変貌
「本気ですか?」
ピュラキダスが呟く。
その声は、かすれていた。
もう、四度目になる問いだ。
「ああ」
カルキノスは頷いた。
今、彼らは、カルキノスの館にいる。
ヘイラ山へと潜入する準備のために、カルキノスが、ピュラキダスを自宅に招いたのだ。
『おきゃくさま! おきゃくさま!』
と喜んで騒ぐアクシネを、テオンに頼んでどうにかこうにか部屋から連れだしてもらい、今は、男二人きりである。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
「いいよ。何だい?」
「なぜ……俺を、お選びになったのです?」
「それは、君が一番、手先が器用そうだったからだ」
カルキノスは、迷いなくそう答えた。
最も気心の知れたグラウコスは今、先だって襲撃されたベレミナの集落の守備隊として派遣されている。
だが、たとえ今、目の前にグラウコスがいたとしても、この準備のための作業を彼に頼む気には、どうしてもなれなかっただろう。
「嫌な仕事だと思う。こんなことを頼んでしまって、すまない。でも、自分では、とてもできないし……」
「いいえ……俺を信頼してくださってのことと伺い、心が決まりました」
口では、そう言いながらも、ピュラキダスの表情は、あまり乗り気であるようには見えなかった。
長老会でカルキノスが口にした計画に、誰もが仰天した。
言葉を尽くして止めようとした者もいたが、結局は、カルキノスが押し切った。
カルキノスがヘイラ山に赴くという大前提が変わらない以上、カルキノスの提案よりも効果的な方法を、誰も思いつくことができなかったのである。
「そう、悲愴な顔をしないでくれ。俺は、死にに行くんじゃない。死んだら、役目が果たせない。全ては、俺が生き延びるためなんだ」
すると、ピュラキダスはしばらく黙ってから、
「……これを」
衣の襞から何かを取り出し、カルキノスに差し出してきた。
革の鞘に収まった、小さなナイフだった。
刃の部分が握り拳に隠れるほどの長さしかない。
「俺の、ひとつ下の弟の形見です。ヘイラへ行くとき、これをお持ちください。これならば、たとえ持っているところを見つかっても、そこまで奇妙には思われないでしょう」
「形見って……そんな大切なもの、受け取れないよ!」
「いいえ」
ピュラキダスは半ば強引にカルキノスの手を取り、ナイフの柄を逆手に握らせた。
「このように、握って……相手の胸の左右どちらかに、拳を叩きつけるようにして、刃を刺します。このやり方のほうが力が入りやすい。順手に握って刺すよりも簡単です」
「なるほど……」
これで、アリストメネスを刺し殺してくれというのだろうか。
ケアダスの底からよみがえった百人殺しの将軍を相手取るには、いささか頼りない武器ではあった。
それでも、ないよりはまし、という考え方もあるだろう。
だが、カルキノスはむしろ、武器は一切持たずに行きたかった。
戦い、相手を殺して切り抜ける道がある――そう思う心は、今回の場合、必ずどこかで綻びを生むのではないかという気がした。
武器を帯びているという意識は、勇気と同時に、慢心にも繋がる。
危機に陥ったとき、一か八か戦おうとする、捨身の考えに取りつかれてはならない。
自分は、戦いに行くのではないのだ。
戦えば、自分は必ず敗れ、死ぬだろう。
そうではない。
生きて、帰るのだ――
「あの、失礼ながら」
ピュラキダスが、ためらいがちな様子で言葉を続けた。
「カルキノス将軍は、これまでに、敵を殺したことがありますか? 戦場でも、それ以外でも」
「ない」
迷わず答えたカルキノスに、ピュラキダスは一瞬、二の句が継げなくなったようだった。
口を数度、開け閉めしてから、やっと言葉を押し出すようにして、言った。
「それでは……出発の前に、一度、経験なさっておいては? 何事も、初めての時には、緊張してうまくいかないことが多いものです。奴隷の中から、一人か二人――」
「いや」
カルキノスは片手を上げ、ピュラキダスの言葉を制した。
制してから、これではあまりにも冷ややかな対応だと思い直し、笑顔で言い添える。
「いいんだ。心配してくれてありがとう。俺は、そういう状況にならないように、全力を尽くすよ」
ピュラキダスの目には、カルキノスへの誠意が溢れていた。
彼は、自分の言葉に、一筋の違和感も覚えてはいないのだ。
