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見よ、英雄は帰る



 自分の部屋の寝台に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。吸う。

 竪琴をかき鳴らしながら、言葉を紡ぎ出してゆく。


 はじめは、頼りない音の糸で、小さな言葉の切れ端をでたらめにかがってゆくようなものだ。

 どれがどこにおさまることになるのかも判然としない。

 だが、そういうことを繰り返しているうちに、少しずつ、いくつかのまとまりができてくる。

 言葉の並びが美しく韻律におさまり、音と調和し、ここはこれしかない、と思えるような部分が立ちあらわれてくる。

 それらを並べかえ、吟味し、あるいは抜き去り、また入れかえ、挿し込んで、ひとつながりに織りなしてゆく。


 やがて、音とことばのなかから、ゆっくりと、物語が立ち上がる。

 歌となって、流れ出す――


「……陽の光の、下で……」


 カルキノスは口の中に残ることばの余韻を味わうように噛みしめながら、最後の弦の響きが消え去るまで、じっと座っていた。


(できた? ……いや……)


 ようやくかたちをなした詩歌の全体像が、自分の中に浮かんでいる。

 だが、それはまだ淡く、はかなく、風が吹いたらばらばらになって消えてしまいそうに弱々しいものでしかなかった。


(まだだ)


 まだまだ、吟味を重ねなくてはならない。

 制作の最後に彫刻家が細心の注意でのみを当て、見えるか見えないほどの部分をいくつも削りとってゆくことで、大理石は神にも似た気品をそなえた像となる。

 それと同じように、詩歌もまた、できたと思ってからが大切なのだ。

 時をおいて、さまざまな方向から何度も眺め、口ずさみ、ことばを磨き上げてゆかなくては。


 カルキノスはかたわらに竪琴を置き、うんと伸びをした。

 ゆっくりと首を回し、肩を回し、筋を伸ばす。

 立ち上がり、部屋から出たところで、


「おー」


 出口から五歩と離れていないところに、アクシネが座りこんでいるのを見つけた。


「カルキノス、うたってた!」


「うん」


 彼女がそこにいることは分かっていたので、カルキノスは別段驚きもせずに答えた。


「新しい歌だよ」


「あたらしいうた!」


「うん。歌いたい歌があるんだ。

 まだ、完全にはできあがっていない。でも、もう少しだ」


「へー」


 アクシネは嬉しそうに立ち上がって、壁に手をつきながら歩いてきたカルキノスにくっついた。


「どんなうた?」


「できあがったら、君に最初に聴いてもらうよ」


「いいよー」


 アクシネがいつもの調子で即答してくる。

 だが、こちらの二の腕を掴んでいる温かい手に、ぐっと力がこもったのが分かった。

 カルキノスは微笑んだ。


「きっと、気に入ると思う」


 二人は連れ立って居間に入った。

 席につくと、奴隷たちが昼食を運んでくる。

 カルキノスは、目覚めてからずっと、何も口にせずに詩作に没頭していた。

 アクシネは、そのあいだじゅうずっと、さっき座っていた場所にいた。


「旦那様、食後の……」


「テオン!」


 食事を終えた頃、入口から聞こえてきた声に、カルキノスは驚いて振り返った。


「また、そんな、うろうろして。休んでいればいいのに」


「いえ、そういうわけには」


 困ったような顔で答えるテオンは、カルキノスと同じように右脚をひきずり、杖をついていた。

その右足首が、布で何重にも巻かれている。

 すり潰した薬草を貼りつけ、泥で覆い、上から布を巻きつけて押さえているのだ。


「本当に悪かったな、テオン。俺のせいで、ひどい心配をかけた上に、そんな怪我までさせてしまって……」


「いいえ!」


 テオンは、激しくかぶりを振った。


「足元をよく確かめなかった私がうかつだったのです。旦那様に、そのように仰っていただいては、かえって恐縮します」


 カルキノスが戻った日、テオンだけが、なぜかいつまで経っても帰ってこなかった。

 アクシネはひどく心配し、家のなかをうろうろと歩き回り、しまいには一日じゅう屋根に登って、四方八方に目を凝らしていた。

 カルキノスは他の家付き奴隷たちを送りだし、ほうぼうを探させたが、テオンの姿はどこにも見当たらなかった。


 逃亡、という可能性を囁く者もあったが、カルキノスには、不思議とそうは思えなかった。

 主人の失踪という混乱に乗じ、その家の奴隷が逃げ出すというのは、確かにありそうなことではある。

 だが、カルキノスには、テオンがアクシネを見捨てて逃げるなどとは、どうしても考えられなかった。

 これまでの長い付き合いから受けた感覚として、それだけは絶対にない、という気がした。

 だからこそ、心配だった。

 一体、何が起きたのか?


