心臓が、どくりと波打った。
せっかく、芝居が功を奏して追い払うことができたと思ったのに。
今の言葉の何が、若者たちの気に障ったのか――
だが、若者たちは、女性とカルキノスのほうを振り返ることはなかった。
「おう、おう……」
若者たちの踵が、じりりと下がる。
その向こうに、太い腕を組んで立ちはだかる、ライオスの姿があった。
「いいね、いいね、若いねえ。
分かるよ。若者の目には、おっさんって存在は、ことごとく調子こいてるように見えるもんだよなあ」
組んでいた腕をゆっくりと解くライオスの表情は、笑っている。
だが、目は笑っていなかった。
次の瞬間、何がどうなったのか全く分からないうちに、若者の一人が地面に倒れて悲鳴を上げた。
「だからねえ……おっさんは、実力見せちゃうよ。
ガキごときになめられてたんじゃ、仕事にならねえからな」
もう一人の若者も、逃げ出そうとしたようだったが間に合わなかった。
凄まじい足払いが、一瞬で若者の足首を砕く。
揃って地面に転がり、痛みと恐怖に喚く若者たちを、ライオスは容赦なく蹴り転がし、踏みつけた。
「おっさんにもさ、面子ってもんがあるわけよ。それを潰されちゃ、黙ってられない。分かるかなあ。ああ? 聞こえねえよ」
「ライオスさん……!」
若者たちの呻きに、胃液で噎せる音が混じりはじめたところで、カルキノスはライオスの腕を掴み、縋りつくような姿勢で引っ張った。
「どうか、もう、そのへんで……! 死んじゃいますから!」
「馬鹿も、死んだら直るかもしれねえ」
明らかに笑っている声で、ライオスはそう呟いた。
だが、その顔がカルキノスのほうを向いたときには、すでに表情から鬼気は抜け落ちていた。
「よっ。勇者は戦場で巡り合う、ってやつだな」
倒れた相手の腹に、とどめとばかりに爪先を打ち込んでから、ライオスは、完全にこちらに向き直る。
「いいね。逃げ出す度胸だけじゃなく、戦う度胸もあるってわけか。それでこそ男だな」
「どうも……」
ライオスの目にまっすぐに見据えられ、やや気圧されるのを感じながらも、カルキノスは答えた。
「でも、どうして、このことが?」
「俺は『壁』の外のまとめ役だからな。いろいろと、御注進に及んでくれる人たちがいるわけよ」
住民たちの密かな連絡によって、この騒ぎは、速やかにライオスの耳まで届いていたということか。
自分の他に、女性を助けようと動く者は誰ひとりいないのかと考えていたが、それは、思い違いだったようだ。
「初めに面を見たときから、どうも浮ついた連中だと思ったんだよ。
釘は刺しといたんだがなあ。十日と経たずにこれかよ。……おーい!」
返事もできない様子の若者たちを片手に一人ずつ引きずり起こして、
「いいかー、次は殺す。絶対に殺す。よーく、覚えとけよー?」
それぞれの耳元に大声で言い、ライオスは、そのまま彼らをどこかへ引きずっていこうとした。
「どこへ、行くんですか!?」
「うん、こいつら、そこらへんに捨ててくるわ。ここじゃ、皆さんの通行の邪魔だろ?」
「……あの!」
まだいた女性が、ライオスに話しかけた。
ぼこぼこにした若者二人を両手にぶら下げた男に話しかけるとは。
先ほども思ったが、勇気のある女性だ。
蛮勇、と呼んだ方が適切かもしれないが。
「ライオスさん……ですね? お噂は、かねがね。助けてくださって、ありがとうございました」
「ええと、あなたは、コメタスさんの奥さんですよね。前から思ってましたけど、すごく美人ですね」
息をするように自然に、誉め言葉をさしはさんでおいて、
「こういう馬鹿がいるんで、あなたのような美人は、あんまり外を出歩かないほうがいいです。俺が、いつでも駆け付けられるとは限りませんから。
でも、何か困ったことがあったら、いつでも、このライオスまで御相談ください」
