作戦
『ケアダスの崖の下に、アリストメネスの死体はなかった』――
アクシネとグラウコスによってもたらされた、その報せは、スパルタの男たちを激しい混乱の渦に陥れた。
『あそこから落ちて、生き延びた者は、これまでには一人もいなかった!』
『奴もろとも落ちた奴隷の娘の死体は、確かに、崖の下にあったそうではないか。突き落とした者が死に、突き落とされた者が生き残るなど、ありえぬ!』
『だが、奴は、現に今もスパルタの領土を襲撃しているぞ……』
『アリストメネスは、死んで、なお、動いているというのか!?』
『それこそ、ありえない! 奴は、生きていたのだ。いずれかの神が、そのように計らわれたのだとしか思えぬ!』
『違う! あそこから落ちて生き延びることのほうが、ありえぬのだ。奴は、死霊だ。この世に舞い戻ってきたのだ!』
『恐ろしい……すぐに宥めの供犠を!』
『違う、必要なのは供物ではなく槍と剣だ! 奴はしぶとく生きていたのだ。今度こそ串刺しにして、奴を殺せ!』
『やめよ! どこで奴が聞いているか、分からぬぞ。これ以上、死霊を怒らせれば、どんな災いがもたらされることになるか――』
衝撃、恐怖、怒りが、憶測と噂の嵐を巻き起こす。
そこへ、スパルタ人たちをさらに動揺させる事件が起こった。
友邦コリントスからの援軍が、壊滅したという報せがもたらされたのだ。
都市国家コリントスは、スパルタとの同盟を結んでいる。
彼らはスパルタに協力し、メッセニア勢が立てこもるヘイラ山に対して攻撃をしかけるために軍勢を進めてきたのだ。
だが、そのコリントスの軍勢が、夜営しているところを、アリストメネス率いる部隊に襲撃された。
夜の闇に紛れた、あっという間の襲撃だった。
コリントスの軍勢は数多くの指揮官を失い、潰乱した。
襲撃者たちのあまりにも素早い動きに、反撃の糸口をつかむことすらできず、最高指揮官の幕舎までもが奪い去られたという――
その出来事の衝撃も冷めやらぬうち、畳みかけるように、さらなる事件が起きた。
ヘイラ山から南へ下ること、およそ100スタディオン――イトメ山の麓のゼウス神殿に、何者かによって大量の供物が捧げられた、という報告が入ったのである。
何者かによって、というのは、他でもない。
夜のあいだに、その供物を捧げた者の姿を、誰も見なかったからだった。
朝、整然と並んだ供物を目にして、神殿に仕える神官たちは呟いた。
『「百人殺しの供犠」だ……』
それは、メッセニアの男たちのあいだに伝わる伝統だった。
戦場で百人の敵兵を殺した戦士が、神の加護への感謝を示すために行う儀式。
そして、祭壇には、供物とともに、こんな言葉を刻んだ陶片が捧げられていた。
『我、コリントスの男百人を殺し、大神ゼウスに供犠を捧げ奉る。
次はスパルタの男百人を殺し、大神ゼウスに供犠を捧げ奉らん』――
* * *
長老会には、重苦しい沈黙がわだかまっていた。
つい先ほどまで「アリストメネスは生きている」と考える者の組と、「アリストメネスはすでに死んでおり、死霊と化して舞い戻った」と考える者の組に分かれて、激しい論争が繰り広げられていたのだが、
『では、今から、我らは何をなすべきか?』
というアナクサンドロス王の発言で、沈黙が訪れたのである。
もしも相手が死霊なのだとしたら、しかるべき儀式を執り行い、供物で宥めなくてはならない。
だが、果たして、そんなことが可能なのか?
あのように怒り狂った男の魂を鎮めることができるほどの力を持った者が、スパルタ国内にいるだろうか。
そして、もしも、怒りを収める代償としてとんでもない要求を突きつけられたときは、どのように対応するのか?