 それからほとんど丸七日も経って、事態はようやく解決した。

 テオンが戻ってきたのだ。

 よその奴隷の若者におぶわれ、その家の主人に付き添われての帰還だった。

 ひどく憔悴した様子で、自分で立つ力もなく、右の足首が大きく腫れ上がっていた。

 聞けば、あの夜、カルキノスを探して走り回るうちに、もしやと思って山に踏み込み、道に迷った末に、小さな崖から足を踏み外して落ち、足を挫いていたらしい。

 要は、遭難していたわけである。

 挫いた足首は痛みがひどく、誰かが近くを通りかかることもなく、何とか自力で崖の斜面を這い上って山を下るまでに何度も死ぬかと思ったそうだ。


(俺も、そうなっていたかもしれないんだ。いや、もしも、アクシネやグラウコスが来てくれなかったら、俺は、テオンのように自力で戻ってこられたとは思えない……)


 そう考えると、他人ごととは思えなかった。

 いや、そもそも、全ての原因は自分にあるのだ。

 カルキノスはテオンを手厚くいたわり、グナタイナにしたように全ての役目を免除して休ませていたのだが、どうもそれではテオン本人が落ち付かないらしく、寝台を離れられないうちから、枕元に他の家付き奴隷たちを呼び集め、あれこれと細かい指示を出しては、仕事の進み具合を気にかけていた。

 戻ってきて三日目の今日には、早くも杖をついて家のなかを動き回っているという有様だ。


「また腫れがひどくなって、長引いたりしたらかえって困るんだから、しっかり休んでおいたほうがいいと思うけどなあ、俺は……」


「いえ、痛みも、もう、ましになってきましたので」


 というやりとりを何度繰り返しても休もうとしないので、もう好きにさせているのだが、主人のほうがかえって奴隷に気を遣うという、よく分からない状態になっている。


「あっ!」


 二人のやりとりを聞いていたアクシネが、急に、いいことを思いついたとばかりに両手を打ち合わせた。


「そうだ! あれ、とってきてあげようか。もっといる、あれ。ほらあ、あの、あれ!」


「あれ、っていうのは……?」


 カルキノスは、眉を寄せて呟いた。

 アクシネは「あれ」と連呼しながら両手をわしわしと動かしているのだが、その動きがいったい何をあらわしているのか、さっぱりわからない。


「あの、あれ。ほら! あの……くさ!」


「草!?」


「薬草……でしょうか」


 かたわらから呟いたテオンに、カルキノスは思わず「それだ!」と目を見開きながら指をさした。

 夫である自分よりも、テオンのほうがアクシネの意図をよく理解できるとは、まだまだ修行が足りない。

 彼女との付き合いは、テオンのほうが遥かに長いのだから、仕方がないといえばそうなのだが。


「そうそう、それ!」


 アクシネは嬉しそうに勢いよく頷き、


「わたしが、とってきてあげるからな! いっぱい!」


 男たちが止めるいとまもあらばこそ、突風のような勢いで部屋から飛び出していってしまった。


「旦那様も、お喜びでしょうね」


 しばらくして、アクシネが消えていった戸口を見やりながら、テオンが言った。

 カルキノスは一瞬、その言葉の意味が分からなかった。


「え?」


 カルキノスがぽかんとして聞き返すと、テオンの顔色がさっと青ざめた。


「……失礼いたしました! つまり、ナルテークス様も、ということで。申し訳ありません、旦那様。つい、以前の癖が。決して、他意はございません」


「ああ」


 合点がいき、大きく頷く。


「そんなこと。大丈夫だ、分かっているよ。……俺も、ときどき、ナルテークスが近くにいるような気がすることがあるんだ」


 男たちが連れだって歩いてゆくのを眺めていると、その中に、彼の姿があるように見えることがあった。

 部屋に一人で座っているとき、ふと、彼の気配を感じたように思うこともあった。


(アクシネは、人間は、死ねばいなくなる・・・・・と思ってる。

 俺は……死ねば、人は冥府に行くものだと思っていた。

 でも、本当は、死ねばどうなるかなんて、誰にも分からないんだ。だから……)


