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広場にて

 広場アゴラは、大混乱に陥っていた。

 誰もが自分の聞いたことを囁き合い、あるいは声高に伝えあっている。

 スパルタの男の美徳とされている「寡黙さ」を、皆が揃ってどこかへ置き忘れてしまったような有様だ。


「いったい、何が、どうなってる?」


「分かりません」


 カルキノスからの問いかけに、開口一番そう答えたのは、斥候の束ねの男――今はキュニスカの婚約者であるピュラキダスだ。

 彼と顔を合わせることがあったら、もちろんまずは婚約を祝う言葉を述べようと思っていたのだが、いまや、まったくそんな場合ではない。


 アルカディア、そしてメッセニアと国境を接するベレミナの集落が襲撃を受けた。

 その襲撃部隊を率いていたのが、先日処刑されたはずの、メッセニアのアリストメネス将軍だったというのだ。

 ありえない話だった。

 それとも、古代の英雄たちのように、本当にアリストメネスがこの世に戻ってきたというのだろうか?


「そんな、馬鹿な!」


「だが、ベレミナに住む者の多くが、その姿を見たというぞ」


「まさか! 見間違いに決まっている!」


「だが、奴は、ケアダスで言っていたではないか。自分は『死を認めぬ者』であると……」


 一人がそう口にすると、側にいた者たちは皆、背筋に寒いものでも感じたように押し黙った。


『この肉体が刺し貫かれ、砕かれても、魂は、冥府には行かぬ。

 俺の血を受けたスパルタの大地を、俺は永劫に穢し続ける。

 俺は、スパルタの滅びるときまで、暗い夜にお前たちの家の戸口に立ち、お前たちを殺し、お前たちの息子を殺す!』


 あの夜、ケアダスの上で処刑に立ち会った者たちの記憶には、アリストメネスの声が一言一句、その響きまでくっきりと焼きついていた。

 怨みを残して死んだ者が、死霊となってこの世に姿を現すという例は、遠い昔から数多く語り継がれている。

 実際にその姿を見た、声を聞いたという話も多い。

 それが、本当に――?


(現場で話を聞いたほうが、はやいな)


 不吉そうに黙りこんだ男たちの様子を見ながら、カルキノスはそう思った。

 彼は、冷静だ。

 処刑の場面を、直接目にしていないからこそ、生々しい恐怖にとらわれることなく状況を判断することができる。


『襲撃者を率いていたのは、メッセニアのアリストメネス将軍だった』


 ベレミナの集落が襲われ、伝令がそういう報告をもたらしたことは事実だ。

 だが、今のところ、それが本当にアリストメネス将軍だったという証拠は何ひとつ挙がっていない。


 本来ならば、こんなところで議論をしているよりも、実際にベレミナに赴いて住人たちの話を聞き、詳しい状況を確かめ、現場の痕跡をあらためたほうがずっと有益だ。

 だが、実際に行って確かめようにも、襲われた集落ベレミナはかなり遠い。

 今、カルキノスたちがいるスパルタ市からの距離としては、かつてキュニスカたちが攫われたカリュアイの村とほぼ同じようなものだ。

 現にこちらまでベレミナからの伝令がやって来た以上、まずは、その者の話をしっかりと聞く必要がある。


(で、その伝令は、どこにいるんだ)


