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勇気ある者


 一瞬、しんとした。

 一瞬だけ。


「……まさか」


「そうだ。ケアダスの、底に下りる」


「不吉じゃ!」


 火山の爆発のように、動揺の声が噴出した。


「冥府へ降りるのと同じことぞ」


「そこに横たわるのは、怨みを残す者たちの骨じゃ」


「引きずりこまれ、二度と戻れぬやもしれぬ!」


「大丈夫」


 カルキノスの力強い保証に、スパルタの男たちは再び黙りこんだ。

 説得されたというよりも、呆気にとられたというようだった。

 そんな彼らの顔を順に見渡し、


冥府降りカタバシスも、冥府からの帰還アナバシスも、俺は、もう済ませてきた」


 カルキノスは、そう言って、笑ってみせた。

 骨の海。

 そこで踊るように跳ねまわる、アクシネの姿。

 あの場所から戻った今、もう、恐ろしいとは感じなかった。


「いや……しかし」


「行った者本人の話だけで済むのならば、まだしも!」


「そうじゃ。死霊の怒りを目覚めさせれば、スパルタ全土に災いが及ぶかもしれぬのだぞ!」


「恐ろしい……」


恐ろしい・・・・?」


 カルキノスがその言葉を聞きとり、繰り返した瞬間、男たちの声は三度、ぴたりと止んだ。


「……その通りじゃ」


 やがて、意を決したように、長老の一人が言った。


「我らは、地上の敵の何ものも恐れはせぬ。

 しかし、天上の神々と、地下の者たちは、戦うことのできる相手ではない!」


「そうだ……人を超えたものが、相手では」


「捧げ物をして、怒りを宥めるしか、方法は……」


「皆さん、落ち着いて!」


 カルキノスは、再び、ぱんぱんと両手を打ち合わせた。


「また、話が後戻りしているじゃないですか。

 ついさっき、アリストメネスは生きて・・・いる・・かもしれない、という話になったんですよ?

『我らは、地上の敵の何ものも恐れはせぬ』――今、そこの方は、そう仰ったではないですか!

 まさに、その通り。アリストメネスが生きているとしたら、その相手を恐れ、捧げ物をして震えているなんて滑稽だ」


「しっ……しかしじゃな! 奴の生死は不明・・じゃ! 万が一、本当に、死霊であった場合は――」


「それなら、もう今の時点で出てきて人を襲うくらい怒ってるから、今からこちらがケアダスに降りて行こうがどうしようが、同じでしょう」


「…………おう」


 虚を突かれたような顔で、男たちは黙った。

 言われてみれば、その通りだ。


「ケアダスの底には、アリストメネスだけではなく、他にもたくさんの死者が横たわっているのでしょう。彼らについては、その眠りを覚ますことがないよう、じゅうぶんに配慮します。

 それこそ、供養のための捧げものを持っていって宥めたっていい。

 彼らの死については、俺は、何も関係がないのだから、万が一のときにも、見逃してもらえる可能性は高いでしょう」


 もう何度目になるのか、男たちは、押し黙った。

 だが、これまでの沈黙とは、質が違っている。


「カルキノス将軍」


 やがて、一同を代表するように進み出たのは、これまで一言も喋らずに話のなりゆきを見守っていたアナクサンドロス王だ。


「スパルタに、勇敢な男たちは数知れずといえども、将軍ほどの勇気を持つ男は、これまでにいなかったかもしれぬな」


「本当に、その通りだ!」


「カルキノス将軍を讃えよ!」


「しかし、まさか、ケアダスの底に降りるとは」


「蛮勇かもしれませぬぞ……」


 そう呻く声もあるにはあったが、場の雰囲気は、カルキノスの作戦を実行するほうに大きく傾いた。


(これでよし……)


 嵐のような賞賛と、少しの疑念の混じったどよめきに囲まれ、自信に満ちた表情を崩さずにいながら、カルキノスは、心の中で一筋の汗を流した。


(さて……問題は、どうやって降りるのか、だ)


 ケアダスの底に降りて事実を確かめる以外に方法はない、という考えは、最初から一貫している。

 だが、そのための具体的な方法については、まだ、何も考えていなかったのだ。


 右脚のよく動かない自分が、蜘蛛のように崖にとりつき、這い降りてゆくのは問題外。

 だとすると、どうすればいい?