 もしかすると、ナルテークスは、本当に、ここにいるのかもしれない。

 今この時にも、自分たちを見守ってくれているのかもしれない。

 それとも、それはただ、自分がそう考えたいから、そのように感じられるというだけのことなのだろうか――


「あの」


 テオンの控えめな呼びかけが、カルキノスの物思いをやぶった。


「よろしければ、蜂蜜入りの飲み物でも用意させましょうか?」


「えっ? ……ああ」


 言われて初めて意識したが、喉が渇いている。

 朝からずっと歌い続けていたのだ。

 喉を潤し、休めておかなくては。


「それじゃあ、頼――」


「わあああぁっすれてたあ!!」


 急にものすごい大声を上げながらアクシネが飛び込んできて、カルキノスは驚いたはずみで唾を飲みこみ損ね、むせ返った。

 入口近くに立っていたテオンは、悲鳴をあげながら転んだ。

 突き倒されたというわけではないが、アクシネを避けようとした拍子に、挫いた足に体重を乗せてしまい、支え切れなかったらしい。


「あ! テオン!」


 アクシネはあっという間にテオンの腕を掴んで、一挙動で引き起こすと、


「わすれてた、わすれてた!」


 ぱちぱちと平手で自分の胸を叩きながら、叫んだ。


「わたし、カルキノスと、いっしょにいるんだった。ひとりで、くさ、とりにいくところだった! あぶない、あぶない!」


「いや……だから、それは、何度も言ったじゃないか、アクシネ」


 喉をさすり、さすがにやや辟易しながら、カルキノスは言った。


「俺は、もう、勝手にどこかに行ったりしないってば。ちゃんと約束しただろう? だから、安心して、薬草を取りに行けばいいよ。俺は、ここにいるから。信じてくれ」


「あ、そうか。……そうかあ……」


 アクシネは、ふむ、と頭を傾けて考えこんだ。

 カルキノスが戻ったあの日から、こういったやりとりが、日に何度となく繰り返されている。


「そうだ!」


 やがて、アクシネはぴかっと音がしそうな勢いで顔を上げ、目を輝かせながら、カルキノスの腕をつかんだ。


「なあ、カルキノス、いっしょにいこう! いこう、いこう!」


「えっ……」


 こうなるのも、毎度のことだ。

 自分がカルキノスから離れなくてはならない用事ができると、逆に、カルキノスを一緒に連れていこうとする。

 そういうとき、カルキノスは、できるだけ彼女の思いに沿うようにしていた。


 だが、家の中を動き回るだけならばともかく、連れだって外を歩くとなると、話は違ってくる。

 遊女を伴って、というのならばまだしも、自分の妻と二人連れで外を歩くなどということは、社会一般の通念に照らせば、普通は考えられない。

 だが、カルキノスは、そうは言わなかった。

「社会一般の通念」などというものはアクシネにとって意味をなさないと分かっているから、だけではない。

 アクシネの気持ちを考えると、無碍にはできなかった。


 アクシネは、カルキノスを疑っているのではない。

 きっと、不安なのだ。

 また、あんなことが起きたらどうしようと。

 夜の山道をひた走り、ようやく探し出した夫は、崖から落ちて死にかけていた。

 そのことが、これまでに何人もの家族を失ってきたアクシネの心に、どれほどの爪痕を残したか。

 彼女はだいたいにおいて明るく朗らかな様子をしているから、外から見ただけでは分からないが、その心の奥底には、消えない恐怖心がわだかまっているはずなのだ。


 ――みんな、いなくなってしまう。

 もう、誰も、失いたくない。


「……よし、分かった。じゃあ、いっしょに行こうか!」


「やった! やった!」


 アクシネはたちまち、拳を突き上げてとびまわりはじめた。

 慌てたのは、テオンだ。


「そんな。薬草取りは、他の者に頼みます。アクシネさんはともかく……いえ、それは言い方が悪いですが、旦那様にまでそんな用をさせるなど、もしも、このことが評判になったりしたら」


