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今、ここにいる者は

(ああ)


 腹が減った。

 喉も渇いている。


(いいにおいだ――)


 目覚めると、そこはナルテークスの家だった。

 どこかから明るい光が射している。

 テオンがやってきて、目の前の卓に食事を並べてくれる。

 黒いスープのにおいが、口の中に唾を湧き出させる。

 焼き立てのパンをつかみ、口に運ぼうとしたとたん、横から灰色の手が伸びてきて、パンをひったくった。


「何する!?」


 そいつはすばやく戸口から飛び出し、パンを持ったままどこかへ行ってしまった。

 そちらに気を取られている隙に、どこかから飛び出してきた灰色の者たちが、他の食事も全部奪い取り、戸口から走り出ていく。


「おい! 何だ!? 返せ、おい!」


 灰色の者たちを追いかけて、おもてに飛び出した。

 そこは、見覚えのある道だった。

 畑と、ちょっとした崖とにはさまれた、長い一本道。

 遠い日に、エウバタス殿と若者たちに取り囲まれた道。


 カルキノスは、必死に走った。

 杖もないのに、走ることができた。

 だが、足は動いても、明るい空気そのものが奇妙に粘りつくようで、ちっとも前に進まない。

 両手をかいて前に進もうとするが、足が地面から浮きあがり、かえって前進できなかった。

 カルキノスはあきらめて、動きを止めた。


 いつのまにか、目の前に、大勢の子供たちが姿を現していた。

 灰色の姿をした子供たちだ。

 足のない子、腕のない子、目のない子。

 その部分は、傷口になるでもなく、のっぺりとした灰色の皮膚におおわれている。


『もう、いいんでしょう』


 その中の誰が発したとも分からない声が響いた。


『もう、いらないんでしょう』


『もう、そのからだは、いらないんでしょう?』


「えっ」


 カルキノスが戸惑い、そう呟いて一度まばたきをするあいだに、子供たちはあっという間にカルキノスのすぐ側まで近づいて彼を取り囲んだ。


『ちょうだい』


『ちょうだい、ちょうだい』


 全方位から、無数の灰色の手がつかみかかってくる。


『あるいてみたい』


『はなしてみたい』


「うわっ! わああぁぁ!」


 痛みはなかった。

 ただ、皮膚を軽くつまみあげられるような感覚があって、ぷつり、ぷつりと、自分の体から肉が取り去られていく。

 右手の人差指。左手は手首から。左膝。右胸。右の頬。歯。舌。


『めをあけてみたい』


『とうさんとかあさんのこえがききたい』


『おなかがすいた』


 ぷつり、ぷつり、ぷつり。

 舌と喉をとられて、悲鳴も上げられなくなった。

 目がとられて、何も見えなくなった。

 灰色の子供たちはカルキノスの体に押し寄せて群がり、まるでそれが分け与えられたパンであるかのように、あらゆるものをむしりとっていった。


『だって、もう、いらないんでしょう?』


『わたしたちにわけてちょうだい』


『ぼくたち、これがすごくほしかったんだ』


『でもだめだった』


『だから、わけてよ』


『あなたの体をぜんぶちょうだい』


『あなたの命を、ぜんぶ、ちょうだい』


 やめろ!

 カルキノスは叫んだ。

 叫びながら、暴れた。

 つむじ風が起こり、灰色の子供たちが吹き飛んでいく。

 ばらばらになった体の部品を風で集めて、つなぎ合わせようとしたが、うまくいかなかった。

 ――なおれ! なおれ!

 いくら強く念じても、もう、指がない。

 自分自身の体に、触れることもできない。


『ちょうだい』


『ちょうだい』


 やめろ!

 また近づいてくる灰色の子供たちを、吹き払い、叫ぶ。


 俺の体だ! 俺の命だ!

 絶対に、誰にもやらない!

