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ねがい

 森に踏み込む許しを乞うための供犠をアルテミス女神に捧げ、出発をよしとする占いの結果が出るまでに、丸二日かかった。


「カルキノス、どっかいったらだめだぞ?」


 これまでのスパルタの歴史の中で、例のなかった光景が展開している。

 太陽の輝く真昼間、スパルタの男たちが、ケアダスの崖の上に集まっているのだ。

 いや、男たちだけではない。


「ぜったい、だめだぞ。わかった?」


 薬草と香料をたいた煙で全身なんともいえないにおいになり、首に死霊よけの護符を巻きつけたアクシネが、真剣な顔で言った。


「大丈夫だよ」


 朝からもう数十回目になるのではないかと思うほどしつこく念を押してくるアクシネに、カルキノスは、数十回目の力強い頷きを返した。


「したも、みたらだめだぞ? そのおじいさんがいってた」


「メギロスじゃ」


 カルキノスの横に立ったメギロスが、重々しく捕捉する。

 先ほどからなぜかずっと彼が右の拳を固めていることが、カルキノスには気になって仕方がなかった。


『将軍が、勝手にどこかへ行こうとしたら、このわしが責任をもって取り押さえておく』


『そう? ……ほんとに? ごんごんごーん! って?』


『そうじゃ。ごんごんごーん! とな。うむ』


(絶対、あの約束を覚えてるな、メギロスさん……)


 ひそかに冷汗をぬぐう。

 実践されたら、頭蓋骨が割れかねない。


「いい? した、みたらだめだぞ! ふきつ・・・だから。わかった? それに、どっかいったらだめだぞ?」


「分かってるよ。……アクシネ、どうか、気をつけて」


「うん、うん」


「俺のことも、少しは心配せんかッ!」


 素早く抱き合った二人の横で、アクシネと同じ護符を巻かれたグラウコスが地団駄を踏む。

 彼は鎧を着ていたが、身に着けた武器は、短めの剣とナイフを一振りずつだけだった。

 戦場においては手放すことのない槍も、盾も、今回は携えていかない。

 これから彼らが行こうとする道は、植物に覆われた、人跡未踏の道なき道だ。

 長い武器や、かさばる盾は邪魔になる。


「もちろんだ。グラウコスも、気をつけて。……必ず、無事に戻ってくれ」


「おう!」


「じゃ、わたし、いってくるからな!」


 ぱっとカルキノスから離れたアクシネは、あっという間に身をひるがえし、風のように駆け出した。


「いこう、グラグラッ!」


「誰が、グラグラだッ!? わざとだろう、貴様! 待て、おいッ……!」


 たった二人の偵察隊を送りだした男たちは、その背中をいつまでも見送っていた。

 あとは、二人が無事に戻るまで、ひたすらここで待つのが彼らの役目だ。


 走り去るアクシネの背中に向かって、カルキノスの口がかすかに開いた。

 だが、彼はすぐに口を閉ざし、声をかけることはしなかった。

 メギロスの右手が静かに挙がった。

 彼は、固めていた拳を開き、分厚く硬い手のひらで、カルキノスの薄い肩を叩いた。



     *     *     *



「はやく、はやくう!」


 アクシネの声が響く。

 彼女は猟犬のように身を屈め、生い茂る藪のふちにそって、飛ぶように斜面を走り下っていた。

 やや遅れて、グラウコスが続く。


「ここっ!」


 アクシネは、まったく出し抜けにそう叫んだかと思うと、あっという間に頭から藪に突っ込み、姿を消した。


「なッ」


 グラウコスが慌ててそこへ駆け寄り、覗きこむと、藪の中に一箇所、辛うじてそれと判別できるていどの獣道が伸びているのが見えた。


「ここに、入るのかよッ……!」


 思わず声に出して呻く。

 グラウコスは、山に入るたぐいの仕事をしたことはこれまでにない。

 仮にも人間の通る道が存在する場所ならばともかく、こんなところに踏み込んでいって、無事に戻れるという気はまるでしなかった。

 特に、自分は、男だ。


「気高きアルテミス女神、森の獣たちの女主人よ、あなたさまの領域に踏み込む俺を、どうかお見逃しください、俺を無事にお返しくださいましたら、俺のまだ嫁いだことのない妹が織り上げました見事な帯を、あなたさまに奉納いたしますッ……!」


 この二日間で何度も繰り返した祈りを、早口で呟き、大きく肩で息をしてから、


「ふんッ!」


 覚悟を決めて、腕で顔をかばいながら、獣道に突っ込んだ。

 突き進むにつれて、自分のまわりでばりばりと枝葉がこすれ、折れる音がする。


「痛ェッ! ででででででッ」


 茨のようなとげのある枝が、肌を引っ掻いた。

 前が見えない。

 足元は急斜面だ。止まることもできない。

 前を進んでいるはずのアクシネが今、どこにいるのか、まったく分からなかった。

 勢いにまかせて突き進むうちに、何ともいえない不安が頭をもたげてくる。

 本当に、この方向でいいのか?

