嘘と、真と
ひとしきり笑って気がすんだのか、男たちは満足げに唸りながら散りはじめ、広場は急に風通しが良くなった。
痛む尻をさすりたいが、さすっても痛いために、それもできない。
若者が中途半端な腰の角度で立ち尽くしていると、
「おい!」
急に、声をかけてきた者がいる。
「カルキノスッ!」
「誰がだっ!?」
反射的に怒鳴り返した若者だが、相手の姿を見たとたんに絶句した。
まず目に飛びこんできたのは、丸太のように太く、いくつもの傷痕が走った二の腕だ。
それから、まるで獅子のたてがみのような、茶色がかった長髪。
両眼と鼻の穴を広げてにらみつけてくる顔は、こちらとほぼ同年代と見えたが、顎と同じ幅がある首といい、つりあがった濃い眉といい、とどめには左頬に大きく走る傷痕といい、とにかく厳つさが尋常ではない。
しかもよく見れば、こいつこそ、最初に蟹呼ばわりしてきた元凶の男ではないか。
「俺の名はグラウコス」
傲岸に組んでいた腕をほどき、やたら太い指先をこちらに突きつけて、男は怒鳴った。
「カルキノスよ! 貴様、俺と勝負しろッ!」
「なんでっ!?」
カルキノス――もう、そう呼ばれることになった――は、呼び名についての苦情を述べるのも忘れて叫んだ。
冗談ではない。
こんな男に一発でもぶん殴られたら、頭蓋骨がぺしゃんこになってしまう。
「なんで、だと!?」
グラウコスは目をくわっと見開き、いきなりカルキノスの胸倉を引っつかんで、ぐいぐいと締めあげてきた。
「貴様! この俺を、馬鹿にしているのかッ!?」
「じじじ……じでない、じでない!」
カルキノスはばたばたともがき、何とかグラウコスの手から逃れようとした。
「みみみ、見れば、わかるだろ!? あんたの腕の太さ、俺の三倍くらいあるじゃないか! まともな勝負にならないことが最初っから見えてるのに、なにが悲しくて、そんな危ない勝負に乗らなきゃならないんだ!?」
渾身の主張だったが、内容はとても情けなかった。
いや、情けなくてもいい。
この世の光の下に生まれて、もっとも大切すべきもの――それは、命である。
本物の詩人になるという望みをかなえる前に、筋肉男に頭を割られて死ぬわけにはいかない。
それを聞いたグラウコスのこめかみに、くっきりと青筋が浮きあがった。
「逃げるのか!? ……臆病者! 貴様、それでも男かあッ!」
『臆病者』――
それは、スパルタの自由民の男ならば絶対に看過できない、してはならない、最大級の罵り言葉であった。
「いやいやいやいや、無理! あんたみたいなのと殴りあうなんて、本気で無理だから! 俺、レスリングも拳闘も、ほんとにだめで……うん、無理、不可能! 遠慮させていただきます!」
生まれも育ちもアテナイ市のカルキノスには、そんな感覚はない。
ぶんぶんと手を振り、頭をのけぞらせてもがいた。
「もう、あれだ、ほら、不戦勝……ね!? あんたの不戦勝でいいから放して……あぎゃあっ!?」
グラウコスの手が急に放され、勢いあまって引っくり返ったカルキノスは、地面にしたたか尻を打ちつけ、痛みのあまり転げ回った。
しばし悶絶したところで、ふと顔を上げて見ると、
「えっ」
つい先ほどまでこちらの胸倉を掴んでいたグラウコスが、なぜか急に地面に突っ伏している。
しかも、その体が、小さく震えているではないか。
(……神罰?)
自分は、一撃たりとも加えていない。
これほど厳つい男に、いったい何が、ここまでの打撃を与えたのか?
