あの日の歌
小屋の中は薄暗く、ほとんど物が置かれていないようだった。
奥に、男が一人、座っている。
頭巾をかぶり、顔を伏せたままでは、それ以上のことは見えなかった。
「ライオスさん、こんにちは」
ミノンが、しゃんと背筋を伸ばして言った。
声が緊張している。
「新顔の逃亡奴隷です。ふもと近くで倒れていました。連れて、ご挨拶に来ました」
「新顔ね! よしよし」
酔っているのだろうか、と思うほどの調子の良さで、男が答える。
「男か、女か?」
「男です」
「……なあんだ」
ミノンの返答に、ライオスという名の男は、あからさまにがっかりした調子で言った。
「そうかい。へえ。ふうん。……まあ、いいや。とにかく、面見せな」
言われて、カルキノスは、わざとしばらくためらう様子を見せた。
「おい」
ライオスという男が何か言い出す前に、斜め後ろから、ドリダスが軽く二の腕を小突いてくる。
「早くしろって。ライオスさんは、お忙しいんだ」
あまりお忙しいようにも思えなかったが、ドリダスの声が真剣だったので、従っておくことにする。
カルキノスは、いかにも気が進まないというように、のろのろと頭巾を上げた。
天幕の奥に敷いた鹿皮の上に座った、金髪の若者の姿が見えた。
いや、一目見て若者だと思ったのは、溌剌とした雰囲気がそう思わせただけで、実際は、もう少し歳がいっているようだ。
カルキノスよりも、だいぶ歳上かもしれない。
だが、腕も脚も太く、筋肉に張りがある。
特に肩のあたりの逞しさは、振るう武器の威力を容易に想像させた。
スパルタでさえも一目置かれるであろう、戦士の体格だ。
「どうも、ひどい面だね、こりゃ」
特に衝撃も感銘も受けた様子はなく、ライオスはそう言って、じっとカルキノスに視線を注いだ。
その口元は、薄く微笑んでいたが、目は笑っていないように見えた。
「お前さん、出身は?」
「ラコニアの、テラプネです」
「出身だよ?」
「えっ……テラプネです。そこで、生まれ育ったんです」
「ああ、なるほど」
ライオスは軽やかな調子で言い、大きく頷いた。
その視線は、カルキノスの顔から離れない。
「俺、知ってるわ、テラプネ。昔、通りかかったことがある。エウロタス川のほとりだよな」
「ええ……」
カルキノスは、心臓が大きく波打ちはじめるのを感じた。
呼吸まで速く、浅くなってくる。
(いけない)
こんな反応を見せては、怪しまれる。
別に、問い詰められているというわけではない。
だが、ライオスという男の口調には、どこかカルキノスを不安にさせるものがあった。
快活で友好的だが、その一枚下に、どこか、ぴりりと張り詰めたようなものを感じる。
「確か、テラプネの近所に、アポロン神の神域があったよなあ? 立派なもんだ、あそこの神殿は」
「……アポロン神の?」
カルキノスは、小さく首を傾げてみせた。
「近くにあるのは……ポセイドン神の、神域でしたが」
落ち着け、落ち着け、大丈夫だ。
テラプネから来たと名乗ることにしたのは、そこなら、実際に何度も足を運んだことがあるからだ。
行ったこともない場所について、でたらめに話せば、その土地に詳しい人間と出会ったとき、すぐに見抜かれてしまう。
だから、この目で見、この脚で歩いた町を選んだ。
落ち着いて、思い出せ。大丈夫だ。
必ず、うまく切り抜けられる。
「あれ、そうだったっけか? 昔のことなもんで、忘れちまったな」
ライオスは、頭を掻きながら笑った。
「で、お前さん、逃げ出してきたんだな?」