アイトーンの顔が、脳裏に浮かんだ。
グナタイナの笑顔が、心をよぎっていった。
「俺は、戦いに行くわけじゃない。だいじょうぶだ。必ず、生きて戻る」
「それでしたら……」
「だから、生き残るためには、何でもするんだ」
そう口にしたカルキノスの口調に、ピュラキダスは再び、言葉を失った。
今度は、長いあいだ、黙ったままでカルキノスを見つめていた。
「では……本当に?」
かすれた問いかけに、カルキノスはちょっと笑ってみせ、衣の襞のあいだに持っていたものを取り出した。
剃刀だ。
ピュラキダスが息を呑んで見つめる中、カルキノスは剃刀を自分の頬に当て、スパルタの男たちに倣って伸ばしていた顎ひげを、あっという間に剃り落とした。
さらには、自分の眉を、両方ともすっかり落としてしまった。
「どうだい?」
つるりとした妙な顔を、片手で上から下へと撫でてみせ、カルキノスは得意げに言った。
「これだけでも、だいぶ人相が違って見えるだろう? ……さあ、髪は、君に頼むよ」
「はい……」
ピュラキダスは座ったカルキノスの背後に回り、額の上から、カルキノスの髪を剃り落としていった。
スパルタ風に伸ばしていた髪が、ばらばらと床に落ち、わだかまってゆく。
「いや、違う、違う。それじゃ丁寧すぎるよ。雑にでいいんだ……
もっと、こう……そう、そのへんを、中途半端に残す感じで。
そう、そう。働きの悪い奴隷が、懲罰として剃られたという雰囲気を出さなきゃ……」
やがて、作業は終わった。
刈り残された細い髪の束がばらばらと散った、不格好な頭を触りながら、
「いいね」
カルキノスは、満足そうに頷いた。
「髪型は、これで完璧だ。……さあ……」
何かを待つように言葉を切ったカルキノスを、剃刀を手にしたままのピュラキダスは、ひどく緊張した面持ちで見下ろした。
「本当に、やるのですね」
「ああ」
カルキノスは穏やかに、しかし鋼の強固さを奥に包んだ口調で答えた。
「俺は、頭巾をかぶり、顔を隠して行く。でも、そうしていれば、必ず誰かに怪しまれるだろう。俺は、問い詰められる。ゆっくりと頭巾を上げる……
その瞬間に、相手が、なるほどと納得して引き下がるだけの理由が必要なんだ。
熱湯を浴びようかとも思ったけど、それじゃ、目が見えなくなるかもしれないだろ。そうなったら、役目が果たせない」
「分かりました」
ピュラキダスの声に、これまでとは違う響きが宿った。
腹が据わったのだと、はっきり分かった。
「ああ、少しだけ待ってくれ」
言ってから、カルキノスは、苦笑した。
これでは、いざという段になって、自分のほうが尻込みしているようではないか。
「グナ……あの、アリストメネスを突き落とした奴隷が飲んでいた薬草が残ってるはずだ。あれを煎じて飲めば痛みが半分に減るって、医者は言っていたけど……その話が、本当であることを祈るよ」
* * *
アクシネは機嫌よく、跳ねるような足取りで家路をたどっていた。
「おーきゃくさーまがきーたー、おーきゃくさーまがきーたー!」
英雄たちの戦を歌う叙事詩の韻律で、歌詞がこれだけしかない自作の歌を繰り返し歌っている。
両手には、近くの木立で見つけた、蜂蜜のたっぷり入った蜂の巣を捧げ持っていた。
おきゃくさまのことを歌ってはいるが、これを分けてやろうとは思っていない。
『蜂蜜を舐めると声がよくなる』
と、カルキノスが前に言っていた。
だから、カルキノスに、全部食べさせてやるつもりでいる。
館まで、あと少しのところで、
「なに?」
アクシネの歌と足取りが、急にぴたりと止まった。
彼女は体を傾けて止まったまま、じっと動かずに、耳を澄ました。
館の方から――館の中から、何か聞こえてくる。
低く、途切れ途切れの、呻き声。
カルキノスの声だ。
アクシネは、両手で大切に抱えていた蜂の巣を、地面に振り捨てた。
それが砂に塗れるのを見もせずに、館に向かって駆け出した。
「カルキノス!」
* * *
血が、驚くほど大量に噴き出て、床に血溜まりができた。
用意しておいた海綿が、あっという間に真っ赤に染まり、それだけでは足りずに端からぼとぼとと血が滴り落ちる。
痛み止めの薬効があるという煎じ薬は、まったく効いているようには思えなかった。
それとも、これでも、効いているのだろうか。
「もっと、海綿は……」
剃刀を置き、片手でカルキノスの頭の後ろを押さえ、片手で傷に当てた海綿を押さえながら、ピュラキダスが呟いた。