 まさか、アクシネは、どこか途中で曲がってしまったのでは――


「!」


 ざっと音がして、不意に視界がひらけた。

 密生していた藪を突き抜けたのだ。

 見上げれば、木々の梢が頭上をおおい、太陽の光をほとんど遮っている。それで、藪が終わったのだ。


 グラウコスは今、さらに下ってゆく斜面の、上のほうに立っていた。

 林立する幹と、ひょろっとした下生えや茂みが重なり合う中を、アクシネが後も見ずにものすごい速さで駆け下りていくのが見える。

 グラウコスは何とか追いつこうと、目の前に突き出していた枝を力任せに押しのけ、駆け出そうとした。

 途端に、押しのけた枝が跳ね返ってきて顔面に当たり、悪態をつきながら振り払う。


「くそッ! おいッ……アクシネ!」


 このままでは追いつけない。

 彼女を、見失う――


「おおおぉいッ! アクシネェ!」


 その声が届いたのか、遠くで、アクシネがぴたりと止まったのが見えた。

 くるりと振り向いてくる。

 彼女はそのまま、すごい勢いで斜面を駆け上がってきた。


「なに?」


 息も切らしていない。


「よんだな。なに?」


 繰り返し問いかけられて、グラウコスは、ぐっと言葉に詰まった。

 それがどんな道であれ、先を行く女に対して「自分には追いつけないから、もっとゆっくり進んでくれないか」と頼むなど、スパルタの男としての面子にかかわる。


「あぁ、その……なんだ」


 グラウコスは必死に考えを巡らし、彼女の足を止めるのにふさわしそうな話題を探した。

 結局、ひとつしか見つからなかった。


「カルキノスのことだが」


「カルキノス!」


 わざわざ呼び戻してまで、今、この場で言うべきことか? と他の相手にならば突っ込まれただろうが、アクシネは、嬉しそうな笑顔になった。


「なに?」


 グラウコスの横について歩きながら、わくわくした様子で問いかけてくる。


「いや、何というか……その……ええ……あれだ。最近、奴の調子はどうだ?」


ちょうし・・・・ってなに?」


「ええと……つまり……まあ……あれだ。夜の調子だな」


 最近結婚をしたばかりの相手と、何かちょっとした会話をするとなった場合、グラウコスが持ちあわせている話題といったら、ほぼこれだけしかなかった。

 男たちばかりの兵舎でならば、おおむね盛り上がる話題ではあったが、仮にも自由民の既婚の女性にこんな話題を振ったら、普通はとんでもないことになる。

 アクシネは、にこにこと首を傾げた。


よるの・・・ちょうし・・・・ってなに?」


「それは……だから、夜に……いや、すまん。もう、いい」


「よるー、よるー、よるーのちょーうしー!」


「歌うなァァァ!」


 この女には「恐れる」ということがないのだろうか、と、グラウコスは内心で舌を巻いた。

 死霊が待ちうけているかもしれないケアダスの下へ降りるというのに、まるで、弁当を持って野遊びにでも出てきたような気楽さだ。

 調子っぱずれの陽気な歌声がわんわんと辺りに響きわたり、それに誰かが聞き耳を立てているような気がして、


「静かにしろッ」


 グラウコスは声をひそめて怒鳴りつけ、両手で抑える仕草をした。


「歌うな、と、言っとるだろうがッ! 万が一、下に、誰かがいてみろッ。俺たちが近付いていることを、気取られてしまうだろうッ」


「だれかって、だれ?」


「それは……」


 頭によぎった名は、ひとつしかなかった。

 だが、それを口に出そうとして、グラウコスは、ぐっと言葉を飲みこんだ。

 その名を言葉として発することは、不吉だ。

 名を呼べば、死霊を招き寄せる結果になるかもしれない。


「何がいるか、いないか、分からんということだ。だから、もっと慎重に――あッ」


 アクシネが、急に駆け出した。

 話に飽きたのだろうか。

 反射的に伸ばした手は、彼女の体にかすりもしなかった。


「おい、こら、待てッ! あまり、俺から離れるなッ」


 慌てた呼びかけなど、耳にも入っていない様子で、アクシネは飛ぶように駆け下ってゆく。

 ほとんど足音も立てず、厚く積もった葉を舞いあげることもなく、まるで、狩りに心喜ばすアルテミス女神その方のように――


「だあああァ! くそッ、またかッ!」


 両手でばしんと自分の太腿を叩き、グラウコスも駆け出した。

 先を行くアクシネの足は一度も止まらない。

 長い髪が、ときどきひらりとひるがえるように動くのは、走りながら頭だけ動かして、周囲の様子を確かめているからだ。


(今、どっちへ向かっているんだ!?)