「はい。スパルタ人の家で、奴隷として使われていたんですが……身に覚えもないのに、家の中の品物を盗んだだろうと言われて、折檻を……このままでは、殺されると思い、逃げ出したんです」
「おお」
そこで初めて、ライオスは、カルキノスから視線を外した。
「そりゃ大変だったな。その鼻は、折檻されたときにかい?」
「いえ……一度、逃げ出そうとして、失敗して捕まったんです。それで、見せしめにと……」
「主人の名前は?」
音も気配もなく突き出される槍の穂先のように、出し抜けに違う質問が来る。
ここで、慌てたり、言葉に詰まればおしまいだ。
「……グラウコス」
問いかけられた言葉に、カルキノスは落ち着き払って答えた。
これも、尋ねられるかもしれないと予想していたことだ。
本当は、ピュラキダスの名を出そうと思っていた。
だが、ミノンとドリダスの話を聞いた時点で、替えた。
過去に、ヘイラへの潜入を試み、捕まって殺されたというスパルタ人たち。
彼らは、死ぬ前に、拷問に遭って、何らかの情報を吐かされたかもしれない。
もしかしたら、そこで、斥候の束ねであるピュラキダスの名が出ていたかもしれない。
ここで彼の名を出して、もしもライオスの興味をひいてしまったら、厄介なことになる。
「そうか。で、お前さんの名前は」
「アイトーン」
カルキノスは、迷いなく答えた。
ライオスの目が一瞬丸くなったかと思うと、弓のように細くなり、ぶわははははは、と彼は笑い出した。
「燃え上がるとは、けっこうな名前だねえ! 面は、めちゃくちゃ不景気そうなのになあ」
くくくくく、となおも腹をよじって笑い転げるのを、カルキノスは、困ったような表情でじっと見つめていた。
「いや、すまん。よし。アイトーンよ、お前さん、しばらくはこいつらの天幕に泊めてもらいな。
ミノン、ドリダス、場所はあるか?」
「はい、大丈夫です!」
ドリダスと顔を見合わせたミノンが、元気よく答える。
「よしよし。配給を、少しでも増やしてもらえるように、俺から言っておいてやるからな。
……ところで、アイトーンよ」
「はい?」
自分でも素晴らしいと思えるほどの反応速度で、声が出た。
「実はな、俺は、歌が好きなんだ。お前さん、何か歌えるかい?」
「えっ」
まさか、勘付かれているのか?
……いや、まさか。そんなはずはない。
「いえ。歌は、得意じゃありません」
「そうかい? じゃあ、ミノン、ドリダス、行くぞ!
新しい顔ぶれが加わったことを祝して、一曲披露といこうや。
それでは聴いてください、『メッセニアの陽気な男』」
「え!?」
カルキノスが目を丸くしているあいだに、ライオスはいきなり手拍子を打ちはじめ、調子よく歌いはじめた。
ミノンとドリダスも、手拍子を合わせ、声を合わせて歌い出す。
いかにも慣れた様子だ。
しょっちゅう、こういうことがあるのだろう。
歌詞は、メッセニア人の男が酒に酔い、次々と失敗をしでかすという、滑稽なものだった。
カルキノスも、思わず笑顔になった。
(歌というのは……やっぱり、いいものだな)
どんな場所にも、歌はあるのだ。
人の心を朗らかにし、力を吹き込んでくれる。
「たらららら、てれっらーん」
最後には竪琴を弾く手真似と口真似までつけて、ライオス。
カルキノスが拍手を送ると、ミノンとドリダスも嬉しそうに笑った。
「……はい、次は、お前さんの番」
「えっ?」
「上手や下手は関係ない。俺は、お前さんの歌も聴いてみたいね。
ガキの頃に聴いて育った子守歌があるだろう?