また、アリストメネスは生きていると考える者たちにとっても、事態は非常に難しかった。
生きている男が相手ならば、戦いを挑み、真っ向から叩き潰せばよいだけだが、状況はそう単純ではない。
長老たちの考えが真っ二つに割れているように、戦士たちの考えもまた、割れているのだ。
アリストメネスが死霊だと思い込んでいる男たちは、出撃を拒むかもしれない。
もちろん、命令された出撃を拒むことなど許されない。
そうなれば、懲罰を与えなくてはならなくなる。
ひとつであるべきスパルタ人が、割れる原因を作ることにもなりかねないのだ。
皆を無理やりに説き伏せ、奮い立たせて出撃することができたとしても、いざアリストメネスが姿を見せれば、軍勢は恐慌状態に陥るかもしれない。
戦場にみなぎる凄まじい緊張は、一本の糸がぷつりと切れただけで、一瞬にして決壊する。
どんな優れた将軍にも取り返しのつかない混乱へと、容易に落ち込んでしまうのだ。
そうなったら、強きスパルタ、何ものも恐れぬスパルタの威厳は、地に堕ちる。
メッセニア勢、さらにはスパルタによって支配されてきた奴隷たちにとって、それは反撃の大いなる狼煙となるだろう――
自分たちのなすべきことと、それがもたらすかもしれない最悪の結果とを天秤にかけ、誰もが動けずにいた、そのときだ。
「真実」
それまで黙っていたカルキノスが、とうとう、口を開いた。
「今のスパルタに必要なものは、それだ。今の俺たちはまるで、夜に、ものの影に怯える幼い子供のようだ」
「……真実、と、いうと?」
「アリストメネスが、生きているか、それとも死んでいるのかを、はっきりさせる……ということですか?」
「そうだ」
「しかし……どうやって?」
不安げに見つめてくる男たちを、カルキノスは、冷静に見返した。
先ほどからずっと、カルキノスがものも言わずにいたのは、どうしようかと迷っていたからではなかった。
どうするかについては、すでに、心を決めていた。
「ヘイラの山中に、直接、間諜を送り込む」
先ほどから、それをやり遂げるための方法について、ずっと考えていたのだ。
どよめく男たちに向かい、カルキノスは、落ち着いた声で続けた。
「とは言っても、キュニスカたちがやったように、捕虜として入りこむわけじゃない。あのやり方は、もう、向こうだって警戒しているだろうからね。
――さて、そこでだ。
思い出してもらいたいんだが、今、アリストメネスが戻ったという噂に刺激されて、奴隷たちの逃亡が頻発しているそうじゃないか?
彼らの中には、ヘイラに向かい、メッセニア勢に加わる者も多いという。
ちょうどいいじゃないか。危機を、好機として利用するんだ。
今、この状況だからこそ、取ることができる方法がある――
逃亡奴隷に変装し、ヘイラ山に入りこむんだ!」
「奴隷に、変装するだと?」
場が、一気に騒がしくなった。
先ほどまで静まり返っていた男たちが、口々に、声を発し始める。
「しかし……確かに、理に適った方法ではあるな」
「だが、奴隷に化けるなど……」
「潜入して、それで、どうするのです? 将軍の考えを、最後までお話しください!」
「潜入した者が、一番になすべきことは、アリストメネスを見つけることだ」
カルキノスはその場に居並ぶ男たちの顔を順に見渡し、言った。
「それとも、見つけないことだ。
奴は、生きているのか、死んでいるのか? そこにいたとして、本当に、本人なのか? それをはっきりと確かめなくてはならない。
今、俺たちは、何ひとつ物事がはっきりしないままに、憶測で騒いでいる。そんなこと、何の意味もない。
真実がはっきりしさえすれば、それが、どれほど不都合な真実であっても、落ち着いて、ふさわしいやり方で対処することができるというものだ」
「確かに」
「カルキノス将軍の仰る通りだ!」
「では、アリストメネスの生死を首尾よく確かめたとして、どうやって、それを皆に報せます?」
「……そこが問題だ」
カルキノスは意識して平静に保っていた表情を崩し、くしゃくしゃと頭を掻いた。
「入りこむより、抜け出すほうが難しい可能性も、大いにある。だが、潜入した者は、何としてでも生きて戻り、皆に直接、状況を伝えなくてはならない。
どうやって? ということになると、今の段階では、その場で考えて判断してくれ、としか言いようがないんだが……」
狼煙などによって伝える方法も考えたが、それでは細かい情報を伝達できない上に、万が一、他の煙と混同されたりしたら、とんでもない事態になってしまう。
「難しい任務だ。逃亡奴隷として潜入する以上、武装はできない。丸腰だ。無論、生還を期することはできない。それでいて、必ず、生きて戻らなくてはならないんだ」
男たちは、顔を見合わせた。
「俺が、行きましょう」
やがて、そんな声とともに、一人の男がカルキノスの前に進み出た。
斥候の束ね、そしてキュニスカの夫――
ピュラキダスだ。
「君が?」
「はい。俺はこれまで、多くの仲間に斥候の任務を頼んできました。皆は、命をかけて、自分の役目を果たしてくれた。今度は、俺の番です」
彼は淡々と言い、カルキノスの顔を見た。
そして彼は、ほんのわずかに笑ったように見えた。
「キュニスカのことは、心配していません。彼女は、スパルタの女です。俺を喜んで送り出すでしょう」
「いや、そういうことじゃない。――君は、駄目だ」
カルキノスの言葉に、ピュラキダスは一瞬、言葉を失った。
常に冷静に見える彼の頬に、さっと赤みがさした。
「俺には、任務を果たすことができないと?」
「ああ、できないと思う」
明らかな怒りの響きを含んだピュラキダスの口調にも、カルキノスは、動じることはなかった。
「逃亡奴隷だって? 君が?