「大丈夫、大丈夫」


 カルキノスは笑って、テオンの心配を打ち消した。


「詩想を得るための散歩だよ。人にきかれたら、そう言うさ。そのついでに、たまたま、ちょっと摘んで帰るだけのことだよ」


「くさ、わたしがとる! さあ、いこう! いこう、いこう、カルキノス!」


 はやりたつ猟犬がぐいぐいと革紐を引っ張るような調子で、アクシネが叫ぶ。

 カルキノスは杖を持ち、立ち上がった。


「君こそ、休んでいてくれ、テオン。すぐに戻るよ」


 テオンは何も答えず、カルキノスを見返し、深々と頭を下げた。




 強い陽射しの照りつける野原の中の道を、アクシネが、衣のすそをひらひらさせながら駆けていく。


「はやく、はやくう!」


 彼女はすごい速さでずっと先まで走っていっては、くるりと振り返り、カルキノスの前まで走って戻ってきて、


「はやく、はやくう!」


 と叫んだ。

 いらいらと急かしているわけではなく、まるで、そうすることそのものが楽しくてたまらないというような笑顔でだ。

 それを、飽きることもなく、何度も何度も繰り返す。


『いつまでも、いっしょにいるっていったぞ』


 アクシネは、カルキノスにそのことを求めるかわりに、自分でもそのことばを忠実に守っていた。

 先に走っていくけれども、すぐに振り向いて戻ってくる。

 カルキノスの姿が見えなくなるほどに離れることは、決してしなかった。


 テオンがいなくなったという一大事のときにも、アクシネは、家の外に探しに行こうとはしなかった。

 詩作のあいだは、邪魔をしてはいけないと思っているのか、カルキノスの目には入らないところにいる。

 そのかわり、音や声のかすかに届く場所に座っていて、それがしばらく途切れると、必ず戸口から顔をのぞかせた。

 日課の、早朝からの狩りもやめてしまった。

 カルキノスの働きへの褒賞として、スパルタ王家から様々な品物が届けられているために、日々の食材に不自由することはなかったが。


(でも……)


 これで本当にいいのだろうか、という思いが、カルキノスの中に、少なからずある。

 こんな言い方をするのも奇妙なことだが、アクシネの変化を見ていると、まるで、自分が、野生の獣を飼い殺しにし、その牙を抜いてしまったかのように思える瞬間があった。

 カルキノスを失うことへの不安が彼女を縛り、自由を奪ってしまっているように感じられるのだ。

 だが、本人は今の状況を心から楽しんでいるようで、それがカルキノスをいっそう複雑な気分にさせていた。


 そして、心配なことは、他にもある。

 館に戻ってからのカルキノスは、まだ体が本調子ではないためと称して、共同食事ピディティオンへの参加や、広場での歌の披露を控えていた。

 だが、時が過ぎてゆけば、こういうことが許されるにも、いつか限界が来るだろう。

 特に共同食事ピディティオンへの参加は、スパルタ市民の義務として、王にさえも課せられた大切なつとめだ。

 当たり前だが、女性の同伴は一切認められていない。

 その場にアクシネを連れていくことはおろか、周囲をうろうろさせておくわけにもいかないのだ。

 彼女に、そのことを説明して、分かってもらえるだろうか。

 分かってもらえなかったら、自分は、どうすればいいのだろうか――


「おっ!」


 はやくはやく、とカルキノスの目の前で嬉しそうに叫んで、また駆け出そうとしたアクシネの出足が、ぴたっと止まった。


「キュニスカ!」


 いつの間にか、二人は、彼女の実家の近くに来ていたのだ。

 美しい色合いの外衣ヒマティオンを頭からかぶった人影が、道端に立っている。


「キュニスカ! ひさしぶりだなあ!」


 カルキノスには最初、それが誰なのかどころか、男か女かさえも確信が持てなかったのだが、アクシネにはなぜかはっきりと分かったようで、跳びはねるような足取りで近づいていった。