彼がこれほど焦っているところを、カルキノスは、初めて見た。
ピュラキダスは、新しい海綿を取りに行きたいが、押さえつけている手をはなせば再び血が噴き出すのではないかと恐れているのだ。
この状況では、奴隷を呼ぶわけにもいかない。
恐慌をきたした奴隷たちが、襲撃だ、暗殺だと喚きはじめる恐れがあるからだ。
(新しい海綿は、アクシネの部屋の櫃の中にある)
カルキノスはそう言おうとしたが、口から流れ出てきたのは真っ赤な血だった。
唾も混ざっているのだろうが、感覚としては、ほとんどが血であるように思えた。
どうか、気のせいであってほしい――
「カルキノス!?」
微かに耳に届いたその叫びに、カルキノスの遠のきかけた意識が、はっと覚醒した。
同時に、誰かが――
アクシネが、部屋に飛び込んでくる。
ピュラキダスが、反射的に身構えた。
彼の手が離れ、血に染まった海綿が、ぼとりと床に落ちる。
アクシネが息を呑む音が聴こえた。
彼女が目にしたのは、カルキノスの顔の真ん中から、だらだらと血が流れている光景だった。
そこにあるはずの鼻が、なかった。
削ぎ取られて、床に、奇妙な肉片のように転がっていた。
カルキノスの血だらけの顔と、床に落ちた鼻を呆然と見比べたアクシネの視線が、ゆっくりとピュラキダスに移る。
「……おまえか?」
小さく呟いた瞬間、彼女の表情が、豹変した。
「アクシネ、待っ――」
「ゴォオオオオオオアアアァ!」
アクシネの喉から、人が発したとも思えぬ怒号がほとばしり、斧の刃が唸りを上げた。
並の人間ならば、気魄に呑まれてその場に釘付けになり、為すすべもなく一刀両断にされていただろう。
だが、ピュラキダスはスパルタの男だ。
瞬時の判断で、剣を抜き放ち、両手で掲げた。
そこへ、アクシネの一撃がまともにぶち当たる。
火花が散り、剣の刃が折れ曲がった。
目を見開き、剣を手放したピュラキダスの眼前で、アクシネの体が旋風のように回転した。
斜め下に振り抜いた斧の刃の勢いを殺さぬまま、全身で回転をかけて遠心力を加え、再び斜め上から叩きつける。
もう、受ける武器はない。
かわせるか。
間に合わない――
「やめろおおおぉぉぉおっ!」
ピュラキダスの額が割れ、おびただしい血が噴き出した。
石の破片を飛び散らせ、アクシネの斧が地面に食い込む。
ピュラキダスが、は、と息を吐いてよろめくように一歩下がり、そのまま地面に腰を落として座りこんだ。
斧の刃は、ピュラキダスの頭蓋を叩き割る寸前、額の皮を斜め一直線に斬って、逸れた。
彼女が、逸らした。
「アクシネ……アクシネ……」
すぐさま再び斧を持ち上げたアクシネに、カルキノスは後ろから抱きつき、猛り立つ獣を宥めるように優しく叩きながら、何度も囁きかけた。
アクシネの衣に、カルキノスの鼻と口から溢れた血が、次々と染みを作る。
「アクシネ……落ち着いてくれ」
「いやだ!」
口の中に溢れる血のために不明瞭な声でも、はっきりと聞き取って怒鳴り返したアクシネの声は、震えていた。
「わたしは、こいつをたたく! カルキノス、はな、とれちゃった! ちがでてる! いたい、いたい、いたい! こいつが! こいつのせい! わたしは、こいつをたたく!」
「違うよ。違うんだ! 落ち着いてくれ、どうか……」
溢れた血を吸い込んでしまい、激しく噎せた。
血のしずくが口から飛び散り、アクシネの首筋にかかった。
「ピュラキダスは、悪くない。俺が、頼んだんだ。こうしてくれと、俺が、頼んだ」
アクシネの全身から噴き出していた、燃えるような憤怒の気配が収まってゆく。
「なんで?」
彼女は斧をだらりと垂らし、振り返った。
その両目から、涙が流れていた。
アクシネの手が、カルキノスの顔の、無事な部分の皮膚に触れる。
痺れるような鈍い痛みが走ったが、カルキノスは耐えた。
アクシネの指も、声と同じように、ぶるぶる震えていた。
「いたい、いたい、いたい! かわいそう! カルキノス、かわいそう! なんで!? なんで、はな、とれちゃった? なんでたのんだ?」
「君と、いつまでも一緒にいるため」
「……なんで!?」
アクシネの目に、再び、怒りが燃え上がった。
「なんで、なんで!? おかしい! カルキノス、うそついてる! わざと、わたしにわからないようにしゃべってる! うそつき!」
「ちがうよ」