 籠か何かに乗って、それを長い縄でぶら下げ、下まで降ろしてもらうことにしようか。


(でも、なんか、やばそうな気がするな、この方法……)


 ケアダスの深さを知る者はいないというが、処刑のために使われるようになるほどの崖である。

 大昔、最初にその場所を選んだ者たちは、きっと、底を覗きこみ、ここならば誰も生きては帰れまいと判断したのだろう。

 それほどの深さがあるのに、底まで届くような縄が、用意できるだろうか。


 何本かの縄を縒り合わせ、結び合わせれば、じゅうぶんな太さと長さをもった縄を作ることは、不可能ではないだろう。

 だが、縄が長くなればなるほど、危険もまた大きくなる。

 何かに絡まってしまうのではないか。

 風に煽られて大きく揺れ、崖の縁にこすれて切れてしまうのではないか。

 あるいは、弱い結び目の部分に負担がかかり、そこから、ほどけてしまうのではないだろうか。

 そもそも、途中で長さが尽きてしまう、という可能性も――


「して、将軍」


 考えが何もまとまらないうちから、アナクサンドロス王が話しかけてきた。


「いかにして、ケアダスの底に降りる考えかな?」


「ええ……」


 それを訊くのは、もうちょっと待ってほしかった。

 今回もアナクサンドロス王と事前に打ち合わせをしておけばよかったな、と後悔しながら、カルキノスは曖昧な声を発した。

 だが、その後が続かない。


(まずい)


 何でもいいから、何か、言わなくては。

 今は期待に満ちた目で見つめてきている男たちの視線が、戸惑いと不審に変わるまで、あと数呼吸ほどの時間もないだろう。

 ここで明確な方針を打ち出すことができなければ、せっかく、ここまでまとめ上げてきた話が、全部、無駄になってしまう――


「それはですね。つまり」


 唇をなめた。

 何も、思いつかなかった。

 仕方がない。

 ここはひとまず、長い縄にぶら下げられて降りる案を出すしか――


「いってあげようか?」


 不意に、そんな声が響き、男たちはぎょっとしてあたりを見回した。

 朗らかで、優しく、嬉しそうな声。

 一同の視線がはっと集中した先、カルキノスたちがいる場所からほんの十歩と離れていない物陰から、その人物はひょっこりと姿を現し、手を挙げていた。


「わたし、いってあげようか?」


「アクシネかッ!」


 男たちの議論の中に、女が混じることなど、普通は考えられない。

 激しいどよめきの中、怒声を発したのは、グラウコスだ。


「貴様はッ、ぬわぁにを平然と、そんなところに紛れこんどるんだッ!?」


 広場の外では、いつのまにか木の上から姿を消したアクシネを必死に探しまわっていたキュニスカが、こちらの騒ぎに気付いて、地団駄踏んで怒っていた。

 その姿は、カルキノスたちのいる場所からは見えなかったが。


「こらッ、さっさと出ていけ! 女は、おとなしく外にいろッ!」


「むりー」


 物陰から飛び出したアクシネは、男たちの誰にも背後に回り込まれないよう、抜き身の斧を手にしてじりじりと移動しながら油断なく身構えていた。

 だが、その顔は、にこにこしている。


「だって、みんな、いいかんがえ、ないなー。だから、わたしがいう! ……まわったらいい!」


 誰もが、一瞬、無言になった。

 カルキノスを含め、この場にいる誰ひとりとして、アクシネの言葉の意味が分からなかったのだ。


「ま・わ・る。ほらあ、こう!」


 まるで幼い子供に教えるような調子で、アクシネはゆっくりと言い、指で、空中に大きく半円を描いた。


「こうやってな、ぐるーっといく。そしたら、いける、いける!」


「……そうか」


 最初に彼女の意図するところを掴んだのは、アナクサンドロス王だった。


「崖を垂直に降りるのではなく、迂回し、ケアダスの下側へ回り込むということだな?」


うかいし・・・・って、なに?」


「む? つまり……こう……ぐるーっと、いくのだ」


「そう、そう、そう!」


 アクシネと同じように指を動かしてみせたアナクサンドロス王に、彼女は、心から嬉しそうに跳びはねた。


 男たちは、顔を見合わせた。

 確かに、物理的には、可能な作戦だ。

 可能どころか、崖を垂直に這い降りたり、縄で降りたりするよりも、よほど落下の危険が少ないと言える。

 落ち着いて考えてみれば、これこそが、最も安全な策なのではないか。


「でも、アクシネ!」


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 思わず声をあげたカルキノスを、アクシネは振り返り、安心させるように笑いかけた。