 アクシネのあとを追うことにのみ集中するうちに、グラウコスは、方向感覚をすっかり失っていた。

 ここまで、全体として下って・・・きたことは間違いない。

 だが、大きな岩や地面の盛り上がり、不意に立ち塞がる倒木や灌木の茂みなどをよけてうねるように進むうちに、今も、もともと目指していた方角に向かって進んでいるのか、それとも逸れているのか、まったく分からなくなっていた。

 太陽が見えれば、大まかな方角をつかむこともできるのだが、覆いかぶさる木々の梢がそれを許さない。

 だが、アクシネには、どちらに進むべきなのかがはっきりと分かっているらしかった。


 やがて、地勢が平坦になり、ますます方角がつかみにくくなったが、それでもアクシネは、優秀な猟犬がはっきりと獲物の臭跡をとらえたときのように確信をもった足取りで突き進んでゆく。

 グラウコスは、もはや物も言わずに走った。

 彼とて、鍛えあげたスパルタの男だ。姿さえ見失うことがなければ、追跡において相手に引けを取ることはない。

 たとえ重い鎧を着込み、剣をさげて、武装競走の何倍もの距離を走らされることになったとしてもだ。

 やがて、アクシネの足が、ぴたりと止まった。


「……ッ、は……ふッ……着いたッ、のかッ?」


 相当、息は上がっていたが。


「うん」


 アクシネはグラウコスのほうを見ずに、呟くように言い、木々の下から踏み出していった。

 二人の目の前に、言葉を失うほど圧倒的な高さで、白っぽい岩壁がそそり立っている。

 崖のすぐ下は、森が切れ、硬い岩盤が剥きだしになっている。

 ひどく見通しがよかった。

 視界をさえぎる木立はなく、鳥が落とした種から芽吹いた小さな灌木や、張りつくように生えた雑草の類が岩の表面にしがみついているだけだ。


「あそこ」


 しばらく崖に沿って歩いたところで、アクシネが声をあげて指さした。

 だが、今度は、彼女は駆け出しはしなかった。

 白っぽい岩盤の上に、それよりもなお白いものがばらばらと散らばっている。

 これまでに処刑された者たちの骨のかけらだ。

 二人は、ケアダスの底と呼ばれる場所に着いたのだ。


 グラウコスは、大きく息をつき、剣を抜き放った。

 アクシネは、斧を抜かなかった。

 崖の下に、動く者の姿はなかった。

 少なくとも、そのように、見えた。

 二人はとなりあって進み、崖の真下まで近づいていった。


「――見るな」


 出し抜けに、グラウコスが低く言い、アクシネの前に片手を突き出した。

 盛り上がった岩のかげから、黒っぽいぼろきれのようなものがのぞいていた。

 アクシネは、目を見開いた。


「グナタイナ」


 彼女が身に着けていた、衣だ。

 アクシネは、飛び出した。

 その腕を引っつかもうとしたグラウコスの指は、アクシネの衣のすそを引っ掻いただけだった。


「グナタイナ……」


 アクシネは呟いて、両腕をだらりと垂らした。

 黒い衣の中は、ほとんど空っぽだった。

 グナタイナの遺体は、獣と鳥に喰い荒らされ、もつれた髪の束がいくらかはりついた頭蓋骨の虚ろな眼窩が、ぽっかりとアクシネを見上げているだけだった。

 嫌なにおいが鼻をつき、たかっていた蠅が一斉に舞い上がった。


「グナタイナ、いない・・・な。いたのに、いなくなっちゃったな。

 さびしい……さびしいな。まえまで、いたのにな。もう、いない……」


 見開いた目から、ぽろぽろと涙がこぼれて、頭蓋骨の上に落ちた。


「おい」


 グラウコスが、アクシネを呼んだ。

 その声の響きが、あまりにも緊迫していたので、アクシネは涙をこすり、振り向いた。


「なに?」


アリスト・・・・メネスは・・・・どこだ・・・?」


 アクシネは、足元を見下ろした。

 黒い衣の残骸とともに散らばっているのは、グナタイナの骨だけであるように見える。

 ――いや、違う。

 岩陰に、黒光りする蛇の抜け殻のように、鉄の鎖がわだかまっている。


「どこだ……くそッ、獣に持っていかれたか? おい、アクシネ! お前もよく見ろッ」


 先ほどとまったく反対のことを言っておいて、グラウコスは地面に這いつくばり、敵将の死体の痕跡を探した。


「くさり、ゆびがない、くさり、ゆびがない……」