遊び歌でも、何でも構わない。そいつを一曲、歌ってくれよ」
カルキノスは、さっと血の気が引くのを感じた。
テラプネのあたりに伝わる子守歌など、知らない。
子供の頃に母たちから聴かされ、また歌っていたのは、アテナイに伝わる歌。
響きが違う。言葉が違う。
歌えば、すぐに、違和感に気付かれてしまうだろう。
戦いの歌、行進のための歌ならばそらで何曲でも歌うことができるが、あれらを歌うことは、奴隷には禁じられているはずだ。
「さあ」
ライオスが、小首を傾げて促した。
その目が、ぎらりと光ったような気がした。
カルキノスは、乾ききった唇を舐め、口を開いた。
「まわれよ紡錘よ 糸紡ぎ
ふわりの雲に 縒りかけて
きれいな糸を 紡ぎましょう
きれいな糸が 紡げたら
サフラン色に 染めあげて
あなたの衣を 織りましょう――」
ライオスが、おっ、というように口を動かした。
(グナタイナ……)
カルキノスは歌いながら、信じられないような気持ちでいた。
もう駄目だ、万事休すだ、と絶望しそうになったその時、あの日の場面が、神々の見せたもうあざやかな幻のように浮かび上がってきたのだ。
あの時を再現するように、口が動いた。
回る紡錘。それを手にして笑っているグナタイナ。
しゃがみ込んで鼻歌を歌いながら、紡錘をじっと見つめているアクシネ。
薪を割るアイトーン。
あの日の空、あの日の空気のにおいが、胸によみがえる――
二周目にさしかかろうとしたところで、喉が詰まった。
カルキノスは片手で顔を覆い、嗚咽した。
アイトーンも、グナタイナも、もういない。
「すみません」
涙を拭いながら呟いたカルキノスに、ライオスは、気にしなさんな、というように手を振った。
その表情が、初めて、やわらかく見えた。
「初めて聴く歌だ。……いい歌だな」
彼はそう言い、ミノンとドリダスのほうを向いた。
「じゃ、行ってよし。アイトーンを天幕に送ったら、お前らは、ちゃんと見回りに戻れよ。まだ、交替の時刻じゃないだろ」
「はい。それじゃ、失礼します!」
ミノンが勢いよく頷き、ドリダスが、良かったな、というようにカルキノスに目配せをした。
再びミノン、カルキノス、ドリダスの順で、狭い入口をくぐり、小屋を出ていく。
「アイトーン」
出がけにそう呼び止められ、カルキノスは反射的に立ち止まり、後ろから来たドリダスに押し出されそうになった。
振り返ると、じっとこちらを見ていたライオスが微笑み、首を振った。
「いや、いいんだ。またな」
小屋の中が薄暗かったために、外に出ると、空の青さがいっそう鮮やかに見えた。
「じゃあ、俺たちの天幕に案内してやるよ!」
さっそくカルキノスの片腕を担ぎ上げながら、ミノンが言った。
「さっきの歌、いい歌だったな。女の歌だったけどさ。……なんか、懐かしかった」
言いながらも、行き合う人々といちいち挨拶を交わすことを怠らない。
「ライオスさんは、いつも、ああやって聞くんだ」
ドリダスが言った。
「『ああやって』……?」
「そうさ。歌のことを聞くんだ。
昔聴いた子守歌や遊び歌なんかを、覚えてない奴なんかいないだろう?
すぐに答えられない奴は、怪しいんだ」
どきり、と心臓が鳴った。
「名前や、故郷は、いくらでも嘘がつけるけどさ。歌は、嘘がつけないからな!
