風雲
昇ったばかりの太陽が放つ強い光の矢が四方に飛び、エウロタス川の水面を金色にきらめかせる。
グラウコスは一人、丘の上に立ち、その光景を見つめていた。
それから彼は視線を転じ、北西を向いた。
聳え立つタユゲトスの山々の遥か向こうに、ヘイラ山がある。
今、タユゲトスの峠を越えてそこへ向かおうとしているはずの男のことを思い、グラウコスは、ぐっと表情を引き締めた。
『まったく、信じられんッ!』
部隊の交替でベレミナの集落から戻ってみれば、カルキノスの鼻がなくなっていた。
聞けば、カルキノス自らが逃亡奴隷に化けて、ヘイラ山に潜入することにしたのだという。
『とかげの尾じゃないんだ。もう生えてもこないのに、鼻を削ぐなど、どうかしてるぞッ』
心に受けた衝撃を、それ以外にどうやって表してよいか分からず、グラウコスはカルキノスを怒鳴りつけた。
『生えてきたら、怖いな……』
カルキノスはそう言って笑うと、頭巾を深くかぶって、鼻のない顔を隠した。
『いいんだ。これくらいしなければ、ヘイラ山のメッセニア人たちの目を欺くことはできないだろう』
その声の、あまりにも平然とした調子に、グラウコスは一瞬、次の言葉を発することができなかった。
『……お前は、体つきはひょろひょろだか、顔立ちは、そこそこきりっとして、わりと見られるものだったのに、残念だ』
『そこそこ……』
頭巾の下から、笑いを噛み殺すような声が聞こえた。
そのまま、二人とも、しばらくは何も言わなかった。
『帰ってこいよ』
やがて、グラウコスは言った。
『アクシネが待っとるんだ。……俺もな』
『うん』
その声だけで、カルキノスが頭巾の下でどんな表情をしているのか、見えるような気がした。
『俺は、帰ってくるよ』
「帰ってこいよ」
北西の方角を見つめて、グラウコスは再びそう呟いた。
カルキノスが旅立つ前に、会うことができてよかった、と思った。
あれが、友と交わした最後の言葉になるかもしれないのだ。
カルキノスの声には、これまでになく揺るぎない力強さがあった。
それでも、戦場に出れば、戻らぬこともあるのが男だ。
だが、同時に、信じてもいる。
彼は、必ず戻ると。
「輝けるアポロン神よ」
グラウコスは声に出して祈り、しばらくのあいだ、その場を動かなかった。
風が、吹いている。
同じ風を、カルキノスも今、感じているだろうか。
丘から降りて、兵舎に戻ろうとしたとき、
「あーっ! グラグラ!」
遠くから、そんな声が聞こえた。
(うッ)
グラウコスは即座に聞こえなかったふりをすることに決めて、できる限りの早足で反対方向に歩き去ろうとしたが、声の主の俊足は、その速度を遥かに凌いでいる。
「おーい、グラグラッ! おーい、おーい、おーい!」
あっという間にすぐ側まで来て、叫びながら周囲をぴょんぴょん跳び回るアクシネに、
「何だッ!? うるさい、聞こえとるッ!」
無視する作戦は一瞬で限界を迎え、グラウコスは怒鳴りつけた。
アクシネは昨夜、彼の姉、カリストが暮らす家に泊まっていた。
夜更けに発つ手筈のカルキノスを、直前になって引き留めて困らせたりすることのないようにという配慮だ。
だが、当のアクシネは、夫であるカルキノスのことを気にかけるどころか、カリストの幼い息子や娘たちと部屋ではしゃぎまくってカリストに叱られたり、目新しい品物を「これなに?」「これは?」と触りまくってカリストに叱られたりと、しつけのなっていない子供のような有様だったらしい。
戦いに赴く夫をむやみに引き留めようとするのも困るが、逆に、ここまですっかり忘れたような態度でいるというのも、男としては、見ていて苛々する。
「だいたいッ、おまえは、夫を戦いに送り出したばかりだろうがッ!? それなのに、何をそんなに浮かれて――」
「しごとだ!」
「痛でででででッ!?」