「カルキノス、あし、うごかないな。わたしのあし、よくうごく。だから、あぶなくない。だから、わたしがいく!」


 論理的だ。


「しかし……このような重大な役目、女が行くなど!」


「だれ? いまいったの、だれ? いったやつ、いく?」


 ――しんとした。


「よし! だから、わたしがいく! しごと、しごと、しごと!」


「アクシネさん」


 はしゃぎまわるアクシネに、アナクサンドロス王が、ゆっくりと声をかけた。


「あんたは、ケアダスの下へ回る道を、知っておるのかな?」


「うん! ううん! しってる。しらない」


 王からの質問に、アクシネは、よくわからない返答をした。

 だが、すぐに、自分で言葉を補ってみせた。


「わたしはなー、がけのうえまで、みち、しってる。このまえのよる、のぼった。

 だから、あそこから、ぐるーっとまわればいいだけ! いったことない。でも、わたし、やまのなか、わかる。どっちにいったらいいか、よくわかる。みちにまよわない」


「貴様は、アリストメネスの顔を――」


 グラウコスが言いかけて、口を噤んだ。

 処刑の夜、アクシネが、アリストメネスと激しい口論を戦わせたことを思い出したのだ。


「しってる」


 アクシネは当たり前のように頷いて、それから、ちょっと顔をしかめた。


「でも、きっと、もうくさってる・・・・・な。みても、よくわからないな。たぶん、ぐちゃぐちゃーってなってるな、ぐちゃぐちゃーって」


 言いながら、わしゃわしゃと両手の指を動かしてみせる。

 スパルタの男たちは眉を寄せ、またもや、場がしんとした。

 くさってる・・・・・様子を具体的に想像したから、だけではない。

 アクシネの言うとおりだった。


 首尾よくケアダスの底まで降り、崖の下に死体を見出すことができた、とする。

 だが、顔を見分けることが不可能であった場合、それが確かにアリストメネスの死体であるかどうかを、どうすれば確認することができるだろう?


「鎖じゃ!」


 メギロスが、力強く言った。


「たとえ肉が腐れ落ち、鴉や狐の餌食となっていようとも、奴の身を縛った鉄の鎖は、そのまま残っているはず。それを確かめれば、奴が確かに底まで落ちて死んだということは明白じゃ」