頭いいだろ、ライオスさんは」
「本当だな……」
あらためて冷汗の流れる思いをしながら、カルキノスは相槌を打った。
激しい動悸を、少年たちに勘付かれるのではないかと心配になったほどだ。
(油断はできない)
あのライオスという男は、相当な切れ者だ。
小屋から出がけに、何気なく呼び止めてきたのも、今にして思えば、こちらを試すためだったに違いない。
その場で適当に名乗っただけの偽りの名前ならば、反応が遅れるはずだからだ。
(アイトーンと、グナタイナに、命を助けられた……)
彼に代わって、彼女に代わって、自分はここに来ているのだという思いがある。
彼らのためにも、成し遂げるのだ。
役目を果たして、スパルタに帰るのだ――
「ここが、俺たちの家だ」
ひとつの天幕――というよりも、三角錐になるように合わせてくくった細い木材に、葉のついた枝を重ねて葺いた代物――の前で、少年たちは立ち止まった。
「狭いところだけど、まあ仲良くやろうや」
「入って、しばらく休んでてくれ。俺たち、まだ見回りがあるからさ」
あっさりとそう言い残し、ミノンとドリダスは連れだって立ち去っていった。
カルキノスは、天幕の中にもぐりこみ、敷物も敷いていない地面に座り込んだ。
家具は、何ひとつない。
見ず知らずの男を残して、何の警戒もなく二人が去っていったのは、カルキノスを信用したということ以上に、盗まれるような品物がひとつもないからだろう。
(グラウコスが二人、体を丸めて横になったら、もういっぱいだな……)
何も置かれてないのに、思わずそんなことを考えるくらい、天幕の中は狭かった。
細身のカルキノスならば、うまく体を折り曲げれば、なんとか少年たちと一緒に眠ることはできそうだ。
(でも、長居は、できない)
彼らの厄介になるわけにはいかない。
それに、自分には、果たすべき使命がある。
(まずは、アリストメネスの生死を確かめることだ……)
そのためには、おそらく、『壁』の内側に行くことが必要になるだろう。
そこまで考えて、カルキノスは、大きなあくびをした。
同時、強烈な眠気を意識した。
体が重い。
ここまでの緊張と疲労が一気に噴き出し、ずっしりとのしかかってくる。
これからの動きを頭の中で整理しておこうと考えていたのだが、緊張の糸が切れて、もうまったく頭が回らなかった。
カルキノスは直接土の上に横たわって、自分の左腕を頭の下に敷き、目を閉じた。
ひどくむず痒くなってきた鼻の傷痕を、慎重に指先で掻く。
ひとつ、深く息を吐くと、彼はたちまち深い眠りに落ちていった。
夢もなく音もない、まったき闇のような眠りに。
どれくらいそうやって眠っていたのか、分からない。
何かが、カルキノスの意識を再び覚醒へと引き上げた。
(何だ……?)
体のあちこちが軋むように痛み、腕も足も鉛のように重いままだ。
眠気が強すぎて、すぐには目も開けられない。
じゅうぶんに休養して回復したというには程遠い状態だった。
この状態からおしはかるに、自分は、それほど長いあいだ眠っていたというわけではないらしい――
「ちょっと!」
遠くから、女の声が聞こえた。
(何だ?)
不安が、生存本能を刺激し、眠気が一瞬にして吹っ飛んだ。
誰かが、天幕の外で叫んでいる。
(気付かれた!?)
がばっと上体を起こし、耳を澄ました。
まさか、こちらの正体に気付かれてしまったのか?
天幕の外には、武器を手にしたメッセニア人たちがひしめいているのだろうか?
「何よ、あんたたち、通して! ……何のつもりよ!」
(あれ)
聞こえてくるのは、ひとりの女の声ばかりだ。
それに応えるように、誰かが――おそらくは男が――何か言う声がしたようだったが、聞きとれなかった。
「そこをどいて、通してちょうだい。私は……ちょっと!? 触らないで!」
(女性が、絡まれてる、のか)
騒ぎの原因が分かって、安堵すると同時に、カルキノスは困った。
誰かが助けに入ればいいのにと思ったが、どうも、そうなる気配はなかった。
この辺りにひしめいている住人たちが、騒ぎを聞きつけていないはずはないのだが、皆、揉め事と関わり合いになりたくないのだろう。
(俺も、そうするべきだ)
スパルタの将軍という立場で、逃亡奴隷といつわって、メッセニア人たちの本拠地に潜入しているのだ。
身を守る武器といっては、小さなナイフが一振りだけ。
それも、使いこなせるかどうかは極めて怪しい。
痣だらけで痛む全身と、きかない右脚。戦うことなど、とてもできない。
逃げることさえも難しいのだ。
自分が出ていく必要も、義理も、一切ない。
関わり合いにならないという選択肢が圧倒的に正しい。
どうせメッセニア人どうしの争いだ。
このまま、無視しておけばいいのだ――
『よくないなー』
そう、アクシネが言う声が、聞こえたような気がした。
だが、カルキノスはそれよりも早く立ち上がっていた。
深く頭巾をかぶり直し、身を屈めて、のそのそと天幕から這い出していった。