自分の売り込みまで、さらりと付け足し、片目をつぶってみせる。
そうしてライオスは、若者二人をずだ袋のように引きずり、去っていった。
(何はともあれ、よかった……)
完全においしいところを持っていかれた感はあるが、そんなことはどうでもいい。
あの若者たちの様子からして、中途半端に追い払っただけでは、後々厄介なことになっていただろう。
仕返しなど考える気力も消し飛ぶほど、徹底的に叩く。
ライオスのやり方は、恐ろしいが、確かに合理的ではあった。
スパルタ人も、同じように考える――
「ねえ」
不意に呼びかけられて、カルキノスは、目をぱちぱちさせた。
あの女性が、すぐ側に立っている。
そう若くはないが、本当に、美人だった。
大きな目、波打つ豊かな黒髪。
「あなた、すごく頭がいいのね」
長いまつげに縁取られた二つの目を思わず見つめ返して、カルキノスは、不意に自分が頭巾をかぶり直し忘れていることに気付いた。
慌てて顔を隠そうとすると、女性は、その動作を押しとどめた。
「隠すことなんてない。あなたは勇敢だったわ。お名前は?」
「……アイトーン」
カルキノスが答えると、女性は微笑んだ。
目尻が下がり、ひどく魅惑的な表情になった。
「いい名前ね。私は、ヘリオドラ。助けてくれてありがとう」
* * *
「むんッ!」
気合いと共に繰り出した拳が、脇腹にまともにめり込んだ。
呻き声ひとつ残してよろめき、地面に沈んだ相手をまたぎ越して、グラウコスはばしんと両手を打ち合わせる。
「次! 来いッ!」
「おおうっ!」
拳に革を巻きつけて控えていた次の若者が、吠えて進み出てきた。
頭を細かく左右に揺らし、目を見開いてこちらの出方をうかがっている。
「シュッ」
鋭い呼気と共に繰り出された打撃を、グラウコスは最小限の動きでかわした。
続けざまに、拳が打ち込まれてくる。
悪くはない。
だが、気が逸りすぎているのだろう、動きに正確さがなかった。
グラウコスは全ての拳を瞬時に見切り、あるいはかわし、あるいは肘で、あるいは腹筋を固めて確実に受けてゆく。
「守りを忘れとるぞッ!」
一喝し、ぎょっとした相手の顔面に一発見舞った。
ばっと鼻血が散り、一歩、後ろによろめいた若者は、一呼吸するほどのあいだ踏みとどまっていたが、そのままの姿勢で、真後ろに引っくり返った。
「次ッ! ……って、もう、三周したか。小休止だッ!」
「頭が、吹っ飛んだかと思いました……」
自分の側頭部に手を当て、ごきごきと首を倒しながら、鼻血を噴いた若者が起き上がってくる。
体の前面が真っ赤に染まっていたが、気にも留めていない。
この程度は、よくあることだからだ。
「くそっ。なんで三回もやって、一度もグラウコス様を倒せないんだろうな」
「いや、合計、三十回だぜ……」
ぼやく若者の周りに、仲間たちも集まってくる。
全員が、どこかしらぼろぼろになっていた。
彼らは同じ兵舎に入ったばかりの新兵たちで、グラウコスによる拳闘の特訓を受けていたのだ。
「馬鹿たれいッ! 三回が三十回、三百回でも同じだッ。
俺は、貴様らに戦い方を叩き込むためにここにいる。
貴様らの誰か一人でも、俺を地面に叩きつけたら、その日から、この役は交替だッ」
居並ぶ若者たちは、顔面を腫らしながらも目を見交わし、どこか不敵に頷き合った。
いつかやってやろうぜ、という闘志の表明だ。
(こいつらも、いい面構えになってきた)
腕組みをして彼らの様子を眺めながら、グラウコスは内心で呟いた。
指揮官を、尊敬はするが、恐れはしない。
この世の何ものに対しても、恐れることなく挑む男たち。
スパルタの戦士を、自分は育てているのだ――
「ん?」
感慨にふけっていたグラウコスだが、その時になって、眉を寄せた。
若者たちの視線が、不意にグラウコスを通り越し、一斉に、彼の肩越しに何かを見たのだ。
(何だ?)