グラウコスの説教を中途でぶった切り、アクシネは、ものすごい握力で彼の二の腕を掴んで揺さぶった。
だが、掴んだのは左腕だけだ。
彼女は、もう一方の手に、何やら長い包みを持っている。
「しごと、しごと、しごと! わたし、しごとをする! ……ほら、これっ!」
プワァァァァァァン! とものすごい音が響きわたった。
「だああああッ!? うるさいッ!」
アクシネが手にしていたものは、二管の笛だった。
あっという間に包みの布を剥ぎ取り、彼女が、それを咥えて吹き鳴らしたのだ。
「きこえた? きこえた!? わたし、これをふく! わたしのしごと!」
「はァ!? 仕事、って……」
「カルキノス、だいじなしごとをする。へいわのため。
だから、はな、とれちゃった。そして、いっちゃった。
――だから、わたしも、だいじなしごとをする! しごと、しごと、しごと!」
叫んでおいて、また、ものすごい音量で笛を吹き鳴らす。
音階も何もない。
だが、人一倍の肺活量のためか、その響きは朗々として、タユゲトスの山々までも越えて響きそうな勢いだ。
「何の仕事だッ!? その笛、どこから持ってきた!? やめんか、うるさいッ!」
「このしごとはなー、だいじなしごと! みんながあるいていく。わたしは、これをふく。そして、みんなあるいていく。わたしは、これをふく!」
無茶苦茶な説明だったが、グラウコスは、そういう仕事に、たったひとつだけ心当たりがあった。
「まさか」
彼が目を見開いた、そのときだ。
「失礼する!」
グラウコスを見つけてやってきたときのアクシネに負けないほどの剣幕で、一人の男が駆け寄ってきた。
憤然としている。
グラウコスは、その男に見覚えがあった。
部隊付きの笛奏者だ。
戦士たちが行進する際に、拍子をとるための音楽を吹奏する――
「ここにいたのか! 君! 俺に弟子入りしておきながら、急に走ってどこかに行くとはどういうことなんだ? 失礼じゃないか!」
「あっ、ししょー!」
「――師匠ッ!?」
嬉しそうにアクシネが叫んだ言葉に、グラウコスは目を白黒させた。
いつの間に、弟子入りなどしたのか。
部隊付きの笛奏者は、戦士たちと共に戦場に出る。
その役を女がつとめた例は、皆無ではないが、ほとんど伝説の中の出来事だ。
「おお、グラウコス。すまんな。わしが、余計なことを言ってしもうたばかりに……」
「メギロス殿!?」
遅れて駆けつけてきたのは、メギロスだった。
「さっきから、こちらのお嬢さ……いや、カルキノス将軍の奥方が、私も仕事がしたい、仕事がしたいと言いながら、斧をぶらぶらさせて、しきりに若者たちの周りをうろつくのでな。
皆、すっかり怯え……いや、気が散ってしもうて、しようがなかったのじゃ。
そこで、わしがついうっかりと、冗談のつもりでこの笛をさして『これを鳴らすことができたら、部隊付きの笛吹きになれる』などと言うてしもうてな……」
グラウコスは笛の仕組みをよく知らなかったが、普通は、素人がちょっと鳴らそうとして鳴らせるようなものではないということだけは知っていた。
メギロスとしては、鳴らなければ、それを口実にしてうまくアクシネを追い払うか、せめて笛のほうに気を逸らしておこうという目論見だったのだろう。
そのはず、だったのだが。
「鳴ったのですね……?」
「そうなのじゃ」
困り果てたような顔で、メギロス。
だが、笛奏者のほうは、どこか嬉しそうだった。
「この女性は、十年、いや、五十年に一度の逸材ですよ! 男にも劣らぬ資質を持っている。どうです、この、朗々たる響き……」
まだ嬉しそうに吹きまくっているアクシネの笛の音色に、興奮した調子でそこまで言って、
「だが、やる気がないなら、辞めてもらうぞ! 俺は、君がどうしてもと言うから弟子に取ったんだ。稽古を勝手に抜けるようなことでは、弟子失格だ!」
笛奏者は、アクシネを厳しく叱りつけた。