「ええ。相変わらずね、アクシネ」


 その声は、少しくぐもって聞こえたが、確かにキュニスカのものだった。

 彼女の目が弓のようになり、微笑したのだと分かった。

 その顔の下半分を覆っている布の上から、わずかに、痣の痕がのぞいている。


「旦那様といっしょに、どこへ出かけるのかしら?」


「くさ!」


 勢い込んで答えたアクシネは、


「あっ! あった」


 その瞬間、少し離れた茂みのなかに目当ての薬草を見つけたらしく、キュニスカを無視して、そちらへ走っていってしまった。


「……お気をつけなさい」


 ぼそりと口にされたキュニスカの言葉が、自分に向けられたものなのだと、カルキノスが気付くまでに少しの時間がかかった。


「あなた、今、共同食事ピディティオンにも出ていないのでしょう? それなのに、女連れで外をほっつき歩くなんて。将軍は勝利に気が緩んで浮かれている、と噂されても、仕方がないわ」


「いや……俺は、別に、そんなつもりじゃ」


「ええ、分かっているわ」


 キュニスカは、すぐにそう言った。

 もっと嫌味を言われるかとばかり思って身構えていたカルキノスは、驚いて、彼女の顔を見つめた。


「あなた、例の崖の上から飛び降りたそうじゃないの。グラウコスが話してくれた。恥を知る男である証拠だわ。それに、勇気もある。死を恐れなかったのね」


 カルキノスは何と答えていいのか分からずに、彼女の顔を見つめたままで黙りこんだ。

 キュニスカの言葉に、強い違和感があった。

「恥を知る男」? 「勇気」?