 やや遅れて広場にやってきたカルキノスは、まだ、伝令本人の姿さえも見ていないのだ。


 ちなみにアクシネは、キュニスカに付き添い――というよりも目付を頼み、広場の外に置いてきた。

 アクシネはなかなか承知しようとしなかったが、カルキノスのことは遠くから見ていればいいから、とキュニスカに説き伏せられ、しぶしぶ頷いたのだった。


『じゃあ、ここからみる』


 と、手近の木にするすると登っていったから、今頃は、その木の梢から、こちらの騒ぎを見守っているのだろう。

 ここから彼女の姿が見えるだろうか、とちらりと視線を向けたが、分からなかった。

 いや、今は、そんな場合ではない。


「すみません。あの、すみません!」


 カルキノスは杖を振り回し、大声をあげた。


「伝令の方は、どこにいるんです? ぜひとも、直接、話が聞きたい!」


「彼は今、ここにはおらぬ」


 答えたのは、近くにいた長老たちだ。


「頭の傷からの血が止まらず、駆けつけるが早いか、その場に倒れてしもうてな」


「えっ。まさか」


 嫌な予感に、カルキノスは眉を寄せた。

 その表情に気付き、長老たちが片手を振る。


「いや、死んではおらぬ、まだ。多分な」


「向こうでとりあえずの手当てをして、馬を飛ばしてきたようじゃが、ここまで来るあいだに、巻いた布がずれて傷が開いたんじゃな」


「今、医者の手当てを受けておる。持ち堪えてくれるとよいが……」


(ベレミナは、怪我人を伝令に送りだすしかないような状況なのか)


 カルキノスは、ますます眉を寄せた。

 壮健な男が誰も残っていないというのならば、事態は極めて深刻だ。

 すぐにでも部隊を送り、負傷者の救護と、集落の防衛にあたらせなくては――


「彼が、戻ったぞ!」


 人ごみの端がざわつき、頭に真新しい布を巻きつけた男が姿を現した。

 その顔は拭き清められ、汚れてはいなかったが、衣にべっとりと染みこんだ血はそのままだ。


「大丈夫か」


「申し訳ありません。見苦しいところをお見せいたしました」


「いや」


 流血沙汰には慣れた男たちだ。

 それ以上、気遣いの言葉が投げかけられることもなく、血まみれの衣を着た本人も平然と立っている。


「ゆっくり休んでいてもらいたいところだけど、そうはいかなくて申し訳ない。

 さて、聞かせてもらいたいんだが」


 さっそく、カルキノスが口火を切った。


「君たちの集落ベレミナを襲ったのは、アリストメネス将軍が率いる一隊だったんだな?」


「はい」


「君は、アリストメネスの姿を、その目で見た?」


「はい」


「それは、本当に、アリストメネスだったのか?」


 その質問に、伝令の男は、黙りこんだ。

 命がけでもたらした報告に対し、いきなり真っ向から疑念を呈されて、気を悪くしているのかもしれないが、それを表情から読み取ることはできなかった。


「いや、気を悪くしないでほしいんだが」


 カルキノスは続けた。


「質問を変えるよ。君は、その、アリストメネスだという男の顔を見たのか?」


「……いいえ」


 男は、ようやく、口を開いた。


「顔は……見た、とまでは」


「よく見えなかった?」


「はい。兜に隠れて、はっきりとは」


「そうか。では、君は、なぜ、その男がアリストメネスだと考えたんだ?」


「盾です」


 伝令は、すぐさま答えた。


「盾に描かれた模様は、はっきりと見えました。翼を広げた鷲です。アリストメネスの盾に描かれていたのと、同じ模様です」


「なるほど」


 頷き、ふと気になることがあって、カルキノスは振り返った。


「アリストメネスの盾は、どうしたんだ?