「……くされ・・・?」


くさり・・・じゃ」


「こういうやつだッ!」


 横から、思わず、人差し指と親指とで作った輪を交互につなぎあわせて、グラウコス。


「くさり、くさり……くさり! ああ、わかった」


「それから、奴の死体の左手には、指がない」


 斥候の束ねの男――ピュラキダスが、ぼそりと付け足した。

 全員が、声に出さずに「それだ」と目を見開き、指をさす。

 本人の死体かどうかを特定するのに、これ以上、具体的で確実な条件はない。


「くさり、ゆびがない、くさり、ゆびがない。よし! わかった」


「アクシネ……」


 満足げなアクシネに、カルキノスがもう一度、声をかけようとしたときだ。


「アナクサンドロス王よ!」


 どんどん進む話の勢いに押し流されるかたちとなっていた長老の一人が、とうとう、大声をあげた。


「本気ですかな? 王は本当に、この気のふれた女に――あ痛っ!」


 ごちんという音とほぼ同時に悲鳴があがり、言葉が途切れる。

 からからと音を立てて地面に転がったのは、太い杖だ。


「すみません、手が滑りました」


 手にしていた杖を力いっぱい長老の後頭部に投げつけたカルキノスは、いたたたた、と頭を押さえている長老に向かい、静かに言った。


「俺の妻は、すごく勇気があるんです。確かに、まあ、ちょっと、あれなところはあるけど……大丈夫です。絶対に、信用できます」


「つまってなに?」


 アクシネが、にこにこと言った。

 少し前に、まったく同じ質問をされた気がする。

 さっきの「鎖」と「左手の指」の件は、本当にアクシネの頭に入ったのだろうか。

 やや不安になりながらも、カルキノスは、アクシネに優しく微笑みかけ、答えた。


「俺と、君は、結婚してるってことだよ」


「そうかあ! じゃあ、あれなところ・・・・・・ってなに?」


「それは……ええと……うん。君は、ちょっと変わってて、すごいってこと」


「そうかあ!」


 あっさりと――もしかすると、どうでもいいと思っているからかもしれないが――納得し、アクシネは目を輝かせて男たちを見回した。


「いつ、いく? いま? ごはんたべてから? ……あっ」


 アクシネは、急に言葉を切り、両腕をだらりと垂らした。

 花がしぼむように、その表情から、急速に光が失せていった。


「だめだった。……わたし、カルキノスといっしょにいるんだった。

 だから、いけない……しごといけない」


「アクシネ」


 カルキノスは、男たちが目を剥くのも構わず、彼女の目の前に歩み寄り、衆人環視の中で、妻の両肩にそっと手を置いた。


「お願いだ。君が、このしごとをするのに、一番の適任なんだ。

 アルテミス女神さまの御加護を受けて、ひとりで山を駆け回り、山を知り尽くしてきた君にしか、きっと、この役目は無理だ。頼む……」


 言いながら、カルキノスは、自分のずるさに吐き気がするような気がした。

 自分は、アクシネの純粋さに甘えている。

 彼女のしごとへの情熱と、カルキノスがしたいことを手伝ってやろうという優しさをいいことに、利用しようとしているのだ。


 アクシネ自身が言い出したこととはいえ、ケアダスの下に彼女を行かせようとするなど、とんでもない。

 あそこには、グナタイナもいるのだ。

 その変わり果てた姿を、アクシネが目にしたとき、どれほどの哀しみが彼女を襲うことになるか。

 だが、それでも――


「どうか、行ってくれ。俺は待ってる。

 本当は、俺が行くべきなんだ。でも、君の言う通り、この脚じゃ、藪の中を突っ切って崖の下まで回り込むのは難しい。一緒に行くのも、かえって足手まといだろう。だから……」


 言いながら、カルキノスはふと、何かを理解したような気がした。

 哀しみが待つであろう場所へ、危険が襲うかもしれない場所へ、愛する者を送りだすこと。

 夫たちを、息子たちを、兄や弟を、戦場へ送り出す女たちは、今の自分と同じような感情を抱くのだろうか。


(嫌な、気分だな……)


 心配でならない。行かないでほしい。

 だが、引き留めることはできない。

 スパルタのために、役目を、果たしてもらわなければ――


(すまない、アクシネ)