アクシネの両目をまっすぐに見つめて、カルキノスは言った。
「本当だ。俺は、必ず生きて帰って、君といつまでも一緒にいるために、こうしたんだ」
「わからない。わからない、わからない! なんで!?」
「アクシネ」
彼女の両肩に手を置き、ぎゅっと力を込める。
事情を知らない者から見れば、ひどく猟奇的な光景だっただろう。
血に染まった斧を手に叫ぶ女の肩を、髪も眉もない、鼻もない顔の男が掴んでいる。
「俺は、ヘイラに行く。メッセニア人たちが立てこもっている山だ。
そこで、俺だとばれないように、わざと顔に怪我したんだ。
俺が行かないと、俺は、君と、いつまでも一緒にいることができない」
「なんで……?」
「今のままでは、戦いが終わらないからだ。
戦いが終わらないと、俺の役目も終わらないんだ。
俺は、輝けるアポロン神のお言葉に従って、スパルタに来た。この戦いを、終わらせるために」
傷のために顔がこわばり、彼女に笑いかけることはできなかった。
「戦いが終われば、俺は、君と、いつまでも一緒にいられる。
だから、俺は行く」
「へいわ……」
アクシネが呟き、カルキノスは驚いた。
その言葉を彼女が、いや、スパルタの人間が口にするのを聞いたのは、初めてだったからだ。
「そう。平和……平和になれば、俺は、君と、いつまでも一緒にいられる……」
暮れてゆく西の空の、黄金の光に照らされて、二人で腰を下ろすのだ。
のびてくるタユゲトスの山々の影。
家々から立ちのぼる煮炊きの煙、涼しい風。
やがて全てが闇に包まれ、空に、無数の星が瞬きはじめる――
「それとも、鼻の取れちゃった男は、嫌かな」
「いやじゃない」
アクシネは、すぐに言った。
「いたいのは、カルキノス。わたしはいたくない。だから、わたしはいやじゃない。
カルキノス、いたい、いたい! かわいそう……」
頬を優しく撫でたアクシネの指が、離れる。
「まえ、グラグラがいってた。カルキノス、きっと、どっかいくって。とめたらだめ、っていってた」
そこまで言って、彼女は長いこと、カルキノスの顔を見つめていた。
ピュラキダスが血まみれの手で額の傷を押さえながら、静かに立ち上がった。
彼はその場を動かず、カルキノスとアクシネとのやりとりを妨げることのないように、ものも言わなかった。
やがて、アクシネが小さく首を傾げ、口を開いた。
「カルキノス……いきたい?」
その問いに答えようとして、カルキノスは、言葉に詰まった。
――行きたい?
都市国家を防衛するためのあらゆる行動において、男が己の意思を問われることなど、ありえなかった。
行きたいか、行きたくないかという問いは、本来ならば、存在すらしないのだ。
行かなくてはならない。
スパルタのために。
だが、今のカルキノスを動かしているものは、義務感だけではなかった。
脳裏をよぎる、いくつもの面影がある。
ゼノン。アイトーン。ナルテークス。グナタイナ。
風の音が耳の奥によみがえり、声が聴こえた。
『頼んだぞ、テュルタイオス』
遂げられなかった思いを、果たしたい。
託された願いを、叶えたい――
「うん。……俺は、行きたい」
「いいよー」
アクシネの、即座の返答に、
「え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「いいのかい? ……本当、に?」
「いやだ。ううう。でも、いいよー。
カルキノス、かお、いたい。でも、やった。しごとあるから。
カルキノスがしごとしたら……へいわになる。もう、だれも、いなくならない。
だから、いいよー」
顔をくしゃくしゃにしたり、それを一生懸命戻したりしながら、そこまで言って、
「でも、カルキノスがしんだらいやだ!」
アクシネは叫び、カルキノスに飛びついた。
カルキノスの体では、その勢いを支え切れず、もろともに地面に転がった。
「だめだぞ! いなくなったらだめ! カルキノス、かえってこないとだめ! かえってきて!」
「約束するよ……」
血が喉に流れ込まないように、必死に顔を横にひねりながら、アクシネを抱きしめる。
両腕に、彼女の体温を感じた。
まばゆい陽の光、吹き抜ける風、やわらかな葉ずれの音、草のにおい――
「どんな手を使っても、絶対に、生きて帰る。
君といつまでも一緒にいるために、やるんだ。帰ってこられなかったら、何の意味もない。
俺は、帰ってくるよ」