 あの戦いのときに、奴が持っていた盾は。あの後、誰が、どこへやった?」


「アレス神殿の奥の壁に掲げました」


 すぐさまそう答えたのは、ピュラキダスだ。


「戦神アレスへの捧げ物、そして、我らの勝利の記念としてです」


「そうか。よし、今すぐに、そこへ人をやって確かめさせてくれ。その盾が、今もちゃんとそこにあるかどうか」


 控えていたピュラキダスの配下が駆け出してゆくのを見送り、カルキノスは、伝令に向き直った。


「その盾が、今もアレス神殿の壁にかかっていれば、君たちが見たのは、奴の盾ではなく、別の盾だということだ。

 同じような模様を描いた盾を、別人が持てば、アリストメネスが戻ってきたように見せかけることは簡単だよ。……どうした?」


 伝令の男の表情が、険しいものになっている。

 痛みのため、というわけではないようだった。


「将軍は、どうやら、俺の言葉を疑っておられるようですが……俺は、かつて、戦場で、この目で、アリストメネスの姿を見ました」


 伝令の言葉には、自ら盾を持ち、槍をとって戦う男の自負がみなぎっている。

 己をひとかどの戦士と恃む者は、自分の見たものについて、他人の言葉でおいそれと左右されはしないものだ。

 伝令の憤りに共感したように頷いている男たちも、幾人かいる。


「あの姿、指揮をとるようす……確かに、アリストメネスに間違いないと、俺は感じました」


「では、君は、死人が冥府からよみがえり、鎧を着て盾を持ち、君たちを襲ったというんだね?」


「……はい。そうとしか、思われません」


 カルキノスは、ふむ、と考えこんだ。

 眉間にくっきりと皺をよせた彼の表情に、


「どうか、なさいましたか」


 先ほどと立場が入れかわるかたちで、伝令の男がたずねる。


「ん? ……ああ、すまない。俺は、君を非難しようというんじゃないんだ。君が嘘をついているというのでもない、もちろんね。だが……俺には、まだ、信じられないんだ」


 いまや、二人を除く全員が静まり返り、やりとりの一言一句に耳を傾けている。

 カルキノスは伝令の男を見つめ、言った。


「死してなお、この世で人の目に映るほどの英雄たちについて、昔から詩人たちが語ってきたことがあるだろう。そういった英雄たちは皆、常人よりも、ずっと体が大きく見えるというじゃないか。そうだね?」


「はい」


「では、君たちが見たアリストメネスの姿も、そんなふうに大きかったかい?」


「……いいえ」


「君や俺のような、生きている、普通の男と、同じような大きさに見えた?」


「はい。……いいえ。見えた、というよりも、間違いなく、そうでした」


 いまや伝令の表情から怒りの気配は消えて、戸惑うような顔つきになっていた。

 カルキノスの言葉から、初めて、自分の考えが思い込みに過ぎなかった可能性に気付いたというようだった。


「では、少なくとも、死んだ男が……メッセニアの『英雄』がうろつき回っているというわけではなさそうだ。

 ――みんな、少し、落ち着こう!」


 カルキノスは人々の目をさまさせようとするかのように、両手をぱんぱんと打ち鳴らし、声を張り上げた。


「アリストメネスは死んだ・・・。そうだろう?

 俺は、この目で見たわけじゃないけど、今この場にいる人たちが何人も、あの夜、その瞬間を見ていたはずだ。

 アリストメネスが崖の上から落ちるのを、その目で確かに見たという方は、手を挙げてもらいたい!」


 幾人かの手が挙がった。

 メギロスを筆頭に、長老たちの幾人か。

 ピュラキダスも、そして、グラウコスも手を挙げている。


「そうだ。ここにいる皆さんも見たとおり、グナタイナが――奴隷の娘が、やったんだ。

 そうだろう、グラウコス?」


「ああ」


 急に話を振られても動じることなく、グラウコスは、はっきりと頷いた。


「あの女が、アリストメネスに飛びかかって、突き落とした。いや、体ごと組み付いて、もろともに落ちていったんだ。

 二人の体が完全に空中に飛び出すのを、俺は、この目で見た。絶対に、何かにつかまってぶら下がり、助かることができるような体勢ではなかった」


「そうだ。アリストメネスは死んだ!」


 カルキノスは再び声を張り上げ、集まった人々をぐるりと見回した。


「このたびの襲撃を指揮した男は、アリストメネスの偽者に違いない!

 メッセニア人たちの悪あがきだよ。似たような体格の者が、同じ模様の盾を持ち、奴に扮することで、アリストメネス将軍が冥府から舞い戻ったと思わせ、こちらに揺さぶりをかけようとしているだけだ!」