彼のほうでも、もう、完全に「師匠と弟子」ということになっているらしい。
「しっかくってなに?」
「我ら部隊付きの笛吹きは、戦場で、いかなるときにも持ち場を離れず、戦士たちと最後まで行動を共にするのだ! 責任感のない者に、この仕事を任せることはできない!」
「え! いやだいやだ! わたしは、しごとをする!」
「ならば、今後一切、稽古を勝手に抜け出すような真似は許さない! もしも、今度、こんなことがあったら、すぐに辞めてもらう! 分かったか!?」
「わかったー」
「返事は『はい、師匠』だ!」
「はーい、ししょー!」
「間延びするな!」
「はーい、ししょー!」
「では、稽古に戻るぞ!」
「はーい、ししょー!」
「凄いな」
グラウコスは、呆れ半分、感心半分で呟いた。
微妙に噛み合っていない感はあるものの、あのアクシネと、師弟の会話が成立している。
「しかし……あいつを、戦場に出すのですか?」
駆け足で去ってゆく笛奏者と、その後を追って走っていくアクシネの背中を見送りながら、グラウコスは複雑な表情で、メギロスに問いかけた。
女が笛奏者になる、などということになったら、戦士たちの中からは、不満や非難の声も上がることだろう。
それだけではない。
笛奏者としてとはいえ、戦場に出るとなれば、命を危険に晒すことになるのだ。
妻がそんな真似をしようとしているなどと、旅立ったカルキノスが知ったら、何と思うだろう。
もしも、カルキノスがめでたく無事に帰還する日が来たとして、そのとき、アクシネがいなくなっていたら――
「あのお嬢さ……奥方は、昔から、止めて止まるようなものではないからのう」
溜息まじりに、メギロスは呟いた。
「きっと彼女は、戦士たちと共にあるようなしごとをすることで、カルキノス将軍と一緒に戦っているつもりなのじゃろう。将軍と共に、スパルタのためにな」
「カルキノスと、共に……」
また、アクシネが喜んで吹き鳴らしているらしく、遠くから笛の音が聞こえてきた。
グラウコスは我知らず、再び北西の方角を見た。
メギロスも、黙って、同じ方角を見た。
(聞こえるか、カルキノス)
グラウコスは、胸中でそう呼びかけながら、今まさにそこを一人ゆくはずの友に思いを馳せた。
風が、強く吹いている――
* * *
ふと、誰かに、呼ばれたような気がした。
足を止め、振り返る。
「つっ……」
それだけで全身が軋み、今にもばらばらになってしまいそうな痛みが走った。
痛みをこらえながら頭巾を上げると、朝の陽光がまっすぐに目を射た。
険しい峠道の半ばで立ち止まったカルキノスは、拾った木の枝にすがり、荒い息をつきながら目を細めた。
眼下に、広がる野原と畑、そして遠くにスパルタの家々が見える。
風が、強く吹いている。
「いっ」
鼻を削いだあとは、今、大きな血の塊が乾いて、かさぶたとなっていた。
吹きつける風の強さに、ぴりりと痛みが走り、カルキノスは慌てて片手で顔を覆い、頭巾を下ろしてスパルタに背を向けた。
息をして、肩が、骨が動くだけで、全身が痛む。
ここまで歩いてくるだけでも、執拗な責め苦を受けているような苦しさがあった。
奴隷のぼろをまとったカルキノスの体は、肌が見えている部分も、そうでない部分も区別なく、痣だらけになっていた。
こうなったのは、ほんの少し前のことだ――
『旦那様』
夜更けの屋敷で、出立の支度をするカルキノスの側に立ち、ひどく思い詰めたような表情でテオンが口を開いた。
『ヘイラに行くなど、おやめください。アクシネさんをどうなさるのですか。せっかく、結婚なさったのに……』
奴隷が、主人に意見するなど、他のスパルタ人の家では考えられないことだ。
普通ならば、この瞬間に殴り殺されている。
特に気短な主人の場合にそうなるというわけではなかった。
身の程を弁えぬ奴隷の言動を捨て置けば、それだけ彼らは増長し、いつかはスパルタに反旗を翻す。