「俺は、ここで待ってるから。お願いだ。行ってくれ」


 アクシネは、しばらく黙っていたが、


「ほんとに?」


 やがて、ほとんど口づけをするのではないかというくらい顔を寄せて、カルキノスの両目をのぞきこんだ。

 ふしだらな! と騒ぎ出しかけた長老の後頭部を、グラウコスがすばやくはたき、瞬時に元の姿勢に戻って知らん顔をする。


「カルキノス。ほんとに、ほんとに、わたしのこと、まってる?」


「うん」


「わたしがいってるあいだ、どこにもいかない?」


「うん」


 心の底からの誓いをこめて、カルキノスは頷いた。


「俺は、ずっと、崖の上で待ってる。崖の下から、君が呼んだら、すぐに返事をするよ」


 アクシネはしばらく頭を傾けて、なおもしばらく、何事か考えているようだったが、


「……なあ、グラグラー」


「グラウコスだッ!」


 呼ばれて――いや、正確には呼ばれていなかったが、地団駄を踏まんばかりに、グラウコス。


「わざとか、おいッ!? それは、わざとだな、貴様ッ!?」


「グラグラ、カルキノスといっしょにいてくれる?」


 横から詰め寄るグラウコスの剣幕にも一向に動じず、アクシネは、カルキノスの目をまっすぐに見つめたままで呟いた。


「それで、カルキノスが、どっかいきそうになったら、えい! ってやってくれる?」


「……えいッ? 何だ、それは」


「ほらあ」


 怪訝そうなグラウコスに、アクシネはもどかしそうに向き直り、拳を固めて、思いきり振り下ろす仕草をしてみせた。


「こうやって、えい! ってやって、おさえといてくれる? カルキノスが、また、どっかいかないように」 


「えっ……それって、俺、死ぬんじゃ」


「ははあ、なるほどな。よおし! 分かったッ!」


 カルキノスの不安げな呟きを耳に入れた様子もなく、グラウコスはにやりと笑い、力強く請け合った。


「任せろッ。こいつが、どこかへ行きそうになったら、俺が、えいッ! とやって、押さえつけておくからなッ!」


 と、岩のような拳を固めて振ってみせる。


「や、だから、それ、俺が死……」


「じゃあ、あんしん、あんしん!」


 カルキノスの控えめな呟きは一切耳に入っていない様子で、アクシネは晴ればれと叫んだ。


「いつ、いく? いま? ごはんたべてから?」


「……いや。ちょっと、待ってくれ」


 今にも飛び出していきそうに足踏みをしているアクシネを、カルキノスは、あらためて押しとどめた。


「グラウコス」


「何だ?」


「いや、聞きたいことがあるんだけど。

 君は……君たちは、俺を助けにきてくれたとき、どうやって、あの崖の下まで来た? アクシネが言ってるみたいに、回り込んできたのか?」


「お? ……おう。その通りだ。というか、お前もその道を……あ、そうか」


 グラウコスは一人でぶつぶつ言い、勝手に納得した。

 あの場所からの帰り道、カルキノスは安堵と疲労のあまり、グラウコスの背中におぶわれた途端に気を失ってしまい、自分がどんな道をたどって帰ってきたのか、知らないままでいたのである。


「お前が考えとる通りだ。アクシネが先に進んで、道を探し出し、俺がその後に続いた」


「そうか」


 自分がこれから言おうとしているのは、恐ろしく身勝手なことであると自覚する。

 カルキノスは、グラウコスの目を見つめ、言った。


「なら、今回も、君は、アクシネと一緒に行ってくれないか」


「…………なにいッ!?」


 普段からぎょろりと大きな目が、転げ落ちんばかりに見開かれた。

 俺がかッ!? と自分を指さし、口をぱくぱくさせているグラウコスに、


「本当に、すまない! いや、もちろん、俺は、何事もないとは思っている。でも……万にひとつ、何かが起こったとき、アクシネだけでは対処しきれないかもしれない。全ての可能性に、備えておく必要がある」


 その太い腕をつかみ、カルキノスは一気に言うと、ぐっと声をひそめ、懇願するように囁いた。


「もしも……何かが起きたとき、他の誰も、アクシネのことをちゃんと守ってはくれない気がするんだ。

 君になら、頼める。アクシネを……」


 すまない。お願いだ。

 後半はもはや声にはならならかった言葉を、グラウコスは、聞きとってくれたのかどうか。


「なるほどな」


 彼は、カルキノスが掴んでいた腕を大きく動かし、振りほどいた。

 その腕を組み、ふんぞり返った。


「そういうことなら……仕方がない。行ってやるッ!

 ケアダスだろうと、どこだろうと、お前が恐れないという場所を、俺が恐れる理由はない」


 おお、と男たちのあいだから驚嘆のため息が漏れた。

 拍手も起こる。


「ま、待て待て待てッ! ただし、今すぐこの場から出発というのは、無理だぞッ!? きちんと神々の神殿で護りの品をいただいて、死者への供物を用意してから出発するッ!

 あと、俺の拳が通じる相手ならいいが、それ以外の、なんかよくわからんやつが出てきたら、すぐにアクシネをひっつかんで撤退するからな!?

 ……あ、逃げる・・・んじゃないぞ。あくまでも、撤退だッ!」


「グラウコス……」


「心配ない」


 男たちのほうに視線を向け、口々に投げかけられる激励の声に片手を挙げて応えながら、カルキノスにだけ聞こえるていどの声で、グラウコスは囁いた。


「何が出ようが、絶対に、俺が、こいつを守ってやる」


「だめ、だめ、だめ!」


 ひとり慌てて叫んでいるのは、アクシネだ。


「グラグラは、うえで、カルキノスをみてないといけない! それで、カルキノスがどっかいきそうになったら、えい! ってやらないといけない!」


「お嬢さん。その役目は、わしが引き受けよう」


 アクシネの後ろから、荘重な声がかかった。

 メギロスだ。


「いや、失礼。もう、お嬢さんではなく、奥方じゃったな。

 カルキノス将軍の奥方よ、安心しなされ。将軍が、勝手にどこかへ行こうとしたら、このわしが責任をもって取り押さえておく」


「そう? ……ほんとに? ごんごんごーん! って?」


「そうじゃ。ごんごんごーん! とな。うむ」


「いや、だから、それ、俺が死――」


「じゃあ、あんしん、あんしん!」


 カルキノスの呟きをかき消して、アクシネは歓声をあげ、勢いよく跳びまわった。


「しごと、しごと、しごと! やった! グラグラ、いつ、いく? いま? ごはんたべてから?」




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