すぐに背後を振り返ることは、しない。
視線の動きでこちらを狼狽させ、隙をついて襲いかかる策かもしれないからだ。
グラウコスはすばやく体をさばき、若者たちに背を向けないようにしながら、鋭い視線を背後に投げ――
(げッ)
若者たちが見ていたものの正体を知って、顔を引きつらせた。
「おい、貴様らッ! そのへんの茂みに伏せろ! 奴に見つかったら――」
「いないな、いないなー。おかしいな! ……あっ、グラグラがいた!」
もう見つかってしまった。
もちろん、その正体はアクシネだ。
「くそッ、この忙しいときに! ……仕方がない、今日はここまでだ。水場で体を洗っておけッ」
全身、砂と血にまみれた若者たちにそう指示を出すと、グラウコスはできるかぎり不機嫌そうな表情をこしらえてアクシネを待ち受けた。
「グラグラー。げんき?」
もちろん、アクシネに、そんなものは毛ほどにも通じなかったが。
彼女はその手に、大事そうに笛を握りしめていた。
「お前ッ……また、師匠のところから脱走しとるのかッ?」
「ししょー? ……あ、ちがうちがう。いまは、けいこが、おやすみ!」
笛は、ただ持っているだけだった。
よほど気に入っているらしい。
「だから、わたし、いえにかえった。そしたら、いない! いない! いないなー」
「いないって……誰がだ?」
「テオン」
即答し、アクシネは、ぐるりと全身を回転させて周囲を見回した。
「テオンがいないなー。おかしい! おかしいなあ」
「……ああ、あの、奴隷のじじいか」
彼女が誰のことを言っているのか、やや遅れて理解し、グラウコスは首を傾げた。
「広場で買い物でもしとるんじゃないのか?」
「ううん! わたし、ぜんぶみてきた。いなかった!
それに、テオン、どっかいくときは、ぜったい、わたしにいう」
アクシネの言葉を聞き、グラウコスは難しい顔になった。
主人の留守中に、不心得な奴隷が逃げ出すというのは、珍しいことではない。
だが、あの歳とった奴隷の忠実な働きぶりは、グラウコスも知っている。
ナルテークスが死に、カルキノスが旅立ったからといって、あの奴隷が、アクシネをおいて家から逃げ出すなどということがあるのだろうか?
「どうしたのかな、どうしたのかな。テオン、また、がけからおちてる?」
「……崖から?」
何のことだ、という顔をしたグラウコスには構わず、アクシネは、今ふと気付いたというように、その場に整列したままだった若者たちを見回した。
体を洗いに行けという指示が出されたにも関わらず、彼らもアクシネの動きが気になったらしく、立ち去りかねていたのだ。
アクシネとまともに目が合って、彼らも、一瞬怯んだように見えた――彼女がピュラキダスの額を斧で割ったという噂は、若者たちのあいだにも速やかに広がっている――が、もちろん、グラウコスの見ている前で、後ずさるような真似はしない。
アクシネが急にすごい勢いで寄ってきて、持っている笛が突き刺さりそうな至近距離からじろじろと見てきても、わずかに上体を反らせるだけで、踏みとどまった。
「なに?」
何をしているのか、ということだろう。
若者たちの訓練の様子など、珍しくも何ともないはずだった。
それにも関わらず、アクシネがわざわざ尋ねたのは、この場に漂う、いつもとは違う空気を敏感に読みとったからもしれない。
「訓練だ」
自分自身も姿勢を正しながら、グラウコスは言った。
「もうすぐ……おそらくは三日後、俺たちは、メッセニアに向かって出発する。
できる限り、ヘイラ山の近くまで迫っておき、カルキノスからの合図があり次第、すぐに突入できるように、万全の準備を整える!」
「わたしもいくぞー!」
「お前は残れ」