 アクシネも、繰り返し覚えさせられた言葉をぶつぶつ言いながら、グラウコスと一緒になって探した。

 やがて、グラウコスが立ち上がった。

 アクシネも、真似をして立ち上がった。


「アリストメネスが……消えた……」


 グラウコスは、呆然と呟いた。

 骨も、肉も、跡形もない。

 消えてしまった。


「きえた? ……いなくなった?

 でも、グナタイナみたいにじゃなくて……どっか・・・いった・・・?」


 アクシネは、わけがわからない、という顔をしている。


「なんで?」


「俺に訊くな」


 グラウコスは崖の上を見上げ、足元を見下ろし、さらに辺りを見回した。

 アリストメネスが落ちた場所は、グナタイナの遺骸からも、鎖からも、まさにここ・・と見てまず間違いない。

 周辺には、血の痕はなかった。獣たちが舐め取ったのだろう。

 肉や骨も、獣や鳥がくわえて持ち去ったのかもしれないが、それでも、一部は残るはずだ。グナタイナの遺体がそうであるように。

 だとすれば、奴は――


「あっ」


 アクシネが不意に片手を上げ、指さした。

 急峻な崖の壁面を、茶色っぽいものが動いている。

 キツネだ。

 下から見上げた崖面は、ほとんど垂直のように見えるが、よくよく見れば、手がかり足がかりになるような凹凸もある。

 キツネは、そんな足場を巧みに選び、慣れた様子でひょいひょいと左右に折れながら崖を登り切って、姿を消した。


「まさか……」


 グラウコスは崖の直下まで近づき、壁面の様子を調べていった。


「血の痕だ!」


 大人の男の身長よりもわすかに高いほどの位置に、血痕が残っていた。

 わずかに壁面が出っ張った箇所。

 不明瞭だが、確かに血の痕だ。

 まるで、誰かが、血に濡れた指をそこにかけたかのように見えた。


「奴は……この崖を登り、逃げた……?」


 だが、そもそも、この高さを落ちて生きているということがあり得るのだろうか。

 仮に即死を免れたとして、野生の獣ならばともかく、人間の身で、この崖を這いのぼることなど、本当にできるものなのか。


「ここから、左右の崖の下を調べる。もしかすると、奴は、崖を登ろうとする途中で力尽き、ここから離れた場所に落ちたのかもしれん」


 二人は、崖の下に沿って歩き、アリストメネスらしき男の死骸、あるいは痕跡が残されていないかを入念に調べた。

 だが、それ以上は、なにひとつ見つからなかった。

 メッセニアの将は、跡形もなく姿を消してしまったのだ。


『スパルタの男どもよ、聞け! 俺は、決して死なんぞ!

 俺たちが皆、再び自由を手にする日まで!

 自らの土地に暮らし、自らの歌を歌い、自らの歴史を語ることができる日まで!』


「あの野郎ォ……」


 ぎり、とグラウコスの歯が鳴った。

 その目に、凄まじい闘志が宿っている。


「奴隷の分際で、無駄に根性見せやがるじゃねェか、くそったれがァ……今度は、俺が、この手で刺し殺してやる。二度と、この世に舞い戻れんようになァ!」


 アクシネは、グラウコスのかたわらに、ひどく静かな顔つきで立っていた。

 何を考えているのか、見ただけでは分からなかった。


「おい、アクシネ」


「……なに?」


「埋めてやろう、その女を」


 アクシネとグラウコスは、グナタイナの亡骸を集め、黒い衣に包んで運んだ。

 他の死者たちを刺激することのないよう、崖の下から離れ、森の奥まで戻る。

 グラウコスが木切れで穴を掘り、アクシネが、その中にグナタイナの亡骸を入れた。

 土をかけて亡骸を埋め、石を集めて上に積み、墓とする。


「こいつを注ぎかけろ」


 グラウコスは、腰にさげてきた袋をアクシネに渡した。

 中には、葡萄酒や乳、蜂蜜などを混ぜた死者に供える飲み物が入っている。

 アクシネは、何か言いたそうな表情をしたが、何も言わなかった。

 渡された革袋を持ったまま、じっと立っている。


「おい」


「なに?」


「お前は……死んだ奴は、飲み物なんぞ、飲まんと思ってるんだろ」


 いつになく静かな口調で、グラウコスは言った。


「だが、やっておけ。弔いの儀式だ。

 あの女も、あの世で喜んでる。そう思えば、少しは、さびしくない気がするだろう?