 そうではない。

 自分は、ただ、自分がしでかしたことの責任の重さに耐えられないと思っただけだ。

 いわば、背負ったものすべてを投げ出すようにして、死のうと思った。

 勇気があったのではない。

 臆病者だっただけだ。

 死を恐れなかったのでもない。

『死は恐ろしい』

 ナルテークスが岩に刻んだ言葉の意味を、本当の意味で死と直面して初めて、骨の髄から思い知った。


「あなたの、その心をお認めになって、神様は、あなたをお助けになったんだわ」


 キュニスカは、心から感心したように言った。


「でも、もちろん、そういうことが分からない者もいるだろうということよ。

 戦のときは、あなたのことをありがたがっていても、戦がなくなれば、途端に手のひらを返して口さがないことを言い出す連中だっているかもしれない。

 だから、言ってるのよ。お気をつけなさい、って」


「ああ……うん。ありがとう……」


 キュニスカがこんな言葉をかけてくれるとは思わず、カルキノスは半ば呆然としながら答えた。

 彼女の目が、また微笑んだ。


「あなたたちは、ゼノンの願いを果たしてくれたもの」


「おおおぉい!」


 遠くから、緑色のもじゃもじゃのお化けのようなものが突進してきた。

 引っこ抜いた薬草を山のように抱えたアクシネだ。

 ちらりと見ただけで、明らかに薬草とは違う葉のかたちをしたものもまじっているようだったが、本人は気にしていない。


「くさ、いっぱいあった! あっ! あれも」


 と、カルキノスやキュニスカの前を通り過ぎ、また走っていく。

 抱えた草の山で前も見えていないはずなのに、転ばないのが不思議だ。


「あの子、ばかみたいに嬉しそう」


 キュニスカが呟いた。


「テュルタイオスも、きっと喜んでいるわ」


「え?」


 一瞬、混乱して、カルキノス――テュルタイオスは、目を見開いた。


「あら、みんな、今ではそう呼んでいるわよ。ナルテークスではなくて。

 彼の名前は、語り継がれて残るでしょうね。百年先にも……きっと、それより先にも」


 その目に、どこかさびしげな光があるように見えたのは、思いすごしだっただろうか。


「俺は、忘れていないよ、ゼノンのことを」


 カルキノスは思わずそう言った。

 キュニスカが、驚いたようにこちらを見た。


「俺だけじゃない。……誰も、忘れてなんかいない。君の夫のことを」


「……そうね」


 それからしばらく、彼女は黙っていたが、不意に何でもなさそうな調子で、言った。


「私、今度、再婚することになったのよ」


「え! ……あ、そう!? そうなんだ。よかった!」


 思わず叫んでから、「よかった」に少し力が入りすぎたかと思い、ぎくりとする。

 彼女の顔に残った消えない傷痕は、再婚するにあたって、大きな足枷になりかねないものだった。

 それを気にかけない男がいたということか。


「本当に、おめでとう、キュニスカ。お幸せに」


「相手はピュラキダスよ」


「ピュラキダス。へえ。……どういう人だい?」


「あら、あなた、彼と何度も話しているはずだけれど? 情報を集める、斥候たちをまとめる役をしているの。知っているでしょう?」


「え!? ……あ、あーあ、あの! あのピュラキダスね! そんなことになってるなんて、ちっとも知らなかったな。おめでとう!」


 ――彼は、そういう名前だったのか。


「あなたの名前も残るわ」


 向こうの茂みのなかで引っくり返り、自分で集めた大量の草に埋もれて足をばたばたさせているアクシネの姿を眺めながら、キュニスカは、呟くように続けた。


「カルキノス。スパルタに勝利をもたらした偉大な将軍。……そして、詩人」


「俺の力じゃない」


 反射的に、そう答えてから、カルキノスは言い直した。


「俺だけの、力じゃないんだ」


 そのときだ。

 遠くから、呼ぶ声が聞こえた。


「将軍!」


 一同は同時に声のした方を見た。

 アクシネが、草の山をはねのけて立ち上がった。

 道を駆けてきたのは、スパルタの若い戦士のひとりだ。


「……よく分かったね、俺が、ここにいるって」


「ええ、お姿を、お見かけしていた者が、おりましたので」


 息を切らしながらも、それをなるべく見せないように最大限の努力を払って、若者は答えた。

 カルキノスは、キュニスカと一瞬、視線を合わせた。

 誰かに見られているという意識はまったくなかったが、それでも、誰かには見られていたということだ。

 こうなってくると、先ほどのキュニスカからの忠告が、俄然、真剣味を帯びて迫ってくる。


「なに?」


 もはや薬草でも何でもない、長い草の端を左手に持って振り回しながら、アクシネが近付いてきた。

 緊張しているからか、右手はさりげなく斧の柄にかかっている。

 彼女についてどんな評判を聞いているのか、若い戦士は表情を固くしてわずかに身構え、口を引き結んだ。


「ああ、彼女は……アクシネなら、大丈夫だ。こちらのキュニスカも。いいから、話してくれ」


 カルキノスの保証を信用したのか、それとも、もはやこの話が広がることを止めることはできないのだから、どちらにせよ同じだと考えたのだろうか。

 若い戦士は、意を決したように顔を上げ、言った。


「ベレミナの集落が、襲撃を受けました。今しがた、そのように伝令が」


「ベレミナ……」


 もはや苦もなく、頭の中に地図が浮かびあがる。

 ベレミナは、スパルタの北方にあって、スパルタとメッセニア、そしてアルカディアの国境線近くの集落だ。


「被害は?」


「男たちが殺され、家畜と穀物が奪われたそうです。詳しい数までは、まだ」


「襲撃者たちの素性は分かっているのか? メッセニア人か、それとも、アルカディア人か」


「メッセニア人どもです」


「何だって……」


(報復か?)


 まず思い浮かんだのは、その可能性だった。

 自分たちの指導者であったアリストメネス将軍を処刑されたことへの、怒りの表明なのか。

 だが、まさか。


 アリストメネス将軍が処刑された今、メッセニアに、団結してスパルタに立ち向かうほどの力はもはや残されていないというのが大方の見方だった。

 カルキノス自身も、そう考えていた。

 それなのに、打ちひしがれた人々を再び結集させ、スパルタに立ち向かわせるだけの力量を持った指導者が、まだ残っていたということか?


「あの」


 黙りこんだカルキノスに対し、若い戦士は、さらに言葉を続けた。


「生き残った男たちの話によれば……あの、これは、まだ不確かなことなのですが……つまり、噂になっているのです。皆が、口々に、同じことを」


 簡潔にして明瞭な話しぶりを重んじるスパルタの男が、事実の報告に際して、こんなふうに言い淀むことは珍しい。

 自分が口にしている言葉が、自分でも、まだ信じられない――

 まさしくそんな様子で、若い戦士は言った。


「襲撃者たちを率いていた男は、アリストメネス将軍だったというのです」



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