即座に叫んだアクシネに、同じくらい即座に、グラウコスが言い放つ。
「え。なんで?」
アクシネは、わけがわからない、という顔をした。
「わたし、しごとがある。わたし、ふえをふく! そして、みんなあるいていく。グラグラもあるいていく! ほら、きいて!」
グラウコスの返事を待たず、アクシネは手にしていた笛を咥えた。
するとたちまち、大気を震わせ、心までも奮わせるような勇壮な調べが流れ出した。
並んだ若者たちが、思わず知らずに指先で腿を打ち、爪先で地面を打って拍子を取り始める。
スパルタの戦士たちが戦場で前進するときに吹奏される、伝統的な曲だった。
最近、弟子入りしたばかりとは思えないほどの、見事な腕前だ。
「ああ、じょうず、じょうず!」
一曲吹き終えると、笛をわきにはさんで嬉しそうに自分で手を叩き、アクシネは言った。
「えらい、えらい! わたしは、とってもえらいなあ!」
観客たちの感想は、一切求めない。
グラウコスは、渋い顔になった。
「確かに、上達しとるようだが……だめだ! 戦場に同行するなど、俺が許さんからな」
「え! グラグラ、ゆるさないのかー。でも、わたしはいく。わあ、たいへん!」
「自分で言うなッ!」
グラウコスは、両手をわななかせて叫んだ。
「お前は、分かっていないだろうが、戦場では、大勢が死ぬんだぞッ! お前も、死ぬかもしれんのだ! 考えてもみろ、カルキノスが戻ったとき、お前が無事でいなければ、何の意味もないだろうがッ!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶー!」
「それは何が一体どう大丈夫なんだッ!?」
頭の血管が弾け飛びそうな剣幕で怒鳴っておいて、グラウコスは、すうううっ、と息を吸い込み、長く時間をかけて吐き出した。
駄目だ。アクシネの調子に巻き込まれてはいけない。
いったん、落ち着いて、よく言い聞かせよう。
「アクシネ、いいか、よく聞け。お前は、体を大事にしなきゃならん」
「なんで?」
「なんでって……お前は、結婚したばかりだ。な、分かるだろう?」
「なにが?」
「何がって、だから……子供ができとるかもしれんだろうがッ!」
「こどもができとる!?」
アクシネは目を見開き、あたりをきょろきょろと見回した。
その視線は主に地面に向いているような気がしたが、グラウコスは、力技で見なかったことにした。
「こども、こども、こども……どこに?」
「そこにだッ!」
とうとう再び怒鳴りつけて、グラウコスはまっすぐにアクシネの腹を指さした。
「ええええええっ!?」
アクシネは悲鳴を上げ、衣のすそを掴んで、がばっとまくり上げた。
「うおおおおッ!?」
グラウコスは慌てふためいて横を向き、もう少しで首の筋を違えそうになった。
「あ! よかった、だいじょうぶだ! だれもいなかった。ほらあ」
「もう帰れ、お前はッ!」
腹筋がくっきりと浮き出た平らな腹をぽんぽんと叩いて笑うアクシネに、明後日の方向を向いたままで、グラウコス。
そこでふと、ずらりと並んだ若者たちが食い入るように目を見開いてアクシネを見つめているのに気づき、
「ぬわにをじろじろと見とるんだ貴様らッ!? とっとと、体を洗いに行けいッ」
ばしばしと彼らの腕や肩を殴りつけて追い払いながら、怒鳴った。
「アクシネ、お前も帰らんかッ! 女が戦場に出るなど、だめだ、だめだッ!」
「いやだ! わたしは、しごとをするんだ!」
笛が真っ二つに折れそうな勢いでぶんぶんと振り回し、アクシネが叫ぶ。
「おまえも、しごとする! わたしも、しごとする! カルキノスも、しごとする! みんないっしょ! しごと、しごと、しごとー!」
「人の話を聞けェェェ!」