不思議に思っていると、グラウコスはがばっと身を起こし、両腕を天に差し上げた。
「斜めの君、アポロン神よ!」
彼は、泣いていた。
「御身は、スパルタを見放したもうたのか……! 御身は何故、この難局にあって、このように塵ほどの役にも立たぬ臆病者を我らのもとによこされたのか!? 何故……おおおおぉ」
「………………」
失礼極まりない言いようだ。
無礼さを通り越して、こちらの方が申しわけない気分になってくるほどの嘆きようである。
まだ近くにばらばらと居残っていたスパルタの男たちが、そろって深い溜息をつき、こちらに冷ややかな視線を送ってきた。
(何だよ……泣きたいのは、こっちの方だ! 来てみたら全然話が違うし、だいたい、そういう大事なことは最初にはっきり伝えておけよなあ! 呼ばれてるのが将軍だなんて知ってたら、そもそも来なかったっつうの! ……あれ?)
『民会で、スパルタからの使者が、何と言ったかというとな。……聞いて、おどろくなよ。デルフォイにおわす遠矢射る神が、おまえを、スパルタに呼んでおられるというのだ!』
『そこでだ。わしには、このように思えた。アポロン神が、おまえをスパルタに呼んでおられるというのは、もしや、おまえのたぐいまれな詩の才能を評価なさってのことではないのか? とな……』
父は、確かにそう言っていた。
それでは……あれは、嘘だったのだ。
スパルタ人たちの言葉の簡潔明瞭なことは、よく知られている。
使者たちは『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』という神託の言葉を、アテナイの民会でも、一言一句そのままに伝えたはずだ。
それを、父親が、自分に曲げて伝えたのである。
そうとしか考えられない。
(考えてみれば、普通は、旅をするのに真夜中の出発なんて有り得ない……使者たちの気が変わらないうちに、というのと、アポロニオスに見つからないように、ということだと思っていたが……本当は、俺が他の人々と言葉を交わして、事情を知ることがないように……?)
アポロニオスの父親は裕福な商人で、アテナイ市では、かなりの発言力を持っている。
もしかしたら――そこから、何らかの圧力がかかっていたのではないか?
そこへ、ちょうどスパルタの使者たちがやってきた。
父親は、これ幸いと話をでっちあげ、家に厄介事をもたらしそうな息子を、遠いスパルタへ追い払おうと考えたのではないか?
(嘘、だったんだ)
『おまえには、ちょっと他の者にはないほどの詩の才能がある。おまえの、詩人としての才能こそが、今のスパルタにとって必要であると、アポロン神はお考えになったのではないか?』
あの言葉は、全部、嘘だったのだ。
これまで無関心だと思っていた父が、本当は自分の詩作を認めてくれていたのだと感じて、嬉しかった。
それなのに、あれはみんな、自分を追い払うための嘘だったのだ――
「……おおおおおぉ!」
胸をかきむしり、涙をあふれさせながら、カルキノスもまた地面に突っ伏した。
周囲にいたスパルタの男たちは、泣き崩れるカルキノスを、ごみでも見るような目でしばらく眺め、興味を失ったようにばらばらと歩き去っていった。
「泣くなぁ! この、臆病者がぁ!」
自分もまだ泣きながら、グラウコスが再びカルキノスの胸倉を掴み、がくがくと揺さぶる。
「拳闘もだめ、レスリングもだめ、勇気もない……! 貴様、アテナイ人とはいえ、それでも男か!? そんなことで、なぜ、将軍を求める呼びかけに応じ、スパルタにやって来ようなどと思ったのだ!?」
将軍だなんて、知らなかった。
父親に、ていよく騙され、厄介払いされたのだ。
「おおおおぉ」
答えようとして、また哀しくなり、カルキノスは声をあげて泣いた。
そのときだ。
「そういえば」
急に、背後から、場違いなまでに冷静な声をかけてきた者がある。
振り向けば、そこに、カルキノスを連れてきた三人の戦士たちのうちの一人――金髪の男が立っていた。
すっかり意識から消えていたが、三人組は、まだロバと一緒にその場にたたずんでいた。
「カルキノスよ。おまえは、いったい、何ができるのだ?」
(え!? ……そこから!?)
カルキノスはあまりの衝撃に、涙と鼻水でべたべたになった顔を上げた。
もう、普通にカルキノス呼ばわりされているが、それどころではない。
「あんたたちが、俺を、連れてきたんだろ……!?」
彼らは、どんな能力があるかも分からぬ男を、故郷を救うための将軍として連れ帰ってきたというのか?