それを防ぐために、自らが所有する奴隷の言動を厳重に管理することが、スパルタ市民としての当然の責務だと考えられているのだ。
『いいや。俺は、行かなくちゃならない』
テオンから貰った着古しの衣の具合を直しながら、カルキノスは答えた。
『約束したんだ、テュルタイオスと。「頼んだぞ」って、彼に言われた。
それに、ゼノンとも約束した。「スパルタを頼む」って言われた。
俺は、行くよ。アクシネは、俺を信じて、行くことを許してくれた。俺は、彼女の信頼を裏切らない。行って、必ず帰ってくる』
腰を紐で締め、ピュラキダスから貰ったナイフを懐に入れる。
どうしようか最後まで迷っていたのだが、持っていくことにした。
これが、最後の手段となる場合もあるかもしれない。
『それに、今さら「行きません」じゃ、鼻まで取った意味がないからね。
……そうだ。それで、思い出した……』
カルキノスはできるだけ何気ない調子で言いながら顔を上げ、テオンに笑いかけると、そばに立てかけておいた、子供の手首ほどの太さの棒を指さした。
『テオン。最後に、君にも手伝ってもらいたいことがあるんだ。
ちょっと、この棒で、俺を思い切りぶっ叩いてくれないかな』
テオンは目を丸くし、自分自身を指さしながら、口を開いた。
だが、そこから声は出て来なかった。
『俺は、スパルタから、命からがら逃げ出してきた奴隷なんだ』
カルキノスは棒を持ち上げ、テオンのほうに差し出した。
『一度は、逃亡に失敗し、捕まった。見せしめに、髪を剃られて、鼻を削がれて……
このままでは殺されると思い、再び、決死の脱走を試みたんだ。
考えてもみてくれ。そんな男の体に、痣のひとつもないんじゃ、いかにも不自然だろ?』
『できません……!』
喉の奥からやっと絞り出したような声で言い、テオンは、激しくかぶりを振った。
『そんな。勘弁してください。私には……そんなこと、とても!』
『そうしなきゃならない理由は、もうひとつあるんだ』
後ずさるテオンに棒を突き出しながら、カルキノスは、淡々と続けた。
『俺は、右脚を引きずって歩く。アテナイから来た、片足が不自由な将軍のことを、メッセニア人たちの多くは知ってるはずだ。
だから、俺は、右脚を引きずっていてもおかしくない状態にならないといけない。
全身痣だらけの男なら、そういう歩き方でも、見た者は納得する』
下がり続けたテオンの背中が、壁にぶつかった。
カルキノスは、ほとんどその鼻先を突かんばかりに、棒を突き出した。
『お願いだ。これは、君にしか頼めない。アクシネやスパルタの男たちの力加減じゃ、俺、絶対、死んじゃうからさ』
『どうして……』
目の前の棒ではなくカルキノスの目を、信じられないというように見つめて、テオンはかすかに首を振った。
『どうして、ここまで、なさるのですか』
『生きて帰るためだ』
カルキノスは、迷いなく言った。
『アクシネのもとに……アクシネと、君が待つこの家に、必ず帰ってくるためだ。
そのためなら、俺は、鼻がなくなったっていい。棒で殴られたっていい』
『そうじゃないんです!』
テオンの声は、ほとんど悲鳴のように響いた。
『あなた様は、スパルタの生まれではない。ここには、ただ、引っ張ってこられただけじゃないですか! それなのに、どうして、そこまで……
なぜ、あなた様が、そこまでなさらなくてはならないのです!?』
『最初は、俺もそう思った』
カルキノスは言って、笑った。
『どうして、俺がこんなことをしなくちゃならないんだ。どうして、俺がこんな目に遭わなくちゃならないんだ、って。
――でも、今は違う。
これは、俺の仕事なんだ。
事のはじめは、押しかぶせられた仕事だったかもしれない。
でも、今、俺は、このことを自分の手でやり遂げたいんだ。
俺は、帰ってくるよ』