「……なるほど!」


「そういう、可能性もあるか」


「ありそうなことではあるな」


 男たちが、口々に呟きあう。

 ベレミナからの伝令も、カルキノスの弁舌に完全に説得されたのか、大きく頷いていた。


 誰もが、納得したように見えた。

 ただ一人を除いて。


「……だが……」


 そう、ためらいがちに呟いたのが意外な相手だったので、カルキノスは驚いた。


「どうしたんだ、グラウコス? 何か、まだ、気になることがあるのかい?」


「ああ」


 グラウコスは、そう言ってなお、しばらくはためらう様子だった。

 だが、やがて自らの疑念をはっきりと口にする決意を固めたらしく、まっすぐにカルキノスを見た。


「俺が考えているのは、他でもない、おま――カルキノス将軍のことだ」


「え?」


「同じ状況で、カルキノス将軍は、生きて戻った。そうだろう?」


 一瞬、分からなかった。

 彼が、何を言っているのか。


(俺は……生きて、戻った……)


 そうだ。

 自分は、戻った。

 あの崖の上から落ちて・・・、なお、生きて・・・戻った・・・

 いずれかの神が、そのように計らいたもうた――


「盾が!」


 まるで、詩人によって語られる物語の一場面のように。

 アレス神殿に送り出されていた男たちが、駆け戻ってきて、叫んだ。


「ありませんでした!」


「……何!?」


「盾が、ありませんでした。消えていました!」


「確かです。つい今しがた、この目で見ました! 跡形もなく――」


「まさか」


 これまでは考えもしていなかった可能性が浮かび、カルキノスは絶句した。


 アリストメネスは、死んだ。

 だから、現れたのは、彼の偽者であるはずだ。

 そう思っていた。


 だが、まさか――

 アリストメネスは、崖から落ちてなお、生き延びて・・・・・いた・・というのか?

 この自分が、そうだったように。


(それでは)


 ベレミナへの襲撃を指揮していたのは、アリストメネス本人だったと――?


「奴が、自分自身の盾を、奪い返していったというのか!?」


「アリストメネスは、生きていたのか!」


「けっ、け……けっ」


 言おうとして、舌がもつれた。

 それで初めて、自分の動揺がどれほど深いものであるかに気付く。

 だが、落ち着け、この自分が、動揺してはいけない。

 カルキノスは大きく息を吸い、思い切り吐き出し、もう一度吸い込んだ。

 そして、言った。


「ケアダス、だったよな、その崖の名前は? そのケアダスの高さは、どれくらいあるんだ? 生身の人間が落ちて、偶然、助かることもあるような高さなのか?」


「その下を見たことのある者は、誰もおらぬ」


 重々しく答えてきたのは、メギロスだ。


「処刑は、必ず夜に行われる。あたりは暗く、下の様子は、はっきりとは見えぬ。

 その縁に立ち、下を覗きこもうという者もおらぬ。それは不吉だからだ。あの下の光景を目にするのは、処刑された者たちだけだ」


「では……これまでに、ケアダスに落とされて、戻ってきた者は?」


「誰も」


 メギロスのその言葉を最後に、誰もが口を閉ざし、全き沈黙が場を支配した。


 カルキノスは、考えていた。

 耳から煙が出るのではないかというほどに考えていた。

 この状況を、このままにしてはおけない。

 アリストメネスの生死が不明となったことで、スパルタの人々のあいだにこれ以上の動揺が広がるようなことがあってはならないのだ。


 さらに、もっと気にかかるのは、この噂が奴隷たちのあいだに広まることだった。

 死んだはずのアリストメネス将軍が戻り、スパルタを脅かしている――ということになれば、今はスパルタに服従している者たちの中からも、将軍の存在を心の拠り所として、スパルタから離反する者が出るかもしれない。

 

 そうなれば、戦争はますます長引く。

 平和の訪れが、遠ざかる――


(ゼノンの願い……ナルテークスの挺身……キュニスカの決死の行動、アイトーンやグナタイナの死を、無にするわけにはいかないんだ! 俺は、真実を、明らかにしなくてはならない)


 カルキノスは、決然と顔を上げた。


「今までに、陽の光のさす昼間、ケアダスに行ったことのある者は?」


 男たちは目を見開き、固まった。

 やがて、ある者は互いに目を見合わせ、ある者は、とんでもないというようにかぶりを振る。


「ここでただ話していたって、確かな事実は何ひとつ分からない。

 はっきりさせる手段はただひとつ。

 動かぬ証拠――アリストメネスの死体だ」


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