そういえば、スパルタまでの道中、会話らしき会話はほとんどなかった。
ときどき、会話の糸口にでもなればと、それとなく詩歌の断片を口ずさんでみたり、竪琴の包みをほどいては包み直してみたり、もっと直接的に「詩歌女神」だの「新作の構想」だのといった単語を発してみたりもしたのだが、その効果もまったくなかった。
彼らは、カルキノスの能力や人となりに対して、一切の興味を示さなかったのだ。
「その通りだ」
金髪の男は、あいかわらず落ちつきはらった目つきと口調で言った。
「だが、私は、おまえをスパルタに連れ帰ることを良しとされたアポロン神のお告げに従ったまでのこと。おまえがどんな男かなど、知らん」
「うわあ」
鼻水をすすりながら、カルキノスは思わず天を仰いだ。
輝けるアポロン神にあらゆる決断を委ね、一切の私見をはさまない。
敬虔といえば敬虔の極みだが、ある意味、神に全責任を丸投げしているということではないのか。
さすがに少しは、自分の頭で判断するということをしたほうがいい気がする。
「で、おまえは、何ができるのだ?」
「竪琴と……詩だ」
金髪の男に問われて、カルキノスは、立ち上がった。
頬の涙をぬぐい、鼻と顎の下を拭いて、できるかぎり胸を張った。
「俺は、詩人だ!」
自分自身を「詩人」であると人前で名乗ったのは、これが生まれて初めてだった。
その言葉を口にしたとたん、不意に、萎え果てていた心に風が吹き込まれ、自分自身がほんの少しふくらんだような気がした。
そうだ。詩人だ。
父親に認められなくとも、誰が何と言おうとも、俺は詩人だ。
そうなると、この心に決めたのだ。
「詩人だと?」
こちらも立ち上がってきたグラウコスが、目を見開く。
目玉が転げ落ちるのではないかと心配になるような形相だ。
そして、
「……何だと?」
やけに遠くからも、反応する声があった。
「聞いたか? 今、あの男、詩人だと言ったぞ」
「詩人だと?」
「おい、聞いたか、奴は詩人だそうだ」
「なに、詩人? 本当か?」
まるで、急に何かのまじないでも効き始めたかのようだった。
いったんは興味を失って散っていった男たちが、再び、カルキノスのところへと集まりはじめたではないか。
(本当だった……!)
『わしの聞くところによれば、スパルタの人々は、脳みそまで筋肉でできているが、歌と踊りを好むことは非常なものがあるという……』
父親の、この言葉だけは、確かに本当だった。
男たちは、また元のようにカルキノスを取り囲むと、じっと彼を見つめた。
先ほどまでの、にらみつけるような視線とは違う。
まるで、初めて文字を習いに来た子供らが先生を見つめるような、まじめな目つきだ。
(すごい)
アテナイでも、広場で、辻で、酒場で、竪琴を弾きながら歌ったことは何度もあった。
それなりに人は集まり、足を止めて聴いていってくれたものだが、これほどまでの真剣さで自分の吟唱を聴くために男たちが集まってきたという経験は、これまでにない。
(これは、好機だ!)
先ほど自分を馬鹿にしてきた筋肉男どもに、能力を見せつける絶好の機会だ。
この世には、筋肉などでは決して打ち負かすことのできぬ偉大な力があることを教えてやらねば。
カルキノスは興奮し、ロバにくくりつけていた竪琴の包みをおろしてほどく指も、思わず震えた。
武者震いというものである。
(動け、動けよ、俺の指……! すみれの髪の詩歌女神たちよ、俺が、あなたがたの車を駆るにふさわしい者でありますように!)
「君たちは、いったいどんな詩を好むのかな?」
スパルタ人たちの前で行う最初の吟唱だ。
この印象で、全てが決まる。
外すわけにはいかない。
今にも飛び上がって走り出しそうなほどに心は逸っていたが、深く息をついて、平静な調子を保つ。
自分の指を優しくつかんであたためながら、カルキノスは男たちを見回し、にっこりと笑った。
「何でも、君たちの好きな詩を聞かせよう!」