 だって、まだ――


「おれ、は」


 声が、出た。

 はっとして、体じゅうをさわってみる。

 手応えがある。

 指が、手が、体が、戻ってきた。


 俺の体。

 俺の命。

 もう、手放してなるものか。


 灰色の子供たちの姿は消えて、カルキノスはいつの間にか、風の吹く丘の上に立っていた。

 芳しい風が、まっすぐに顔に吹きつけてくる。


 自分のすぐそばに、鎧をつけた男たちが立っているような気がした。

 彼らが、どんな表情をしているのかは、兜に隠されて見えなかった。

 


     *      *      *



 彼は、目を開いた。


「カルキノス?」


 声が聞こえた。

 目の前に、目を見開いたアクシネの顔があった。

 カルキノスは、まばたきをした。

 自分がどこにいるのか、一瞬、わからなかった。

 アクシネが、仰向けに倒れた自分の胸をまたいでしゃがみこみ、自分の顔を見下ろしてきているのだということも、最初はわからなかった。


「ばかああああああ!」


 罵声と拳が同時に飛んできて、左頬に雷が落ちたような衝撃があり、火花が散った。

 耳が肩にくっつきそうになるほどの打撃だった。


「おまえ、いつまでも、いっしょにいるっていった! いつまでも、いっしょにいるっていったぞ! うそつきか! おまえ、うそつきかああああぁ!」


 肩をつかまれ、何度も地面に叩きつけられる。

 首ががくがくと揺れて、後頭部が地面にがんがんぶつかる。

 だが、最初に殴られた左頬の痛みがひどすぎて、後頭部の痛みはほとんど感じなかった。

 最初はただ唸りをあげる轟音のようにしか聞こえていなかったアクシネの声が、徐々に、意味をともなってくる。


「しんでもなあ! しんでも、しんだひとは、かえってこない! しんでも、しんだひとには、あやまれない! ばかあああああ!」


「……ごめんよ……」


 されるがままになりながら、カルキノスは呟くように言った。

 先ほどまでは、気付きもしなかったが、全身が痛い。

 そこらじゅうの皮膚が、ひりひりと火傷でもしたように疼くのは、木の上に落ちたときに負ったのであろう無数の引っ掻き傷だ。

 もっと深い、ずくんずくんと規則正しく脈打つ痛みは、おそらく打ち身だ。

 もしかすると、骨の二、三本には、罅でも入っているかもしれない。

 痛い。痛い。

 ――生きている。


「俺は……苦しくて、逃げようとしていたんだ。自分だけ、一人で。

 ばかだな。本当に……ずるいよな……」


 顔が熱くなる。

 鼻が詰まり、涙が流れた。


「アクシネ、許してくれ……」


「いいよー」


 途中からカルキノスを揺さぶるのをやめ、じっと耳を傾けていたアクシネは、すぐに真面目な顔で大きく頷いた。


「でもなあー、こんど、こんど、うそをついたら、うそをついたらなあー」


 ひょいと立ち上がってカルキノスの上からどいた彼女は、怖い顔をしながら、腰にさげた斧の柄をぽんぽんと叩いた。


「たいへんなことになる」


 いつか、彼女が同じようなことを言っているのを聞いたことがある気がした。


「まったく、信じられん!」


 横から、急に大声が聞こえた。

 グラウコスだ。

 武装した彼は、首を振りふり崖の上を指さし、その指先をずっと下に動かした。


「お前。あそこから、そこの木の上に落ちたんだろう?」


 地面に落ちている大量の折れた枝から、事態を推測したらしい。

 彼は、飛び降りた、とは言わなかった。アクシネを刺激しないように配慮したのだ。


「うん……」


 本当のところは結局落ちた・・・のだが、カルキノスは、そのことを詳しく話さなかった。


「まったく、信じられん!」


 グラウコスは、先ほどとまったく同じ言葉をもう一度発し、また首を振った。

 それが、カルキノスが助かったことと、あの高さから飛び降りようとしたことのどちらをさしているのかは、よく分からなかった。

 両方かもしれない。

 まるで畑を耕していた男がおもむろに身を起こし、背筋を伸ばそうとするときのような姿勢で、グラウコスはしばらく崖の上を見上げていたが、やがて、


「気持ちは、わかる」


 横たわったままのカルキノスに視線を向けることなく、そのままの姿勢で、小さく呟いた。


「友が死に、自分が生き残る。そうすると、まるで、罪を犯したような気になる。

 自分が生き残ったこと、生きていることが、まるで……盗み取った富を散財していることのように、感じられるんだ。

 だが……それは、間違いだ」


 そこまで言って、グラウコスは、カルキノスの方にまっすぐ向き直ってきた。


「間違いだと、俺は思う。

 俺たちの友は、俺たちを羨み、恨みながら死んでいくような、半端な生き方はしていなかったはずだ。

 自分の、持てる力を出し尽くし、最後の最後まで、やることをやり切って、死んだ。

 俺たちも、同じようにするだけだ。そこには、早いか、遅いかの違いしかない」


 大股に、歩み寄ってくる。

 分厚くかたい手のひらが、横たわっているカルキノスの肩を軽く叩く。


「お前はきっと、まだ・・やり切って・・・・・いない・・・輝けるフォイボス・アポロン神アポローンが、そう告げておられるんだ」


「ありがとう」


 また、涙がこぼれた。

 グラウコスは大きな目を丸くして、あっちを見たりこっちを見たりしながら、ああ、なに、うむ、などと唸りながら立ち上がった。


「カルキノス、なおったな!」


 アクシネは、すっかり笑顔になって飛び跳ねている。

 その足元で、ぱりぱりと白い骨が砕ける音がする。

 カルキノスはもう少しで声をあげそうになったが、思いとどまった。

 アクシネは言うはずだ。

『このこたちは、もう、ここにはいない』

 と。


 だから。

 今、ここにいる者は、歩いていかなくてはならないのだと。


「なおった、なおった! よかった、よかった!