立ち竦んでいるテオンの手をとり、指を開かせて、棒を握らせる。
カルキノスは右半身を上にして床に寝転がり、両手で頭を抱え、できるかぎり体を縮めてうずくまった。
『さ、頼む。痣になるくらい力を入れて、やってくれ。……ああ、でも、指だけは避けてほしい』
テオンは、だらりと棒を垂らしたまま、じっとしていた。
うずくまったカルキノスを見下ろすその顔を、汗が流れ落ちていった。
やがて、テオンは膝が震えているような足取りでそろそろとカルキノスの横に来て、棒を持ち上げ、カルキノスの太腿を打った。
『そんなのじゃ、だめだ……もっと、強く!』
『……あああぁああああああ!』
出し抜けに、テオンの喉から狂気のような叫びがほとばしった。
次の瞬間、振り下ろされた打撃の重さに、息が詰まった。
『ぐっ』
声を上げようとしたが、その声が出なかった。
テオンは喚きながら、カルキノスの体をめった打ちにした。
まるで恐慌に陥ったような、殺意すら感じるほどの打撃だ。
その一撃が、がん、と頭に当たった。
『いたい!』
反射的に、それだけ、声が出た。
頭蓋骨が割れたのではないかと思うほどの衝撃だった。
遅れて、激しい痛みが襲い、カルキノスは体を縮めたまま唸りながら身悶えた。
もう一度、同じ強さで同じ場所を打たれたら死ぬ、と思った。
だが、息を詰めて備えた次の一撃は、来なかった。
カルキノスは全身を襲う痛みに呻きながら、死にかけた者のような動きで、よろよろと身を起こした。
テオンは、見開いた目から涙を流しながら、両手で握りしめた棒をだらりと垂らして立ち尽くしていた。
その喉が引きつったような音を立て、棒が手から滑り落ちて床に転がった。
テオンはその場にどすんと尻を落とし、両手で顔を覆って、すすり泣きはじめた。
カルキノスは、這うようにして、その側へ近づいた。
『泣かないでくれ……』
すがりつくような姿勢で、テオンの肩に手をかけ、ゆっくりと叩いた。
『これで、いいんだ。すまない、テオン……』
しばらくのあいだ、そのままの姿勢で、どちらも動かなかった。
カルキノスのほうは、痛みのあまり、動くことができなかった。
『い、ぎっ、いぎで』
懸命に呼吸を整え、痛みをやり過ごそうとしていたカルキノスの耳に、引きつり、かすれた、奇妙な声が届いた。
『がならず……いぎで、がえっでぐだざい……!』
顔を覆ったまま、泣きながら、テオンはそう言っていた。
カルキノスは思わず笑い、それだけで走る痛みに息を詰まらせた。
当たり前じゃないか、分かってるよ。
ていうか、君のせいで、今もう死ぬところだった。
年寄りだと思っていたけど、まだまだ力が強いんだな――
次々と浮かんだいくつかの軽口は、喉から先には出ず、ただひとつの言葉だけが残った。
『戻ったら……また、アクシネと、俺と、君と、この家で一緒に暮らそうな』
「戻ったら……」
カルキノスはもう一度振り返り、遠いスパルタの家々を目に焼き付けてから、歩き出した。
坂を登る一歩ごとに、無数の痣が痛み、鼻の傷痕が痛む。
杖がわりの枝を地面に突くたびに、腕が、肩が痛む。
(もう、駄目だ……歩けない……)
戦場に斃れていった大勢の男たちの顔が、心に浮かんできた。
これまでに打ち殺されてきたであろう無数の奴隷たちの、顔のない顔が、この世の光の下を歩くことなく死んでいった赤ん坊たちの骨の白さが浮かんできた。
カルキノスはよろめき、呻きながら、ゆっくりと坂を登り切り、峠に立った。
眼下に、メッセニアの広大な土地が広がり、その遥か向こうに、緑に覆われた山々が見えた。
乾ききった唇を動かし、呟く。
「ヘイラ」
カルキノスは長いあいだ、じっとその場所に目を当てたまま動かなかった。
あの場所で、自分の、スパルタの命運が決するのだ。
風が、強く吹いている。
それに背中を押されるようにして、カルキノスは、ゆっくりと山道を下っていった。