 それに……いつか、自分が死んでも、誰かがこうしてくれると思えば、安心してあの世へ行ける」


「……もういないひとは、なにも、のまない。それに、なにも、おもわない」


 アクシネは、静かに言葉を返した。


「グナタイナは、いなくなって、からだはたべられた。つちにうめられた。……だから、つちに、のみものあげる? わからない。

 グナタイナはもういない。さびしいきもちは、へらない」


 そう言いながらも、アクシネは革袋の栓をあけ、その中身をグナタイナの墓の上にどぼどぼと注いだ。


「グナタイナのほね、ここにある。……アリストメネス、どっかいった」


 空になった袋を振りながら、アクシネは呟いた。


「きいたら、カルキノス、びっくりするな。こわいかおするな。……それで、また、どっかいっちゃうかもしれない。アリストメネス、やっつけるっていって、どっかに……」


 ぐしゃりと袋を握り潰し、アクシネはグラウコスを振り返った。

 涙を流しながら、グラウコスに掴みかかるようにして、叫んだ。


「どうしよう、どうしよう! カルキノスが、どっかいって、いなくなっちゃったらどうしよう!? いやだいやだいやだ! いやだああああああぁ」


「……嘘つくか?」


 馬鹿たれ、うるさい、黙らんか、我儘を言うな――

 そう怒鳴りつけるかわりに、グラウコスの口からこぼれたのは、そんな一言だった。


「う、そ?」


「ああ、そうだ。お前は、そのほうがいいんだろう?

 アリストメネスの死体は、ちゃんと崖の下にあった。あいつは、確かに死んでた。

 そう言って……俺とお前で、嘘つくか?」


 アクシネは、しばらくのあいだ、ぽかんとしてグラウコスの目を見つめ返していた。

 やがて、不意に、その眉がぎゅうっと寄る。


「わたし、カルキノスにうそつかない」


 アクシネは目を半眼にし、口をひん曲げて、グラウコスを指さした。


「わるいな! グラグラ、うそつき! わるいなー」


「お前のために言ってやったんだろうがッ!」


 こんかぎりの大声で怒鳴っておいて――

 グラウコスは、肩で息をしながら、にやりと笑った。


「まあ……確かに、そうだな。黙ってるわけにはいかん。

 スパルタの全力をあげてアリストメネスを探し出し、今度こそ確実にあの野郎の息の根を止めなきゃ、俺たちは、死んでいった奴らに顔向けができん……」


 言って、グラウコスは、部隊の仲間にするようにアクシネの肩を叩いた。


「アクシネ。カルキノスのことが心配な気持ちは、分かる。だが、この先、あいつが何かしようとしたら、やらせてやれ。あいつを止めるな。

 あいつは、背負ってるんだ。ゼノンや、お前の兄貴や、グナタイナたちのことを。スパルタのために……死んでいった者たちのために、託された願いを、果たさなきゃならんと思ってるんだ……」


「わたしも」


「うん?」


「わたしも、せおってる」


 アクシネの両目が、グラウコスをまっすぐに見つめている。


「それは、おぼえてるっていうこと。わすれないっていうこと。わかる。おんなじ。しんでいなくなったひとたち、みんなのこと……わたしも、せおってる・・・・・


 グラウコスは、口を開こうとした。

 男には、戦わねばならない時がある。

 それは、女には分からないだろう、と。

 ――だが、


「そう、だな」


 その表情が、ふっと緩んで、彼は言った。


「同じ、か。……俺もだ。俺たちは、皆、同じ重さを背負っている……」


「おんなじ、おんなじ! グラグラもおんなじ!」


 アクシネはひらひらと踊るような身ぶりをして嬉しそうに跳びはねたが、やがて、ぴたりと止まった。


「わたしは、カルキノスに、しんでほしくない」


「ああ、俺もだ」


「……たくされた・・・・・ねがい・・・って、なに?」


 アクシネの言葉に、グラウコスは、この上もなく美しく脆い宝について語るような表情を浮かべた。


「平和だ」




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