 さあ、かえろう! はやくかえろう! いえにかえろう!」


 踊るような足取りで、アクシネが先に立つ。

 グラウコスは慎重にカルキノスを背負い、ゆっくりと歩きはじめた。



 傷だらけのカルキノスと、アクシネとグラウコスが戻ったとき、スパルタの市内はかなりの騒ぎになっていた。


「もう少しで、捜索隊を送り出すところであったわ」


 アナクサンドロス王は集まった男たちに解散を命じながら、髭を撫で、グラウコスの背にいるカルキノスの顔をじっと見つめた。


「よくぞ、戻って・・・くれた」


「はい」


 はっきりと王の目を見返して返答したカルキノスの表情から何を読み取ったのか、アナクサンドロス王は満足そうに頷き、立ち去っていった。


 グラウコスは館までカルキノスを送ると、まだこれから訓練があるからな、と言って去っていった。

 昨晩は一睡もしていないはずなのに、恐るべき体力だ。


「テオンは?」


 慌てて出迎えに駆け出してきた家付き奴隷たちに、アクシネがきく。


「いえ、まだです」


「昨夜、アクシネ様と一緒にここを出てから、まだ、戻っておりません」


「……どこかで、まだ、俺を探してくれてるのかもしれないな」


 カルキノスは奴隷たちの幾人かに、テオンを見つけて自分の無事を伝えてくれるようにと指示を出し、館の中に入った。

 全身の傷に手当てを受けるよりも先に、カルキノスがまずしたことは、ひとつの部屋に向かうことだった。

 その部屋は、がらんとしていた。

 グナタイナが使っていた部屋だ。

 彼女がどういうことをしたか、ここまで戻る道すがらに、グラウコスが何もかも話してくれた。

 部屋の中には、まだ薬草のにおいと、彼女の気配が漂っているようだった。

 寝台の掛け布は、彼女がそれを持ち上げて中から抜け出たときのかたちに盛り上がり、まるで、そこだけ時が止まったかのように見えた。


「グナタイナ」


 アクシネが小さく呟いた。

 彼女は泣き出すでもなく、グナタイナがいなくなった寝台の上を、ただじっと見つめていた。


 カルキノスはアクシネの支えから離れ、足を引きずりながら寝台に歩み寄った。

 そっと手を伸ばして、掛け布に触れた。

 そして、まるでそこに埃が厚く降り積もっていてそれを舞い上げまいとでもするかのように、ゆっくりとそれを持ち上げ、布の下を見た。


『いいかい、これは文字だ。……文字。声を、形にしたもの。ここにある形のひとつひとつが、全部、それぞれの声の出し方を表してる。こんなふうに――』


 あの金属板は、どこにもなかった。


「なに?」


 アクシネがふしぎそうに呟く。

 カルキノスは寝台のふちに手をついて身をかがめ、寝台の下を見、それから部屋中を歩き回って見渡した。

 やはり、どこにもない。


 最後に話したとき、グナタイナは、もう死を覚悟していたのだろうか。

 ゆっくりと文字を習えばいいと言った自分の言葉を、彼女は、どのように聞いていたのか。

 金属板を受け取ったとき、そのことを、嬉しいと感じてくれたのだろうか。

 今となっては、もう分からない。


 ただひとつ、彼女は、あれを置き捨ててはいかなかった。

 あれを持って、逝った。

 そう思うと、わずかに心が慰められるような気がした。



 全身を洗い清め、あちこちの傷に手当てをしてもらい、座ったカルキノスの前に朝食が運ばれてきた。

 もしかすると、もう永遠に口にすることはなかったかもしれない食事を前にして、唾が湧き、腹が鳴った。


「みんな、いいよー。わたしが、カルキノスにたべさせるからな!」


 アクシネはそう言って奴隷たちを下がらせ、がちゃがちゃと音を立ててスープをついでくれた。

 それがすむと、彼女は、カルキノスのすぐ隣に来て座った。