とんでもない。その鍛え上げられて引き締まった体、ものに動じない態度、威厳ある身のこなし……どこからどう見ても、奴隷じゃない。生まれながらのスパルタの戦士だ。一目で見破られる」
ピュラキダスの視線から、怒りの成分が抜けてゆく。
それを見返しながら、カルキノスは笑って、自分の胸を叩いた。
「俺のほうが、ずっと適任だよ」
「……将軍が?」
呆気にとられたようなピュラキダスの呟きと同時、場が一気にざわめいた。
「ああ、そうだ。俺が行く」
「しかし!」
動揺して囁き合う男たちの思いを代表するように、ピュラキダスが叫んだ。
「将軍自身がゆかれる必要が、どこにあります? あなたは、スパルタにいて、対メッセニア戦争の指揮をとってくださらねば!」
「その通りじゃ」
ピュラキダスの意見に、横から、メギロスが同意の声をあげる。
「探せば、他にも、適任の者はおるじゃろう。何も、将軍が行くことはない。
第一、将軍は、格闘の心得もないではないか。丸腰で、万が一のことになったとき、自分の身を守ることもできぬぞ!」
「思い出してください、メギロスさん」
カルキノスは、穏やかに言った。
「この俺がスパルタに来ることになった、そもそものわけを。
輝けるアポロン神は、こう仰せになった。
『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』。
――では、将軍とは?」
カルキノスは問いかけ、その場の最も端、最も後ろに立つ一人一人にまで視線を送りながら、ゆっくりと続けた。
「将軍とは、どのような者のことか?
将軍とは……全軍の最前列の右端に立ち、敵と真っ先に激突し……退くときは、全軍の最も後に退く。そのような戦士、勇者、最強の男のこと……」
カルキノスの視線と力強い言葉とを受けて、スパルタの男たちは思わず知らずに、小さく頷きを返していた。
かつて、カルキノスに向かってこの言葉を怒鳴りつけた長老が、人ごみの中、震える手で杖を握りしめながら、何度も何度も頷いている。
「この言葉……もう、何度も繰り返してきた気がする。でも、これが最後になるだろう」
カルキノスは一同を見渡し、宣言した。
「俺は、最前線に出る。今度こそ。でも、戦場で戦列の右端に立つわけじゃない。
俺が、逃亡奴隷に化けてヘイラに潜入し、中の状況を探るんだ。
これも――いや、これこそ、まさに、最前線で戦うことだ。そうだろう?
遅すぎたんだ。神託は、最初から告げていた。俺は、最前線に立たなくてはならないと」
「将軍よ」
メギロスが、静かに言った。
「まさか……死ぬ気では、ないだろうな?」
「とんでもない!」
カルキノスは笑って、ぱたぱたと片手を振る。
「言ったじゃないですか。死んだら、この役目は果たせない。絶対に、生きて帰らなくてはならないんです。
……俺は、輝けるアポロン神の御加護を受ける身。必ず、生きて戻ります」
「しかし、お一人では、あまりにも!」
ピュラキダスが、横から声をあげた。
「俺も御一緒します。どうか、同行をお許しいただきたい」
「いや、だめだ」
カルキノスは穏やかな口調のまま、しかし断固として言った。
「この役目は、俺のものだ。これが、俺の仕事の総仕上げという気がするんだ。
それに、物事というのは、関わる人数が増えれば増えるほど、どうしても綻びが出やすくなる。
君がどうこうというわけじゃない。そういうものなんだ。
だから、俺は、一人で行くよ」
「しかし」
カルキノスの説得にも、ピュラキダスは引き下がらない。
「奴らは、将軍の顔を知っています。危険です!」
「そうかな? 俺は、前線には一瞬しか出たことがない。しかも、兜をかぶっていた。人相をはっきりと見られていた可能性は低い」
「いいえ。将軍は、これまでにスパルタのあちこちを歩いておいでです。そのとき、奴隷たちも、将軍の姿を見ている。ヘイラに入った逃亡奴隷どもの中に、将軍の顔を見知っている者がいることはじゅうぶんに考えられます。
それに、将軍は、キュニスカたちの身柄受け渡しの夜、メッセニアの男の一人に、はっきりと顔を見られています!」
「……なるほど」
カルキノスは目を大きく開いてピュラキダスの顔を見つめ、なるほど、というように彼の顔を指さした。
「確かに、そうだったね。すっかり忘れてた。出発する前に思い出させてくれて、本当にありがとう。
君の言う通り、俺の人相風体を知ってる者にヘイラで出くわしたら、相当まずいことになる……」
大きく頷き、ピュラキダスの肩に、力強く手を置く。
「そうとなれば、さっそく準備が必要だ。君に、手伝ってもらいたい」