 太腿が触れあうほどの近さだ。

 カルキノスはどぎまぎしながら、パンを手に取った。

 近さ以上に、アクシネが真横からこちらの顔を覗きこむようにしてくるのが、気になって仕方がない。


「……なに?」


 気付かないふりをしようと思ったが、無理だった。

 諦めてそちらに顔を向けると、ぶつかりそうなほど近くに、アクシネの顔があった。

 彼女はわずかに身を引くこともなく、目を丸く開いてカルキノスを見つめていた。

 その黒い目の中に、自分自身の姿を見ることもできそうなほどに。


「また、カルキノスがどっかにいったらいけないから、よおくみてる」


 彼女はそう言い、一度だけ、まばたきをした。


(そういうことだったのか)


 奇妙な感情がこみあげてくる。

 泣きたいような、笑いたいような。

 遠い昔、ずっと幼い頃に、こんな気持ちになったことがあるような気がした。


「俺は、もう、こっそり出ていったりしないよ」


「ほんとかあ?」


 アクシネは、隠そうともせず、疑わしそうな顔つきになった。


「ほんとに、いつまでも、いっしょにいるか? こんどは、ほんとに?」


「うん」


「ほんとに、ほんとかあ?」


「本当だよ」


 カルキノスはアクシネのほうに体ごと向き直り、彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。

 彼女に結婚を申し込んだ夜のような、後ろめたい思いは、もはやなかった。


「約束する。今度こそ。ゼウス神にかけて、誓うよ」


 そんなカルキノスの言葉を受けてなお、アクシネは眉を寄せてじろじろとカルキノスの顔を眺めていたが、


「……ほんと!」


 その表情が一転して、満面の笑みになった。

 あの夜と同じ、目もくらむばかりの笑顔――


「ああ、よかった! よかったなあ、カルキノスがなおって!」


「アクシネ」


「なに?」


 首を傾げてきた彼女の両手を取り、カルキノスは、心をこめて言った。


「俺は、君を、妻にしてよかった」


「つまってなに?」


「君と結婚して、よかった、ってことだよ」


「そうかあ」


 うんうん、とアクシネは大きく頷き、にっこりと笑った。


「よかったなあ、カルキノス、わたしとけっこんして!」


「うん……」


 その笑顔に、自然と体が動いた。

 握ったままだったアクシネの両手をそっと引き寄せ、驚いたような顔をした彼女に口づけした。


「あれ!」


 と彼女は言った。


「なに?」


 目をぱちぱちさせている。

 今、何が起きたのか、あまりよく分かっていないようだった。

 けれど、


「もう一度、してもいいかい」


「いいよー」


 尋ねると、返事はすぐにあった。

 もう一度、口づける。今度は、先ほどよりも長く。

 唇を離すと、アクシネはくすくすと笑い出した。


「ふふふ。なに、これ」


 嬉しそうだ。


「君が、好きだ、アクシネ」


「わたしも、カルキノスがすきだ」


 黒い目が、まっすぐに見つめ返してくる。

 あまりにも力強く口にされた、なんのてらいもない言葉に、胸が詰まった。


「あれ」


 アクシネが、びっくりしたように叫んだ。


「ないてる!」


「……嬉しいんだ」


 涙はとめどなく流れ、微笑む頬を濡らす。

 胸の中に凝り固まっていた哀しみと苦しみがとけて流れ、魂の深みを流れる大河の一筋となってゆく。


「生きて、君と、こうしていられることが」


「うん」


 抱き合い、互いの体温と鼓動を感じる。


「わたしも」


 ナルテークスが、遠いどこかで、笑ったような気がした。



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